プセウドリトス・ミギウルティヌス
根の庭には、初めて訪れた人が少し驚く植物がある。
花がきれいなわけでもない。葉が茂っているわけでもない。むしろ、植物らしくない姿をしているものも多い。
その中でも、プセウドリトス・ミギウルティヌスは、なかなかの変わり者だった。
灰色がかった肌は、ごつごつとしていて、まるで乾いた石のように見える。小さな塊が地面に置かれているだけで、知らなければ植物だとは思わないかもしれない。
花は小さく、赤紫色。見た目の無骨さに似合わず、妙に印象に残る花を咲かせる。
ただし、育てるのは簡単ではない。
水をやりすぎれば腐る。寒さにも弱い。風通しが悪くても調子を崩す。日当たりは必要だが、強すぎる直射日光も避けたい。
気難しいというより、こちらの都合に合わせてくれない植物だった。
その日、根の庭にやって来た佐伯理恵は、四十代半ばの女性だった。
小さな鉢をいくつか育てている。仕事は事務職で、休日は家で過ごすことが多い。数年前に離婚し、今は一人暮らしをしている。
植物を始めたのは、部屋に何か緑が欲しいと思ったからだった。
最初は観葉植物だったが、いつの間にか塊根植物や珍しい多肉植物に興味が移っていた。
根の庭には、半年ほど前から時々来ている。
「こんにちは」
温室の奥で鉢を動かしていた緑川が顔を上げた。
「おや、いらっしゃい。今日は何を探しに来たの」
「ちょっと見たいものがあって」
理恵はそう言って、入口近くの棚を通り過ぎ、奥の小さな鉢が並ぶ場所へ向かった。
そこに、目当ての植物があった。
「これです。プセウドリトス」
「ミギウルティヌスだね」
「名前が難しいですよね。何回聞いても覚えられない」
「私も最初は舌を噛みそうになったよ」
緑川は笑いながら、鉢を手に取った。
「これ、育てたことあります?」
「あるよ。今もいくつか育ててる」
「やっぱり難しいですか」
「難しいね」
緑川はあっさり答えた。
「私、もう二回失敗してるんです」
「二回も?」
「一回目は水をやりすぎて。二回目は、今度こそと思って水を控えすぎたのか、気がついたら調子が悪くなっていて」
「なるほど」
「今度こそ、と思っているんですけど」
理恵は鉢の表面を覗き込んだ。
「私、こういうの向いてないのかな」
「向いてない人は、二回も失敗したら、もう来ないんじゃないの」
「そうですかね」
「三回目を考えてるんだから、向いてるんじゃない?」
緑川は鉢を棚に戻した。
「ただ、これはちょっと気をつけないとね。暖かい時期は水を欲しがるけど、土が乾いていないうちに次の水をやるのはよくない。寒い時期は水をかなり控える。冷えているのに土が湿ったままだと、根も傷みやすい」
「乾かし気味がいいんですよね」
「乾かし気味と、ずっと水をやらないのは違うよ。そこが難しいところだね」
「風通しも大事なんですよね」
「そう。蒸れるのが苦手だからね。暖かくて、明るくて、風が通るところ。水は季節と温度を見ながら。毎日同じように世話をすればいい植物じゃない」
理恵は真剣な顔で聞いていた。
「温室があったらいいんですけどね」
「家に温室を作るの?」
「無理ですよ。そんなスペースないです」
「じゃあ、まずは家にあるもので何とかするしかないね」
緑川は少し考えてから、棚の下に置いてあった小さな鉢を取り出した。
「これはどう?」
理恵は鉢を覗き込んだ。
「小さいですね」
「まだ小さいけど、形はいいよ」
「いくらですか?」
「三千五百円」
理恵は少し迷った。
「前に失敗したのも、このくらいの大きさでした」
「そうだったんだ」
「今度は失敗したくないなあ」
「失敗しない方法は、私にも分からないよ」
緑川は鉢を手に持ったまま、理恵の顔を見た。
「でも、育て方は教えられる。置き場所も、水やりも。あとは家で様子を見るしかないね」
理恵は返事をせず、もう一度植物を見た。
「緑川さんって、毎日心配にならないんですか?」
「何が?」
「植物のこと。昨日と変わってないかなとか、調子が悪くなってないかなとか」
「心配はするよ」
「そうですよね」
「でも、毎日見ていると、何でも気になってくるからね」
理恵は少し笑った。
「私、何回も見ちゃうんです。朝も見て、帰ってきてからも見て。水をやった方がいいのかなって、鉢を持ち上げてみたり」
「今日も、さっきから同じ鉢を三回見てるよ」
「あ、見てました?」
「見てたよ」
二人は笑った。
しばらくして、理恵がぽつりと言った。
「娘にも、同じことをしてるのかもしれません」
緑川は何も言わず、続きを待った。
「娘が一人いるんです。もう二十歳を過ぎて、東京で一人暮らしをしていて」
「そう」
「ちゃんと食べてるのかとか、仕事は大丈夫なのかとか。つい連絡しちゃうんですよね。返事がないと、何かあったのかなって」
「心配なんだね」
「そりゃあ、心配ですよ。小さい頃からずっと見てきたんですから」
理恵は苦笑した。
「でも、この前、電話で言われちゃって。『もう少し放っておいてよ』って」
「そうか」
「心配してるだけなのに、って思ったんですけどね」
理恵は鉢の縁を指でなぞった。
「でも、娘からしたら、うるさいんでしょうね」
「うるさいと思う時もあるんじゃないの」
「やっぱりそうですよね」
「親の心配が嫌なんじゃなくて、心配されるのがしんどい時もあるんだろうね」
緑川は、棚の端に置いてあった小さな霧吹きを片づけた。
「植物だって、毎日見ていると、ちょっとした変化が気になるだろ。でも、気になるからって、毎日土を掘って根っこを見ていたら、そりゃ弱るよ」
「それはそうですね」
「根っこが見えないからって、何も起きていないわけじゃない。見えないところで、ちゃんとやってることもあるんだよ」
「人間も、そうですかね」
「どうだろうね。私は植物のことしか分からないから」
緑川はそう言って、いつものように笑った。
理恵は少し黙っていた。
「この前、娘から写真が送られてきたんです」
「何の写真?」
「料理。自分で作ったらしくて。焦げたハンバーグでした」
「それはなかなかだね」
「そうなんですよ。『食べられる?』って聞いたら、『たぶん』って返ってきて」
理恵は笑った。
「私、すぐに作り方を教えようとしたんですけど、やめました。もう大人ですからね」
「うん」
「そしたら、『次はうまく作る』って」
「いいじゃない」
「そうですね」
理恵は、もう一度ミギウルティヌスを見た。
「これ、買います」
「いいの?」
「はい。三回目の挑戦です」
「じゃあ、今度は焦らずにね」
「植物の話ですよね?」
「もちろん」
緑川はそう言って、鉢を新聞紙で包み始めた。
「水やりは、家に帰ってすぐ?」
「いや、今日はやらなくていいよ。まずは置き場所を決めて、環境に慣らしてあげて。急に水をやったり、置き場所を変えたりしない方がいい」
「分かりました」
「それと、何かあったら持っておいで。写真でもいいよ」
「ありがとうございます」
理恵は鉢を受け取り、紙袋を両手で持った。
「また来ます」
「うん。今度は元気な姿を見せてよ」
「私も、娘もですか?」
「どっちもだね」
理恵は笑って温室を出ていった。
その日の夜、理恵は買ってきた鉢を窓辺に置いた。
日当たりと風通しを考えて、棚の上に小さなスペースを作った。ほかの鉢との間隔も少し空けた。
いつもなら、帰宅してすぐ水をやるかどうか考えるところだが、今日は何もしなかった。
スマートフォンを手に取り、娘とのメッセージ画面を開いた。
最後のやり取りは三日前だった。
理恵はしばらく画面を眺めてから、短く送った。
「この前のハンバーグ、今度はうまくできた?」
しばらくして、返信があった。
「まだ作ってない笑」
「そうなんだ。今度、帰ってきたら作ってあげるよ」
送信してから、少し考えた。
それでは、いつもと同じだ。
理恵は続けて打った。
「今度、うちでご飯食べない?」
今度は、すぐに返事が来た。
「いいよ。日曜なら行ける」
理恵は画面を見て、少しだけ口元を緩めた。
「何食べたい?」
「カレー」
「分かった」
それだけ送って、スマートフォンを置いた。
窓辺のミギウルティヌスは、何も変わらず、石のような顔でそこにあった。
理恵はもう一度だけ鉢を見て、それから台所へ向かった。
翌週の日曜日、娘は昼過ぎにやって来た。
玄関を開けるなり、「お母さん、何か食べるものある?」と言った。
「カレー作ってあるよ」
「やった」
娘は靴を脱ぎながら、部屋の中を見回した。
「あれ、また増えてる」
窓辺の鉢を見つけたらしい。
「これ、プセウドリトスっていうの」
「何それ。石?」
「植物だよ」
「へえ。変なの」
「育てるのが難しいんだから」
理恵が少し得意げに言うと、娘は鉢に顔を近づけた。
「これ、枯れてるんじゃないの?」
「枯れてないよ」
「ほんとに?」
「そういう植物なの」
娘は「ふうん」と言って、興味を失ったように台所へ向かった。
理恵はその後ろ姿を見ながら、笑った。
夕食のあと、娘は帰る前にもう一度、窓辺の鉢を見た。
「これ、まだ水やらないの?」
「今日はやらないの。様子を見てるところ」
「へえ。お母さん、ちゃんと我慢してるんだ」
「何よ、それ」
娘は笑いながら玄関へ向かった。
「また来るね」
「うん。気をつけて」
理恵は、いつものように「着いたら連絡してね」と言いかけて、少しだけ間を置いた。
「じゃあね」
娘は振り返って、軽く手を振った。
玄関のドアが閉まる。
理恵はすぐにスマートフォンを手に取らなかった。
窓辺に目をやると、ミギウルティヌスは相変わらず、石のような顔をしていた。
その週末、根の庭では緑川が温室の鉢に水をやっていた。
棚の端に置かれたミギウルティヌスの鉢を持ち上げ、土の乾き具合を確かめる。
「まだだな」
緑川は鉢を元の場所に戻した。
急ぐ必要はない。
温室の外では、風が少しずつ冷たくなり始めていた。




