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西国の神  作者: あすかK
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16/24

15、淡い脅威


 神殿の脇に生える巨大な広葉樹が真っ赤に色付き、風景を秋の色へと染め変える。風のふくたびに舞い落ちるその深紅の色はとんでもなく華やかで、神殿の主である巫女が見れば途端に大喜びすることに間違いないが、残念なことに彼女は数日前から神殿の奥に篭ったまま、外に出て来なくなってしまった。

 国城では至るところで修道院制度の崩壊について話題とされ、人々は口々に修道院の終わりを囁いた。神殿に使える神官たちも、初めこそ修道院や神殿の危機を感じて走り回っていたが、最近では諦めにも似たような空気が神殿中に漂っている。なにしろ民衆の修道院への疑念はみるみるうちに西国エウリア全土へと広がり、神官たちにはどうすることもできないのだ。彼らは初めて民意の恐ろしさというものを知った。そして神殿の中で怯える毎日を過ごしている。

 そんな鬱々とした神殿の中、そのさらに奥の方へと突然引き蘢り、神官たちの前にさえ姿を現さなくなった巫女の君について、神官たちは口々に勝手な憶測を並べていた。さすがの巫女も民からの報復を恐れて神殿の奥に逃げ隠れてしまったのではないかとか、あるいはあまりにも奔放すぎる彼女を大司教か誰かが企んで神殿の奥に閉じ込めたのではないかとか、その噂は様々である。だが、どれもが勝手な憶測の範疇を出ない。そのどれもが正解ではないと、巫女の世話役であるロマーナは確信していた。

 ロマーナは、この神殿の中で巫女に仕える他のどの世話役よりも、自分が巫女のことを理解していると自負している。なにしろロマーナは、当代巫女であるカグワの君が、まだ巫女となる前からずっと彼女に仕えてきた。カグワが巫女見習いとして修行を始めた三つかそこらの年の頃からずっと、彼女の世話をしてきたのだ。ロマーナは世話役でありながら、彼女の姉であり母でもあった。故に、カグワのことは他のどの世話役よりも知っている。

 突然カグワが神殿の奥、巫女の修行のために用意された聖堂へと篭りはじめたのは、数日前の夜のことであった。

 あれは、収穫祭における大聖堂崩壊の事件があった翌日の夜のことであったか。カグワが何の前触れもなく神殿の中から姿を消した。カグワが誰にも何も告げずに神殿の外へと抜け出してしまうことは以前にも幾度もあったのだが、このような真夜中に姿を眩ますことは、まずなかった。故に、世話役であるロマーナは焦ったものであるが、神殿に仕える神官たちは皆、大聖堂崩壊の件による混沌状態の中でそれどころではなく、自分たちの主である巫女のことなど少しも気にも留めていないかに見えた。

 たった一人で神殿の中で不安とともにカグワの帰りを待ち続けたロマーナは、夜更けになってようやく帰ってきたカグワを前に、激昂した。

 ——このような非常事態に、何をやっているのですか! 何故勝手にいなくなるようなことをするのです……!

 ロマーナの怒りが、自分への心配から来ているのだとわかっているカグワは、「心配かけてごめんなさい」とだけ謝ると、毅然とした態度で、宣言したのだ。——これから修行のために、しばらく奥の聖堂に篭る、と。

 そう宣言したカグワの瞳は何か強い決意を抱いているようにまっすぐで、それまでロマーナの胸の中にあった不安も怒りも全て吹き飛ばしてしまった。ロマーナは彼女がこんな夜遅くに神殿の外で何をしていたのかなんて、知る由もない。だが、そこには何かカグワに強い決意を抱かせる理由があったらしく、カグワは自ら修行のために聖堂へと篭った。

 神官たちが噂するように、民意から逃げたのではない。また、他の誰かによって閉じ込められたわけでもない。カグワには、自発的にそうしなくてはならない何か大きな理由があるのだ。



 ひらり、ひらりと神殿の脇に生える巨大な広葉樹の赤い葉が舞い落ちる。

(……珍しいことがあるものね。何か天変地異の前触れかしら)

 舞い落ちる赤い葉をぼんやりと見つめながら、ロマーナは思った。誰もいない主の部屋を掃除しながら、ふとその手を止めて、窓の外に舞う赤を見つめる。もしもここに彼女がいたならば、他の誰より喜んで舞い落ちる赤を拾おうとするだろうに。

 カグワが自発的に修行をすると言い出すことは、珍しい。故にそれも妙だと思うが、だがしかし、それ以上に珍しいことがもう一つあった。——彼女の仗身のことだ。

(ユタヤが……カグワ様の傍にいないなんて)

 ここ数日ロマーナが空っぽのカグワの部屋の中で、常に思うのはそのことばかりだ。一人で奥に篭ったカグワのことを、気にしながらも決して追おうとしないその青年の姿が、ロマーナにはとんでもなく珍しかった。

 昔から、常に寄り添う二人であった。カグワは、仗身を連れては行けないと言われた場所にまで彼を連れて行き、その度に顰蹙を買って叱られ、またユタヤもユタヤで彼女のいるところならどんな場所にでも付いていった。そんな二人の姿を見守り続けたロマーナでさえ、こんなにも長い間二人が別離しているのを見たことはない。一体何があったのだろうかと、疑問に思わずにはおれなかった。

 一通りカグワの部屋の掃除を終えたロマーナは、掃除用具一式を持って部屋から神殿の廊下へと出た。掃除用具は廊下の突き当たりにある小部屋にしまうものだ。カグワはいなくとも、日々埃は蓄積されるため、毎日の掃除は欠かせない。掃除用具を持ってそのまま小部屋に向かうその途中で、ロマーナは丁度頭に思い描いていたその人物と、遭遇した。

「——ユタヤ」

 獣人である仗身のみが纏う装衣と呼ばれる白布一枚で作られた単純な服、そしてその上に巻かれた「獣」を封印する数珠の玉、上背のその男は紛いもなく巫女の身辺を護衛する仗身だ。

 その背の高い男は自分なりに縮こまってまるで隠れるように、巫女の部屋から少し離れたその小部屋の脇に控えていた。ロマーナは掃除用具を片付けるために此処を訪れたが、行き止まりとなっているこの場所には、あまり人は通らない。わざわざそこを選んで縮こまっていたということは、誰かに見つかりたくないという気持ちがあったのだろう。だが、ロマーナにその姿を発見されて、青年は少しだけ気まずそうな顔をした。

「……掃除か」

 彼はロマーナが腕に抱えている桶やら箒やらの掃除用具を見つめて、ぼそりと呟いた。ロマーナは青年を横にどけると小部屋の扉を開いて、掃除用具を中に収納しながら、言う。

「ええ、今終わったところよ。貴方は此処で何をしてるわけ?」

 なされて当然の質問を投げかけると、ユタヤは唸ってそのまま口籠った。この場所にただ縮こまっていたことからして、別に後ろめたいことをしていたわけではあるまい。大方、主の部屋に入れずうろうろしていたのだろうとロマーナは予想をつける。

 ユタヤは結局ロマーナの問いには答えなかったが、ひとしきり黙った後、おずおずと口を開いた。

「……かぐわの君は……もう修行からお帰りになったのか」

 それすら知らないのか、と内心驚愕しながら、ロマーナは小部屋の扉をゆっくり閉める。

「いいえ、まだよ。一体何をなさろうとしているのか私にはわからないけど……なかなか大変な修行をしてるみたいね」

「……そうか」

 そう呟いたきり、ユタヤは俯いて、何も言わなかった。いよいよ様子がおかしい。

 常なら、カグワのことで知らないことは何もなかろうと言うほどに主の動向を逐一確認して彼女の護衛をするユタヤである。そんな彼が、今現在カグワがどこにいるのかも知らないなんて、初めてのことではないだろうか。

 言いたいことをぐっと自分の中に押しとどめて我慢しているかのようなその仕草を前にロマーナは呆然とする。今までは、彼らのことは彼らのことだと、あまり干渉せずに放っておこうと思っていた。だが、ユタヤのあまりにも苦しそうなこの表情を前にして、放っておくことなど、どうしてできよう。

「……どうしたのよ」

 ロマーナはつられて自分までも苦しい表情をしてしまいそうになりながら、俯く青年の顔を覗き込んだ。

 いつのまにやらあっというまにロマーナの背丈を追い越して、体ばかり大きな青年にと成長してしまったが、ロマーナにとっては彼もカグワと同じ、大事な弟のようなものだ。彼が八つの頃からその成長を見守って来た姉貴分として、とても見過ごすことはできそうになかった。

「……いや、なんでも、な——」

「なんでもないわけないじゃない。いつもカグワ様の後を追ってぴったり張り付いてる貴方が。何かあったとしか思えないわ。喧嘩でもしたの? 一体どうしたっていうのよ」

 ユタヤの言葉を遮ってまで、問いかける。そうでもしなければ、ユタヤはその苦い表情のまま、逃げ出してしまいそうだった。

「別に……喧嘩をしたというわけではない」

「じゃあ何? カグワ様は突然修行の間に閉じ篭ってしまったまま出てこないし、ユタヤはユタヤで様子がおかしいし、これで何もないなんて言わせないわ」

「……かぐわの君が、修行をなさっている理由は……俺も知らない。俺は、なにも、聞いていない」

「だったら尚更奇妙。カグワ様のことで貴方が知らないことなんて、今まで一つもなかったじゃない」

「……そんなことは、ない」

 背中を小部屋の扉に預け、前を仁王立ちになったロマーナに塞がれて、逃げ場のなくなったユタヤは床を睨みつけて呻くように答えた。

「かぐわの君が、修行をなさっていることと、俺の気が滅入っていることとは、何ら関係ない……」

 その呻き声に、ロマーナは眉を顰める。青年は気が滅入っているのだと自分で認めた。やはり、何でもないわけがないのだ。では一体どうして、とロマーナはますます彼のことを案じる。

「なら一体何があったの? 大聖堂爆破の事件で何かまた神官たちに厭味を言われた?」

「そんなことではない。そんなこと、どうだっていい」

「じゃあどうしたのよ。何が貴方にそんな顔をさせるの」

 言われて初めてユタヤは己が苦渋の表情をしていることに気付いたのか、はっとしたように目を見開いた。そして苦りきった表情を覆い隠すように片手で顔を押さえる。手の平の隙間から、くぐもった声が静かに響いた。

「……違うんだ。別に誰の所為でもない……俺が、悪いんだ」

 痛みを堪えるかのように繰り出されるその言葉に、ロマーナはますます意味がわからない。「どういうこと」と問いかけると、青年は頭を抱えてその場に蹲った。

「……俺には、かぐわの君の傍にいる権利なんて、ないのかもしれない」

 ぼそぼそと小声で吐き出されるその言葉を聞き逃すまいと、ロマーナもその場にしゃがみこむ。顔は彼の手で覆われていてその表情を見ることはできないが、その声色から彼の感情は手にとるように伺えた。その苦しみの正体は——罪悪だ。

「俺は一度……命を落としたことがある。その頃から、全てがおかしいんだ」

 彼はまるで悪人が悪事を懺悔するかのように、吐き出した。ロマーナはその言葉をただ拾う。

 ユタヤが一度命を落とした経験があることは、ロマーナもよく知っていた。

 それは今から一年ほど前、丁度カグワが巫女になった頃のことだ。

 巫女として国の象徴に選ばれたカグワは、国際間の戦争のために北国に攫われ、人質とされた。そして彼女を護るために彼女とともに北国に攫われた仗身ユタヤは、その身を挺して彼女を護ったのだ。結果、カグワは無傷で西国に返還され、ユタヤは遺体の姿で西国へ帰った。ロマーナは、彼の遺体を前にして号泣した。忘れるわけもない、あの瞬間、弟のように可愛がっていた彼の死を、忘れるわけもない。

「西国の人間は……俺のことを仗身の鑑だと言った。身を挺して巫女を護った英雄だと讃えた。だけど、俺は……別に、巫女のために、かぐわの君のために命を差し出したわけじゃないんだ。——全ては、自分のためだった」

 一度死んだ後、「蘇生」の技という巫力最大の奥義を使って命を再び得たユタヤは、一見、何も変わっていないかに見えた。彼は命を落とす前も、蘇った後も、変わらず忠実な巫女の僕だ。変わらず、仗身の鑑である。だが、彼の中では恐らく大きな変化があったのだろう。故に彼は、悩んでいるのだ。

「巫女を護りたいなんて気持ちは、これっぽちもなかったんだ。ただ俺は、かぐわの君が死ぬ様を見たくなかった。巫女だからとか、仗身だからとか、関係ない。彼女が死ぬのが嫌だったんだ。その時に気付いた。俺は、巫女を護るために仗身をやっているわけではない。ただ、彼女の傍にいたいから、そのための大義名分が欲しかったんだ」

 仗身だから、護衛のために傍にいる、と言えばそれだけで理由になる。他に理由は一つもいらない。彼はそのために仗身であり続けた。故に、カグワの死を拒んだのだ。彼女がいなくなってしまったら、全てが無意味になる。

「この感情を抱いていたのがいつからかなんて、俺にだってわからない。だけど、命を落とすあの瞬間までは気付いてさえいなかったんだ。——ずっと気付かないままでいられればよかったのに、気付いてしまった……。それから全てがおかしい」

 頭を抱えたまま、ユタヤはどこを見るわけでもなく、虚空を見つめて言葉を続けた。一度言葉を吐き出せば、それはとどまることなく濁流のように、溢れ出す。

「夢を見るんだ、ロマーナ……。ひどく滑稽で、空虚で、背徳的な、夢を見る……。俺も彼女も、普通の人間で、普通の村に生まれて、普通に生きて行く夢を見るんだ。俺はその夢の中で、獣ではないのに、まるで獣のように彼女に襲いかかるんだ。……俺の欲を具現化したみたいで、恐ろしい」

「ユタヤ」

「最初は時々見るだけだった夢が、最近ではその頻度も多くなって、内容も過激になっていく。でも、どうしたらいいのかわからないんだ、この感情を……押しとどめる術が俺にはわからない」

 ぎゅっと目を瞑って、体を縮こまらせ、吐き出す彼の言葉は悲鳴のようだ。

 しかしそんな彼を見つめるロマーナは、何かに怯えるように体を震わせる彼の背中をゆっくりと撫でて、少しだけほっとしていた。彼の罪悪の理由や、彼の行動の理由がわかって安堵したと言うのだろうか。そしてその理由が予想以上に単純なことで、胸を撫で下ろしていた。

 当人であるユタヤにとってはどうしようもなく厄介であろうが、ずっと彼らを見守り続けたロマーナからすれば、それは単純明快なことだ。

 この感情、とユタヤが呼ぶ感情のことに、ロマーナはずっと前から気付いている。それこそ彼がカグワの身を護って命を落としたあの時よりずっと前から、気付いていた。——少年は、少女に恋をしているのだと。

「いつ、この夢を俺が現実にしようとするのかわからない……それを思うと恐ろしくて、最近では彼女に近付くこともできないんだ……俺は彼女の身を守るという名目で彼女の傍にいながら、最大の脅威を自分の中に抱えている」

「……それは果たして、脅威かしら」

「脅威だろう……彼女は巫女で、俺は獣人だ。本来なら、触れることさえ適わない……。……こんな俺が、彼女の傍にいていいわけもない」

「だけどそれを望んだのは、他でもないカグワ様よ」

 ばさりと青年の言葉を切り捨てて、ロマーナは俯く彼の顔を無理矢理上げさせた。怯えるような彼の瞳を見つめて、ロマーナは笑う。いつのまにこんなに成長してしまったのだろうと寂しく思う反面、しかしその何倍も、彼の成長を嬉しく思った。

「貴方が命を落とした時……まるで、カグワ様も死んだ人形のようになってしまって、私たちはとても困っていたの。巫女の役目を果たすことなんてとてもできそうになかった。その時に、貴方はカグワ様の一部なんだと思ったわ」

 ロマーナは、よく覚えている。北国から帰還したカグワがユタヤの遺体を抱えて放心しているその姿を、嫌というほど覚えている。彼女は涙一つ零さずに、ただ空っぽになったユタヤの体を見つめていた。

 その後すぐに、巫力最大の奥義「蘇生」の技を使えば彼が蘇るかもしれないと知って、彼女はそれを望んだ。巫力の技はそれが高度になればなるほど制約も厳しくなる。「蘇生」の技は中でも最高位のものであり、その技のために術者が命を落とす危険さえ伴った。それでも、彼女はそれを望んだのだ。本来なら他人の命を危機にさらすことを望むわけもない彼女が、術者の命を犠牲にしてでも彼を蘇らせてほしいと願った。彼女はそれほどまでに、ユタヤの存在を欲したのだ。

「だから貴方は、堂々とカグワ様の傍にいればいい」

 そうはっきりと告げると、ユタヤは苦渋の表情を浮かべたまま、首を横に振った。

「……それは、かぐわの君が、何もご存知ないからだ……俺が何を思っているのかなんて、彼女は何一つ知らない」

 彼はゆっくりと立ち上がって、頭を押さえると、何度も否定をするように首を横に振る。

「駄目だ……それは、駄目だ……何も知らない彼女に、付け入るようなことは、できない……」

 あまりにも真面目な青年は、全てに罪悪を感じているのだ。彼女に抱いた感情も、そしてその感情のことを黙っていることも、まるで彼女を裏切っているかのように思っているのだろう。決してそんなことはないはずなのに、青年は、少女への忠誠を裏切ってしまったかのような罪悪に、さいなまれているのだ。

「ユタヤ」

 ふらふらとおぼつかない足取りで歩き始めた彼は、ロマーナの元から離れて神殿の白い廊下を歩いて行く。此処は巫女の部屋のある神殿の中央だ。彼の歩いて行く先は、そこから離れた神殿のはずれ、仗身の部屋の配置されている方であろう。

 ロマーナは立ち上がると彼の頼りない背中を見つめながら、声をかける。

「ユタヤ、それは背徳でもなければ、非道でもないわ……! 貴方は何一つ間違ったことなんて、してないんだから!」

 それは慰めでもなければ励ましでもない。ロマーナの真の気持ちだ。ユタヤはまるで自分の感情が過ちであるかのような言い方をするが、過ちなわけがないと思う。どうして人が人を想うことに、間違いがあろうか。

 ユタヤはロマーナの言葉に対しては何も言わず、こちらを振り返ることさえせずに、去って行った。その後ろ姿はとんでもなく侘しい。青年はまだしばらく、自分のことを責め続けるのであろう。

 ロマーナはその後ろ姿を見送りながら、ふうと一つ息を落とした。彼の抱えている物を知って安堵した気持ちと、彼の心の内を思って心配する気持ちが交錯する。

 恐らく、彼ら——ユタヤとカグワの間には、何かがあったのだろう。この想いを自覚したのは一年前に命を落とした時だとユタヤは言ったが、あれから一年間、彼が此処まで気を病むことはなかった。彼の様子がおかしくなったのはここ数日だ。ここ数日の間に、二人の間で何かが生じたのだろう。ユタヤが己の心を悔やむような、何かが。

 何も気を病む必要など一つもないのに、と可哀想な弟分のことを思いながら、ロマーナは一度主の部屋へ戻ろうと足を動かした。掃除用具を使っての部屋の清掃は済んだが、部屋の家具の細かい整理は終えていない。彼女のいない間に部屋が汚れてしまってはいけないから、細かいところまでの気配りは欠かせない。故にこれは、ロマーナの日課だ。

 ユタヤの言葉を幾度も頭の中で反芻させながらゆっくり主の部屋の扉を開いて、部屋の中に足を踏み入れようと一歩踏み出して、しかし、ロマーナはその場に固まった。

 驚愕して、目を見開き、そして一瞬はっと息を呑む。何故なら、誰もいないはずのその場所に、人が立っていたのである。

「……カグワ様」

 そこにいたのは、修行の間に引きこもったまま数日間不在にしていたはずの、この部屋の主であった。

 数日間修行を続けてきたためか、綺麗な黒髪はところどころ絡み合い、肌もどことなく汚れている。服装もお世辞にも清潔であるとは言えなかったが、それでも神秘性の感じられる面影は、彼女が巫女である所以であろう。

「……ロマーナ」

 少女はロマーナの開いた扉のすぐ脇に立ち、壁に背中を預けて張り付いていた。彼女は扉を開けたロマーナをちらと見上げると、戸惑うように目を逸らす。その仕草から、彼女がこの扉の内側で、一連の話を全て聞いていたのだということが伺えた。

「カグワ様……一体どうして」

 何の修行をなさっていたのか、体を洗って服を着替えましょう、神殿の中が今どうなっているのかご存知ですか、世話役として言わなくてはならないことは多々あるのに、一番最初に出て来た言葉は「どうして」とそれだけであった。

 だってロマーナは、たった先ほどまでこの部屋の中を清掃していたのだ。清掃を終えて掃除器具を小部屋に片付ける際にユタヤと出会って話し込んだ。この部屋から小部屋に行くまでには一本道があるのみで、他に道はない。そのため、小部屋の前で話している自分たちに見つからずに誰かがこの部屋に入ることは不可能であるはずなのだ。

 一体、いつ、彼女はこの部屋に入ったのだ——?

「……窓から」

 カグワは小さな声でぽつりと、ロマーナの短い問いかけの意図を理解し、返答した。

 カグワの示した先には、ひらひらと舞い落ちる赤い広葉樹の樹が見える。カグワはこの樹を上り、若干高い位置にある己の部屋の窓から入室したのだろう。

 しかし、何故自分の部屋に戻るのにそんな面倒なことをしたのか、という問いにはわざわざそれを言葉にする必要もなく気付いているようで、静かに説明してくれた。

「こんな格好で神殿の中を歩いたら、また神官たちに何か言われると思って、窓から入ったの……そしたら、廊下でロマーナとゆたやが話しているのが聞こえたから……」

 二人の会話を聞いてしまったのだ、と最後まで言わずとも理解する。

 ロマーナは後ろ手に部屋の扉を閉めると、俯くカグワの顔を見つめた。カグワは当惑するような表情で目線を彷徨わせているが、それは決してユタヤの吐露した気持ちへの拒絶や嫌悪のためではない。彼女は本当に、気付いてさえいなかったのだ。彼が何を思っているのかさえ、気付いていなかった。と、言うよりも、その可能性すら知らなかったと言う方が正しい。彼女はまさか、自分に対して普通の女の子を愛するような情を抱かれることがあるだなんて、思いもしなかったのである。

「……ユタヤのことが嫌になりましたか?」

 ロマーナが問いかけると、カグワは首を横に振った。そんなわけがないと否定する。

「では、ユタヤと接することが気まずいですか?」

 問いかけ方を変えてみたが、やはりカグワは首を横に振った。彼女にとっては、相手が何を思っていたところで、ユタヤはユタヤだ。この程度のことで、彼への信頼をなくすはずもない。

 彼女は恐らく、何も知らなかった自分を憂いているのである。ユタヤの傍にずっといながら、彼が何を思っているのかさえ気付かなかった自分を恥じて、また、そんな彼とどう接していいのかわからない。そんな自分を憂いている。故に、彼女は幾度も目を泳がせる。

「ユタヤは……もうずっと前から、貴女のことを愛しておりますよ。巫女としてはもちろん、主としてももちろん、ただ一人の女として、ずっと大切に想っているのです」

 本来ならこれはユタヤの口から直接伝えた方がいい事柄であろう。だが、恣意的ではなかったとは言え、その事実を聞いてしまったのだ。ならば妙な誤解の生まれる前に、きちんと事実として伝えておいた方が良い。

 カグワははっきりと言ってのけたロマーナを見上げて、一瞬「だけど」と否定するように口を開きかけたが、すぐに口を閉ざして俯いた。突然のことに信じられない気持ちもあるが、それを否定してしまうことはユタヤを否定することだと悟ったのだろう。彼女は彼女で、ユタヤのことを心から大切に想っている。故に、彼の言葉を、気持ちを、否定することなどできようはずもない。

 少女は俯いたまま睫毛を震わせて、いつもの彼女からは想像もつかないほど細い声で、呟いた。

「……私は……どうしたら、いいのかしら」

 か細い、虫の鳴くような呟きであったが、それが彼女の現在の心のうちを全て表現していた。

 初めて彼の心を知って、彼がその心を責めていることを知って、彼がその所為ですっかり気を病んでしまっていることを知って、それでも自分はどうすればいいのかわからない。少女には、何も、わからないのだ。

 ロマーナはまだ幼さの残る少女の頭を撫でて、にこりと微笑んだ。

「別に、何も」

 そう答えたロマーナは、少女よりも十以上年が離れている。カグワの世話役として王宮に入ってから十年、さほど恋愛沙汰の経験のあるわけでもないが、それでも幼い少女よりは幾分心に余裕があった。悩む青年や少女、二人の弟妹を愛らしく思うくらいには余裕がある。

「何をする必要もございません……貴女は貴女らしく、振る舞えばいいのです」

「ロマーナ……」

「彼は、そのままの貴女を愛しているのですから」

 そう告げると、少女は再び口を開きかけて、やはり閉ざした。代わりに「うん」と小さく答えて頷くと、切なげに目を閉じた。

 巫女になるべくして育てられ、俗世から切り離されて成長した少女には、初めて経験することは数多い。普通の少年少女であればとっくに経験しているであろう年頃の心の変化も、この守られた空間の中ではなかなか気付き難く、感じ難い。

 その心の変化に気付いて悩む青年も、それをどう受け止めていいのか分からない少女も、ロマーナには同時に愛おしい。そして何故か、誇らしかった。自分の育てた二人が成長していく様がとても、誇らしい。

 さあひとまずは体を洗いましょう、と修行のためかすっかり汚れてしまった少女の手を引いて、ロマーナは部屋の外へと連れ出した。巫女が禊をするための場所はこの部屋の中にはない。そのための巨大な浴室が用意されており、そこはいつでも巫女のために開放されている。

 彼女の戸惑いも汚れも全て洗い流してあげようと、ロマーナは思った。禊とは、そのためのものだ。

 結局ロマーナは、彼女が何の修行のために神殿の奥へと引きこもっていたのか、知らず終いとなった。ロマーナがわざわざ聞き出そうと思わなかったこともあり、カグワが口を開かなかったということもある。ただ、明らかにくたびれたその様子から、なかなか高度な技を習得するために、巫力を高めていたのだろうということだけは見て伺えた。

 そしてやがて、その力は、この国を救うために発揮されることとなる。

 だが、今の少女たちには、彼女を取り巻く淡い恋の色しか見えていなかった。

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