第五章 空の銭袋
春鈴祭が、また近づいていた。
シウォンが洪家へ来てから、もうすぐ一年になる。
背丈は少し伸びた。
頬のこけた痩せた少年だった面影も、今では薄くなっている。
毎日きちんと食べ、眠り、朝には庭を走り、午後には護衛の鍛錬を受けているのだから、当然といえば当然だった。
もっとも、表情の乏しさだけは、一年たっても大して変わらなかった。
今日は、洪家の月に一度の支給日だった。
昼前になると、屋敷で働く者たちが、帳場の置かれた行廊棟の一室へ順番に呼ばれる。
帳簿を預かる家人が名を読み上げ、その月の働きに応じた給金を小さな銭袋へ入れて渡していく。
米や布、仕事着などの支給とは別の、自由に使ってよい銭だった。
「キム・ジュノ」
と名を呼ばれ、ジュノは前へ出た。
「はい」
両手で銭袋を受け取り、きちんと頭を下げる。
袋を軽く振ると、中で銭が触れ合った。
大人たちが受け取る袋よりは、ずっと軽い。
まだ十一歳で、任されているのも庭掃除や荷運び、馬小屋の手伝いといった仕事だからだ。
それでも、ジュノにとっては立派な自分の稼ぎだった。
部屋を出ると、待っていた母へ袋の半分を渡す。
「またですか。自分で持っておきなさいと申しているでしょう」
乳母は困ったように眉を寄せた。
「いいんだよ。母さんが好きなように使えば」
「これはお前が働いて得た給金です」
「母さんだって働いてるだろ」
ジュノは銭を母の手へ押しつけると、返される前にさっさと逃げた。
残った分は、自分の好きなように使う。
ジュノは本を読むのが好きだった。
町へ新しい物語の本が入ったと聞けば、少しずつ銭をためて買いに行く。
買った本はインファにも見せ、二人で並んで読む。
インファはまだ難しい字をすべて読めるわけではない。
それでも分からないところをジュノへ尋ねながら、最後まで読もうとする。
「この人、どうして泣いてるの?」
「今そこを読んでるだろ。先に聞くな」
「でも、泣いてるもん」
「読めば分かる!」
だいたい、そのような調子だった。
以前は独楽や凧も買った。
今では遊ばなくなった物まで、ジュノの部屋の隅へいくつも転がっている。
それが普通だと思っていた。
働いて銭をもらえば、欲しい物を買う。
欲しい物がなければ、取っておく。
ところが、帳場から出てきたシウォンを見たとき、ジュノはふと気づいた。
シウォンの衣は、屋敷から支給されたものだった。
紺色の上衣も、動きやすいパジも、足元の靴も、すべて洪家の倉から渡されたものだ。
冬に着ていた綿入りの衣もそうだった。
私物らしい物といえば、胸元へ隠している銀の鈴くらいしかない。
それも、買った物ではない。
祭りの日に、インファからもらった鈴だった。
シウォンも、自分と同じように毎月給金を受け取っている。
それなのに、新しい衣を買ったところも、好きな物を手に入れたところも、ジュノは一度も見たことがなかった。
――あいつ、給金を何に使ってるんだ?
考えてみれば、支給日の午後、シウォンは決まって町へ出ていた。
そして夕方には、小さな紙包みを持って帰ってくる。
中身はいつも、飴や餅菓子だった。
「お嬢様へ」
そう言ってインファへ渡す。
インファは毎回、初めて菓子をもらったような顔で喜んだ。
どこへ行っているのかと尋ねても、シウォンは答えない。
「用事だ」
それだけだった。
その日の午後。
ジュノは、屋敷を出ていくシウォンのあとを追った。
別に疑っているわけではない。
ただ、気になっただけだ。
そう自分へ言い聞かせながら、塀や荷車の陰へ隠れ、一定の距離を空けて歩く。
シウォンは町の中心へ向かわなかった。
菓子屋の並ぶ通りを通り過ぎ、市場も抜け、次第に人通りの少ない道へ入っていく。
潮の匂いが濃くなった。
遠くから、荷を下ろす男たちの声と、船板の軋む音が聞こえてくる。
ジュノは立ち止まった。
見覚えのある景色だった。
一年ほど前、シウォンと家人について歩いた、港外れの古い物置へ続く道だ。
行き先が分かった。
シウォンは港の倉庫が並ぶ一角へ入り、その中でも一番古びた建物の前で足を止めた。
戸を叩くより早く、中から子どもたちが飛び出してくる。
「兄貴!」
「シウォン兄貴!」
「シウォ兄!」
三人、四人と、シウォンの周りへ集まった。
一番小さな子どもなど、シウォンの腰へ勢いよく抱きついている。
シウォンはよろめきもしなかった。
ただ、子どもの頭へ手を置き、髪や顔を確かめるように見下ろした。
「咳は」
「もう出ない」
「薬は飲んだか」
「苦いから嫌だって泣いた」
「飲ませろ」
「兄貴が言ってたって言ったら飲んだよ」
物陰から見ていたジュノは、目を細めた。
子どもたちの様子が、以前とは違っている。
着ている物は新しくない。
袖や裾には継ぎがあり、色も褪せている。
けれど、ぼろ布のようではなかった。
穴は塞がれ、身体に合うよう直されている。
裸足の子は一人もおらず、古くとも全員が草履や靴を履いていた。
頬にも、以前にはなかった丸みがある。
土埃で固まっていた髪には、子どもらしい艶が戻っていた。
シウォンは物置の中へ入り、子どもたちも続く。
ジュノは壊れかけた板壁へ近づき、隙間から中を覗いた。
床へ敷かれた古い筵の上に、子どもたちが並んで座っている。
その前へ、シウォンが一冊の本を置いた。
ジュノは、それにも見覚えがあった。
シウォンが書堂へ入りたての頃に使っていた、初歩の文字を学ぶための本だった。
シウォンは本を開き、一番年長らしい少年を隣へ座らせた。
「前の続きを読め」
少年が、指で文字を追う。
つかえながらも、ゆっくりと声に出して読んだ。
間違えると、シウォンが短く直す。
褒めもしなければ、励ましもしない。
けれど、少年が正しく読めるまで、何度でも同じところへ指を戻した。
文字の次は、計算だった。
シウォンは小石をいくつか床へ並べる。
「四人で、一人三文ずつ稼いだ。全部でいくらだ」
少年が小石を動かした。
「十二文」
「そこから米に七文使った」
少年は小石を七つ、別の場所へ移す。
「五文残る」
「その五文から、薪に二文使う」
「三文」
「合ってる」
シウォンは小石を元へ戻した。
「字が読めなければ、何を書かれても分からない。数が分からなければ、銭をごまかされても気づけない」
子どもたちは真剣な顔で聞いている。
「働くなら、受け取る前に数えろ。品を買うなら、渡す前に数えろ。相手が大人でも同じだ」
「怒られたら?」
小さな女の子が尋ねた。
「逃げろ」
「逃げるの?」
「銭は取り返せる。捕まって殴られたら、治るまで動けない。薬代もかかる」
ずいぶん現実的な教え方だった。
けれど、子どもたちは誰も笑わなかった。
皆、それが自分たちに必要な知識だと分かっているらしい。
どのくらい見ていただろう。
やがてシウォンは本を閉じた。
「今日はここまでだ。次までに、今の計算をもう一度やっておけ」
「兄貴、明日も来る?」
「明日は鍛錬がある」
「じゃあ、いつ?」
「来られるときに来る」
一番年長の少年だけを呼び寄せると、シウォンは懐から銭袋を取り出した。
中から銭を数え、少年が差し出した小袋へ移す。
「米と炭を先に買え」
「残った分は薬だ。勝手に菓子へ使うな」
「分かってるよ」
「先月もそう言った」
「ちびたちが欲しがったんだ」
「お前も食べただろ」
少年は目をそらした。
シウォンは目を細めた。
怒りは見えなかった。
ただ、少年が袋を懐へしまうところまで見届けると、立ち上がった。
倉庫を出たシウォンは、来た道を戻り始める。
ジュノも慌てて物陰から離れた。
町へ戻る途中、シウォンは一軒の菓子屋へ寄った。
しばらく店先を眺め、一番小さな紙包みを買う。
インファへ渡す菓子だ。
店を出て、細い路地へ入ったところで、ジュノはとうとう我慢できなくなった。
「おい、シウォン!」
シウォンが足を止めた。
驚いた様子はない。
ゆっくり振り向き、ジュノを見る。
「何だ」
「何だ、じゃない」
「何の用だ」
「今日の給金、何に使った」
シウォンは、ほんの少し目を細めた。
「お前に話す必要はない」
「ある」
「ない」
「ある!」
ジュノはシウォンの胸元へ手を伸ばした。
触れる寸前、手首をつかまれる。
強く握られたわけではない。
それでも、そこから先へは一寸も動かなかった。
「何をする」
「銭袋を見せろ」
「なぜ」
「いいから見せろ!」
「嫌だ」
「見られたら困るのかよ」
ジュノがもう片方の手を伸ばす。
シウォンなら、避けることも、腕をねじり上げることもできたはずだった。
けれど、しばらくジュノを見たあと、手首を放した。
ジュノはシウォンの懐を探り、銭袋を引っ張り出した。
軽い。
口を開き、逆さにする。
何も落ちなかった。
「全部渡したのか?」
「全部じゃない」
「じゃあ、残りはどこだ」
シウォンは答えなかった。
「何で黙ってるんだよ」
「話す必要がないからだ」
「俺、見たんだぞ。あの倉庫で、お前が――」
「知ってる」
ジュノの口が止まった。
「……何を」
「ついてきてただろ」
「いつから気づいてた」
「最初の角」
屋敷を出て、まだ大通りへ出る前だった。
「だったら言えよ!」
「言えば帰ったのか」
「帰らない」
「だから言わなかった」
ジュノの眉間へ深い皺が寄った。
何から怒ればよいのか、自分でも分からなくなる。
「お前、自分の物は買わないのか」
シウォンは手に持っていた紙包みを少し上げた。
「買った」
「それはインファの菓子だろ!」
「買った物には違いない」
「お前の物だよ。お前が使う物!」
「必要な物は屋敷からもらっている」
「服とか靴とか、本とか、玩具とか!」
「今あるものでいい。玩具などいらない」
「欲しい物くらいあるだろ」
「ない」
迷いのない返事だった。
ジュノは何も言えなくなった。
自分の部屋には、使わなくなった玩具や、途中まで読んだ本がいくつもある。
銭をもらえば、何を買おうかと考える。
新しい本が出たと聞けば欲しくなるし、祭りで面白そうな物を見れば手へ取る。
それが当たり前だった。
同じ十一歳なのに。
同じ書堂で学び、同じように仕事をして、同じ日に給金を受け取っているのに。
シウォンは、自分の欲しい物を一つも思いつかなかった。
その代わり、倉庫にいる子どもたちの靴を見ていた。
咳をしていないか確かめ、米と炭の心配をし、銭をごまかされないよう計算を教えていた。
ジュノが十年かけて当たり前だと思ってきたものを、シウォンは何一つ当たり前だと思っていない。
そのことが悔しかった。
勝ち負けの話ではない。
それでも、負けたような気がした。
「なんなんだよ、お前」
「何だ」
「十一歳だぞ」
「お前もだ」
「そういう意味じゃない!」
ジュノの声が路地へ響く。
シウォンは、なぜ怒鳴られているのか本当に分からないらしい。
わずかに眉を寄せている。
その顔が、余計に腹立たしかった。
「何で全部、お前一人でやろうとするんだよ」
シウォンの目が細くなる。
「一人ではない。あいつらにも仕事をさせている」
「そういうことじゃない!」
「では、どういうことだ」
「洪家には人がいるだろ!」
ジュノはシウォンの胸を指で突いた。
今度は手首をつかまれなかった。
「旦那様だっている。うちの親父もいる。母さんだって、古い服くらいなら繕ってくれる。屋敷には、余った米や薪が出ることだってある」
「屋敷の物は、俺の物じゃない」
「勝手に持っていけって言ってるんじゃない。頼めって言ってるんだ!」
シウォンは黙った。
「事情を話して、助けてくれって言えばいいだろ」
「必要ない」
「必要あるだろ! お前の銭袋、空じゃないか!」
「来月、またもらう」
「来月までに、誰かが病気になったらどうする。屋根が壊れたら? 米の値が上がったら?」
「そのとき考える」
「一人でか?」
「ああ」
あまりにも当然のように答えるので、ジュノは一瞬、言葉を失った。
シウォンにとっては、それ以外の方法がないのだ。
誰かへ頼むという考えそのものが、最初からない。
腹が減れば自分で盗む。
仲間が腹を空かせれば、自分が余計に盗む。
病人が出れば薬を探し、寒ければ薪を拾い、危険があれば自分が前へ立つ。
そうして十年、生きてきたのだ。
洪家へ来て一年たっても、その部分だけは変わっていない。
「……馬鹿じゃないのか、お前」
「急に何だ」
「一人でできることなんて、限界があるだろ」
「今まではできた」
「できてないから、あんな倉庫で暮らしてたんだろ!」
言った瞬間、シウォンの表情が消えた。
ただでさえ少ないものが、すべて消えた。
ジュノはしまったと思った。
けれど、引っ込めることもできなかった。
「別に、お前が何もしてなかったって言ってるんじゃない」
シウォンは答えない。
「あいつらが今まで生きてこられたのは、お前がいたからだ。それくらい見れば分かる」
「なら、何が言いたい」
「だからって、これからも同じようにする必要はないって言ってるんだ」
ジュノは頭を掻いた。
うまく言葉にならない。
同情していると思われるのは嫌だった。
助けてやるなどと言えば、シウォンはきっと拒む。
何より、自分自身、なぜこれほど腹を立てているのか、まだよく分かっていなかった。
ただ、空になった銭袋を見たとき、どうしようもなく苛立った。
シウォンが自分の分を何も残さないことにも。
それを特別なことだと思っていないことにも。
誰かへ頼るくらいなら、自分が空になればいいと思っていることにも。
「俺だっているだろ」
ようやく出た言葉は、それだった。
シウォンがジュノを見る。
「お前が?」
「何だよ、その顔は」
「何ができる」
「お前より計算を教えるのがうまい」
「俺が教えても、全員答えられた」
「答えられればいいってもんじゃない。間違えたとき、答えだけ言って終わるな。どうして間違えたのかも教えろ」
「怖い顔はしていない」
「してた」
「していない」
「してた!」
ジュノは一歩、シウォンへ詰め寄った。
「それに、俺なら町の店のことも知ってる。どこで米を安く売ってるかも、古着を扱ってる店も、薪を分けてくれそうな家も知ってる」
「なぜ知っている」
「使いで町中を走ってるからだよ!」
ジュノは胸を張った。
「お前は、何でも自分でやればいいと思ってるけどな、人に聞いた方が早いこともあるんだ」
シウォンは何も言わなかった。
否定もしない代わりに、納得した様子もない。
「だから」
ジュノは言葉を切った。
手伝わせろ、と言うのは少し違う気がした。
頼れ、と言っても、シウォンはきっと頼まない。
ならば、こちらからついていくしかない。
「次に行くときは、俺も連れていけ」
「なぜ」
「今、説明しただろ!」
「頼んでない」
「お前が頼まないから言ってるんだ!」
「来なくていい」
「行く」
「来るな」
「行く!」
路地の真ん中で、二人は睨み合った。
しばらくして、シウォンが先に視線を外す。
「用がないなら帰る」
そう言って歩き出す。
「話は終わってないぞ!」
ジュノもすぐにそのあとを追った。
「今度はいつ行くんだ」
「言わない」
「じゃあ、またつける」
「次は撒く」
「最初から気づいてたくせに撒かなかっただろ!」
「今度は撒く」
「絶対についていくからな!」
シウォンは答えなかった。
その沈黙を、ジュノは拒絶だとは思わなかった。
ジュノは知らなかった。
支給を受けた直後、シウォンが主人の部屋を訪ねていたことを。
シウォンが差し出した給金の半分を、主人が預かっていることを。
最初に銭を差し出したとき、主人は尋ねた。
「何のために貯める」
シウォンは答えた。
「家を建てる」
主人の目が、わずかに細くなった。
それだけだった。
誰の家かとは尋ねなかった。
シウォンが自分一人のために家を欲しがる子どもではないことも、港の古い物置に、今も六人の子どもが暮らしていることも知っていた。
雨が降れば屋根から水が落ち、冬になれば板壁の隙間から風が入り込む。
シウォンが建てようとしているのは、帰る場所を持たない者たちの家だった。
「どれほどかかる」
「分からない」
「土地も要る」
「ああ」
「材木も、屋根を葺く者も、壁を作る者も必要になる」
シウォンは黙った。
子どもの給金を半分ずつ貯めたところで、いつ建てられるかなど分からない。
主人はそれを口にはしなかった。
「それでも、貯めるのだな」
「ああ」
シウォンは銭を主人の前へ押し出した。
「貯めなければ、建たない」
主人はしばらく銭袋を見つめた。
やがて帳面を一冊取り出し、最初の頁へシウォンの名を書いた。
その下へ、預かった額を記す。
「分かった。私が預かろう」
それから毎月、同じことが繰り返された。
シウォンは給金の半分を主人へ預けた。
けれど主人は、ただ箱へ入れておいたわけではなかった。
材木の値が下がったと聞けば、いずれ家を建てるときに使える物を選び、シウォンの蓄えから少しずつ買い付けた。
買った材木は、洪家の倉の奥へ乾いた状態で積ませた。
港へ続く道の近くで、小さな土地を手放したがっている者がいると聞けば、自ら条件を確かめた。
すぐに買える額ではなかった。
それでも、他へ売る前に一度洪家へ話を通すよう、持ち主へ頼んでおいた。
預かった額。
材木へ替えた額。
残っている銭。
主人はそのすべてを、シウォンの名が書かれた帳面へ記した。
シウォンには何も言わなかった。
話せば、自分の銭だけでできることではないと知り、材木の保管場所にも、土地の持ち主との交渉にも、礼を払おうとするだろう。
あるいは、自分だけ特別に助けられていると思い、銭を預けること自体をやめるかもしれない。
主人はそれを望まなかった。
シウォンが差し出した銭は、一文たりとも主人のものにはしない。
けれど、子どもが銭の価値しか知らないというのなら、その銭が持つ時間の価値を教えるのは、大人の役目だった。
半分は、いつか子どもたちを住まわせる家のため。
残りのほとんどは、子どもたちが今月を生きるため。
最後に残したわずかな銭で、インファの菓子を買う。
シウォンはまだ知らない。
自分が一文ずつ積み上げている家が、主人の帳面の中では、すでに柱を持ち始めていることを。
屋敷へ戻ると、インファが縁側から二人を見つけた。
「シウォン!」
ぱっと立ち上がり、駆けてくる。
その後ろで乳母が「走ってはいけません」と声を上げたが、インファの足は止まらなかった。
シウォンが紙包みを差し出す。
「お嬢様へ」
「おかし?」
包みを受け取ったインファの顔が、春の花のように明るくなる。
それを見た瞬間だけ、シウォンの目元がわずかに緩んだ。
インファは包みを開き、中の飴を一つ取り出した。
半分に割ろうとして、うまく割れず、ジュノへ差し出す。
「ジュノおにいちゃん、わって」
「何で俺が」
「みっつにするの」
「三つ?」
「インファと、シウォンと、ジュノおにいちゃんのぶん」
「三つ出せよ、飴もっとあるだろ」
「いっぺんにたべたらインファのぶんがへっちゃう」
「……割ればいいんだな」
ジュノが呆れた視線をインファにおくる。
「いっしょにたべたほうがおいしいもん」
ジュノは口では文句を言いながら、飴を受け取った。
石の上へ布を敷き、持っていた小刀の柄で軽く叩く。
飴はきれいに三つへ割れた。
インファは一番大きな欠片をシウォンへ渡す。
「これはシウォンの」
「お嬢様へ買ったものです」
「インファのアメだから、シウォンにあげるの」
シウォンはしばらく欠片を見下ろしていた。
やがて、拒まずに受け取る。
隣ではジュノが、まだ不満そうな顔で飴を口へ入れている。
インファは二人に挟まれ、満足そうに笑った。
シウォンには、それで十分だった。
その笑顔を見るだけで、ひと月働いた甲斐があった。




