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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第四章 花の隠れ場所

インファは、つまらなかった。


シウォンが洪家で暮らし始めてから、幾日かが過ぎていた。


お父様の護衛は、いつもお父様のそばにいる。


お父様が庭を歩けば、その半歩後ろを歩く。


客人と話をするときは、部屋の外で待っている。


書物を読むために文机へ向かえば、庭へ面した戸口のそばへ立つ。


日に焼けた顔。


無駄のない身体つき。


腰には一振りの刀。


ジュノの父であり、洪家の護衛たちを束ねる護衛頭だった。


ジュノと同じように濃い眉をしているのに、息子ほど眉を動かさない。


ジュノが一日に何度も怒ったり笑ったりするのに対し、その父は朝から晩まで、ほとんど同じ顔をしていた。


そして、いつ見てもお父様の近くにいる。


なのに。


「シウォン」


書堂での学びが終わると同時に、インファは隣の少年の袖をつかんだ。


シウォンは広げていた紙を重ね、筆を硯の横へ戻しているところだった。


初めて筆を持った日よりは慣れたが、指先にはまだ墨がついている。


インファに呼ばれると、その黒い指を衣で拭おうとして、途中でやめた。


新しい衣を汚してはいけないと思い出したらしい。


「なに」


そう答えてから、シウォンは少し考えた。


書堂の先生から、目上の者への言葉遣いを教えられたばかりだった。


「……何でしょうか、お嬢様」


インファの眉が、きゅっと寄った。


「きのうは、インファっていってたのに」


シウォンの指が、紙の端で止まる。


「先生が、言葉遣いを直すようにと」


「インファは、なおさなくていいもん」


「直さないとシウォンが怒られるんだぞ」


向かいで紙を片づけていたジュノが口を挟んだ。


筆を筆置きへ戻しながら、当然のことを言うように鼻を鳴らす。


ジュノは立ち上がると、自分の紙とシウォンの紙を見比べた。


シウォンの方が、今日教わった字をきれいに書けている。


それに気づいた途端、ジュノの眉間へ深い皺が寄った。


「何でお前、もう書けてるんだよ」


先生が、片づけていた書物から顔を上げた。


「ジュノ」


穏やかな声だったが、ジュノの肩がぴたりと止まる。


「書堂で大声を出してはいけないと、昨日も教えましたね」


「……はい」


返事をしたジュノの声は、急に小さくなった。


インファは二人のやり取りなど気にせず、シウォンの袖を引いた。


「シウォン、まほうして」


「魔法じゃない」


シウォンは紙の端をきちんと揃えた。


几帳面な性格というより、乱れたままにしておくと、あとで何か言われることをもう覚えたのだ。


「てじなでもいい」


「これから鍛錬がある」


「おわってから」


シウォンは答えず、紙を抱えて立ち上がった。


インファも一緒に立とうとしたが、長く座っていたせいで裾を踏んだ。


身体が前へ傾く。


シウォンの手が、すぐに伸びた。


転ぶ前に腕をつかまれ、インファは何事もなかったように立ち直る。


シウォンは足元を確かめると、すぐに手を離した。


「気をつけてください」


また、よそよそしい言葉だった。


インファは、自分の腕へ残った指の感触を見下ろした。


祭りの日には、こんな言い方をしなかった。


屋敷へ連れてきた日も、もっと普通に話していた。


鈴を消して、龍の置物を消して、インファが喜ぶと、少しだけ得意そうな顔もした。


今は、何かを頼んでも、鍛錬がある、稽古がある、近づいてはいけない、と言うばかりである。


「シウォン」


「何でしょうか」


「きょう、いっしょにいられる?」


シウォンの手が止まった。


一瞬だけ困ったように見えたが、すぐにいつもの静かな顔へ戻る。


「午後の護衛実習なら」


「ごえいじっしゅうじゃなくて」


「では、いつですか」


「ずっと」


シウォンは黙った。


ずっと、という言葉がどれほど長いのか、考えているようだった。


やがて、戸口から低い声がした。


「シウォン」


三人が振り返る。


戸口には、護衛頭が立っていた。


その後ろには、短い木棒を持った若い護衛が控えている。


「時間だ」


護衛頭がシウォンに声をかけた。


「今日は、この者についていけ」


「はい」


インファの手から、シウォンの袖がするりと抜けた。


「失礼します、お嬢様」


軽く頭を下げると、シウォンは若い護衛のあとを追って、書堂を出ていった。


インファは、遠ざかる背中を見つめた。


「ごえいなのに」


小さく呟く。


「まだ見習いだからな」


ジュノが横から答えた。


シウォンの紙をもう一度見てから、悔しそうに自分の紙を重ねている。


「親父みたいな護衛になるには、何年もかかるんだよ」


インファは庭の向こうへ目を向けた。


縁側の前では、お父様が家人から何か報告を受けている。


その半歩後ろには、先ほどシウォンを若い護衛へ預けた護衛頭が、もう立っていた。


本当に、お父様の近くから離れない。


「シウォンも、インファのごえいなのに」


「だから、なるために稽古してるんだろ」


「でも、いないよ」


「稽古してるんだから当たり前だ」


ジュノは書物を抱えると、インファの前を通り過ぎた。


「ほら、インファも次の稽古があるだろ。ぼうっとしてないで行け」


「いきたくない」


「行け」


「おはななら、もうできるもん」


「昨日、花を一本倒しただろ」


「おはなが、じぶんでたおれたの」


「花は勝手に倒れない!」


「かぜがふいたもん」


「あの部屋に風なんか入ってなかっただろ!」


ジュノは振り返り、今度は両手を腰へ当てた。


「大体、インファはじっとしてなさすぎるんだ。池には行くな。木には登るな。廊下は走るな。勝手に台所へ入るな」


一つ言うたび、指を一本ずつ立てていく。


「それから、秘密の道にも近づくな。分かったか?」


「わかってるもん」


インファは頬を膨らませ、ぷいと顔をそらした。


秘密の道は、もう通れない。


祭りの日、シウォンを屋敷へ連れてくるために使った古い水路は、翌朝には大人たちによって塞がれていた。


板が打ちつけられ、その前には重い石まで置かれている。


五歳のインファが押しても、びくともしない。


昨日、確かめたから間違いない。


そのときもジュノに見つかり、ひどく叱られた。


「見るだけだもん」と言ったのに、「見るだけの奴は石を押したりしない」と言われた。


ジュノはときどき、妙なところで頭が回る。


「ジュノおにいちゃんは、うるさい」


「何だと?」


「シウォンは、インファといっしょにいてくれない」


「それを俺に言うな」


「ひみつのみちも、とおれない」


「通るな!」


「おはなのおけいこも、つまらない」


「先生に聞かれたら怒られるぞ」


ジュノは周囲を見回してから、声を落とした。


こう見えて、自分まで叱られるのは嫌らしい。


「それに、俺はこれから倉へ行くんだ。遊んでる暇はない」


「また?」


「またじゃない。仕事だ」


「みんな、インファとあそばない」


「毎日遊んでるだろ」


「きょうは、あそんでない」


「遊ぶのは午後だ!」


ジュノの声が庭へ響いた。


近くを掃いていた使用人が、何事かと顔を上げる。


ジュノは咳払いをすると、抱えた書物で口元を隠した。


耳が少し赤くなっている。


「とにかく、勝手なことするなよ」


念を押すように言い残し、今度こそ倉の方へ歩いていく。


インファはその背中を見送りながら、さらに頬を膨らませた。


あれをするな。


これをするな。


じっとしていろ。


ジュノは、そればかりである。


お父様との約束だって、ちゃんと守っている。


屋敷の外へ勝手に出てはいけない。


皆を心配させてはいけない。


今度こそ、迷子になってはいけない。


インファは、きちんと覚えていた。


秘密の道は通らない。


正門からも出ない。


裏門にも近づかない。


屋敷の中にいれば、迷子にはならない。


すぐに見つかるのだから、きっと心配するほどでもない。


少しだけ、二人を困らせてみよう。


そうすれば、シウォンもインファを祭りの日のように探してくれるかもしれない。


見つけたときには、初めて会ったときのような顔で、またインファの隣へ座ってくれるかもしれない。


そう考えると、頬の膨らみが少しずつ戻っていき、黒曜石のような瞳が、いたずらを思いついた光を帯びる。


もっとも、インファは隠し事に向いていなかった。


その顔を見た乳母なら、何を考えているのかすぐに見抜いただろう。


幸い、今は近くにいない。


インファは小さく周囲を見回した。


それから、誰にも見つからないようにしているつもりの、ひどく目立つ足取りで廊下を歩き始めた。


最初に向かったのは、母屋の物置だった。


戸を少し開け、中を覗き込む。


布を入れた箱。


使っていない膳。


季節の飾り。


壁際には、大きな壺も並んでいる。


隠れる場所はいくらでもありそうだった。


けれど、暗い。


奥から、何かが動く音がした。


かさり。


インファの肩が跳ねた。


鼠かもしれない。


虫かもしれない。


もっと大きな、名前の分からないものかもしれない。


戸を閉めた。


次に、屏風の後ろへ入ってみた。


少しすると、女中が部屋の掃除へやってきた。


「まあ、お嬢様。何をしておられるのですか」


「かくれてないよ」


聞かれてもいないのに答えたため、女中は困ったように笑った。


そこも駄目だった。


庭の大きな木の陰は、ジュノにすぐ見つかる。


縁の下は衣が汚れる。


台所には人が多い。


倉はジュノが仕事をしている。


自分の部屋では、隠れたことにならない。


インファは庭の端へ立ち、腕を組んだ。


ジュノが考えるときにする姿を真似したのだが、小さな腕ではうまく組めず、袖の中で手が絡まった。


どうしよう。


そのとき、屋敷の向こうに、行廊棟の屋根が見えた。


門に近い、使用人たちが暮らす棟。


そこには、シウォンの部屋がある。


インファはまだ、シウォンの部屋の中へ入ったことはなかったけれど、部屋の場所は知っていた。


シウォンが洪家へ来て二日目の夕方、どこへ行くのか気になって、こっそりあとをついていったことがある。


シウォンが廊下を曲がると、インファも柱の陰から顔を出す。


シウォンが足を止めれば、慌てて植木の後ろへしゃがみ込む。


本人は、上手に隠れているつもりだった。


けれど、淡い色の衣の裾は柱からはみ出し、急いで隠れるたび、履物が廊下を小さく鳴らしていた。


シウォンは途中で何度か足を止めた。


そのたび、インファも息を止める。


振り返らなかったので、見つかってはいないと思った。


やがてシウォンは行廊棟にある戸を開け、棟の端の奥の部屋に入っていった。


だからインファは知っている。


あそこが、シウォンの帰る部屋だった。


シウォンは今、鍛錬場にいる。


ジュノは倉。


乳母は母屋。


誰も、シウォンの部屋を探そうとは思わない。


それに。


シウォンは、鍛錬が終われば必ず自分の部屋へ帰ってくる。


そこにいれば、インファが探しに行かなくても、シウォンの方から来てくれる。


「ここがいい」


インファは一人で頷いた。


隠れ場所が決まると、次に必要なのは食べ物だった。


どれくらい隠れていればよいのか分からない。


お腹が空いて出てきてしまえば、負けたような気がする。


台所の前を通りかかると、ちょうど膳に餅菓子が並べられていた。


インファは戸口から顔だけを出した。


「おもち、ちょうだい」


台所の女が振り返った。


「おやつの時間は、まだ先でございますよ」


「ひとつだけ」


インファは両手を合わせ、大きな瞳で見上げた。


台所の女は、その顔に弱かった。


「本当に、お一つだけですよ」


紙に包んだ餅菓子を渡される。


インファは嬉しそうに受け取ったが、すぐには食べなかった。


大事そうに胸へ抱える。


「ありがと」


きちんと頭を下げると、行廊棟へ向かって歩き出した。


台所の女は、その小さな背中を見送った。


いつもなら、餅菓子を受け取った途端に一口かじる。


それなのに今日は、食べずに持っていった。


少し不思議には思ったが、呼び止めるほどのことではない。


インファは廊下を進み、庭を横切った。


途中、父の部屋の前を通る。


開いた戸口から、お父様の姿が見えた。


文机の前へ座り、広げた書状へ目を通している。


その斜め後ろには、護衛頭が立っていた。


インファは足を止める。


見つかったら、どこへ行くのか聞かれるかもしれない。


身体を低くし、柱の陰へ隠れた。


柱から柱へ。


庭石の陰から、植木の陰へ。


本人は誰にも気づかれていないつもりだった。


実際には、淡い色の衣が庭の緑の中でよく目立っている。


護衛頭の視線が、書状の向こうを横切る小さな頭を追った。


インファは最後にこちらを確かめると、行廊棟の方へ走っていった。


「旦那様」


低い声に、主人が書状から目を上げた。


「どうした」


「お嬢様が、行廊棟へ向かわれました」


護衛頭は開いた戸口の向こうを見たまま答えた。


「ずいぶんと慎重な歩き方で」


主人は庭へ目を向けた。


柱の陰から、インファの衣の裾だけが見えている。


隠れているつもりらしい。


「何をしていると思う」


「何かをしていることだけは、間違いございません」


護衛頭の眉が、ほんの少し動いた。


息子よりは分かりにくいが、どうやら呆れているらしい。


やがて、行廊棟の戸が開き、小さな姿が中へ消えた。


護衛頭は耳を澄ませた。


走る音は止まり、戸が閉じる。


「シウォンの部屋です」


「危険は」


「ございません。刃物や武具は、すべて別の場所へ保管させております」


主人は手元の書状へ視線を戻した。


「見張りを一人、行廊棟の外へ置け。インファには気づかせるな」


「かしこまりました」


「乳母には居場所を伝えておきなさい。ただし、シウォンとジュノには知らせないように」


護衛頭が主人の横顔を見る。


「よろしいので?」


「屋敷を出たわけではない。居場所も分かっている」


主人は筆を取り、硯の墨へ静かに浸した。


「護衛になる者が、守る相手を見失ったとき、何を見るのか。確かめる機会にはなる」


「ジュノも探すでしょう」


「あの二人が、どう探すかも見てみたい」


筆先が紙へ触れる。


主人は一文字書いてから、口元を緩めた。


「ただし、インファにはあとで話をしなければならないな」


護衛頭は答えなかった。


その無言は、同意だった。


一方、何も知らないインファは、シウォンの部屋へ入っていた。


部屋は小さかった。


壁際に寝具が畳まれ、その向かいに文机がある。


机の上には筆と硯、何度も文字を練習した紙が重ねられていた。


余計な物はない。


遊び道具も、飾りもない。


人形も、色糸も、花を挿す器もなかった。


インファは部屋の真ん中へ立ち、きょろきょろと見回した。


「しずか」


思わず、声が出た。


自分の部屋も、誰もいなければ静かになる。


けれど、乳母の足音がする。


女中が衣を運んでくる。


庭からは風鈴の音が聞こえる。


この部屋には、何の音もない。


シウォンは、いつもこんなところで一人で寝ているのだろうか。


インファは文机へ近づいた。


紙には、同じ文字が何度も書かれている。


太い字。


細い字。


途中で墨がかすれた字。


形が崩れているものもあった。


読めない。


けれど、シウォンが書いたものだとは分かった。


指先で触れようとして、やめる。


先生が、乾いていない墨には触れてはいけないと言っていた。


代わりに寝具のそばへ座った。


紙に包んだ餅菓子を開き、一口かじる。


甘い餡が口の中へ広がった。


「シウォンにも、のこしてあげよう」


半分に割ろうとしたが、餅が指へくっついた。


引っ張る。


伸びる。


さらに引っ張る。


餅はなかなか切れない。


ようやく二つに分かれたときには、大きさがずいぶん違っていた。


インファは二つを見比べ、大きい方を紙の上へ置いた。


「こっちが、シウォン」


少し考える。


大きい方を自分の口へ近づけた。


また考える。


結局、小さい方を食べた。


シウォンが帰ってきたら、驚くだろう。


インファを探したのか聞いてみよう。


そうだと言ったら、どうして一緒にいてくれないのか、もう一度聞く。


そう考えながら待っていた。


最初は、きちんと座っていた。


やがて足が痺れ、寝具へ寄りかかった。


畳まれた布は、思ったより柔らかい。


少しだけなら、と身体を横たえる。


餅菓子の紙を胸元へ置き、丸くなった。


春の日差しが、紙戸を通して部屋へ入ってくる。


暖かい。


目を閉じる。


シウォンが帰ってくるまで。


少しだけ。


本当に、少しだけのつもりだった。


午後の鍛錬を終えたシウォンが母屋へ来たとき、インファの姿はなかった。


今日の最後は、庭を歩くインファへ付き添いながら、周囲の出入口や死角を確認する実習のはずだった。


待たせてはいけないと考え、師匠に言われた時間より少し早く着いた。


インファの部屋の前へ立ち、声を掛ける。


「失礼します」


戸は開いているが、返事がない。


中では乳母が、インファの稽古に使った色糸を片づけていた。


乳母は主人から、インファの居場所は聞いている。


ただし、シウォンとジュノには知らせないよう命じられていた。


シウォンは部屋の中へ視線を走らせた。


寝具。


文机。


小さな衣箱。


窓際に置かれた花。


インファはいない。


「お嬢様は?」


乳母の手が、一瞬止まった。


「お部屋にはおられませんね」


「女中は」


「花の稽古のあと、私が下がらせました」


シウォンは踵を返した。


廊下へ出ると、庭からジュノが歩いてきた。


片手に縄を抱え、もう一方の手には木槌を持っている。


壊れかけた荷車を直していたらしく、額には汗が浮かんでいた。


「おい、シウォン」


ジュノは足を止め、少年の顔を見た。


「何だ、その顔」


「インファがいない」


抱えていた縄が、ジュノの腕から落ちた。


「は?」


木槌も落としかけ、慌てて握り直す。


「部屋にも庭にもいない」


「また勝手に出たのか!」


ジュノの声が廊下へ響く。


乳母が部屋から出てきて、息子を厳しく睨んだ。


「大声を出す前に、門を確認なさい」


「分かってる!」


ジュノは木槌を廊下の端へ置き、前庭へ走り出した。


数歩進んだところで振り返る。


シウォンが、その場に立ったまま部屋の中を見ていた。


「何してる! 早く探せ!」


「最後にいたのがここなら、何か残っている」


言いながら、シウォンは部屋へ戻った。


ジュノは一瞬、何か言い返そうと口を開いた。


けれど言葉を飲み込み、先に門へ走っていく。


シウォンは、インファが座っていた場所へ膝をついた。


敷物の端が、少しだけめくれている。


色糸が何本か、籠の外へ落ちている。


花の稽古に使ったらしい小さな枝は、水を張った器へ挿されていた。


窓の下には何もない。


外へ下りた跡もなかった。


視線を動かす。


文机の近くに、淡い桃色の糸が一本落ちている。


インファが花の稽古に使っていた色糸だった。


シウォンはそれを拾い上げ、籠のそばへ戻した。


インファがここを出たことは分かる。


だが、どちらへ向かったのかまでは分からなかった。


部屋から出ると、ちょうどジュノが戻ってきた。


走ってきたため肩が大きく上下し、額の汗が頬まで流れている。


「正門は通ってない。裏門もだ。門番がずっといた」


「秘密の道は」


「塞がったままだ」


ジュノは膝へ手をつき、息を整えた。


「念のため見た。石も動いてない」


「なら、屋敷の中にいる」


「そんなの分かってる!」


声を上げてから、ジュノは唇を噛んだ。


屋敷の中にいる。


それでも、安心できない。


池へ落ちているかもしれない。


倉へ閉じ込められているかもしれない。


高い場所へ登り、下りられなくなっているかもしれない。


インファには、そのどれもあり得る。


「俺は池と井戸を見る」


ジュノは身体を起こし、庭へ向かおうとした。


「待て」


シウォンが呼び止める。


ジュノの足が止まり、苛立った顔が振り返った。


「何だよ」


「最後に見たのは誰だ」


「知らない」


「聞いてくる」


「お前に言われなくても分かってる!」


ジュノは怒鳴ったが、先ほどとは反対の方向へ走り出した。


池ではなく、まず屋敷の者へ聞くことにしたらしい。


シウォンも庭へ下りた。


土を見る。


朝に掃かれた庭には、大人の草履の跡や、荷を運んだ車輪の跡が残っていた。


その中から、小さな足跡を探す。


インファの履物の大きさは覚えている。


足跡は母屋の前から庭へ続き、途中で何度も方向を変えている。


物置の前で止まる。


戸を開けた跡。


中へ二歩入って、すぐに戻っている。


次は、屏風を置いた部屋。


そこから台所へ。


行動に迷いがある。


何かを探していたのか。


それとも、隠れる場所を選んでいたのか。


シウォンは足跡を追った。


途中で、土が乾いた廊下へ上がっている。


そこから先は見えない。


周囲を確認すると、廊下の柱の低い位置に、白い粉が僅かについていた。


指先でなぞり、匂いを確かめる。


台所で餅菓子を受け取った際、インファの手についた粉らしい。


インファはここで柱の陰へ身を寄せたらしい。


柱の向こうからは、主人の部屋が見える。


シウォンが顔を上げた。


開いた戸口の内側では、主人が文机へ向かっている。


その後ろに、師匠が立っていた。


二人とも、普段と変わらない。


インファがいなくなったことを、知らないのだろうか。


それとも。


「親父!」


庭の向こうから、ジュノの声がした。


ジュノは女中を一人連れ、こちらへ走ってくる。


途中で足を滑らせそうになり、両腕を広げて踏みとどまった。


師匠の眉が、僅かに動く。


「旦那様の御前だ。護衛頭と呼べ」


低い声だった。


「今はそんなこと言ってる場合じゃない!」


ジュノは主人の部屋の前まで来ると、父を見上げた。


「インファを見なかったか」


「最後に見た者は確認したか」


問いに対し、問いが返ってくる。


ジュノの眉が跳ね上がった。


「知ってるなら答えろよ!」


「まず、聞かれたことに答えろ」


父の声は変わらない。


ジュノの拳が握られる。


今にも食ってかかりそうだったが、隣に主人がいることを思い出したらしい。


歯を食いしばり、どうにか声を抑える。


「花の稽古の先生が帰ったあと、女中が一人見てる。そのあと、台所で餅を一つもらった」


ジュノの後ろにいた女中が、慌てて頭を下げた。


「申し訳ございません。お部屋に戻られたとばかり……」


シウォンは、柱に残っていた餅の粉を思い出した。


物置へ入った跡。


屏風の後ろ。


台所で受け取った餅。


外へは出ていない。


事故ではなく、自分で隠れた可能性が高い。


「インファは、何か言っていましたか」


シウォンが女中へ尋ねた。


女中は記憶を探るように目を伏せた。


「いいえ。餅菓子を一つ欲しいと、それだけでございました」


「受け取って、すぐに食べましたか」


「いいえ。紙に包んだまま、大切そうに抱えて行かれました」


ジュノが眉を寄せた。


「一つだけ?」


「はい。お一つだけでございます」


ジュノは額へ手を当て、その場を二歩、三歩と行き来した。


怒っているようにも見える。


けれど、黒い瞳は忙しく動き、朝からのインファの言葉を一つずつ拾い直していた。


シウォンが一緒にいてくれない。


自分も仕事で遊べない。


秘密の道は塞がれている。


ジュノはふいに足を止めた。


「前にもあった」


「何が」


「インファが三つのとき、乳母に昼寝をしろって言われて、いなくなったことがある」


ジュノは記憶をたどるように、目を細めた。


「あのときは、皆が庭や物置を探してる間、乳母の衣箱の後ろに隠れてた」


「どうして、そこに」


「乳母を困らせたかったからだよ。でも、本当に見つからなくなるのは怖かった。だから乳母が必ず戻る部屋にいた」


シウォンは黙ってジュノを見た。


ジュノは口元へ手を当て、さらに考えを進める。


「その次は、俺に木登りを止められて、厩の餌箱に隠れた。俺が必ず馬の世話に行くって知ってたからだ」


「なら、今回も」


「ああ」


ジュノの目が上がった。


「インファは、ただ隠れたいんじゃない。困らせた相手に見つけてもらいたいんだ」


女中が抱えていた空の盆へ、ジュノは視線を移した。


「餅も一つしか持っていない。長く隠れるつもりなら、あいつはもっと欲しがる。それに、秘密の道の石も動いてなかった」


ジュノは腕を組んだ。


「旦那様との約束を破らず、少しだけ俺たちを困らせて、最後には見つけてもらえる場所にいる」


「誰に見つけてほしいんだ」


ジュノは呆れたようにシウォンを見た。


「朝から、お前が一緒にいてくれないって拗ねてたんだぞ」


シウォンの目が動いた。


「俺に見つけてほしいのか」


「たぶんな」


ジュノは言い切らず、眉を寄せた。


「でも、俺には場所までは分からない。お前が必ず行く場所で、インファも知っているところだ」


「俺が必ず行く場所……」


「鍛錬のあと、どこへ戻る」


「俺の部屋だ」


口にした瞬間、数日前の夕方を思い出した。


行廊棟へ戻る途中、背後から小さな足音がついてきた。


こちらが止まれば、足音も止まる。


廊下を曲がれば、少し遅れて淡い色の衣の裾が柱の陰から覗いた。


インファだった。


隠れているつもりらしかったので、気づかないふりをした。


あの日、インファはシウォンが部屋へ入るところまで見ている。


シウォンは顔を上げた。


「インファは、俺の部屋を知ってる」


ジュノの眉が跳ねた。


「だったら、そこだ!」


二人が同時に、行廊棟の方を見る。


次の瞬間、シウォンは走り出していた。


「待て!」


ジュノもあとを追う。


二人の足音が庭を横切っていく。


主人は文机から顔を上げ、その背中を見送った。


「どう見る」


主人が尋ねる。


護衛頭は、庭へ残った二人分の足跡を見た。


「ジュノは人の言葉と、お嬢様の考えを追いました」


それから、庭に残る小さな足跡へ視線を移す。


「シウォンは、通った跡を追っております」


「どちらが先に見つけると思う」


護衛頭の口元が、ごく僅かに緩んだ。


「二人とも、同時でしょう」


行廊棟へ向かう途中、シウォンは何度か足を止めた。


庭石の脇には、小さな履物が土を擦った跡。


低い枝には、衣から抜けた淡い色の糸が引っかかっている。


廊下へ上がったところには、土のついた小さな足跡が半分だけ残っていた。


行廊棟へ近づくほど、痕跡は増えていく。


隠れているつもりでも、インファは自分の通った場所を、ひどく丁寧に知らせていた。


「こっちだ」


シウォンが廊下へ上がる。


後ろから追いついたジュノは、息を切らしながら周囲を見た。


「本当に、お前の部屋なのか」


「まだ分からない」


「分からないのに走ったのかよ」


「お前が言った」


「俺のせいみたいに言うな!」


シウォンの部屋が見えた。


戸は、閉じているように見えた。


けれど、いつもとは少し違った。


シウォンは部屋を出るとき、戸を最後まで閉める。


風で開かないよう、決まった位置まで押す。


今は、指一本ほどの隙間が空いていた。


シウォンは足音を消した。


ジュノも何かを感じ取ったらしく、文句を言うのをやめる。


二人で戸の前へ立つ。


中から物音はしない。


シウォンは指先を戸へ掛け、ゆっくりと開いた。


春の日差しが、細い線となって部屋へ差し込む。


文机。


重ねた紙。


畳んでおいたはずの寝具。


その寝具が、半分ほど崩れている。


上には、小さな身体が丸くなっていた。


淡い衣。


艶のある黒髪。


片方の頬には、餅の白い粉がついている。


インファだった。


静かな寝息を立て、胸元には餅菓子を包んでいた紙を抱えている。


「……いた」


ジュノの肩から、一気に力が抜けた。


その場へ座り込みそうになり、戸口へ手をつく。


深く息を吐いてから、寝具の上で丸くなっているインファを見た。


「本当に、ここにいたのか」


推理が当たったことへの驚きよりも、無事だったことへの安堵が声に滲んでいた。


シウォンは答えず、部屋へ入った。


「でも、何で寝てるんだよ」


ジュノは声を抑えながら、そのあとを追う。


「待っている間に眠ったんだろ」


「それは見れば分かる」


ジュノは眉を寄せた。


インファは、自分の部屋にいるときと変わらない顔で眠っている。


初めて入ったはずの部屋なのに、警戒した様子は少しもなかった。


「ずいぶん、安心して寝てるな」


その言葉に、シウォンの足が止まった。


「寝具があったからだ」


「そういう意味じゃない」


「なら、どういう意味だ」


ジュノは答えなかった。


自分でも、うまく説明できなかった。


インファが無事だった。


それだけでいいはずなのに、シウォンの部屋を隠れ場所に選び、シウォンを待ちながら眠っていたことが、なぜか少しだけ面白くない。


「……別に」


ジュノは顔をそらし、聞こえないほど小さな声で付け加えた。


「見つかったなら、それでいい」


シウォンは寝具のそばへ膝をついた。


インファの顔を覗き込み、呼吸を確かめる。


頬の色は悪くない。


怪我もない。


ただ眠っている。


確認すると、固くなっていた肩が下がった。


「大丈夫か」


ジュノが後ろから尋ねた。


先ほどまでの棘は消え、声にはまだ不安が残っていた。


「寝てるだけだ」


ジュノはシウォンの肩越しに、インファの顔を覗き込んだ。


寝息に合わせ、小さな唇が少し開いている。


ようやく安心したのか、ジュノは額へ手を当て、もう一度大きく息を吐いた。


「こいつ……」


叱る言葉を探しているらしい。


けれど眠っている顔を見ると、声を荒らげることもできなかった。


シウォンはインファの胸元にある紙へ目を向けた。


そっと取ろうとすると、インファの指が動いた。


何かを探すように寝具の上を彷徨い、シウォンの袖へ触れる。


小さな指が、きゅっと布をつかんだ。


シウォンの手が止まる。


洪家で迎えた最初の夜と同じだった。


眠ったまま袖を離さず、乳母が一本ずつ指をほどこうとすると、眉を寄せた小さな手。


「……シウォン」


眠ったまま、名前を呼んだ。


「いる」


シウォンは小さく答えた。


ジュノが隣から二人を見た。


「寝てても、お前を探すのか」


呆れたような声だったが、その目にはまだ、インファが無事だったことへの安堵が残っている。


その声を聞いたインファの瞼が、ゆっくりと開いた。


まだ夢の中にいるような目で、目の前の少年を見上げる。


「みつけた?」


「見つけた」


「おそい……」


インファはそう言うと、もう一度目を閉じた。


袖をつかんだ手だけは離さない。


シウォンは、その指を見下ろしていた。


「おい」


ジュノが隣へしゃがみ込む。


「いつまでそうしてるんだ」


「離さない」


「一本ずつ外せばいいだろ」


「起きる」


「起こせよ。皆、探してるんだぞ」


「泣くかもしれない」


「だからって――」


ジュノは言いかけ、口を閉じた。


インファが泣くところを想像したらしい。


しばらく黙ったあと、膝を抱えてその場へ座り込む。


「……ずるいぞ、お前」


「何が」


「何でもない」


廊下から、ゆっくりと足音が近づいてきた。


主人と、護衛頭だった。


二人の姿を見た途端、ジュノは立ち上がった。


「護衛頭!」


大声を出しかけ、眠っているインファを思い出して途中で声を抑える。


それでも怒りは抑えられず、父へ詰め寄った。


「知ってたんだろ」


師匠は、息子の顔を静かに見下ろした。


「ああ」


あまりにも簡単に認められ、ジュノは一瞬、言葉を失った。


すぐに顔を赤くする。


「だったら、どうして教えなかった!」


「危険がなかったからだ」


「そういう問題じゃない!」


「では、どういう問題だ」


「俺たちが、どれだけ探したと思ってるんだ!」


護衛頭は、息子の泥のついた裾と、汗に濡れた額を見た。


それから部屋の中へ目を向ける。


シウォンも、鍛錬のあとに屋敷中を走ったため、息が僅かに乱れていた。


片膝をつき、インファに袖を握られたまま動けずにいる。


「探させたのだ」


低く、落ち着いた声だった。


ジュノの眉が寄る。


師匠はまず、息子へ視線を向けた。


「ジュノ。お前が屋敷の者から話を聞かなければ、シウォンはここへたどり着くのが遅れていただろう」


次に、シウォンを見る。


「シウォン。お前が跡を見つけなければ、ジュノの考えは確信には変わらなかった」


二人は黙って互いを見る。


「守るためには、自分にないものを持つ者の力を借りることも必要だ」


ジュノは唇を結び、隣に座るシウォンを見た。


シウォンも、顔を上げる。


互いに礼を言う気はないらしい。


それでも先ほどまでのように、相手を邪魔だとは思っていなかった。


主人は二人の前へ歩み寄った。


「二人とも、今の言葉を忘れるな」


「はい」


シウォンが答え、少し遅れてジュノも頭を下げた。


主人は眠るインファへ視線を戻した。


「さて」


声の調子が、少し変わる。


「次は、この子との話だな」


インファがきちんと目を覚ましたのは、自分の部屋へ運ばれてからだった。


もっとも、運ぶまでにも時間がかかった。


袖をつかんだ指を乳母が一本ずつ外そうとすると、インファが眉を寄せる。


シウォンが「ここにいる」と声を掛けると、また穏やかな顔へ戻る。


結局、シウォンも一緒に母屋まで歩くことになった。


目を覚ましたインファは寝具の上へ座り、正面に父、右に乳母、ジュノ、左にシウォンという、逃げ道のない形で囲まれていた。


父の護衛頭は、戸口の外に立っている。


インファは順番に全員の顔を見た。


誰も笑っていない。


「インファ」


父に名を呼ばれ、小さな肩が揺れた。


「今日は、どこにいた」


インファは膝の上で指を組んだ。


「シウォンのおへや」


「誰かに、そこへ行くと伝えたか」


首を横へ振る。


「どうして、何も言わずに隠れた」


インファはすぐには答えなかった。


視線を下げ、組んだ指を何度も動かす。


やがて、小さな声で言った。


「でも、おそとには、でてないよ」


父は何も言わず、続きを待った。


「ひみつのみちも、とおってない。おそとにも、でてないよ」


少しずつ声が大きくなる。


自分が約束を守ったことを、分かってもらおうとしているらしい。


「だから、おとうさまとのおやくそく、まもったよ」


言い終えると、父の顔を見上げた。


褒めてもらえるとは思っていない。


それでも、怒られる理由はないと思っている目だった。


父は娘の前へ身を寄せた。


「確かに、屋敷の外へは出ていない」


インファの顔が少し明るくなる。


「だが、インファ」


父はシウォンとジュノへ手を向けた。


「お前がどこにいるのか分からず、シウォンとジュノは屋敷中を探した」


インファが二人を見る。


ジュノの衣の裾には土がついている。


額の汗も、まだ乾ききっていない。


シウォンも鍛錬着のままで、膝や袖に土がついていた。


インファの視線が、シウォンの袖で止まる。


自分が握っていたところに、細かな皺が残っている。


「皆を心配させないことも、約束ではなかったか」


父の声は厳しくなかった。


だからこそ、インファは何も言い返せなかった。


指先が、膝の上で小さく縮こまる。


「シウォン」


呼ばれた少年が、背筋を伸ばした。


インファは不安そうに見上げる。


「こまった?」


シウォンは答える前に、一度主人を見た。


それから、インファへ視線を戻す。


「困りました」


「いっぱい?」


「はい」


短い返事だった。


けれど、いつもの平らな声とは少し違った。


インファの胸が痛くなる。


「しんぱいした?」


「しました」


シウォンの手が、膝の上で握られる。


自分の気持ちを言葉にすることに、まだ慣れていない。


それでも目をそらさず、もう一度言った。


「見つからなかったので、心配しました」


インファの唇が、しょんぼりと下がった。


次にジュノを見る。


「ジュノおにいちゃんも?」


「当たり前だろ!」


ジュノは勢いよく答えた。


膝へ置いていた拳が持ち上がる。


けれどインファの顔がさらに曇ると、すぐに声を落とした。


「……池に落ちたかもしれないって思ったし。倉に閉じ込められたかもしれないし。秘密の道の石を動かそうとして、怪我したかもしれないし」


「おしてないよ」


「昨日、押してただろ!」


「きょうは、おしてないもん」


「今日じゃなければいいって話じゃない!」


ジュノの声がまた大きくなる。


乳母が横から息子の腕をつねった。


「痛っ」


「お嬢様のお部屋で大声を出すものではありません」


「インファを叱ってるのに、何で俺が怒られるんだよ」


「お前も叱られることをしているからです」


ジュノは腕を押さえ、不満そうに口を閉じた。


その姿を見て、インファの口元が少しだけ緩む。


しかし父に見られていることに気づき、すぐに真面目な顔へ戻った。


「ごめんなさい」


今度は、はっきりと言った。


父へ。


乳母へ。


ジュノへ。


最後に、シウォンを見る。


「もう、かくれない」


シウォンの切れ長の目が、僅かに細められた。


「本当ですか」


「ほんと」


「秘密の道にも近づかないでください」


「それは……」


インファの視線が横へ動く。


ジュノがすかさず身を乗り出した。


「今、約束するところだろ!」


「ちかづくだけなら」


「駄目だ!」


「みるだけ」


「それで昨日、石を押してただろ!」


「ちょっとだけだもん」


「ちょっとでも押したんだろ!」


二人の声が部屋へ響く。


父は額へ手を当てた。


乳母も同じように息を吐く。


シウォンは言い争う二人を見ていたが、やがてインファへ声を掛けた。


「お嬢様」


インファの顔が止まる。


また、その呼び方だった。


先ほどまでの反省した表情が消え、代わりに不満が戻ってくる。


「それも、やだ」


「何がですか」


「おじょうさまっていうの」


「お嬢様ですから」


「さいしょは、インファっていった」


シウォンが黙る。


祭りの日。


何者かも知らず、ただ迷子になっていた少女。


あのときは名前を呼んだ。


屋敷へ来たあとも、何度か呼び捨てにした。


けれど今は、お嬢様と護衛見習いである。


言葉遣いを覚え、礼を覚え、役目を覚えなければならない。


そう思っていた。


インファは寝具の上で少し前へ進み、シウォンの袖をつかんだ。


「ごえいになったら、いっしょにいられないの?」


「そうではありません」


「でも、いないよ」


シウォンは答えられなかった。


鍛錬がある。


学ばなければならない。


今の自分では、インファを守れない。


だから離れている。


けれど、それを五歳のインファへどう説明すればよいのか分からない。


主人が二人を見て、静かに口を開いた。


「シウォン」


「はい」


「礼を尽くすことと、相手を遠ざけることは違う」


シウォンは主人を見る。


「護衛になるために学ぶのは必要だ。だが、守る相手が何を思っているのかを知らなければ、よい護衛にはなれない」


シウォンは、自分の袖を握る小さな手へ視線を落とした。


インファは返事を待っている。


「鍛錬が終わったあとなら」


シウォンはゆっくりと言った。


「少し、一緒にいられます」


インファの目が明るくなる。


「ほんと?」


「ああ」


返事をしたあと、師匠や主人から言葉遣いを注意されるかもしれないと思った。


けれど、誰も何も言わなかった。


「まほうもする?」


「手品なら」


「きょう?」


シウォンは窓の外を見た。


日が傾き始めている。


今日は、もう道具の手入れもしなければならない。


「明日なら」


「ぜったい?」


「鍛錬が終わったら」


インファは小指を立てた。


「おやくそく」


シウォンは、その小さな指を見た。


約束。


軽く口にしてよいものではない。


それでもシウォンは手を上げ、自分の小指を絡めた。


「約束する」


インファの顔に、花が咲くような笑みが広がった。


「じゃあ、インファも、もうかくれない」


「秘密の道にも近づくなよ」


ジュノが横から付け加える。


「ジュノおにいちゃんは、うるさい」


「何だと!」


「お父様、ジュノおにいちゃんが、おこった」


「誰のせいだと思ってるんだ!」


また二人の声が重なる。


乳母が息子の腕をつねる。


主人はとうとう声を出して笑った。


戸口では、護衛頭が、ほんの僅かに目を細めていた。


その夜。


行廊棟の小さな部屋で、シウォンは寝具を畳み直していた。


インファが横になったせいで、端が崩れている。


餅菓子を包んでいた紙は、文机の上に置かれていた。


中には、少し形の崩れた餅が半分残っている。


――こっちが、シウォン。


そんな声が聞こえた気がした。


シウォンは餅を見つめた。


自分のために残された食べ物。


町では、食べ物が残っていれば、誰かに取られる前に食べた。


自分のために残されているなどと、考えたことはなかった。


餅を一口で食べる。


少し硬くなっていたが、甘かった。


寝具を持ち上げると、その下から小さなものが落ちた。


淡い桃色の花びらだった。


インファの髪飾りについていた花。


あの小さな身体と一緒に、シウォンの部屋まで入り込んだらしい。


シウォンは花びらを拾い、戸口から外を見た。


返しに行くには、もう遅い。


明日でいい。


そう思ったのに、花びらを文机の上へ置くことはできなかった。


風が入れば、どこかへ飛んでいってしまうかもしれない。


シウォンは衣の合わせへ手を入れた。


指先に、折り畳まれた紙が触れる。


主人から渡された、自分の名が書かれた紙だった。


紙を懐から取り出し、折り目をゆっくりと開く。


そこには、まだ見慣れない二つの文字があった。


時遠。


遠くを見て生きなさい。


主人の声を思い出しながら、シウォンは文字の脇へ花びらを置いた。


潰さないように紙を折り直し、もう一度、衣の内側へしまう。


銀の鈴の隣だった。


綿を詰められた鈴が、紙へ触れて揺れる。


音はしない。


それでも、部屋はこれまでのように静かではなかった。


――みつけた?


――見つけた。


眠そうな声と、袖を握った小さな手の感触が、いつまでも残っていた。


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