19、なんて罰当たりな
国城から首都ケトロへと下り、その中央に位置する修道院までは馬の足では半刻と言われている。が、獣人の足では半刻もかからず、すぐに辿り着いた巫女とその仗身は、修道院から町中へと溢れ返る人波と、その喧噪を目にして一瞬圧倒された。
だがそれも一瞬のことである。
巫女はすぐに気を引き締めると、己を背負っている獣人の体を叩いて、「この喧噪の中心へ」と言った。喧噪の中心は、襲撃の標的となった修道院である。獣人は「御意」と主に従い、人波を踏みつぶすことのないよう民家の屋根の上に上ると屋根伝いに修道院を目指した。
そしてそのまま修道院の屋根の上に君臨した巫女は、巫力の技である「感応」の技と呼ばれる力によって、その場に集った何千もの群衆の一人一人に思いを伝え、その後、「死想」の技と呼ばれる力によって、そこに集った幾人かの人間と、死んだ人間の心を会わせてやった。——これは、巫女が初めて使った技であった。一度死んだ人間の心に意思を持たせて生きた人間と引き合わせる「死想」の技は、巫力の技の中でも高度である。巫女カグワはこの技を習得するためにここ数日神殿の奥に引きこもって修行をしていたのであるが、その事実を知る者は少ない。
巫女の力によってその場の混乱はひとまず鎮圧され、群衆は涙を浮かべながら各々の帰るべき場所へと帰って行った。また、巫女に感謝の意を捧げに来る人も後を絶えず、彼らは「貴女こそ神の使いだ」と讃えて彼女の前に跪いた。
巫女は自分の前に跪き、自分を讃える人々を見て、「私は確かに巫女だけれども、神ではないし、讃えられるような存在でもないわ」と恐縮しながらも、彼らに笑顔を与えた。人々はそれを天女のようだ、まさしく神の使いだと有り難く拝んだ。
喧噪の止んだ修道院にようやく街に常駐する政府軍が駆けつけてきたのは、それからさらに後である。政府軍は前代未聞の民衆による決起に怯んでいたのかどうか、まるで騒ぎが収まるのを待ち構えていたかのように出兵してきた。巫女はしかしそれを責めることもなく、巫力の技を利用して修道士や大司教たちが修道院の地下に隠れていることを調べて軍に伝えた。軍は巫女の言葉に従い修道院の地下に潜り込み、大司教や修道士を悪徳な方法で民から金を巻き上げた疑いで捕え、連行していった。
一連の騒ぎの中、巫女の仗身である獣人ユタヤは、一時であっても主の傍を離れたくなかった。何故なら、此処は護られた神殿の中ではない。それどころか、国城の敷地内ですらないのだ。人々は巫女を崇拝しまるで神のように讃えてはいるものの、先ほどまで暴動のあったこの場所で、いつ何が起きるかはわからない。そんな状況下で仗身である自分が彼女の傍を離れることはひどく恐ろしいことに思えたが、しかし、獣の形に変化した彼の体はあまりにも巨大で、人の街の中ではひたすら邪魔だった。
馬の二倍はあろうという背丈に、がっしりとした体つきである。彼の乗った民家の屋根はどれもぎしぎしと嫌な音をたてて軋んだほどで、重みで崩れることはなかったものの、相当負担をかけたであろう。こんな巨体では、巫女についていくこともできない。巫女は崩れかけた修道院の中と外を何往復もして軍や民衆と度々語り合っていたが、獣人ユタヤはそれに付き添うことができなかった。
ので、致し方なく、ほんの一時だけユタヤは主から目を離し、急いで獣の変化を解いて人の形に戻ると主が此処まで持って来てくれていた仗身の正装である「装衣」を着込む。着脱も便利な装衣は人形に戻った瞬間に布を被って前を締めるだけで着込むことができ、これを仗身の正装と決めてくれた先人に感謝した。
一瞬で人の姿に戻ったユタヤは、着込んだ装衣を整えながらも慌てて走って修道院の入り口に戻り、軍人や軍に捕えられた修道士、そして巫女に一目会いたいと集った民衆の中から必死に主の姿を探す。獣の姿をしていた時には目線が人よりも圧倒的に高かったため、上から彼女を探すことができたのに、人の姿になると雑踏が邪魔で前が見えず、厄介だ。
人でごったがえしているこの場所で、どうしても主を見つけることができず、焦ったユタヤは修道院の礼拝堂の前に控えている軍人の腕を掴んで、引き寄せた。
「……巫女の君は、一体どこにおられる?」
たった一瞬目を離しただけなのに、その隙にいなくなってしまうなんて、本当に自由奔放で困った主だ。呆れる思いもあるが、今はそんなことよりも主の安全を確認することが先決であった。
「巫女君はこの礼拝堂の奥におられるが……今礼拝堂は立ち入り禁止だ。街へ戻れ」
人の姿に戻ったユタヤのことを、軍人は街の住民だと思ったのだろう。礼拝堂の中では軍が取り調べやら何やらをしているらしく、どうやら一般市民の出入りは禁じているらしい。なるほど、それでこの礼拝堂の前に民衆がごった返しているのだなと納得し、ユタヤは礼拝堂の奥を見つめた。
「俺はこの街の住民ではない……巫女君に仕える者だ。通してくれ」
装衣を整え、くたびれた前襟の部分をぎゅっと締めながら軍人を睨むと、しかし軍人は白布一枚を被っただけの妙な様相をしている青年を上から下まで眺め、訝るような顔をする。
「そんな汚らしい格好をしている者が、巫女君に仕える身分であると信じられるわけもない……妙なことを言うな。引き返せ」
軍人にそう言われたところで、仕方はなかった。確かに装衣は着脱が楽で獣人にとっては重宝すべき服装ではあるが、薄汚い白布一枚でできたこの衣服はあまりにもみすぼらしい。浮浪者であると言われればそうともとれるようなこの様相で、巫女の従者を語る方が難しかった。——とは言え、彼は巫女の従者だ。その事実は嘘ではない。
「俺は獣人だ……先ほどまでそこに巨大な獣がいただろう。変化を解くとこの姿になる。今人間に戻ったところだからみすぼらしい格好をしているが、嘘ではない。巫女君の仗身——護衛なんだ。通してくれ」
軍人は先ほどまでそこにいた獣の姿は覚えているのだろう。目を丸くしてじろじろとユタヤを見つめるが、首を横に振る。
「まさか……その話、どう信じればいいのだ」
多くの獣人は子供のうちに殺される。故に、大人になった獣人を見たことのある人は少ない。ましてや、自分の意思で人にも獣にも変化できるのは、巫女と誓約を交わした獣人のみだ。この軍人が知らないことも無理はなかった。
ユタヤははあ、と溜め息を吐くと、どうしたものかと周囲を見回して、ふと、そこに崩れ落ちた瓦礫の山を見つけた。群衆が修道院を襲った際に、修道院の壁を破壊して生まれた瓦礫の山だ。ユタヤはしばしその瓦礫を見つめ、その中から最も頑丈そうな鉄の棒を拾い上げると、軍人に見せた。
「な、何をする気だ……」
軍人はユタヤがその棒を武器として自分に襲いかかってくるのではないかと誤解したのか慌てて己の腰の剣に手をやって応戦しようとするが、ユタヤには当然彼を襲うつもりなどない。
ユタヤは「見ていろ」と呟くと、固い鋼鉄の棒の端と端を両手でぎゅっと握り締め、力を込めて軽々とへし折った。ぱきん、と冷たい音がその場にこだまする。その音に驚いたように、修道院の入り口にいた軍人だけでなくその場にいた幾人かがこちらを向いた。まるで木の枝のように軽々折られたその棒はしかし、鋼鉄だ。からんからんと音をたてて転がるまっぷたつになったその棒を眺めて、軍人は唖然としている。
「これで、俺がただの人間ではないことはわかっただろう——通してくれ」
軍人は口を大きく開いたまま、ぽかんとしてユタヤを見つめていた。はいともいいえとも彼は言わないが、もういいだろうと勝手に判断してユタヤは崩れた礼拝堂の入り口をくぐり抜けた。軍人はユタヤを止めはしなかった。ユタヤが巫女の従者であることを信じたのか、単に驚きのあまり声すらでなくなってしまったのか。——恐らく、後者だろう。
礼拝堂の中はそれほど広くもないのだが、閑散として妙な奥行きを持て余していた。
祭壇の前に並べてあったはずの机や椅子は破壊されて端々に追いやられ、粉塵の後が点々と続いている。割れた窓ガラスの影の合間から、きらきらと日差しが差し込んで、めくれあがった礼拝堂の床の上にまだら模様を描いた。祭壇の布は破れ、燃えた後を残している。その奥に堂々と控えていたはずの神像は崩れ落ち、首が胴から離れて虚しく転がっていた。
巫女と呼ばれた少女は、その首を失った神像の前に佇んでいた。少女は鬱々と差し込む日光の下で眩しげに目を細め、表情なく首のない神像を見つめていた。
ユタヤはその横顔を見て、一瞬息を呑む。普段無邪気に笑う彼女からは考えられないほどの大人びた表情は、幾度もユタヤの心を揺さぶって苦しめた。彼女は今、何を考えているのだろう。
そういえばここ最近、彼女と話をしていないなと思った。その理由は、他でもないユタヤが彼女のことを避けているためだ。もちろん、彼女に不服のあるわけではない。これは、ユタヤ自身の問題だ。——自分が恐ろしくて、彼女に、近付くことができないのだ。これ以上は近付けない、という距離は日に日に広がって行く。それでも仗身であるから彼女の傍に付き添ってその身を護ろうとはするのだが、気付けばもう何日も、彼女とまともな会話さえ交わしていなかった。
彼女のことを大切に想い、並ではない執着心を持つようになったのはいつからかなんて、そんな昔のことはとうに忘れてしまって覚えていない。この想いが主を思う忠誠心ではなく、男が女に引かれるような恋慕であると気付いたのは、今から一年前のことだ。北国に誘拐された主を追って共に北の国に向かい、主の身に危険が迫る緊迫した状況下で、それが恋慕心であると知った。そしてこの想いは何があっても伏せて生きて行かなくてはならないと自分に言い聞かせて一年、しかし最近では夢を見るのだ。普通の人間に生まれた自分が、普通の人間に生まれた彼女と出会い、触れ合って獣のように襲いかかり、己の欲を果たす夢である。当然、それは夢でしかないが、いつか間違ってそれを現実にしてしまうのではないかと思うと己が恐ろしく、彼女に近付くことができない。
故に今も、ユタヤは祭壇の前に立って神像を見上げている少女の横顔を、遠くから見つめていた。
これくらいの距離ならば、何があってもすぐに駆けつけて彼女を護ることができる。ユタヤはそう思ってその場に留まると、少女を遠くから眺める。触りたくとも触れぬ距離感に悶えることにも、もう疲れた。ならば、なるべく近付かぬ方がいい。いざという時に彼女を護れれば、自分はそれで満足だ、と。そう思っていたのに——。
少女が、ふと、こちらを向いた。窓から光が差して逆光になり、彼女の表情は黒ずんで見えない。
「……ゆたや」
ただ声だけが、確実に青年の耳へと届けられた。
「そんなところにいないで……こっちにきてよ」
小さく掠れた声でそう告げられて、ユタヤには逆らう術もない。
まっすぐ彼女の上へと差し込む光は神の背負う後光のように、彼女を黒く浮かび上がらせて見る者を震撼させる。
ユタヤは震えそうになる足に鞭打って、一歩、また一歩と彼女の方へ踏み出した。近づくたびに彼女の姿が明瞭になり、純白の巫女装束が眩しい。ゆったりとした意匠に設計されたその服は少女が歩くたびに裾を引きずるため、裾は土や粉塵を吸って薄汚れているものの、それすら神々しい模様に見えるほどだ。
「……かぐわの君」
彼女の前にたどり着くと、青年もまた掠れそうな声で小さく呟いて、壇上の下から上にいる少女の顔を見上げた。
少女はわずかに切なげな笑みを浮かべた後、煤を浴びて黒みを帯びた白磁の神像を見やった。つられてユタヤもその神像の方を伺う。
「この像には、神の力もなければ……神も宿っていない。だから、こんな風に首を討ち取られたところで天罰を下すこともできなければ、文句の一つも言えないのね。だけど、この像も、この姿になりたくて生まれたわけではないでしょうに……人々の信仰心を具現化させるために勝手に神像に仕立て上げられて……挙げ句、こんな末路を辿ってしまった」
少女は祭壇の前に転がった哀れな神像の首の前にかがみ込むと、その慈悲深い表情を浮かべる神の顔を撫でた。像は何も言わない。優しげな表情で雑然とした礼拝堂の中を見つめるのみである。
「私も、結局、この神像と同じ」
巫女は転がった神像の首を撫でながら、呟いた。ユタヤはその言葉に瞠目する。壇上の下から一歩も動けずに、ただ彼女の言葉を待つ。
「私もこの神像と同じで……神の力もなければ、神そのものでもない。ただの人間でしかないわ。今は人々の信仰心の具現化のために巫女の装いをして君臨しているけれど……いつか私もこの神像みたいに、首をとられてしまうのかな」
「……かぐわの君」
ユタヤは少女の名を呼んで、そこに転がった神像と、その前に踞る少女とを見比べた。
確かに、哀れな末路を辿った神像も、人々が崇める巫女も、それは人々の信仰のために生け贄にされた偶像でしかない。神像も本当ならばただの白磁として器になったかもしれないたくさんの運命の選択肢の中で、人の身勝手により神像に選ばれただけだ。巫女もまた、ただの少女でしかなかったはずなのに、人々の身勝手により神の使いに選ばれた。本人の意思ではない。抗うことさえ許されない。
ユタヤは小高い壇上へと一歩歩みを進めて上り、佇む少女の横に立った。いかにも線の細い体は、身一つでこの国の全ての信仰を受け止めるにはあまりにも頼りない。その頼りない体を護りたくて、どうしようもなくその小さな存在が愛おしくて、ユタヤは少女へと手を伸ばす。が、その長い艶のある髪に触れそうになった寸前で手を止めて、青年はぎゅっと拳を握る。
青年は結局少女には触れることなく、低い声で伝えた。
「この神像のようには……させません。何があろうとも……私が貴女を護ります」
こんなありきたりな台詞でしか想いを伝えられない自分の愚直さも、そしてそれ以上想いを言葉にしてはならない己の運命も、その全てが恨めしかった。——どうして自分は彼女に触れることさえ、出来ずにいるのだろう。
「……ゆたや」
少女は顔をあげて自分の隣に立ち尽くしている青年を見上げると、睫毛をふるわせて、小首をかしげた。その仕草の一つ一つがユタヤの中の感情を激しく奮い起こしていくのだとは、露知らず。
「貴方はいつでも……私のことを護ってくれるわ。体を張って、命を張ってでも……私が願わないことまでも」
それは、去年の冬のことである。北国に攫われた巫女を護るため、一度ユタヤが命を落としたことを言っているのであろう。少女は青年が命を落としてまで自分を護ったことを喜ばず、他の何を犠牲にしてでも青年を生き返らせてほしいと願ったという。結果、ユタヤの命と引き換えに、一人の術者が全ての『力』を失った。そうまでして主が取り戻してくれた自分の命を、もう二度と無下にする気はない。
「もう二度と……あのようなことはいたしません。私は貴女を護るために、決して命を捨てません。貴女が幸せな一生を眠るように終えるその時まで、生きて貴女に寄り添います」
これがユタヤにできる、精一杯の想いの口達であった。いつまでも生きて彼女の傍にいる。たとえそれがどれだけ自分にとって苦痛であろうとも、彼女の傍にいて、彼女を護るのだ、と。ユタヤにできる最大限の告白であった。
カグワは大きく目を見開いて、しばし驚いたような顔をした後、いつもであれば「ありがとう」と微笑むであろうところを、少しだけ戸惑うような表情を浮かべた。かと思えば、神像の首の前にしゃがみこんだままの姿勢で青年を見上げて、邪気のない表情で問いかけてくる。
「一体……どうして?」
「え……?」
「どうして、貴方はそこまで私に尽くしてくれるの?」
今度はユタヤが目を見開く番だった。
ユタヤが主であるカグワに尽くすのは、今に始まったことではない。まだ彼女が巫女になる前の頃から、「珍しいほどよく主に尽くす仗身だ」と言われたものだった。カグワはそれに関して「どうして」などと問うてくることはなかったし、ユタヤがカグワに尽くすのと同じくらい、ユタヤに対して破格の待遇をしてくれた。獣人である仗身には身に余るほどの、好待遇である。
それなのに、なぜ今になって、その理由を問うのか。
ユタヤは俄には答えられずに、閉口する。閉口した彼を見上げて少女はゆっくりと立ち上がると、彼の方へと一歩踏み出した。
「私が……巫女だから?」
少女の瞳から逃れられない。ユタヤはその場に硬直し、近づいてくる彼女から逃げることもできなかった。
「それも……あります」
やっとの思いでそう答えると、カグワは黒い瞳を潤ませて「じゃあ」と続けた。
「じゃあ……私がもし巫女でなかったら。貴方が仗身でなかったら。貴方は私を護るのをやめてしまうの?」
ユタヤは今度こそ完全に言葉を失った。
答えは簡単で、当然「そんなわけはない」。
だが、その問いに答えてしまうと、それは自分が覆い隠してきた想いを認めてしまうことにも繋がりかねなかった。巫女だから彼女を護り、尽くすのだ。自分は仗身だから彼女の傍にいるのだ。そう言い訳をして今まで乗り越えてきた。その体のいい口上を、失ってしまうかもしれない。だが——。
ユタヤはゆっくりと、ゆっくりとその言葉を噛み締めるように、首を横に振った。
言葉にして答えることはできなかった。それでも、「貴女が巫女でなければ、尽くすことはできません」などと、嘘でも言うことはできなかった。体のいい言い訳を失ったとしても、彼女に嘘を吐くことなどできなかったのだ。
ゆっくりと首を横に振った青年の拳は強く握りしめられ、時折震えていた。血さえ滲むのでないかというほどに強く握られたその拳を見つめて、少女は目を丸くする。そしてやがて、ようやく小さな微笑みを浮かべると、青年の拳をその白い手のひらで撫でて、緊張をほぐすように掴んだ。
「……嬉しいわ、ありがとう」
優しく触れられたところから、甘い感覚が全身に走ってまるで痺れるようだ。
かつては獣人にあるまじきと言われるほどに彼女と接触し、常に隣にいたくせに、たった数日傍にいなかっただけでこんなにも接触を愛おしく思うなんて。
自分の中に芽生える夢にも見た妙な欲が湧いてきて、青年は必死に自制した。それはいけない、それは決してやってはならないことだ——。
そんな青年の葛藤には露程も気づいていないであろう少女は柔らかい手つきで青年の手を握りしめ、引っ張った。「こっちへ」と少女が微笑んで彼を連れて行った先は祭殿の向こう側、礼拝堂の壇上のさらに向こう側、小さくくぼんだ空間だ。
ここは、とユタヤはその空間の中に入って上を見上げる。すると、今は首のない神像の首のあったであろう箇所が丁度視線に入った。そうか、と思う。この狭い空間は、神に懺悔する人間の入る場所だ。人はかつて修道院にきて、修道士に導かれ、祭壇の裏側のこの狭い空間の中から神像に向かって祈りを捧げて懺悔したのだ。今は、首のない神像の無惨な姿が見えるだけである。
「誰も彼もが、私のことを巫女だというわ……それは事実だから仕方ない。私は選ばれてしまったから。まがいもなく、巫女なのよ」
少女はその狭い空間の中、青年の腕をそっと撫でて、呟いた。青年はふと気付く。この懺悔の空間は、他の礼拝客には見えぬようにと祭壇によって区切られているため、完璧なる死角だ。すなわち、今二人がここにいることは、修道院の中を行き来する軍人にも、そして表に群がる民衆にも、誰にも見えない。
「だけど、貴方だけが……いつも、私を巫女としてでなく、ただの人間として見てくれる……私は、それがとても嬉しくて……心から感謝しているの」
「……そんな」
滅相もない、と青年の声は震えて、消え入る。
それを言うならば、自分の方こそ、と伝えたいことは山のようにあった。
獣人として生まれ、生まれ故郷を追われ、子供のうちに捕えられ、殺されるはずの命であった。それを救い上げてくれた彼女は天女のような慈愛の深さで獣人を受け入れて、まるで彼が普通の人間であるかのように分け隔てなく接してくれた。——だから、勘違いしてしまうのだ。勘違いして、彼女にあまりにも身分不相応な想いを抱いてしまう。
少女に腕を撫でられて、危うくその小さな存在を抱きしめそうになる己にだめだと何度も言い聞かせた。それはだめだ、これ以上近づいてはだめだ、と。
「ゆたや」
少女の声はか細く、この狭い懺悔の空間の中でも彼に聞こえるかどうかのその程度である。まるで他の誰にも聞かれることのないよう、声を潜めるかのようにして、呟く。
「キスをしようか」
その囁くように吐き出された少女の言葉の意味を理解するのに、だいぶ長い時間を要した。
青年は目の前に立っている自分よりも幾分背の低い少女の顔を呆然と見つめて、動けない。あまりにも予想外の台詞だったため、彼の理解の範疇を大きく超えていたのだ。彼女は今、何と言った——?
言葉の意味を理解できずに固まった青年に、少女はくすりと笑うと、そっと自分よりも背の高い彼の頬を撫でた。触れられたところから、体が火照るような妙な感覚が走る。そして逃げることも、進むこともできず、凝固した青年を捕えて、少女はそっと背伸びをして口付けた。
一瞬唇と唇が触れるだけの、擦るようなキスだった。
すぐに離れた少女は少しだけ恥ずかしそうに笑って、「ほら」とせがむように言う。
「え……あ……」
言葉にならない呻きを漏らした青年には、何がどうなっているのか全くわからない。
ただ、その輝く黒い瞳が瞼によって静かに隠されて、瞑目した少女がこちらを見上げてくるので、頭が理解するより先に体が動いていたような気がする。
青年は一度、少女の唇に己のそれを押し当てるように動いた。柔らかい感触に目眩がする。
すぐに離れると、少女が目を開けてにこと微笑んだ。その微笑みになぜだか泣きたい心地になる。体と心が分離してしまったみたいだ。微笑んだ彼女の後頭部を掴んで優しく、それなのに荒々しく、再び自分の方へと引き寄せて、今度は強く唇を押し付けた。
誰にも見られないこの懺悔の場所で、彼らを見守るのは首のない神像のみだ。
嗚呼、なんて罰当たりな——と、その背徳感にさえ背筋が戦いて興奮を呼び起こす。
破壊された神像の前で、神の使いである巫女を抱きしめ、たかが獣人でしかない自分がその唇を穢すだなんて。
その荒々しい口付けを受けて、カグワは始め驚いたように身を震わせたが、やがておとなしくなるとまるでユタヤをなだめるかのようにその後頭部を優しく撫でて、しがみついてきた。どこまで——と思う。どこまで彼女は自分を許してしまうのだろう。こんな汚らわしい存在を、どうして許容してしまうのだろう。
どうしようもない罪悪感の中、そのくせ、あまりにも幸せで、その相反する二つの感情に胸の奥が痛み、自ずと涙が浮かんだ。それを気付かれたくなくて、幾度も幾度も少女を抱きしめて口付けた。
祭壇の向こう側を、軍人が通り抜けていく。軍人たちは、彼らには気付かない。割れた窓ガラスから差す光は彼らを照らすものの、その光の先に目を向けるものは誰もいない。
彼らの初めての接吻は、このように、神のいない礼拝堂で行われた。神像の首はその場に転がり彼らの方を見向きもしない。慈愛に満ちた表情でそっぽを向くのみである——。




