16、救い
国務参謀ワイズ・レヴィンが収穫祭の夜に東ケトロ大聖堂を崩壊させてから約二週間ほどの月日が流れた。秋はますます深まり、広葉樹の派は赤く染まって舞い落ちていく。人の噂の伝達は、予想された以上に著しく、いつの間にか「参謀の神殺し」と呼ばれたこの件は、西国エウリアの全土へと知れ渡っていた。
この二週間の間にも、各地で修道士が襲われたり、あるいは修道院の神具が壊されたりと、まるでワイズの大聖堂崩壊を真似たような事件が度々起きていることは政殿にいるワイズも耳にしていた。とは言え、それはまださほど大掛かりなものでもなく、大きな被害となるほどの事件でもない。それでも修道院に務める修道士たちは夜な夜な民衆の姿に怯え、眠れぬ夜を過ごしていることであろう。ワイズはそれを政殿の中から見下ろして、手を差し伸べることはしなかった。——彼には参謀として、この政殿でやらなくてはならないことがあるのだ。
そして、ワイズが参謀として「やらなくてはならないこと」をついに遂行させたその日、事件は起きた。
それは、大聖堂崩壊から約二週間後、清々しい秋晴れの日のことであった。
その時ワイズは、参謀のために与えられた広めの会議室の中で、自分の部下である数人の秘書たちとともに遂行させた「やらなくてはならないこと」の結果について語り合っていた。さて、これから自分たちはどの方向へ向かうべきなのかと政務についての真面目な会議をしていたのだ。
その真面目な会議の場に飛び込んで来たのは、会議には参加していなかったワイズの秘書の一人である。彼は決して、ワイズに信頼されていないから会議に参加していなかったというわけではない。会議に参加する秘書の数はいつも限られている。他の秘書にはその会議の途中にも常に外へと情報網を張らせており、何かが起こった時には即座に情報を届けるよう指示してあった。
そしてまさに、この時、その秘書は情報網にかかった知らせを、一目散にとこの会議室の中へ届けに来たのである。
「……失礼致しますっ! 緊急事態でございます……! 会議中に口を挟むことをなにとぞお許し下さいませ……!」
扉のノックさえ怠って、駆け込むようにして部屋の中に転がり込んできた秘書は、恐らく政殿の中を走って来たのであろう、ぜえぜえと息を切らしている。礼儀作法も何もあったものではないが、その姿から、よほど自体が切羽詰まっていることは見てとれた。会議に参加していた秘書が一斉にワイズの方を見やって指示を仰ぎ、ワイズは低い声で彼を見つめ、言う。
「何事だ——すぐ申せ」
例えば他の部署の人間との会議の途中であれば、ワイズも、礼儀作法を無視して飛び込んで来た秘書のことを間違いなく一喝することであろう。しかし、この会議室の中には自分とその秘書しかいない。ならば、緊急時下においてわざわざ礼儀作法を気にする必要はないと思っていた。
「では、恐れながら、申し上げます……!」
荒い息を必死に整えながら、秘書は声をあげる。会議室に円形に並べられた机の上に両手をついて己の体を支えながらも、彼はまっすぐワイズを見つめた。
「首都、ケトロの修道院において……民衆の、大暴動が発生致しました……!」
息も絶え絶えに吐き出されたその言葉に、集まっていた他の秘書達が一斉に「なんだって」と息を呑む。今までにも小さな暴動ならば、各地の修道院にて勃発していたというが、それは一人か二人の人間が修道院の窓を割る程度のものだ。大暴動と言われるほどの事件は起きていない。しかも、首都ケトロは最も軍備が厚く、その上、内大臣を介して政治と特に癒着の深い大司教が住んでいるため、なかなか暴動の起き難い場所であった。
そのケトロで、大暴動が発生したとなれば、それは一大事だ。
一斉に息を呑んだ秘書たちの空気を感じ取ったワイズはしかし、少しも動揺しない。そろそろ来る頃であろうとは思っていたのだ。情報を運んで来た秘書を見つめて、目を細める。
「それで? 具体的にはどのような状況だ?」
秘書は全く動じない参謀の様子を見て唖然とし、しかし、その貫禄に安堵したのか自分も幾分落ち着きを取り戻すと、大きく深呼吸した後に続けた。
「修道院周りはほぼ混乱状態に陥っていて、詳しいことはわからないのですが……すでに修道院の外壁は打ち崩されたそうです。まだ院の中に民衆が流れ込んでいる状態ではないようですが、外壁の内側、庭園に民衆がなだれこみ、院の中へ押し入らんとして厚い壁を攻撃しているようだ、と」
「ほう……しかしケトロの修道院の外壁周りには、軍が配置されているだろう。ここ数日修道院の襲われる事件が頻発していたから、大司教は数十の軍を国に要請したそうだが」
「ええ、ですから、その数十の軍はとうに敗れたと……」
「凄まじいな。民衆は大した武器も持っていなかろうに」
「武器はありませんが、数があります。その民衆の数、五千は下らないと」
五千、と秘書たちは目を丸くした。ワイズもこれには、予想を遥かに凌駕する数であると吃驚する。
「五千と言えば、首都ケトロに住まう人数の半分ではないか」
「ええ、ですから、首都に住まう人間だけでなく、遠い町からも、西国エウリアの全土から民衆が集ったようで……」
「なるほど……ならば、混乱しているのは修道院の周囲だけではあるまいな。修道院の敷地に五千の人間は入るまい。首都そのものが混乱していると見て間違いなかろう」
ワイズは顎を撫でて少し考える。遠い町からわざわざ首都ケトロまで修道院を襲うためだけにやってきた人間も中には多くいることであろう。彼らの住まう町にも修道院や聖堂はあるはずだ。あえてそこを襲うのでなくわざわざケトロまでやってきたのは、首都ケトロの修道院が国の端々に配置された全ての修道院を率いていると知ってのことだろう。つまり、民衆は最も強い権力を持つ首都の修道院を襲って、修道院の機能そのものを停止させようとしているのだ。
「賢いな……」
思わず独り言のように小さく呟くと、ワイズのすぐ右隣に座っていた第一秘書であるセレストが、ええと頷いた。
「最も効率良く、修道院を沈没させる方法です……先導者がいたことも考えられますが、恐らくは国中に噂が流布されるのと同時にケトロの大聖堂を潰せという意思が回ったのでしょう」
「先導者がいたわけではない、と?」
「恐らく。もしも仕切っている人物がいたならば、五千もの数を動かして首都を混乱させるようなことはさせますまい。恐らく今頃修道院に入りきれなかった何千の民衆が首都で暴れて民家も商店も打ち壊してしまっていることでしょう。先導者がいれば、混乱を避けて、最低限の人数で攻めるものかと」
「確かに。ならばこれは、民意のなれのはてということか……民衆も馬鹿ではない」
ふんとワイズは鼻で笑った。
馬鹿ではないが、しかし、今更になってようやく修道院の腐った現状に気付いたのだから、愚かといえば、愚かだ。彼らはワイズが収穫祭の夜に大聖堂を崩壊させなければ、未だに修道院に縋って存在しもしない神に向かって祈りを捧げていたのであろう。ようやく目覚めた彼らは、それでもまだ、神を信じているのであろうか。
とにもかくにも、とワイズは机を叩いて立ち上がった。遅かれ早かれ、いつかは大暴動が起きるであろうと思っていたのだ。とりあえず、此処までは全て計算通りだ。大暴動の起きる前までに、自分は自分で「やらなくてはならないこと」を片付けねばならないと思っていた。そして丁度今朝方それが済んだところだ。まさかこんなにも早く大暴動が起きるとは思っていなかったのでぎりぎりになってしまったが、しかし結果的に間に合ったのだから、よしとしよう。
さて、では、次の手を打たなくてはならない。と、ワイズが会議室に集った秘書達を見渡して指示を出そうと口を開いた、その時である。
——ばんっ、と激しく、扉を叩き割るかのような勢いで開いた音がして、人が一人部屋の中へと転がり込んで来た。
それは先ほど、この知らせを運んで来た秘書が息を切らしながら飛び込んで来たよりもさらに勢い良く、一瞬何かが爆発したのではないかと誤解さえしてしまうような激しい音である。
会議室にいた全ての人間がその音に驚き、ワイズもまた開きかけていた口を閉ざしてその音の発生した方を見る。
すると、音とともに扉を打ち破るようにして飛び込んで来たのは、黒髪の少女であった。
「……巫女君」
少女のことをそう呼んで、その少女の正体を明かしたのは、口を開きかけたワイズである。
この会議室に集っている多くの秘書が、その黒髪の少女の正体を知らない。度々政殿の中を歩いているため、その姿を見たことはあるかもしれないが、しかし彼女はいつも下女の服装をしているため、政殿の清掃のために雇われた下女か何かなのだろうと多くの人間は騙されているはずだ。だが、ワイズやセレストを含む数人は彼女の正体がただの下女でないことを知っていた。
「……ワイズ!」
そして、切羽詰まった様子で参謀の名前を呼び捨てたその少女は、今日は下女の服装すらしていない。それが本来の巫女のあるべき姿なのであろう、神々しい純白の装束を纏っていた。
「ケトロで、民衆が、暴れているって……!」
いつもならば巫女であることがばれてしまわないようにと下女に変装してくる彼女であるが、今日はその暇すら惜しかったということであろう。巫女の装束のままこの会議室に飛び込んで来た彼女は途切れ途切れに、下手な状況説明をする。
突然の巫女の登場に多くの秘書たちが唖然としているのを見て苦笑しながらも、ワイズはひとまず巫女に落ち着くようにと手で制してみせた。そして、答える。
「ええ……今、我々も丁度その話をしていたところです。——それよりも、よくこの場所がおわかりになりましたね」
ワイズは言って、開け放しにされている扉を見やった。
ワイズがこの場所で会議をしていることは、当然巫女が知るはずもないことである。それなのに何故此処がわかったのかという素朴な疑問に、巫女は息を整えながら答えてくれた。
「早く、ワイズに会いたくて……「気感」の技で貴方を探しながら政殿を走り回っていたから」
「気感」の技という、聞き慣れない言葉であるが、恐らくそれも巫女の扱う不思議な技の一つなのであろう。凡人であるワイズにはわからないが、それは人を探し当てることのできる技なのだろう。故に、一度も彼女が訪れたことのないであろうこの会議室へと飛び込んで来たのかと納得した。
いつも巫女がワイズに会うために訪れるのは、ワイズのために用意された政殿の外れにある狭い書斎のみだ。この間も、あの書斎の窓から彼女がやってきて、愕然としたばかりである。そういえば彼女と会うのはあの窓越しに会話をした日以来であるが、何故だかより一層巫女らしさ、神々しさが増しているように見えた。恐らくいつもの下女の服ではない巫女装束を纏っているためであろうとワイズは勝手に推測する。——あれから、巫女が一人修行の間に篭って巫力を高め、新しい技を習得したことなど、当然ワイズは知る由もない。
「さすがに巫女君は情報も早い……ケトロの修道院の大暴動の件も、巫女の技でお知りになったのか?」
単純な興味からそう尋ねると、巫女カグワは激しく首を横に振った。何度も息を切らして呼吸を整えながら、彼女は言う。
「違うわ……神殿の中には大司教もたくさんいるから……ケトロの修道院が襲われたと聞いて、神殿中がてんやわんやよ」
「それはそうでしょう。修道院を襲撃した後には、民意がいつ神殿を敵とするかもわかりませんから」
最も有力な修道院であるケトロの修道院が襲われ、国中の修道院から権力が奪われれば、次に狙われるのは神殿かもしれない。神殿に住まう人々は気が気でないだろう。
そんな混乱の中より飛び出して来たという巫女を見つめ、部屋にいる秘書たちは訝しげな顔をしている。彼らはこの巫女のことを知らない。故に、突然此処に現れた理由も、彼女の考えていることも、何もわからないのだ。何故彼女が国務参謀の元を訪れたのか、全く予想も付かぬに違いない。
ワイズは部下たちの表情を見渡して、彼らのそんな心を読み取ると、ようやく呼吸の整って来た少女を見やった。
「どうでもいいですが、巫女君——彼らは突然貴女が現れたので、何事かと戸惑っておりますよ。貴女が私のところまで神殿の命乞いでもしに来たんじゃないかと誤解されているのではないかと」
巫女は神殿の長だ。当然、神殿が民意によって潰されることを奨励するわけもない。だが、この少女が神殿の命乞いのために此処まで走ってくるような性格でもないことも、ワイズは知っていた。彼女の持つ理由はもっと、端的だ。
「本当にどうでもいいことね……てんやわんやになってる神殿の中じゃ、何が起こってるのかさっぱりわからないから。ワイズの傍にいるのが一番早く確実な情報を得られると思っただけよ」
予想通りの端的な答えにワイズは軽く笑う。これで巫女なのが惜しいと心の底から思った。政殿の舞台にいたならいたで、彼女は活躍出来たのではないかと思えるほどの、思い切りの良さである。
「さて——では話が途切れてしまったが、修道院の大暴動の件も含めて会議を進めよう」
その場の全員を見渡してワイズが言うと、「しかし」と何人かが困惑した顔でちらりとカグワを見上げた。此処には彼女の他にはワイズとその部下しかいない。身内のみの会議である。中には外部の人間に漏れてしまってはまずい事柄もあり、それも含めて話し合うための場であった。巫女は外部の人間だ。と、何人かは彼女の存在を懸念しているようだが、ワイズは気にしない。
「巫女は政殿の人間ではない。我々の話を聞かれたところで政治的権力は無に等しいのだから、心配することもない。話を進めよう。——セレスト」
そういう問題だろうか、と何人かは依然として首を傾げているが、いつまでも此処に留まるわけにもいかないので隣の第一秘書に話を振った。セレストはワイズの思惑をきちんと理解しているらしく、涼しい顔で頷き話を進めてくれる。
「五千の民衆が修道院に結集し、首都が混乱状態に陥っている。修道院に自力で助かる術は現時点ではないでしょう。恐らくそろそろ、政殿に助力を求める要請書が届く頃ではないでしょうか」
ここまでの話を軽くまとめた上で未来の予想を立てたセレストに、うむとワイズは頷いて、「どうだ」と報告しに飛び込んで来た秘書の方を見る。
「修道院から何か連絡は届いているか」
飛び込んで来た秘書はもう大分呼吸も落ち着いたようで、ただ走って来た為に汗でぐっしょり濡れた髪をかきわけて、「いえ、まだ」と首を振った。
「私が大暴動の話を聞いた時にはまだ、何の連絡も届いておりませんでしたが……時間の問題かと。午後になる前には官軍を寄越せと言ってくるに違いありません」
官軍とは、国城に仕える王直属の軍のことである。それぞれの町に常駐する軍と異なり、王の意思を持った軍、すなわち最も権威のある軍であると言える。もしも官軍が大暴動の鎮圧に向かえば、王の意思が修道院を助けたという形になり、修道院にとっても都合が良いのだろう。官軍の要請は、多いに有り得る話だ。
ワイズは思わず失笑した。
「神に仕えるはずの修道院が、王の権力を笠に着るか……落ちぶれたものだな。大人しく神に祈りを捧げていればいいものを」
全てまだ予測の範疇でしかないが、修道院の中に閉じ込められている彼らには他に術がない。彼らはこの政殿と、内大臣の一派との癒着を最後の頼みにしているのだ。官軍の要請をするであろうことは間違いなかった。
誰もがそれを確信した中で、ぽつりと呟いたのは、一人外部の人間である、巫女だ。
「……それで、どうするの? ワイズは……助けに行くの?」
少女は会議室の机の上に両手をついて立ったまま、ぱちぱちと瞬きをする。あまりにも素朴な質問であった。ワイズの部下達であれば、このような問いの方法はしない。
まるで会議室が水を差されたように静まり返るが、ワイズは少女の問いを厭わなかった。彼女がそういう問いかけをするであろうことはわかった上で会議を再開させたのだから、厭う理由もない。
「官軍を出すかということであれば、官軍は出しません。何故なら、修道院制度はすでに、廃棄されたからです」
「え?」
カグワは目を丸くする。初耳だったのであろう。それもそのはずだ。修道院制が廃棄されたのは今朝方、つい先ほどのことである。ワイズが国務参謀として「やらなくてはならないこと」の一つはこれであった。民衆が暴動を起こす前に、何としてでも修道院の制度そのものを破棄しなくてはならなかった。
「セレスト、説明してやれ」
「はい」
この会議も、修道院制度の破棄を受けて開かれたものだ。その会議の途中に民衆の暴動が起きたという知らせが飛び込んで来たため、寸前のところで間に合ったと彼らは胸を撫で下ろしていたのである。
「参謀がここのところずっと修道院制度廃棄の議案を議会に提出していたことは巫女君もご存知でしょう」
「ええ、それは聞いてるわ。でも内大臣の一派に却下されてしまうんだって」
「その通りです。決議のためには最終的には王の玉印が必要となります。現在のエウリア国の君主は弱冠三歳とあまりにも若年であられますから、実際に玉印を押すのは王の仕事を補佐する中務の役割です」
「中務の長は……内大臣ね」
「ええ。ですから、中務は内大臣一派の意思で動くようなもの。いくら議会の中で参謀が強い発言力を持っていたとしても、中務が玉印を押さないことには議案は通らなかったのです」
「それが今朝になって、通ったというの?」
「ついに、内大臣が折れました。中務が今朝方、内々に修道院制度破棄の案に玉印を押して寄越したのです」
「一体どうして?」
「きっかけは参謀の収穫祭での一件でしょう。あれによって修道院が多大な賄賂を抱えていることが判明し、民意は修道院への疑惑を抱いた。これ以上修道院と癒着し賄賂を送ってもらうことは、内大臣一派にとっても政治生命を揺るがす危険しかありません。内大臣一派にとって、修道院と癒着することの利点がなくなったのです」
「つまり……内大臣一派は、修道院を見捨てたのね」
カグワの表現は乱雑であるが、しかし、的確に事態をまとめていた。
内大臣一派は、修道院を見捨てたのだ。今まで長年に渡って癒着し、修道院から賄賂を受け取る代わりに彼らに政治的権力でもって社会での優位性を与えていた内大臣一派は、保身のためにばっさりと修道院を見捨てた。彼らは二度と修道院から金銭的な援助を受け取ることはできないが、代わりに、修道院がどれほど民意に厭われ叩かれようとも、涼しい顔をして逃げることができるのだ。
ワイズは修道院制度を破棄するために、内大臣にこの議案への玉印を押させる方法を探していた。そして結果、民意を利用することにしたのだ。どれほど政治的権力があろうとも、民意に打ち勝つことは難しい。故に、民意が修道院への疑惑を抱けば、内大臣も修道院を手放すしかなくなるだろうと踏んだ。そのために、収穫祭で大聖堂を崩壊させたのだ。全てはワイズの計画通りに進んでいた。
「……これでおわかり頂けただろうか? 修道院制度は廃棄され、修道院は神殿の直下に支配されるものではなくなり、国城に属するものでもなくなりました。故に、修道院が官軍の要請をしてきたところで、我々には官軍を出す理由などございません」
ワイズは淡々と説明を続けた。官軍を出兵させるためには、王の許可が必要だ。すなわち、中務の許可が必要となる。修道院を見捨てた中務、内大臣一派は、彼らのために官軍を出兵させることはないだろう。
ワイズの説明を黙って聞いていたカグワはその言葉を噛み締めるように俯いて、だがやがて、目線をあげた。まっすぐとワイズを見捕えて、「それで」と言う。
「それで、ワイズは、助けには行かないの?」
ワイズは彼女の質問の意図を即座には読み取ることができずに、眉根を寄せる。が、己に答えられる範囲で答えを探した。
「官軍は出しませんが……首都ケトロが暴徒と化した民衆で混乱状態に陥っている以上、事態を鎮圧せねばならないのは事実です。恐らく首都に常駐する軍が鎮圧に向かうことでしょう」
「そういうことじゃないわ。貴方はどうするの、と聞いてるの」
「私はまだ政殿の中にやらねばならないことが山とありますから……それらに順次対応していくつもりですが」
今朝玉印を押された修道院廃棄の案もこれから施行せねばならず、他にもやらなくてはならないことがたくさんある。ワイズは国務参謀としての務めを政殿の中で果たすつもりであるが、巫女は一体何を聞きたいのだろうか。
巫女と参謀のやり取りをはらはらと秘書たちが見守る中で、「そう」と小さく呟いた巫女は何かを納得したように幾度も頷いた。彼女は強い眼差しでワイズを見つめる。そして決意したように、言った。
「わかったわ。——なら、私が助けに行く」
「……は?」
予想だにしていなかった巫女の決意に、ワイズは口を縦に開く。彼の頓狂な声はその場にいた全員の心を代表していたようで、秘書達も皆ぽかんとした表情で少女を見つめていた。彼女の言葉の意味が、よくわからなかった。
しかし、その目に強い決意を讃えた少女は、ワイズを見つめたまま、意思を覆そうとはしない。
「ワイズには参謀としてやらなくてはならないことがたくさんある。確かにその通りだと思うわ。だから私は巫女として、彼らを助けに行かなくちゃ」
「彼らを……? 先ほども申しましたが、修道院制度は破棄されたのです。修道院はすでに神殿の傘下にはなく、つまり巫女の統治する場所でもなければ貴女が責任を負う必要もないのですよ」
「違うわ、私が助けなくちゃいけないのは修道院の中に怯える修道士たちではなくて……ケトロに集まった五千の群衆よ」
ますますわけがわからないときょとんとする秘書たちの中で、ワイズだけが、彼女の言葉の真意を理解したように瞠目した。ここにきてようやく、彼女の質問の意図が見えたような気がした。
「どうしてケトロに、そんなにもたくさんの群衆が集まったのか。なんで人々は遠い地から、わざわざ修道院を襲うためだけに集まったのか。——彼らは救いを求めているのよ」
少女は言って、会議室に並んだ面々を順々に見渡した。その決意に満ちた悲しげな瞳は、慈悲に溢れ、十六かそこらの少女の物とは思えない。
「この国には神に祈ることで救われると信じている人がたくさんいるわ。彼らはどんなに苦しい時も、どんなに辛い時も、神に祈って乗り越えて来た。だけれども、信じていた神に、修道院という聖なる存在に裏切られて、どうしていいのかわからないの。ならば今まで自分たちは何に祈って来たのだろうかって。これからは何に祈ればいいのかって。救いを求めるために、首都に集まったのよ。——五千人を越える群衆の怒りは、救いを求める悲痛な叫びだわ」
カグワの言うことは、ワイズには痛いほどによくわかる。何故なら彼も、その絶望を味わったことがあるからだ。信じていたものに裏切られ、これから何を信じればいいのかがわからない。その苦しみを、彼は嫌というほどに知っている。
順々に会議室に並んだ人々の顔を眺めていったカグワは最後にワイズを見つめ、そして、彼の苦渋の表情に対して、告げる。
「ワイズは、民意が修道院を恨むことを知っていて、この計画を進めたと言ったわね。こうなることは全て、予測済みだったと」
それは彼を責める言葉にも聞こえるが、決してカグワは彼を責めているわけではない。慈悲深く柔らかな声で、少女は呟いた。
「貴方は——ひどく裏切られた経験があるのね」
言い当てられて、はっとした。
確かに、ワイズは知っていた。神を信じる人間が、神などいないのだと知った時、どれほどの絶望を味わうか。必ず救ってくれると思っていた存在が、実は穢れた人間でしかなかった時に、どれほどやりきれない心地になるのか。故に、その感情を知った上で、それを利用して計画を進めようと思ったのだ。暴徒と化した五千人の群衆は、かつてワイズが味わったのと同じ絶望の中で、もがき苦しんでいる。
「別に、ワイズを責めているわけではないのよ。遅かれ早かれ、人々はいずれは真実を知ることになったでしょう。貴方が悪かったとは思わない。だから、これは私の自己満足かもしれないわね——救いを求める彼らのところへ、行かなくちゃ」
それが巫女としての務めであると、少女はそう決意したのだ。
ワイズには、言い返す術もなかった。全て正論だと思った。裏切られた五千の群衆の怒りも悲しみも、それを利用した自分の心の内も、それら全てを悟った上で群衆の元へ行くのだという巫女の決意も、何一つ間違っていない。
巫女はにこりと笑って「それじゃ」と言うと、会議室全体を見渡した。
「それぞれ自分のやるべきことを遂行しましょう。——ワイズ、また、後でね」
まるで友達に別れを告げるかのような軽い口調で言って、少女は手を振ると、軽い足取りで会議室を出て行った。ぱたん、と扉が閉まり、空気が変わる。それまで巫女の威厳のような不思議な物に支配されていた空間が、通常の会議室の空間へと戻った。
まるで呪縛から解き放たれたかのように、それまで固く口を閉ざしていた秘書の何人かが、慌てて彼女を追おうとする。巫女を暴徒の中に送り出すわけにはいかないと思ったのかもしれないし、そんなことをされたら参謀の計画が崩れると思ったのかもしれない。が、ワイズは彼らを引き止めた。
「いい——行かせてやれ」
その諦観したかのように落ち着いた声色に、立ち上がった秘書達は固まる。彼らは困惑したような表情で上司であるワイズを見やり、「しかし」と口籠った。
彼らはよく働く秘書だった。ワイズの政略的思惑はよく理解している。確かに、ここで巫女が例えば修道院を結果的に救ってしまうなどしたら、これまでのワイズの計画は全て水の泡となるだろう。人々は再び修道院や神を信仰し、折角通った修道院制度破棄の案が再び覆されるかもしれない。そうなったら再び最初に逆戻りだ。
だが、秘書たちは、ワイズの心の内までは理解していない。それは、ワイズが今まで頑なに伏せてきたためであるとも言える。政略のみに思考を支配された冷徹な参謀と呼ばれた彼は、決して感情を表には出さなかった。それをあっというまに掘り起こしたのは——あの若い少女だ。
「……俺は、こんな方法でしか、民を救えないのだ。彼女には——彼女の救い方があるのだろう」
小さな声で呟くように言うと秘書たちは吃驚したような顔をして、しかしそれ以上は何も言わなかった。巫女を追って引き止めようとする者は一人もいなくなった。
ワイズはワイズなりの方法で、ずっと民を救いたいと思っていたのだ。
存在するかもわからない神に縋り、そこにつけ込まれて騙される愚かな民を見て、いつか彼らの目を覚まさせてやらなくてはと、ずっと思っていた。神などこの世に存在しないのだ。だから、それに代わる強い決断力で、この国を救わなくてはならないと思っていた。そのために、政殿に入り、国務参謀にまで登り詰めたのだ。あとは民衆に神の不在を気付かせ、修道院の腐敗を認めさせ、彼らの力で新しい信じるべきものを見つけて欲しいと思った。
だが、そうそう簡単に信じるべき物は見つからない。人々は裏切られた悲しみと怒りに我を忘れて、暴れ回る。そうなるであろうことも予測しながら、しかし、ワイズにはこれ以外の方法が思いつかなかったのだ。例え国中の人間に自分と同じ絶望を味合わせることになったとしても、これ以外の方法が見つからなかった。
(だが、彼女ならば、ひょっとしたら……)
参謀は政殿の外へと駆け出していったであろう少女のことを思い、彼女に期待する。彼女ならば、自分には出来なかったことを成し遂げてくれるのではないだろうか。ワイズには思いつきもしなかった方法で、群衆を絶望の淵から救い上げてくれるのではないだろうか。
ワイズは秘書たちに、「ひとまず修道院制度破棄の決議案を施行するぞ」と告げてそれぞれに仕事の指示をすると、窓からなんとはなしに外を見下ろした。そしてそこに、駆けて行く巫女の姿を見つけて、その行く先を目で追う。
本来神殿から外に出ることさえ許されていない巫女が、国城から出ることは相当難解であろう。彼女が走って向かう先は恐らく、正門でもなければ裏門でもなく、下女や密偵のみが使う連絡用通路の扉だ。その扉さえ、滅多なことでもなければ開かれない。それでも彼女は正門や裏門を押し通るよりはまだ望みがあると思ってその扉を目指しているのだろう。
「……エリック、聞いていたな」
ワイズは慌てて仕事の準備をしている秘書たちには聞こえぬよう、小声でぼそりと呟いた。ワイズが話しかけるのは、この場所にはいない、隠れた自分の右腕的存在だ。彼は不思議な力でもって参謀に力添えしてくれている。ワイズの言葉ならば彼はワイズがどこにいようとも聞き取ることができるのだ。
「巫女君がケトロの修道院に向かうという。正門や裏門を通るのは難しかろうから、連絡用の扉を開けておいてやってくれ。彼女一人で向かわせるのはあまりにも危険だから、お前を含めて何人か護衛を付けろ。それから——神殿にいるであろう仗身に連絡を。あの男であれば、何があろうとも巫女を護るだろう」
ぼそぼそと口の中で呟くような小声で、ワイズは遠い場所にいるであろうエリック・コーエン軍曹に指示をした。たかが軍曹ではあるが、彼には自分の右腕として働けるだけの権限は与えてある。例えば連絡用通路の扉の錠前を軍から預かることはできるし、また、自分の部下を引き連れて巫女の護衛をすることくらいならば出来るだろう。神殿の中にいる人物と連絡を取ることは難しいかもしれないが、巫女の一大事とあればあの仗身が黙っているはずもない。ワイズは人知れず、巫女に助け舟を出した。
参謀の神殺しと呼ばれる伝説の一件からすでに二週間が経過した。事態はワイズの計画通りに、しかし少しだけ計画を変えるかもしれない危険性を孕んで進んで行く。
空は清々しいほどの、秋晴れだ。




