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根の庭  作者: 畑野春樹
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1/8

オベサ

千葉県市原市の郊外に、「根の庭」という小さな植物園がある。


五つの温室には、塊根植物やユーフォルビア、多肉植物が並んでいる。珍しい植物を探して遠方から訪れる人もいれば、休日のたびに顔を出す常連もいる。


店主の緑川雄三は、七十を少し過ぎた男だ。いつも作業着姿で、植物のことになると話が長い。かといって、積極的に売ろうとはしない。値札もつけていないので、客は気に入った植物があれば、緑川に値段を尋ねる。思ったより高ければ、買わずに帰っても構わない。緑川も、それを気にする様子はなかった。


「気に入ったものを持って帰ればいい。無理して買うもんじゃないからね」


それが緑川の口癖だった。


健司と美和が初めて根の庭を訪れたのは、三年ほど前のことだった。


二人とも三十代の終わり。最初は、近所の園芸店で見かけたユーフォルビア・ホリダがきっかけだった。奇妙な形なのに、どこか愛嬌がある。そんな植物を面白がっているうちに、二人で植物店を巡るようになった。


根の庭を知ったのも、その頃だ。


初めて訪れた日、緑川は二人が手に取った植物について、ずいぶん長く話をした。育て方だけでなく、原産地のことや、何年もかけて育った株の話まで。二人はその話が気に入り、それから何度も足を運ぶようになった。


ただ、最近は少し様子が違っていた。


仕事のこと、家計のこと、家事の分担。以前なら笑って済ませていたようなことでも、言い合いになる。どちらかが悪いというわけでもない。お互いに言い分があり、どちらも引かない。そんなことが増えていた。


二人で植物店を巡る習慣は続いていたが、車の中で交わす会話は、以前よりずいぶん少なくなっていた。


その日も、二人はいつものように根の庭を訪れた。


温室をひと通り見て回り、作業台のそばにいた緑川に声をかける。


「今日は何か良いものあります?」


緑川は二人の顔を見ると、少し考えるようにしてから、棚の方へ歩いていった。


そして、小さな鉢を二つ持って戻ってきた。


「これ、オベサだよ」


緑川は棚から小さな鉢を二つ取り出した。


「オベサって、丸くてかわいいですよね」


美和が鉢をのぞき込む。


「そうだね。こいつは見た目がいい。育てるのも、そんなに難しくない。ただね、ちょっと面白いことがあるんだよ」


緑川は二つの鉢を作業台に並べた。


「オベサには雄と雌があるんだ。でも、小さいうちは見分けがつかない。花が咲いて、初めて分かる」


「へえ。そうなんですか」


健司が一つの鉢を手に取った。


「じゃあ、買ってみないと分からないんですね」


「まあ、そういうことだね。しかも、種を採ろうと思ったら雄と雌、両方必要になる」


「一つじゃ駄目なんだ」


美和が言った。


「一つじゃ駄目だね。二つあっても、両方雄だったり、両方雌だったりするかもしれないけど」


「それじゃ意味ないですね」


健司が笑う。


「そう。でも、二つないと始まらない。片方だけじゃ、どうにもならないんだよ」


緑川は二つの鉢を並べ直した。


「面白いもんだよね。見た目は似ていても、それぞれ違う役割がある。どっちかが頑張ればいいってもんでもない。二つそろって、うまくいって、初めて次につながる」


「なんか、人間みたいですね」


美和が何気なく言った。


「人間もそうかねえ」


緑川は笑った。


「でも、人間は難しいよ。植物みたいに水をやれば元気になるってわけでもないからね」


健司が吹き出した。


「確かに。水やりくらいなら、うちも揉めないんですけどね」


「ちょっと、それどういう意味?」


美和が健司を見る。


「いや、別に」


「この前だって、私が水をやりすぎたって文句言ったじゃない」


「実際、やりすぎだっただろ」


「だから、そんなに言わなくてもいいじゃない」


「ほら、また始まった」


健司が苦笑する。


緑川は二人を見て、声を出して笑った。


「ははは。まあ、いいじゃない。植物のことで喧嘩できるうちは、まだいいよ」


「そうですかね」


美和が少し笑う。


「うちなんか、植物の話もしなくなっちゃいましたから」


口にしてから、美和は少しだけ後悔した。


健司は何も言わなかった。


緑川も、すぐには返事をしなかった。


しばらく二つのオベサを眺めてから、緑川が言った。


「まあ、夫婦なんてそんなもんじゃないの。毎日一緒にいれば、腹の立つこともあるだろうしね。相手の嫌なところなんて、探さなくても見えてくるし」


「本当にそうですよ」


健司が言う。


「お互い様だよ」


緑川は笑った。


「ただね、せっかく二人でここに来たんだから、今日は仲良く帰りなよ。植物くらい、二人で楽しめばいいじゃない」


美和は少しうつむいて笑った。


健司も、何か言おうとしてやめた。


「これ、二つともください」


健司が言った。


「二つとも?」


「はい。せっかくだから」


「私も二つがいい」


美和が続けた。


緑川は、二人の顔を交互に見た。


「そうかい。じゃあ、二つ持っていきな」


鉢を新聞紙で包みながら、緑川が付け加えた。


「どっちが雄で、どっちが雌かは、花が咲くまで分からないからね。まあ、気長に待ちなよ」


「そうですね」


美和が答えた。


「花が咲く頃には、うちももう少し仲良くなってるといいけど」


健司が言った。


「何それ」


美和が笑った。


「いや、そういう意味じゃなくて」


「どういう意味よ」


二人は顔を見合わせた。


緑川は、聞こえないふりをしていた。


ただ、包み終えた二つの鉢を、少し離れないように並べて紙袋に入れた。


「はい。気をつけて持って帰りな」


「ありがとうございます」


二人は紙袋を受け取り、温室を出た。


帰りの車の中で、しばらく会話はなかった。


助手席の美和は、紙袋の中をのぞき込んだ。


「どっちが雄かな」


「まだ分からないって言ってただろ」


「そうだけど。なんとなく、こっちが雄かなって」


「根拠あるの?」


「ないよ」


健司は笑った。


「じゃあ、当たるわけないな」


「そういう言い方しなくてもいいじゃない」


「ごめん、ごめん」


美和も小さく笑った。


それだけの会話だった。


家に着くと、健司は紙袋から鉢を取り出した。美和が窓際の棚を少し片づけ、二つを並べる場所をつくる。


「ここでいい?」


「うん。日も当たるし、いいんじゃない」


「近すぎるかな」


「いや、これくらいでいいだろ」


二つのオベサが、窓際に並んだ。


美和は鉢の向きを少し変えた。


「こっちの方が、形がきれいに見えるね」


「そうだな」


健司はスマートフォンを取り出し、二つの鉢を写真に撮った。


「何してるの?」


「記録。大きくなったら比べられるだろ」


「珍しいね。そういうことするの」


「たまにはね」


美和はもう一度、二つの鉢を眺めた。


「花、いつ咲くんだろうね」


「さあ。気長に待つしかないんじゃない」


「そうだね」


美和はそう答え、鉢のそばに置いてあった霧吹きを手に取った。


「水はまだやらなくていいよ」


「分かってる。今日はやらないよ」


健司は少し笑った。


「この前みたいにならないようにな」


「もう、その話はいいでしょ」


美和は笑いながら霧吹きを戻した。


窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。


二つのオベサは、何も知らない顔で並んでいる。


雄なのか、雌なのか。花が咲くまで、まだ分からない。


二人の暮らしも、明日から急に変わるわけではない。


けれど、その夜、健司は久しぶりに美和と一緒に植物の写真を見返した。


「これ、最初に買ったホリダだよな」


「そうそう。あの頃は、二人で毎週のようにお店に行ってたね」


「よく行ったな」


「また行こうよ。根の庭」


「ああ。行こう」


短い会話だった。


それでも、二人の間には、少しだけいつもの時間が戻ってきたような気がした。


---


根の庭では、今日も緑川が温室を回っている。


植物に水をやり、枯れた葉を取り除き、鉢の向きを直す。客が来れば話をし、気に入った植物があれば売る。売れなければ、それはそれで構わない。


緑川にとって、植物は急かして育てるものではなかった。


人間だって、まあ、似たようなものかもしれない。


そんなことを考えたのかどうか、緑川は誰にも話さなかった。


ただ、作業台の上に残った二つの鉢の跡を、布でさっと拭き取った。


了

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