オベサ
千葉県市原市の郊外に、「根の庭」という小さな植物園がある。
五つの温室には、塊根植物やユーフォルビア、多肉植物が並んでいる。珍しい植物を探して遠方から訪れる人もいれば、休日のたびに顔を出す常連もいる。
店主の緑川雄三は、七十を少し過ぎた男だ。いつも作業着姿で、植物のことになると話が長い。かといって、積極的に売ろうとはしない。値札もつけていないので、客は気に入った植物があれば、緑川に値段を尋ねる。思ったより高ければ、買わずに帰っても構わない。緑川も、それを気にする様子はなかった。
「気に入ったものを持って帰ればいい。無理して買うもんじゃないからね」
それが緑川の口癖だった。
健司と美和が初めて根の庭を訪れたのは、三年ほど前のことだった。
二人とも三十代の終わり。最初は、近所の園芸店で見かけたユーフォルビア・ホリダがきっかけだった。奇妙な形なのに、どこか愛嬌がある。そんな植物を面白がっているうちに、二人で植物店を巡るようになった。
根の庭を知ったのも、その頃だ。
初めて訪れた日、緑川は二人が手に取った植物について、ずいぶん長く話をした。育て方だけでなく、原産地のことや、何年もかけて育った株の話まで。二人はその話が気に入り、それから何度も足を運ぶようになった。
ただ、最近は少し様子が違っていた。
仕事のこと、家計のこと、家事の分担。以前なら笑って済ませていたようなことでも、言い合いになる。どちらかが悪いというわけでもない。お互いに言い分があり、どちらも引かない。そんなことが増えていた。
二人で植物店を巡る習慣は続いていたが、車の中で交わす会話は、以前よりずいぶん少なくなっていた。
その日も、二人はいつものように根の庭を訪れた。
温室をひと通り見て回り、作業台のそばにいた緑川に声をかける。
「今日は何か良いものあります?」
緑川は二人の顔を見ると、少し考えるようにしてから、棚の方へ歩いていった。
そして、小さな鉢を二つ持って戻ってきた。
「これ、オベサだよ」
緑川は棚から小さな鉢を二つ取り出した。
「オベサって、丸くてかわいいですよね」
美和が鉢をのぞき込む。
「そうだね。こいつは見た目がいい。育てるのも、そんなに難しくない。ただね、ちょっと面白いことがあるんだよ」
緑川は二つの鉢を作業台に並べた。
「オベサには雄と雌があるんだ。でも、小さいうちは見分けがつかない。花が咲いて、初めて分かる」
「へえ。そうなんですか」
健司が一つの鉢を手に取った。
「じゃあ、買ってみないと分からないんですね」
「まあ、そういうことだね。しかも、種を採ろうと思ったら雄と雌、両方必要になる」
「一つじゃ駄目なんだ」
美和が言った。
「一つじゃ駄目だね。二つあっても、両方雄だったり、両方雌だったりするかもしれないけど」
「それじゃ意味ないですね」
健司が笑う。
「そう。でも、二つないと始まらない。片方だけじゃ、どうにもならないんだよ」
緑川は二つの鉢を並べ直した。
「面白いもんだよね。見た目は似ていても、それぞれ違う役割がある。どっちかが頑張ればいいってもんでもない。二つそろって、うまくいって、初めて次につながる」
「なんか、人間みたいですね」
美和が何気なく言った。
「人間もそうかねえ」
緑川は笑った。
「でも、人間は難しいよ。植物みたいに水をやれば元気になるってわけでもないからね」
健司が吹き出した。
「確かに。水やりくらいなら、うちも揉めないんですけどね」
「ちょっと、それどういう意味?」
美和が健司を見る。
「いや、別に」
「この前だって、私が水をやりすぎたって文句言ったじゃない」
「実際、やりすぎだっただろ」
「だから、そんなに言わなくてもいいじゃない」
「ほら、また始まった」
健司が苦笑する。
緑川は二人を見て、声を出して笑った。
「ははは。まあ、いいじゃない。植物のことで喧嘩できるうちは、まだいいよ」
「そうですかね」
美和が少し笑う。
「うちなんか、植物の話もしなくなっちゃいましたから」
口にしてから、美和は少しだけ後悔した。
健司は何も言わなかった。
緑川も、すぐには返事をしなかった。
しばらく二つのオベサを眺めてから、緑川が言った。
「まあ、夫婦なんてそんなもんじゃないの。毎日一緒にいれば、腹の立つこともあるだろうしね。相手の嫌なところなんて、探さなくても見えてくるし」
「本当にそうですよ」
健司が言う。
「お互い様だよ」
緑川は笑った。
「ただね、せっかく二人でここに来たんだから、今日は仲良く帰りなよ。植物くらい、二人で楽しめばいいじゃない」
美和は少しうつむいて笑った。
健司も、何か言おうとしてやめた。
「これ、二つともください」
健司が言った。
「二つとも?」
「はい。せっかくだから」
「私も二つがいい」
美和が続けた。
緑川は、二人の顔を交互に見た。
「そうかい。じゃあ、二つ持っていきな」
鉢を新聞紙で包みながら、緑川が付け加えた。
「どっちが雄で、どっちが雌かは、花が咲くまで分からないからね。まあ、気長に待ちなよ」
「そうですね」
美和が答えた。
「花が咲く頃には、うちももう少し仲良くなってるといいけど」
健司が言った。
「何それ」
美和が笑った。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味よ」
二人は顔を見合わせた。
緑川は、聞こえないふりをしていた。
ただ、包み終えた二つの鉢を、少し離れないように並べて紙袋に入れた。
「はい。気をつけて持って帰りな」
「ありがとうございます」
二人は紙袋を受け取り、温室を出た。
帰りの車の中で、しばらく会話はなかった。
助手席の美和は、紙袋の中をのぞき込んだ。
「どっちが雄かな」
「まだ分からないって言ってただろ」
「そうだけど。なんとなく、こっちが雄かなって」
「根拠あるの?」
「ないよ」
健司は笑った。
「じゃあ、当たるわけないな」
「そういう言い方しなくてもいいじゃない」
「ごめん、ごめん」
美和も小さく笑った。
それだけの会話だった。
家に着くと、健司は紙袋から鉢を取り出した。美和が窓際の棚を少し片づけ、二つを並べる場所をつくる。
「ここでいい?」
「うん。日も当たるし、いいんじゃない」
「近すぎるかな」
「いや、これくらいでいいだろ」
二つのオベサが、窓際に並んだ。
美和は鉢の向きを少し変えた。
「こっちの方が、形がきれいに見えるね」
「そうだな」
健司はスマートフォンを取り出し、二つの鉢を写真に撮った。
「何してるの?」
「記録。大きくなったら比べられるだろ」
「珍しいね。そういうことするの」
「たまにはね」
美和はもう一度、二つの鉢を眺めた。
「花、いつ咲くんだろうね」
「さあ。気長に待つしかないんじゃない」
「そうだね」
美和はそう答え、鉢のそばに置いてあった霧吹きを手に取った。
「水はまだやらなくていいよ」
「分かってる。今日はやらないよ」
健司は少し笑った。
「この前みたいにならないようにな」
「もう、その話はいいでしょ」
美和は笑いながら霧吹きを戻した。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
二つのオベサは、何も知らない顔で並んでいる。
雄なのか、雌なのか。花が咲くまで、まだ分からない。
二人の暮らしも、明日から急に変わるわけではない。
けれど、その夜、健司は久しぶりに美和と一緒に植物の写真を見返した。
「これ、最初に買ったホリダだよな」
「そうそう。あの頃は、二人で毎週のようにお店に行ってたね」
「よく行ったな」
「また行こうよ。根の庭」
「ああ。行こう」
短い会話だった。
それでも、二人の間には、少しだけいつもの時間が戻ってきたような気がした。
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根の庭では、今日も緑川が温室を回っている。
植物に水をやり、枯れた葉を取り除き、鉢の向きを直す。客が来れば話をし、気に入った植物があれば売る。売れなければ、それはそれで構わない。
緑川にとって、植物は急かして育てるものではなかった。
人間だって、まあ、似たようなものかもしれない。
そんなことを考えたのかどうか、緑川は誰にも話さなかった。
ただ、作業台の上に残った二つの鉢の跡を、布でさっと拭き取った。
了




