21、帰る場所
「よかった……妹さんも、無事に成仏できたみたい」
ワイズが書斎の中で決意を下しているその頃、書斎の外側に控え、こそりと呟いたのは、エウリア国の信仰の長、巫女カグワである。少女は扉の外に背中をつけ、中を覗くことはかなわないが巫力と呼ばれる『力』を使って中の様子を伺いながら、ワイズの妹の心が消えていくのを感じていた。
人は死ぬと、魂を失う。魂を失った人間の体は抜け殻となり、もう二度と復活はしない。——その抜け殻を復活させる技も巫力の技の中にはあるにはあるのだが、その技を使える人間自体ほとんど存在しないわけで、まあまず復活はしない。——そして、魂を失った人間は、心だけとなり、さまよう。そして帰るべきところに帰り、成仏という形で消えてゆくのだが、稀に成仏できずにさまよい続ける心があるのだ。それは実体なき存在となり、時に「幽霊」と呼ばれて恐れられたりする。
魂を失って心だけになった存在は、凡人には滅多なことでは見えない。故に何か事情があって凡人にも見えてしまった時に、彼らは見たこともない存在を「幽霊」と名付けて恐れたが、心だけになった存在は生きた人間には何もできない。故に、実際には恐れる必要など全くない。
そして、凡人ではない人間——巫力と呼ばれる不思議な『力』を持った人間の中には、その『力』を使って心だけになった存在を見ることができる者もいた。巫力を基準に国中の少女の中から選ばれたという巫女は、当然その力を持つ。当代の巫女であるカグワは、随分前から国務参謀ワイズ・レヴィンの周りにちらちらと影がうろついていることに気付いていた。
が、彼の周りにちらつく影が彼の妹であると気付いたのは最近だ。夜中にワイズの書斎を訪れ、屋根の上で彼と話をした時に、彼には妹がいたのだという話を聞いて、確信した。
確信したカグワは、それから神殿の奥に引き蘢り、これまでにないほど懸命に巫力の修行に打ち込んだ。巫女の技は一朝一夕に覚えられるようなものではなかったが、巫女に選ばれるだけの基礎能力はカグワにも備わっている。故に、短期間で付け刃ではあったが、なんとか習得した技は——「死想」の技という。
数日前に神官がカグワに読めといって寄越した書籍の中に載っていた、わりと高度な巫力の技であった。死んだ人間の心に意思を持たせ、生きる人間と意思の疎通を行わせることができるようにするという内容である。死んだ心は本来意思を持たず、また、凡人とは会話することもできなかったが、それを可能にするのが巫力だ。
この技の成功にはいくつかの条件があった。成仏してしまった心にこの技は使えない。何かしらの未練があって成仏できずにうろついている死んだ心にのみ、この技は使える。——例えば、ワイズの周りを浮遊していた妹の心が、そうだ。
カグワは成仏していく彼の妹の心を見守って、安堵の笑みを浮かべた。死んだ人間の心が成仏できずに留まるのには、それだけの理由がある。そして、その理由は生きている人間が何かしらの鍵であることがほとんどだ。故に、今回のように「死想」の技によって心に意思を持たせてやれば、生きた人間と死んだ心とが意思の疎通をすることによって、生きた人間も、死んだ心も救われるのではないかとカグワは思ったのである。
そして案の定成仏することのできた妹の心を見守りながら、ほっと胸を撫で下ろしたカグワを見て、不安そうに声をかけてきた女性がいた。
「巫女君……参謀は……?」
綺麗な白に近い金髪に、これもまた真っ白な肌、それらは揃って彼女の冷静沈着な雰囲気をより助長させる。普段滅多なことでは表情を変えないその女性の名を、セレスト・アンダーソンという。冷徹な参謀と言われたワイズの第一秘書だ。
カグワとセレストがいるのは書斎の外側だ。カグワは巫力を使って部屋の中をある程度探ることができるが、力を持たぬセレストには中で何が起こっているのかわかる術がなかった。いつもの冷静な態度からは想像もつかぬほど不安気な表情をするセレストににこりとカグワは微笑んで「大丈夫よ」と答えた。
「今エリックが彼についているから……たぶんすぐにいつもの調子を取り戻すわ」
「エリック……あの、軍人ですか?」
「ええ、そうよ」
そうですか、と力なく答えたセレストは、エリック・コーエンという軍曹のことを知らなかった。いくら参謀秘書とは言え、この国城の中にも何百といる軍人の名前をいちいち覚えているわけもないため、無理はない。だが、彼女は、ワイズのこともカグワのことも、そしてセレストのこともよく知っている彼のことを自分が全く知らなかったということに関して、とてつもなく大きな衝撃を受けたようだった。
時間は、やや遡る。
そもそも、カグワが此処、国務参謀ワイズの書斎の前を訪れたのは、夕日が落ちた頃のことだ。ケトロの修道院での一件に片が付き、国城に戻ってから神殿にも帰らずにまっすぐ此処に立ち寄った。
修道院制度を破棄することは、恐らくワイズにとって人生における一つの目標だったのではないかと思われた。その目標を達成させたワイズの所へ行き、妹の心と会話させてやることによって少しでも彼が救われればと、カグワはそう思ったのだ。
そう思ってワイズの書斎を訪れたカグワは、吃驚した。書斎の前には、先客がいたのである。——それが、第一秘書のセレスト・アンダーソンであった。
セレストは参謀の秘書であるからには、彼の書斎を訪れることも決して珍しくはない。しかし、てきぱきと仕事をこなす彼女は常ならば、書斎を訪れたなら迷わず要件のみを彼に伝えて、さっさと帰って行くはずだった。その彼女が、何故かワイズの書斎の前で何かを躊躇うように留まっていたのである。
「一体どうしたの」とカグワが問いかけると、セレストはようやく彼女に気付いたのか驚き飛び上がって、「なんでもありません」と答えた。が、その不安気な表情を見る限り「なんでもない」ことはない。彼女はとても、とても誰かの事を心配しているのだ。——恐らくは書斎の中の人物、国務参謀のワイズのことを、案じているのだ。
カグワは閉まりきった書斎の扉を見上げ、部屋の中に入ることはなく巫力の技の一つである「気感」の技を使って中の様子を探ると、中にいる人物が眠っていることを確認した。
「ワイズは眠っているみたい。しかも、うなされているわね」
カグワがそう告げると、セレストは目を丸くした。何故そんなことがわかるのか、と言いたげな彼女は、巫力を使う人間を間近で見たことがなかったのであろう。「これでも巫女だから」とカグワがにっこり笑うのと同時に、今度は書斎の前にエリック・コーエンが現れた。
軍服姿のまま走って来たのか、ぜえぜえと息を切らし、突如現れた人物にセレストはますます驚いたようだった。まず、政殿の中に軍人がやってくることはあまりない。例えば要人の警護など何か理由があれば政殿の中に入ることもあるが、突如現れたこの軍人は、誰かの警備をしている風でもない。
セレストが「こんなところに軍人が何用か」と厳しい顔で尋ねようとしたので、カグワはそれを押しとどめて、コーエンを見つめた。
「ワイズに……会いに来たのね」
カグワがそう言うと、コーエンは目をみはった。——言い当てられた、そんな顔をした。
このエリック・コーエンという軍人の正体を、カグワは知らない。たびたび国城内ですれ違うため、よく話もするし、向こうはカグワの正体が巫女であることも知っているが、カグワはこの軍人が果たして何者なのかは知らない。だが、一介の軍曹であるにはあまりにも豊富すぎる知識量や、時折含みのある言葉を残すことから、ただの軍人ではないことは明らかだった。
そしてこの時、カグワは確信したのだ。彼は国務参謀ワイズ・レヴィンに躊躇なく謁見できる立場にあるのだと。
コーエンは瞠目し、しばらくカグワのことを見つめていたが、やがて諦めたように息を吐くと、「そうです」と頷いた。
「ワイズが……参謀が、うなされているのが見えたもので」
その台詞から、コーエンが巫力と呼ばれる『力』の持ち主であることと、そして、国務参謀をワイズと呼べる間柄にあることが読み取れる。
彼らの関係性がどんなものであるかはわからないものの、彼がいてもたってもいられなくなってワイズに会うためにここまで走って来たことだけは明らかだったため、カグワは一歩引いて書斎の扉を示した。
「ワイズは中にいるわ。うなされているみたいだから……労ってあげて」
カグワの言葉を受けて、「はい」と頷いたコーエンは参謀の書斎の扉に手を伸ばした。それを見て、焦ったようにセレストが「待って」と声をあげる。その声には確かに警戒心が含まれていた。
セレストからしてみれば、コーエンは得体の知れぬ軍人だ。そんな男を参謀の書斎に入れていいはずもない。いくら巫女が許したからといってそれは駄目だと慌てて制止しようとするセレストを見て、コーエンは小さく微笑んだ。
「参謀の第一秘書、セレスト・アンダーソン殿ですね」
「え……」
一度も会ったこともないはずの男に言い当てられて、セレストは固まった。秘書の名前はさほど有名にはならない。いくら参謀の秘書だからと言っても、この政殿の中でさえセレストの名前を知る人間は少ないはずだ。それを知っているということは、この男がワイズと面識があるという証にもなる。
「いつもワイズがお世話になっています。あいつは冷静に見えて猪突猛進なところがあるから、その秘書を務めるのも楽ではないでしょう。貴女も相当なやり手であると聞きました」
セレストは軍人を見上げて、わなわなと震えた。ワイズを知っているかのような口ぶりが、はったりには聞こえないためだ。
「一体、貴方は……」
震えながら吐き出されたセレストの問いに、コーエンは柔らかな声で答えた。
「エリック・コーエンと申します。位は軍曹でしかありませんが……ワイズの兄貴分のようなものです」
セレストはそれ以上は何も言わなかった。下を向いて震えたまま、彼を止めようとはしない。コーエンは彼女に止められることなく、その横を素通りした。
そして、コーエンはちらとカグワを見やって彼女に一礼すると、書斎の中へ入って行った。カグワはそれを見送り、静かに書斎の中に己の巫力を走らせた。そして「死想」の技を行使してワイズの妹の心に意思を持たせ、ワイズと会わせてやることに専念したのであった。
そして、今に至る。
「死想」の技を成功させ、ワイズと妹の心を出会わせることによって無事に妹の心を昇華させ、それを見送ったカグワは書斎の中を探ることをやめた。中で苦しみを訴えていたワイズはしかし、己の抱いている苦しみを認め、ついにそれを吐き出した。隣には彼の兄貴分だというコーエンが寄り添っている。コーエンならば、ワイズの苦しみを全て受け止めて彼を労ってやれるだろう。そう思ってワイズのことは全てコーエンに任せることに決めて、カグワは書斎の中に走らせていた巫力を解いた。今カグワが気にかけるべきは、書斎の中の男ではなく、今目の前で悲しそうな瞳をしている女性の方だ。
「セレスト……ワイズはもう大丈夫だと思うけど」
カグワがそっとその女に声をかけると、女ははっとはじかれたように目を開いて、こちらを向いた。普段の抜け目ない秘書姿からは想像のつかない彼女のそんな反応に、カグワも少なからず驚く。普段秘書をしている彼女が、どれだけ気を張っているのか、この時になってようやく気付いたような気がした。
「そう……ですか……」
セレストは書斎の中を気にしながらも答える。カグワは首を傾げた。
「どうする? もう行く? それともワイズに何か用があるなら、少し待って会っていく?」
「いえ……特に用があるというわけでは、ありませんので……参謀は、深入りをされることを嫌う方ですし……私はこれで」
セレストはぼそぼそとまるで用意された台詞を読むかのように感情なく、そう答えた。それが彼女の本心でないことは明らかだ。しかし、例え本心でなくとも、そうしなくてはならないと思っている彼女の使命感がいっそ哀れで、カグワは彼女の方に一歩近付いた。
「セレスト……貴女は」
「……はい?」
「ずっと、ずっと近くで……ワイズを見て来たのだものね」
そう告げると、セレストの青い瞳が動揺するように揺らいだ。逃げようとする彼女の視線を追って、カグワはゆっくりと彼女の目を見つめる。
「本当は、一番……彼のことを心配しているはずなのに」
「そんな……私は、一介の、秘書でしかございませんから……」
彼女はずっとそう自分に言い聞かせ続けてきたのだろう。なぜだかそれが、カグワの心に突き刺さる。——私は一介の仗身でしかありませんから。——常々そう言い続ける自分の傍にいるあの男の姿と、重なって見えたためであろうか。
「秘書なら秘書でいいじゃない? 貴女にしかできないことって、たくさんあるはずよ」
「私にできることなど……私情を殺して賢き秘書でいることぐらいのものです」
「どうして私情を殺す必要が? 貴女は物ではないわ。心があるでしょう。だからワイズの秘書をやっているんだわ。任命されて嫌々やっているわけではないでしょ?」
「それは、もちろん……」
「ワイズのどこかに魅力を感じて秘書をやっているんだわ。そうでなきゃ、仕事もないのに貴女が血相を変えて、此処をうろつくわけもない」
カグワは、自分が此処にきた時にはすでにこの場所で狼狽えていたセレストの姿を思い浮かべた。普段のあの冷静沈着な彼女からは予想もできないような狼狽ぶりに、こちらの方が驚かされたくらいだ。
セレストは一度カグワの顔を見やってから首を緩やかに振ると、静かにその冷たい色をした瞳を俯かせた。
「当然……参謀のことは、尊敬しています。ずっと、ずっと……あの方は、私の恩人でした」
「恩人?」
「ええ……彼がいなければ、私はこの政殿の中で仕事を続けることもできなかったかもしれません……」
「そうなの?」
「そうですとも。私の他に、女の身で秘書という重要役務を任されている人間がおりますか? ——それくらい、政殿はまだ閉鎖的なのです」
確かにカグワは政殿の中を歩いたことが何度もあるが、その際すれ違う女のほとんどは下女か、いたとしても雑務を行う女史くらいである。そのどちらもが下役で、とても政治の舞台で活躍するようなものではない。その中で女性秘書として働くセレストは、異端な存在であった。
「……私が、政殿に入ったのは、今から七年も昔のことです。難関と言われた国家試験を突破して下官となりましたが、いくら難関とは言え、女が努力して突破できないものではなかったはずです。それなのに何故今まで挑戦者がほとんどいなかったのか、政殿に入ってようやくその意味を理解しました。——この政殿では男尊女卑があまりにも露骨なのです」
今までにも下官として政殿入りした女がいなかったわけではなかったという。しかし、共に政殿入りした多くの同期の男たちが出世していく中で、女に出世の道は残されていなかった。「女がこんなところで何をしているのか」と嘲笑されることなど日常茶飯事であり、「こんな男社会に入って来ようとするのは、よほどの男好きだ」という誤解を受けて何度も下卑た誘いを受けた。「男なら誰でもいいのだろう」という根拠のない噂をされたこともある。
こんな環境下で仕事などまともに出来るはずもない。何度も心が折れそうになり、それでも生来の負けず嫌いな性格も手伝って、絶対に人前でだけは泣かなかった。そうして負けるものかと他の同期の数倍も数十倍も働いていたある日、ワイズ・レヴィンに声をかけられたそうだ。
——お前の仕事は恐ろしく正確だな。下官にしておくには勿体ないほどだ。
七年前、当時まだ国務参謀の地位についていなかったワイズ・レヴィンであるが、それでも下官であったセレストから見ればとんでもなく位の離れた上位の人物だった。まさか声をかけられ、しかもそれが女を蔑むものでなく、自分の仕事を褒めてくれる物だなんて予想だもしていなかったため、動揺した。
なんとか気を張って「私は私にできることを遂行するのみでございます」と答えると、ワイズは興味深げに目を細め、問うた。
——お前、名前は?
——セレスト・アンダーソンと申します。
「覚えておこう」と呟いた彼は、社交辞令でも何でもなく本当にその名を覚えていてくれたらしく、それから数年後、国務参謀の地位に就くなりセレストを自分の秘書にと大抜擢した。
彼に一度声をかけられ褒められたことだけを支えにずっと政殿で苦しくとも仕事に励んで来たセレストにとっては、感無量のできごとであった。だが、女などを秘書に抜擢したと知れたら、彼の声明に傷が付くのではないか。それだけが心配であった。故に、一度だけ問うたことがある。——女などを秘書に抜擢してもよろしいのですか、と。
すると、ワイズはその質問に嫌悪感を露にし、答えた。
——女だからお前を選出したわけではない。お前の腕を見込んで抜擢したのだ。だから少しでも仕事に粗があるようならすぐに解雇する。肝に銘じておけ。
その冷たく厳しい言葉が、セレストには堪らなく嬉しかった。一生この人に付いていこうと思った。
故にそれ以来、セレストは一度も私情を表に出したことがない。私情は仕事の邪魔になるためだ。彼の期待に応えるためには、自分は仕事を完璧にこなさなくてはならない。それが彼への恩返しであると、ずっとそう思ってきたのだ——。
「——ですから、参謀は、私の恩人なのです」
長い話をかいつまんでわかりやすく説明してくれたセレストの言葉に、カグワは聞き入っていた。
いつも氷の仮面を被ってその奥に控える己の心を殺しているセレストの言葉は、その氷が解けてとろとろと中身が溢れ出すように柔らかく、とても新鮮だ。カグワは真摯に耳を傾けていた。
「秘書となってからも、幾度も、政殿で働く人間に厭味を言われたこともございます。お前は参謀と夜の営みをするために秘書になったのだろうとか、最近の秘書は情事の世話までするのかだとか、それはもう下世話なものばかりで……ですが、それでも参謀は一度も私を厭うことなく、秘書として雇い続けて下さいました」
「ええ、そうでしょうね。ワイズは人を見た目で判断しないわ。貴女のことを雇うに値すると思ったから、秘書として信頼し続けているのよ」
「ありがたいことに、そうかもしれません……なのに、私は本当の意味では、あの方の力になんて、なれない……」
セレストは消え入りそうな声で呟いて、綺麗な金髪を抱えた。肩につかぬ長さにまで切り落とされたその金の髪は、この国の女性では珍しいほどの短さだ。それは男に負けないという彼女の強い意思表示なのかもしれなかった。それでも、震える線の細い体は、女のものである。
「巫女君のように、不思議な『力』やその暖かい人間性で彼を救うことも、そして、さきほど書斎に入って行った軍人のように彼が苦しんでいることを見抜いて駆けつけるようなことも、私にはできません……なにしろ、私は、あの軍人が何者であるかも参謀から聞かされていないのです」
「それは私も同じよ。たまたまエリックとは知り合いだったから、それでワイズと何か関係があるのかなぁと思っただけで……別に、ワイズも貴女のことを信頼していないからエリックについて話さなかったわけではないと思うわ」
「ですが、あの軍人は私のことを知っていました。恐らく、私はそこまで踏み入ることを許されていないのです。ですから、私は離れた場所から参謀のことを祈ることしかできないのです」
祈るように重ねられた両手を胸の前で組んで、セレストは悲しげに俯いた。カグワはそんな彼女の肩を撫でる。そして、組まれた両手を自分の手のひらで包んで、俯く彼女の顔を覗き込んだ。
「——それで、いいんじゃない?」
そう告げて、微笑む。宝玉のように透き通った彼女の青い瞳を見つめて、カグワはなるべく柔らかな声で、言った。
「少し離れた場所で、彼を待ってあげること……それって、貴女にしか出来ないことじゃない? エリックみたいに一歩踏み込んで彼に手を差し伸べてあげることも必要だけど、貴女みたいに一歩引いたところで彼を待ってあげることも、ワイズにとっては必要だと思うの。いつでも傍にいてくれるっていうのが安心を与える絶対条件ではないわ。帰る場所があるっていうのも、安心を与える条件だと思うの」
「帰る場所……」
「そうよ。セレスト……貴女は、彼の帰る場所でありなさい」
自分よりもいくつも年上である女性に向かって、偉そうな言い方をしてしまっているという自覚はある。だが、セレストは少しも嫌そうな顔はせずに、自分より年下の少女の言葉を受け止めていた。彼女にとっては、カグワは年下の少女である以前に、「巫女」なのだろう。巫女の言葉に、セレストは聞き入っている。
「ワイズは国務参謀として政殿に君臨して怖いものなしであるかのように振る舞ってはいるけれど……実際には政殿の中にも、この国の中にもたくさんの敵を作っているわ。それはセレストもよくわかっていることでしょう?」
「ええ……」
「おまけに隣国北国が戦をしかけてきて、ワイズは日々たくさんの敵と戦っている。時には、今日みたいに心が苦しくなって潰れてしまいそうになる時もあるかもしれないけど……そんな時は、いつでも彼がまた戦えるように、貴女が彼を待っていてあげなさい。そして彼が苦しみから立ち直って帰ってきた時に手を取って、一緒に奮起できるように、彼の帰る場所を提示してあげるべきよ」
それが貴女にしか出来ないことよ、ときっぱり言ってのけると、セレストの綺麗な青の瞳にじわりと雫が浮かんだ。セレストは慌てて組んでいた自分の手を解いてその雫を手の甲で拭うと、「はい」と詰まりそうになる声で答える。
「そう……ですね……。私は、彼の秘書ですから……彼の敵のことも、彼の戦う術も。他の誰より存じているつもりです。……いつでも彼が戦えるように、彼が負けることのないように……私は彼の帰る場所を用意しておきます」
途切れ途切れになりながらも、はっきりとそう答えたセレストは、強い女性であった。セレストは夢にも思っていないだろうが、彼女がいたからこそワイズは国務参謀として此処までやってこれたのだろうと思う。彼女に言おうものなら「そんなことはない」と謙遜されてしまうだろうが。
満面に笑みを浮かべてセレストのことをぎゅっと抱きしめて、カグワはそろそろ此処を離れるようと心の中で思った。結構長い時間が経ったようで、すっかり夜空には月や星が散っている。今日は朝から一日神殿を空けていたからそろそろ戻らないと神官たちが本気で怒り出すだろう。
こうして、カグワの中で、西国における神と人との争いは、ひとまず幕を下ろしたのであった。
だが、今日という長い一日は、まだ、終わらない——。




