恵比寿大黒
根の庭の五つの温室には、それぞれ違った表情がある。
大きな塊根を持つパキポディウムが並ぶ温室。トゲのあるユーフォルビアが集められた温室。小さな鉢が棚いっぱいに並ぶ温室。季節によっては、どこに何があるのか分からなくなるほど植物が増えていることもある。
店主の緑川雄三は、毎朝、温室をひと回りする。
水をやるもの、しばらく水を控えるもの。日当たりを変えるもの。葉の様子を見て、鉢の向きを直すもの。植物によって世話の仕方は違う。長年育てていても、毎年同じようにはいかない。
「お前は、もうちょっと我慢だな」
緑川は小さな鉢に向かって話しかけた。
誰かに聞かれたら、少し気恥ずかしいような独り言だった。
その日の午後、一人の男が根の庭を訪れた。
五十代後半くらいだろうか。白髪が少し混じった短い髪に、紺色のジャケット。温室に入ると、ゆっくりと棚を見て回っていた。
初めて来た客のようだった。
男は三つ目の温室で足を止めた。
棚の上に、平べったく、ずんぐりとした姿の植物が並んでいる。表面には細かなトゲがあり、いくつもの枝が不規則に伸びていた。
その中の一鉢を、男はしばらく眺めていた。
「それ、気になるかい?」
後ろから緑川が声をかけた。
「ええ。これは何という植物ですか?」
「恵比寿大黒。パキポディウムの仲間だよ」
「恵比寿大黒ですか。ずいぶん縁起のいい名前ですね」
「そうだね。名前だけなら、ずいぶん景気がいい」
緑川は笑った。
「これは、ずいぶん大きくなるんですか?」
「いや、そんなに急には大きくならないよ。成長はゆっくりだね。形も一つずつ違う。ずんぐりしたのもあれば、枝が伸びて面白い形になるのもある」
男はもう一度、鉢をのぞき込んだ。
「盆栽みたいですね」
「まあ、似てるところはあるかもしれないね。ただ、こっちは冬に弱いからね。寒くなったら気をつけないといけない」
「難しそうだな」
「簡単だと思って買うと、だいたい失敗するよ」
「そんなにですか」
「植物は黙って枯れるからね。文句も言わないし、理由も教えてくれない」
男は声を出して笑った。
「それは困りますね」
しばらく棚を眺めていた男が、値段を尋ねた。
「これは、いくらですか?」
緑川は鉢を持ち上げ、株の状態を確かめた。
「これは一万二千円」
男は少し驚いたように、もう一度植物を見た。
「なかなかしますね」
「そうかい。まあ、無理して買わなくていいよ」
緑川はあっさりと言った。
「ほかにもあるから、ゆっくり見ていきな」
男は少し笑い、別の棚へ移った。
しばらくして、温室の奥に置かれた小さな株に目を留めた。
先ほどのものよりずっと小さい。枝も少なく、まだ形も整っていない。
「これは、同じ種類ですか?」
「そう。こっちはまだ若いね」
「いくらですか?」
「三千円」
男は鉢を手に取った。
「これなら、手が届きますね」
「大きいのと同じようになるとは限らないよ。こいつはこいつで、どう育つか分からないからね」
「それも楽しみなんじゃないですか」
「そう思えるならいいね」
男は鉢を棚に戻さず、そのまま手に持っていた。
「これをください」
「はいよ」
緑川は鉢を作業台に運んだ。
「パキポディウムは初めて?」
「植物自体、あまり育てたことがありません。昔、庭で少しやっていたくらいで」
「それなら、最初は欲張らないことだね。水をやりすぎない。冬は寒いところに置かない。まずはそれくらい」
「分かりました」
「分かったって言う人ほど、帰ったら水をやるんだよな」
「そんなことないですよ」
「まあ、好きにやってみな。失敗して覚えることもあるから」
緑川は新聞紙で鉢を包み始めた。
男は作業台のそばに置かれた大きな株を眺めながら、ふと思い出したように言った。
「うちの息子も、昔は植物が好きだったんですよ」
「へえ。そうなの」
「小学生の頃は、庭に出て一緒に水をやったりしていました。学校から帰ってくると、まず植物を見に行くんです。新しい芽が出たとか、花が咲いたとか。そんなことで喜んでいましたね」
「いいじゃない」
「まあ、あの頃はかわいかったですよ」
男は少し笑った。
「今じゃ、電話しても出ないことが多いですけどね」
「忙しいんじゃないの」
「そうだといいんですが」
男は少し間を置いた。
「うちは金属加工の小さな工場をやっていましてね。私が父親から引き継いだ会社なんです。息子にも、いずれ継いでもらえたらと思っていたんですが」
「そうかい」
「大学を出て、最初はうちで働いていたんです。でも三年ほど前に辞めてしまいましてね。東京で別の仕事をしています」
「自分で決めたんだね」
「そうですね。前からやりたいことがあったみたいです」
男は、少し不満そうに口を曲げた。
「まあ、やりたいことがあるのはいいんですけどね。こっちにも事情がありますから」
「事情?」
「工場には従業員もいますし、取引先もある。私だって、いつまでも現場に出られるわけじゃない。息子が戻ってくれば、少しは安心できると思っていたんですよ」
「なるほどね」
「でも、本人は戻る気がないみたいです」
男はため息をついた。
「この前も電話で、もうその話はいいだろって言われました」
「そりゃ、言われるかもしれないね」
「え?」
「何度も同じ話をされたら、嫌になることもあるだろう」
緑川は新聞紙の端を折りながら、何でもないことのように言った。
男は少し苦笑した。
「まあ、そうなんですけどね。分かってはいるんです。でも、つい言っちゃうんですよ」
「親だからねえ」
「そうなんですかね」
男は作業台に置かれた植物を見た。
「息子が辞めるときも、ずいぶん言い合いになりました。私も頭にきて、好きにしろって言ったんです。あいつも、じゃあそうするって。あれ以来、なんとなく気まずくて」
「謝ったの?」
「いやあ……」
男は困ったように笑った。
「今さら何を謝るんだって感じですしね」
「そうかい」
「それに、向こうだって謝ってきませんから」
「ははは。お互い様だね」
緑川は笑った。
男もつられて笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「本当は、息子に会社を継いでほしかったというより、近くにいてほしかったのかもしれませんね」
言ってから、男は少し驚いたように自分の言葉を聞き直した。
「いや、まあ、今さらそんなことを言っても仕方ないんですけど」
緑川は包み終えた鉢を男の前に置いた。
「そういうのは、言ってみないと分からないんじゃないの」
「何をですか?」
「近くにいてほしかったってこと」
男は返事をしなかった。
緑川は、棚に置かれた大きな恵比寿大黒を指さした。
「この植物もね、同じ種類でも形が一つずつ違うんだよ。こっちは丸くなって、こっちは枝が伸びる。育てる環境でも変わるしね」
「そうですか」
「こっちが思ったようにはならない。まあ、植物なんてそんなもんだよ」
緑川は少し考えてから、付け加えた。
「人間も、そうかもしれないけどね」
「そうですね」
男は苦笑した。
「うちの息子も、思ったようには育ちませんでした」
「それは、あんたが思っていたように、ということだろ」
「まあ、そうですね」
「本人は本人で、ちゃんと育ってるんじゃないの」
緑川はそれ以上、何も言わなかった。
男はしばらく小さな恵比寿大黒を眺めていた。
「ありがとうございました。大事に育てます」
「枯らさない程度にね」
「はい」
「いや、枯らしたっていいんだけどさ。最初から上手くいくとは限らないから」
「ずいぶん気楽ですね」
「こっちは植物を売ってるだけだからね。育てるのは、あんたの仕事だ」
緑川は笑った。
男も笑い、紙袋を受け取った。
「また来ます」
「はいよ。今度は息子さんも連れておいで」
「いやあ、来ますかね」
「植物が好きだったんだろ?」
「そうですね。昔はね」
男はそう言って、温室を出ていった。
*
その夜、男は自宅の食卓に恵比寿大黒を置いた。
妻が鉢を見て、声を上げた。
「また植物を買ってきたの?」
「うん」
「今度は何?」
「恵比寿大黒」
「えびす……だいこく?」
「縁起がいい名前だろ」
妻は鉢をのぞき込んだ。
「ずいぶん変わった形ね。これ、いくらしたの?」
「三千円」
「それなら、まあいいけど」
「なんだよ、その言い方」
「だって、前に買ったの、枯らしたじゃない」
「枯らしてないよ。休眠しただけだ」
「葉っぱが全部なくなって、半年くらい何もなかったじゃない」
「そういう植物なんだよ」
「ふうん。今度はちゃんと育つといいね」
妻はそれ以上何も言わず、台所に戻っていった。
男は鉢を少し動かし、窓際に置いた。
そういえば、息子が小さい頃も、こんなふうに植物を置いていた。
庭に置いた鉢の前で、息子がしゃがみ込んでいた姿を思い出す。
「お父さん、これ、いつ大きくなるの?」
何度も同じことを聞いてきた。
「そのうちだよ」
そう答えると、息子は納得したような、していないような顔をしていた。
男はスマートフォンを手に取った。
息子の名前を開く。
しばらく画面を眺めたあと、電話をかけるのはやめて、メッセージを打った。
『久しぶり。元気にしてるか。今日、面白い植物を買った。恵比寿大黒っていうんだ。今度、帰ってきたら見てみろよ』
送信ボタンを押した。
すぐに返事が来るとは思っていなかった。
男はスマートフォンをテーブルに置き、テレビをつけた。
ニュースを見ているうちに、メッセージを送ったことも忘れかけていた。
しばらくして、スマートフォンが鳴った。
『恵比寿大黒って、パキポディウム?』
男は画面を見た。
『そうだよ』
すぐに返事が来た。
『懐かしいな。じいちゃんの家にあったよね』
男は少し驚いた。
『よく覚えてるな』
『覚えてるよ。変な形のやつ。子どもの頃、よく水やってた』
男は笑った。
『あれは水やりすぎだったぞ』
送ってから、少し言い過ぎたかと思った。
すると、すぐに返事が来た。
『やっぱり覚えてるんだ笑』
男は思わず声を出して笑った。
『今度帰ってきたら見せてやるよ』
『うん。そのうち行くよ』
それだけのやり取りだった。
男はスマートフォンを置き、食卓の鉢を見た。
「そのうち、か」
小さくつぶやいて、また笑った。
*
翌週の日曜日。
男は庭先に出て、恵比寿大黒の鉢を眺めていた。
まだ何も変わっていない。
当然だ。買ってきて、まだ一週間しか経っていない。
「そんなにすぐ大きくなるわけないでしょ」
妻が洗濯物を干しながら言った。
「分かってるよ」
「毎日見てるじゃない」
「悪いか」
「別に」
妻は笑った。
男は鉢を持ち上げ、少し向きを変えた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
息子からだった。
『来週、そっちに行く用事があるんだけど、昼飯でもどう?』
男は画面を二度見した。
「どうしたの?」
妻が尋ねた。
「いや、あいつが来週、こっちに来るって」
「あら、そうなの」
「昼飯でもどうかって」
「よかったじゃない」
「まあな」
男はすぐに返事を打った。
『いいよ。何が食べたい?』
少し考えてから、もう一通送った。
『植物も見せてやる』
息子からは、すぐに返事が来た。
『それはいいよ笑』
男はスマートフォンを見ながら、声を出して笑った。
「何て?」
妻が聞いた。
「植物はいいってさ」
「そう。じゃあ、お昼は何か好きなもの作ってあげようか」
「いや、外で食べるんだろ」
「そうだったわね」
妻は洗濯物を持って家の中へ入っていった。
男は、もう一度恵比寿大黒を見た。
まだ小さな株だ。
これからどんな形になるのかは分からない。
息子が次にいつ来るのかも、まだ分からない。
それでも、来週の昼飯の約束はできた。
男は鉢を元の場所に戻し、家の中に入った。
*
その頃、根の庭では緑川が温室の棚を整理していた。
前日に売れた恵比寿大黒のあった場所には、少し空きができている。
緑川は隣の鉢を動かし、棚の間隔を整えた。
「さて、こいつはどうするかな」
手に取った鉢は、枝が少し傾いていた。
緑川はしばらく眺めてから、元の場所に戻した。
「まあ、好きに伸びな」
そう言って、次の温室へ向かった。
了




