18、神殺し
清々しい秋の晴れ空に、粉塵が舞い上がる。人々の悲鳴はほぼ怒濤の中に巻かれて聞こえず、民衆は目的さえ見失いそうになりながら、ケトロの街で破壊行為を続けていた。
ケトロの修道院を襲撃しようと最初に言い出したのは果たして誰であったのだろう。恐らく、一人や二人ではなかったのだ。各地から修道院を許すなという声があがり、最も権力を持つ首都ケトロの修道院を封鎖せよという運動が一瞬にエウリアの国全土へと広がった。誰ともなく民衆はケトロの街へと集い、修道院の高い外壁を崩して中へと雪崩こんだ。しかし、修道院は決して狭くはないものの、何千という民衆を全て受け入れられるほどの広さはなく、たちまち人々は街の中へと溢れた。彼らはぶつけようのない怒りを、その町並みを壊すことによって紛らわせた。首都に住まう人々は逃げ惑うものの助けてくれるものもいない。彼らは被害者だ。——だがしかし、破壊行為を繰り返す民衆たちもまた、被害者であった。
「……あんた、こっちも駄目だ。人が暴れてて外に出れそうにもない」
そう言って夫の服を掴んだ中年の女は、紛いもなく西国エウリアの民であった。夫は喧噪の中で決して妻とはぐれてしまうことのないように、女の肩を抱くと自分の方へと引き寄せる。妻の指した先には修道院の外壁の崩れ落ちた痕があり、そこからならば外に出られるのではないかと希望を抱いて来てみたが、若い男たちがそこら中に火を放ち、神の描かれた絵を燃やして暴れていたために、通り抜けることは危険に思えた。
「くそ、こっちも駄目か……楽園へ導くと言われた修道院が、まるで出口のない地獄のようだな」
男は独り言のように呟いて、妻の肩を抱いたまま元来た道を引き返した。引き返したところで、その先には民衆が破壊した修道院の瓦礫があるだけで、どうすることもできない。人々は秩序を失い、ただがむしゃらに破壊行動を繰り返していた。
無秩序の中でひたすらがらくたを武器として壁や神具を破壊していく彼らは恐ろしくもあったが、中年夫妻は彼らを責める気はなかった。そもそも、夫妻とて、この修道院へ恨みを果たすためにこの暴動に参加したのだ。まさか修道院の中に閉じ込められて外に出られなくなるとは思ってもみなかったが、当然考えうるその可能性すら思いつかないほどに、彼らは逆上していたのだ。——夫妻は、あの「参謀の神殺し」と呼ばれた収穫祭の夜、大聖堂崩壊の現場にも居合わせた。
夫妻はもともと、西国エウリアの北の国境付近で細々と暮らしていた。金銭的に裕福なわけでもなく、慎ましい生活を余儀なくされていたが、それでも幸せだった。夫妻には子供がいた。家族三人で生活していられることが、何よりの幸せだった。
しかし、一年前の冬より西国エウリアが北国と戦を初めて以来、その幸せは脆くも崩れ去った。家族三人の幸せな生活はあっというまに戦火に焼かれ、子供は戦の犠牲となった。夫妻は住む所も、希望であった我が子も失い、悲しみに明け暮れた。戦場となった国境付近に住まうことは出来ず、夫婦寄り添って首都ケトロに出て来たものの、生活の術もなかなか見つからず、神に縋る以外にどうしようもなかったのだ。——ところが、その神さえもが、彼らを裏切る。
収穫祭の夜、修道院が神像の中の空洞に金を貯蓄してそれを賄賂として使っていたのだと知って、彼らは絶望した。これから自分たちは何に縋って生きればいいのだろう。そう嘆いていた時に、ふと耳にしたのだ。——我々の神を愚弄し、我々から神を奪った修道院に報復をしよう。夫妻は、どこにぶつけていいのかもわからないこの嘆きと怒りを、報復に参加することによって解消することに決めたのだ。
結果、彼らは修道院の敷地の中に取り残され、外に出ることも出来ずに秩序を失った群衆の一部と化している。
「外にいるよりは、中の方が安全かもしれない……修道院の中に入ろうか?」
修道院の庭は無法地帯と化し、たびたび外壁が崩れ落ちては粉塵が舞い上がった。人々は至るところに火を放ち、言葉にならない怒号を叫んでいる。修道士たちは何処に隠れたのかその姿は見えないものの、夫妻とは比べ物にならないほど、この喧噪に怯えていることだろう。
「そうしよう……礼拝堂の入り口はさっき壊されたはずだから、中には入れるんじゃないかい?」
妻に言われ、夫は頷いて、礼拝堂の入り口へと回った。初め固く閉ざされていた修道院の扉は、民衆の襲撃によってもはや今は扉の意味を成さない。喧噪をなるべく避けて暴れる群衆に間違って危害を加えられることのないように留意しながらぐるりと修道院の周囲をまわり、夫妻は破壊されて扉の取れた礼拝堂の入り口を見つけた。
此処だ、と互いに強く手を握り合い、夫妻は礼拝堂の中に進む。かつて民衆が祈りを捧げたのであろうその広場は、かつての神聖さなどなく、舞い上がる粉塵により視界が霞んでいた。
神話の内容の描かれた窓硝子は全て割れ、椅子や机が散乱している。破かれた祭壇の布の向こう側に、崩れた神像の首が転がっていた。それを見るとさすがに罰当たりな、と思うが、しかし神は怒るでもなく、天変地異の起きる兆候もない。ただ白い石でできた神像の首が転がり、虚しく天を見上げているのみだ。
「……神など、いないのかもしれないな」
夫は神像の成れの果てを見つめて、思わず呟いた。それに呼応するように、隣にいた妻が夫の手をぎゅっと握り締める。夫妻は、礼拝堂の外から響く爆音と人々の喧噪を遠い心地で聞きながら、白い粉塵の中に崩れ落ちた神像をただただ見つめた。
自分たちが今まで縋ってきたものは、何だったのだろう。彼らは虚空に向かって祈りを捧げ、誰も聞き届けてくれるわけもないのに懺悔して、何もかもを失った。神は存在せず、存在しない物は何も与えてはくれない。彼らには厳しい現実のみが突きつけられて、誰も助けてはくれないのだ。世界は冷淡だ。悲しくても苦しくても、それを受け止めてくれさえしない。
夫妻はそう悟り、落胆した。もう落胆することにも疲れた。希望など一つもなかった。期待する宛もない。——こんな世界で生きる意味など、あるのだろうか。
そう彼らが思った、その時だった。
ふと、窓の外を黒い影が横切った。それは一瞬のことであり、その黒い影が何であるか、普通の人間の動体視力では追う事もできない。それくらいの早さで何かが横切り、窓の外、修道院の庭にいた人々が途端に暴れる手を止めて、どよめいた。
「……なんだ?」
夫は妻の手を引き、どよめく礼拝堂の外を見つめる。しかし、そこにすでに黒い影はなく、その正体もわからない。ただ、暴れていたはずの人々が皆揃って呆然としており、ただごとではない何かが起きたのだということだけがわかる。
みし、と礼拝堂の天井の軋む音がした。慌てて天井を見上げるが、何も怒らない。はらはらと埃が舞い降りてきて、天井が僅かに揺れたように見えた。——何か重い物が、この天井の上に乗っているのだ。そういえば、呆然とする人々も皆、この礼拝堂の上を見つめているように思える。何かがこの上にいる。そう気が付いて、夫は妻の手を離さずに、慌てて礼拝堂の外へと飛び出した。
礼拝堂の外にいた人々は、皆武器を片手にただ口をぽかんと開いて、礼拝堂の上を見つめていた。彼らは微動だにしない。いや、できないのだ。何かに目を奪われ、視線を逸らすことができない。それほど天井の上に乗っているものは衝撃的らしい。
礼拝堂の外に出てくるりと身を翻し、その屋根の上に君臨したものを見た夫妻は、他の民衆と等しく、言葉を失い愕然とした。
そこにいたのは、見た事もない化け物であった。熊のような体をしているがしかし熊にしては大きすぎる。礼拝堂の屋根をも軋ませるその重量は、今まで見たどのほ乳類よりも巨大な体故だ。爪は鋭利で、どんな刃物よりも破壊力を保持しているように見える。そしてその顔は恐ろしく、白骨化した人の顔のように見えた。が、あまりにも大きい。くぼんだ黒い目がその場に硬直した全ての人間を見つめていた。化け物、と悲鳴をあげそうになるが、悲鳴すら出て来ない。——夫はこの姿によく似た獣を、遥か昔に見たことがあった。獣人と言うのだ。夫がかつて見た獣人はまだ子供であったが、これによく似た恐ろしい風体をしていた。あれが成長すると、こんな化け物になるのだと初めて知る。なるほど、獣人は駆除されるわけである。
一体どうしてこんなところに獣人が、とその疑問を口にする前に、さらに驚かされたのは、その獣の背に乗っている少女の姿であった。
女の子が、と近くにいた誰かが呟いた。夫もその背中の上に少女を見つけて、目を疑った。少女は獣に襲われた風でもなければ、攫われたようでもない。彼女は堂々とした出で立ちで獣に跨がり、その獣を操っているかに見えた。
獣が低く頭を垂れる。獣の白骨のような顎が礼拝堂の屋根の上に付き、少女はそこから滑り降りるようにして屋根の上に立った。
年の頃は十五か六か、まだ二十には満たないくらいであろう。綺麗な長い黒髪が、風を受けてさらさらとたなびく。純白の衣装は太陽光を受けて輝き、まるで少女が光を放っているかのようだ。その美しい衣装に、見覚えが合った。恐らく誰もが一度は修道院や大聖堂などで目にしたことがあるはずである。必ずどの礼拝堂にも飾られている絵画の中に、その衣装を纏う女が描かれていた。
「……神が使い……巫女の君」
夫の横にいる妻が呟いた。同じ言葉を頭の中に浮かべていた夫は、妻がそれを口にしたことによってますます仰天する。やはり、そうか、と思う。誰もが愕然と見つめるあの少女は、伝説によって語り継がれる神の使いの格好をしている。
多くの民衆にとって、巫女は神にも等しい伝説上の存在であった。神の使いであり、神の力を使うと言われていたが、実際にそれを見たことのある人間はいない。それでも神に祈りを捧げるのと同じように、人々は巫女への忠誠を誓っていたが、それも今回の暴動によって打ち崩されたも同然だった。
そのはずなのに、この圧倒的な威圧感はなんだろう。神などいないのだと暴れた人々が皆、巫女の前にあっては微動だに出来ずにいる。彼女が後ろに従える獣人さえもが、本来は穢らわしいと言われるその化け物さえもが、神聖な物に見えた。いや、化け物さえも従えるその少女がますます神々しく見えるのだ。
『ケトロの街に集う人々よ——どうぞ、私の声を聞いて下さい』
突然、天から舞い降りてきたような声が、頭の中に響いた。夫は驚いて空を見上げるが、当然何かが下りてくるわけもない。ふと気付けば、誰も彼もが自分と同じように驚いた顔で辺りを見回していた。どうやらこの声は、自分だけに届けられているわけではないらしい。此処にいるおそらく何千という全ての民衆たちの頭に届けられているのだ。声の主は疑うべくもなく、あの巫女の衣装を纏う少女だ。
『まずは……あなたたちに、とても辛い思いをさせてしまったわね。こんなことになるまで、あなたたちを救えなかったことを、私自身とても辛く残念に思っているわ。本当なら、もっと早く気付いてあげるべきだった』
少女の語り口は予想していたより普通で、いわゆる神話に出てくる神のような重々しい物ではなかったが、まるで普通の少女のような言葉を使うことにより、さらにその内容が胸へと突き刺さる。神の使いは、このような下界の民たちにもわかりやすい言葉で語りかけてくれるのだ。
『恐らくあなたたちは、失望していることでしょう。自分たちの祈りは今までどこにも届いていなかったのではないかと、祈りを捧げることは無意味だったのではないかと、神などどこにもいないのではないかと』
まさに、とその言葉を人々は噛み締める。己の心情を読まれたかのように言い当てられて、胸の奥が苦しくなった。たった十五かそこらの少女が、神々しく見える。嗚呼、彼女こそ神の使いなのか。
『そうね、……その通りだわ。あなたたちの不安は尤もよ。そう思いざるを得ない。どんなに辛いことがあったとしても、誰も助けてくれない。それが真実だもの』
巫女は神話のような教訓を口にするのでなく、ひどく残酷な現実をそのまま唱った。それでも人々は、彼女が目の前にいるのだというだけで希望を抱く。いやむしろ、空虚な理想を語られるよりも、ずっと重みのある言葉であった。人々は少女の姿に釘付けになった。次の少女の言葉を待つのみだ。そして、少女は、言う。
『あのね、みんな——神とは愚かで無能な存在なのよ。私が、こんなことになるまであなたたちの苦しみに気付けなかったように……神もまた、気付かない。どんなに祈りを捧げても、祈りの真意にも、なにも、気付かない。彼は万能ではないの』
そんな、と人々は呆気にとられる。それまで「神などいないのではないか」と散々疑ってきたくせに、いざ神の使いである巫女に「神は無能だ」と言われると、そちらの方がずっと真実味がある故に、恐ろしく思えた。神は存在するのか。しかし無能なのか。それは今までただ一方的に祈りを捧げて来た人々にとっては恐ろしい真実だ。
『もし神が万能で、全ての願いを叶えることができたとしたら……この世界はどうなるのかしら。どんな欲も現実となる、そんな世界は果たして幸せかしら……?』
それは、と人々は思い思いに首を振る。自分の祈りが届かないことを嘆いてばかりいたが、自分だけでなく、全ての人間の祈りが等しく届かないのだ。確かに、全ての人間の祈りが聞き届けられたとしたら、世界は秩序を失うだろう。もし自分の祈りだけを叶えてくれる神がいたとしたら、それはもはや神ではない。
『神は私たちに平等に、命と心を与えてくださった。だから私たちは生きて考え、泣いて苦しみ、いずれ死に行く運命にある。だけどだからこそ、こうやって大切な人と出会い、大切な人の生を喜び、幸せを分かち合っていられるのよ。神は万能ではないし、愚かだけれども、あなたたちに生きる術である命をを、幸せになるための心を与えてくださった』
ああ、その通りだ、と思った。神書の冒頭にある、「神は命を与え給う」とは、こういう意味だったのかと今更になって理解する。それすら理解していない自分たちの祈りが、神に理解されるわけもない。
『神に感謝を捧げる必要なんてないわ。命と心をもらったところで、幸せに生きるためにできることは全て自分の努力次第だから。あなたが幸せであることも、生きていることも、それは全て自分の力のおかげよ。神への感謝は必要ない。だけど、不幸であることを神に怒らないで。あなたが怒っていると、命を失った者が帰りたくとも帰れないから』
後半の巫女の言葉の意味がわからずにきょとんとする。帰りたくとも帰れないとはどういうことだ。それよりも、命を失った者とは、どういうことだ。
疑問符を頭の中に並べていると、ふと、何かが自分の前に降臨したような気がした。それは姿も形も見えず、ただそこに存在しているとしかわからない、なにかである。だがしかし、それが何であるか、夫妻には姿など見えずとも理解した。
妻が子供の名を呼んだ。夫もそれに弾かれたように子供の名を呼ぶ。
夫妻には子供がいた。しかし、その子供は北との戦争の火に焼かれて命を失った。
今目の前に降り立った何かしらの存在は、自分たちの子供であると夫妻にはすぐにわかった。しかし、その存在は悲しげで、少しも幸せそうではない。誰よりも幸せになって欲しかった自分たちの子供が、命を失って尚、不幸な想いをしている。
『命を失った者には、帰りたい場所がある。帰りたい場所にいるあなたたちが不幸だと、彼らも幸せにはなれないわ。だからどうか、不幸であることで怒りを覚えないで。少しでも幸せになろうと前向きでいて。あなたたちのところに帰りたい心のためにも、そしてあなたたち自身のためにも』
妻が、目の前に降り立った子供に手を伸ばす。しかし、姿形のない子供に触れることはできず、妻の手は虚しく空を切った。
それでも、確かにそこに存在している彼らの子供は、彼らにだけ聞こえる声で呟く。
——お父さん、お母さん。
それはひょっとしたら、気の所為だったのかもしれない。子供の声を聞きたいと願うあまりに、幻聴を聞いたのかもしれない。だとしても、夫妻はともにその声を聞いたと確信していた。そして命を落としても尚、不幸な想いをしている己らの子供に、申し訳が立たなくて、ぼろぼろと涙が出てくる。
妻が子の名を呼んだ。子の名を呼びながら嗚咽した。何度も「ごめんねごめんね」と謝罪を繰り返す。夫もまたその場に膝をつき、子供の名前を呼んで妻の肩を抱いた。気を抜けば、自分も涙で前が見えなくなりそうだった。自分たちは一体何をしていたのだろう、と思う。こんなことをしたところで、死んだ子が幸せになれるはずもないのに。
気付けば夫妻だけでなく、その場にいた群衆のほぼ全てが、その場に膝を付いたり蹲ったりしながら嗚咽していた。夫妻と同じように、彼らにも失った大切な存在がいるのだろう。そしてその存在を前にして、涙せずにはいられないのだ。生きている自分たちが幸せにならなければ、彼らは死んでも尚不幸なままだ。その事実を初めて知った。
『さあ、みんな……帰りましょう。自分たちのあるべき場所へ』
巫女の声がきらきらと輝き、まるで雪解けを促す春の日差しのように、人々の心を照らしていく。帰りましょう、と巫女が告げた相手はこの修道院に集まった幾千もの群衆か、あるいは、彼らの元へ降り立った命を失った存在か。もしくは、その両方かもしれない。
とにもかくにも巫女は、人々の心の中に燃え上がっていた怒りをこの一瞬で鎮め、暴動を鎮圧させた。人々は涙に濡れた目で幾度も礼拝堂の屋根に君臨した巫女と、巫女の従える獣の姿を見つめ、そのあまりにも気高い姿を脳に焼き付ける。
——神など存在しないのかもしれないと、そう疑っていた。
人々はしかし、そこに君臨した巫女の姿を通して、神の存在を再び確信した。神は存在するのだ。確かに神は万能ではないのかもしれない。それでも——彼らは虚空に祈りを捧げていたわけではない。神は確かに、存在していたのだ。
獣に跨がり礼拝堂を踏んで民衆の前に君臨したこの若き巫女の姿は、やがて後世まで語り継がれることとなる。「神は万能ではない」と初めて神を否定した巫女としてその名前もまた唱われ、「巫女の神殺し」と呼ばれた。これは「参謀の神殺し」と並び、この宗教国家西国エウリアでは歴史に残る変事となる——。




