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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第三章 鳴らない鈴

朝の風が、開いた戸口から部屋へ入ってくる。


衣の内側で、小さな銀の鈴が揺れた。


――りん。


その音に反応したのか、眠っていたインファが小さく身じろぎし、シウォンの袖を握っていた指に、再び力がこもる。


主人は娘の手へ目を落とし、わずかに笑った。


「まずは、この手を離してもらわなければならないな」


乳母が呼ばれ、眠ったままのインファを抱き上げようとしたが、小さな指はなかなかシウォンの袖から離れなかった。


一本ずつ、ゆっくりとほどいていく。


最後の指が離れた瞬間、インファが眉を寄せた。


「……いっちゃ、だめ」


寝言だった。


乳母は困ったように主人を見た。


主人は何も言わず、シウォンへ視線を向ける。


シウォンは皺のついた袖を見下ろした。


「行かない」


小さく答える。


それを聞いたインファの眉間から、力が抜けた。


乳母に抱かれたまま、再び穏やかな寝息を立て始める。


インファが三歳の冬に生母を亡くしてから、乳母は泣く夜も、熱を出した朝も、片時も娘のそばを離れなかった。


インファにとって、その腕は、わずかに残る母の記憶よりも確かな帰る場所だった。


主人はその様子を確かめると、シウォンへ言った。


「ついてきなさい」


「どこへ」


「私の部屋だ」


シウォンは立ち上がった。


一晩中、壁へ背を預けていたせいで、足が少し痺れている。


それを悟られないよう重心を整え、主人のあとを歩いた。


屋敷の廊下は、朝の仕事を始めた家人たちが行き交っていた。


水を運ぶ者。


膳を抱える者。


庭へ向かう者。


誰もが主人へ頭を下げ、その後ろを歩くシウォンへ、ちらりと目を向ける。


昨日の騒ぎは、すでに屋敷中へ広まっているらしい。


見知らぬ子ども。


町から来た盗人。


お嬢様が連れて帰った少年。


視線だけで、いくつもの言葉が聞こえた。


シウォンは顔を上げたまま歩いた。


廊下の幅。


曲がり角。


開いている戸。


庭へ下りられる場所。


昨日も確認したはずなのに、歩くたび無意識に見直している。


主人は振り返らなかった。


それでも、シウォンが何を見ているのかは分かっているようだった。


部屋へ入ると、主人は文机の前へ座った。


壁際には書物が並び、机の上には紙と筆、硯が置かれている。


どれもシウォンには縁のない物だった。


紙一枚でも、町へ持っていけばいくらになるだろう。


筆は。


硯は。


部屋を見渡しただけで、値打ちのありそうな品がいくつも目に入る。


主人は、向かいへ座るよう示した。


シウォンはすぐには従わなかった。


戸までは五歩。


背後には窓。


庭には人の気配がある。


ここで何かあれば、正面の戸より、窓から出た方が早い。


「そこへ座りなさい」


もう一度言われ、シウォンはようやく腰を下ろした。


主人は紙を広げると、筆先を墨へ浸した。


「名は、シウォンだったな」


「ああ」


筆が紙へ触れる。


黒い線が、迷いなく引かれていく。


シウォンには、それが何を表しているのか分からなかった。


絵とも模様とも違う。


けれど主人の手は、何か決まった形をなぞっている。


二つの形を書き終えると、主人は紙をシウォンへ向けた。


「これを、君の名の字とする」


「字?」


「家の記録へ残すためのものだ」


シウォンは紙を見下ろした。


二つの黒い形。


昨日まで、自分の名は音でしかなかった。


誰かに呼ばれれば振り向く。


それだけのものだった。


紙へ書けるものだとは、考えたこともなかった。


「時遠」


主人が、指先で一文字ずつ示す。


「時に、遠いと書く」


「何か意味があるのか?」


「遠くを見て生きなさい、という意味だ」


シウォンは顔を上げた。


主人の表情に、冗談を言っている様子はない。


「遠くなんか見ても、腹は膨れない」


「今日の腹だけを見るなら、盗む方が早いだろうな」


主人は穏やかに答えた。


「だが明日の腹も、その次の日の腹も満たしたいなら、別の生き方を覚えなければならない」


シウォンは黙った。


「昨夜も言ったが、すぐに信じられるとは思っていない。まずは、自分の目で確かめればよい」


主人は紙を折り、シウォンへ差し出した。


「これは君の名だ。なくさないように」


受け取ろうとして、シウォンの手が止まる。


上等な紙だった。


名前を書くためだけの紙に、こんな物を使う理由が分からない。


一瞬、売れるか? と思った。


「売るなよ」


主人が言った。


シウォンは顔を上げた。


「顔に書いてある」


主人は少しだけ目を細めた。


笑っているらしい。


シウォンは折られた紙を受け取り、衣の内側へ入れた。


鈴の隣だった。


朝食のあと、洪家の者たちが前庭へ集められた。


門番。


庭や馬の世話をする者。


台所で働く者。


母屋へ仕える女たち。


屋敷中の者が仕事の手を止め、縁側の前へ並んでいる。


シウォンは主人の半歩後ろに立っていた。


視線が集まる。


昨日よりも多い。


囲まれてはいないが、どこへ動いても誰かの目に入る。


シウォンは表情を変えず、全員の立ち位置を確かめた。


門へ近い者。


足の速そうな者。


腰に棒を差している者。


こちらを警戒している者。


面白そうに眺めている者。


その中に、腕を組んで睨んでいる少年がいた。


ジュノだった。


隣には、乳母に手を引かれたインファがいる。


朝の支度を済ませたインファは、きれいに髪を結われ、淡い色の衣を着ていた。


けれど、あくびだけは隠しきれていない。


シウォンを見つけた途端、大きな瞳が輝いた。


「あ、おにいちゃん!」


声を上げて駆け出そうとしたが、乳母に手をつかまれているため、その場で身体だけが前へ傾いた。


主人が皆を見渡した。


「昨日の騒ぎについては、すでに聞いている者も多いだろう」


庭が静まる。


「この少年は、昨日、町でインファと出会い、屋敷まで連れ帰った」


ジュノの眉が動いた。


連れ帰ったという言葉に納得がいかないらしい。


正しくは、インファが連れてきたのだと言いたそうな顔だった。


主人は続ける。


「名は、シウォン」


インファが瞬いた。


「シウォン……?」


初めて聞いた名前を確かめるように、小さな声で繰り返す。


「シウォン」


今度は少し嬉しそうだった。


名前が分かったことが、それほど嬉しいらしい。


シウォンはインファへ視線を向けた。


目が合うと、インファは満面の笑みを浮かべた。


ジュノの顔が、さらに険しくなる。


主人は一度シウォンを振り返った。


「今日から洪家で暮らし、働きながら学ばせる。家の記録には、時遠の字を用いる」


家人たちの間で、わずかなざわめきが起きた。


「そして、この者をインファの護衛として育てる」


今度のざわめきは、先ほどより大きかった。


「護衛?」


ジュノが、誰よりも早く声を上げた。


主人はジュノへ目を向けたまま、話を続ける。


「正確には、まだ見習いだ。十歳の子ども一人に、インファの命を預けるつもりはない」


「だったら、どうしてこいつなんですか」


「ジュノ」


乳母がジュノの二の腕を叩いて、たしなめる。


けれどジュノは引かなかった。


「昨日まで盗みをしていた奴です。そんな奴を、お嬢様のそばに置くなんて」


シウォンはジュノを見た。


間違ってはいない。


自分でも同じ立場なら、そう言うだろう。


シウォンにも、主人の考えは分からなかった。


昨日まで盗みをしていた人間を、どうして娘のそばへ置こうとするのか。


何かを試されているのか。


それとも、逃げられないよう役目を与えただけなのか。


主人の横顔を盗み見る。


だが、そこには企みも、からかうような色も見つからない。


ただ本当に、シウォンを護衛にするつもりでいるらしかった。


それが、かえって落ち着かなかった。


疑われることには慣れている。


捕らえられることも、追い払われることも想像できる。


けれど、信じる理由もない相手から、先に役目を与えられることだけは、どう受け取ればよいのか分からなかった。


主人は怒ることなく、ジュノの言葉を聞いた。


「昨日の市場で、インファは一人になった」


ジュノの拳が固く握られる。


「大勢の人間がいる中で、最初に迷子だと気づいたのはシウォンだ」


「それは、盗む物を探してたからです」


「そうだ」


主人は否定しなかった。


「この者は盗むために、周囲の人の動き、逃げ道、死角を常に見ていた」


シウォンの瞳が、わずかに揺れる。


「昨日、屋敷へ入ってからも同じだ。誰が武器を持っているか。どこから逃げられるか。自分へ近づく者が、次にどう動くか。観察し、次に自分がとるべき行動を考えていた」


ジュノの手が、無意識に自分の肩へ触れた。


昨日、襟をつかもうとしたとき。


シウォンは自分の顔ではなく、肩と手元を見ていた。


「用心深さ。警戒心。人の動きを読む力。そして、危険な状況で慌てずに判断する力」


主人の声が庭へ響く。


「使い方を誤れば、盗人の技になる。だが正しく使えば、人を守る力になる」


「でも――」


「昨日のことがなくとも、そろそろインファには専属の護衛をつけるつもりだった」


主人の目が娘へ向く。


「昨日の一件で、先延ばしにはできないと分かった」


インファは、自分の話をされていると気づいているのかいないのか、シウォンばかりを見ている。


「シウォンには今日から、学問と護衛の修行をさせる。年長の護衛のもとで学び、いずれ一人でインファを守れる者にする」


ジュノは唇を噛んだ。


「俺だって、インファを守れます」


主人はしばらくジュノを見つめた。


「お前がインファを大切に思っていることは、よく分かっている」


ジュノの表情が、わずかに揺れる。


「だが、お前にはお前の仕事がある。インファのそばにいることだけが、この家を守ることではない」


主人は庭に並ぶ家人たちへ目を向けた。


「庭も、倉も、馬も、門も、すべて洪家の一部だ。いずれお前には、皆のように、この家のことを広く覚えてもらわなければならない」


「でも……」


「インファを守る者が必要なように、この家を支える者も必要だ」


責めるような声ではなかった。


むしろ、ジュノにも果たすべき役目があるのだと、静かに言い聞かせる声だった。


ジュノはすぐには納得できない顔をしていた。


それでも、主人の言葉を否定することはできず、固く結んでいた拳をゆっくりと下ろした。


主人は皆へ向き直る。


「シウォンは洪家の者として扱う。これまでの行いが、なかったことになるわけではない。だからこそ、これからの行いで信を得るように」


言いながらシウォンへ顔を向ける。


「分かったか」


「ああ」


シウォンの返事を聞いた家人たちの顔に緊張が走る。


乳母が額を押さえ眉根を寄せた。


主人は、ほんの少しだけ眉を上げた。


「返事は」


シウォンは周囲を見る。


昨日までなら、誰かへ頭を下げる理由などなかった。


頭を下げた瞬間に殴られることもある。


視線を外した隙に、持っている物を奪われることもある。


けれどここでは、そうではないらしい。


少し迷い、シウォンは頭を下げた。


「……分かりました、旦那様」


主人は頷いた。


その瞬間、インファが乳母の手を振りほどいた。


「シウォン!」


庭を駆けてくる。


乳母が止める間もなかった。


インファはシウォンの前まで来ると、両手で彼の袖をつかんだ。


「ずっといっしょ?」


「ずっとではない」


シウォンが答えると、インファの顔が曇った。


「どうして?」


「学ぶ時間と、鍛える時間がある」


「じゃあ、それがおわったらいっしょ?」


答えに困り、シウォンは主人を見た。


主人は助けるつもりがないらしい。


穏やかな顔で見ている。


「……たぶん」


「やったあ!」


インファは飛び跳ねた。


ジュノは、その様子を離れた場所から睨んでいた。


面通しが終わると、主人はシウォンへ言った。


「書堂へ行く前に、学ぶための道具を取ってきなさい」


「道具?」


「お前の部屋に用意させてある。場所は案内させよう」


家人の一人に連れられ、シウォンは母屋を離れた。


庭の端を通り、門に近い行廊棟へ向かう。


そこには倉や道具置き場と並んで、屋敷で働く者たちの部屋が並んでいた。


家人は、そのうちの一室の前で足を止めた。


「ここがお前の部屋だ」


戸を開けられても、シウォンはすぐには中へ入らなかった。


自分の部屋。


その言葉が、うまく理解できなかった。


昨夜はインファの部屋で、壁へ背を預けたまま朝を迎えた。


今までだって、眠る場所はあっても、自分だけに与えられた部屋などなかった。


「入らないのか」


促され、シウォンは慎重に敷居をまたいだ。


部屋の中は、シウォンがこれまで寝たどの場所より整っていた。


畳まれた寝具。


洗われた衣。


替えの下着。


布靴。


壁際には小さな文机が置かれ、その上に筆と硯、紙が揃えてある。


戸や壁に穴はない。


床も乾いている。


雨が降っても濡れない。


風が吹いても、寝床へ土埃が入ることはない。


シウォンは新しい衣を手に取り、布の厚さを確かめた。


衣も靴も、文机の道具も、町へ持っていけば値がつく。


反射的に売値を考え、そこで手を止めた。


昨夜、主人は言った。


働いた分だけ食べ、自分で稼いだ中から仲間へ届ければよい、と。


盗まなくても、金が手に入る。


働けばいい。


それが本当なら。


シウォンは衣を元の場所へ戻し、内側から、先ほど主人に渡された紙を取り出した。


時遠。


自分の名前。


まだ読むことはできない。


だが、その形は覚えていた。


シウォンは紙を丁寧に折り直して懐へ戻すと、文机の上の筆と紙を持って部屋を出た。


書堂では、すでにジュノとインファが座っていた。


先生は白い髭を短く整えた、細身の男だった。


シウォンを見ると、驚きも嫌悪も見せず、空いている席を示す。


インファの隣だった。


その反対側にはジュノが座っている。


シウォンが腰を下ろすと、ジュノは露骨に場所をずらした。


インファは反対に、ぴたりと近づいた。


「シウォン、ここ」


「座ってる」


「もっとこっち」


「狭い」


「だいじょうぶ」


何が大丈夫なのかは分からない。


先生が咳払いをした。


「お嬢様。まずは前を向きましょう」


「はあい」


インファは素直に返事をしたが、顔だけはまだシウォンへ向いていた。


先生はシウォンの前へ紙を置いた。


「筆を持ったことは」


「ない」


「文字は読めますか」


「読めない」


ジュノが鼻で笑う。


「そんなことも知らないのか」


シウォンは返事をしなかった。


先生が筆の持ち方を見せる。


指を添える位置。


筆を立てる角度。


墨の含ませ方。


一度見れば、十分だった。


シウォンは筆を持ち、主人から渡された紙を横へ置いた。


時遠。


最初の線を引く。


太すぎた。


次は細すぎた。


紙へ墨が滲む。


「下手だな」


ジュノが言った。


シウォンは何も答えず、もう一度書いた。


一度目より形が近づく。


三度目。


四度目。


線の長さと位置を確かめながら、同じ形を繰り返す。


ジュノが自分の課題を終え、隣を見る。


先ほどまで歪んでいた文字が、少しずつ見本へ近づいている。


シウォンは五度目を書いた。


先生が紙を覗き込み、眉を上げる。


シウォンは次の紙へ筆を置いた。


文字を学ぶ必要などないと思っていた。


文字が読めなくても、人の懐から銭は抜ける。


腹が減ったときに、紙へ書かれた言葉が食べ物へ変わるわけではない。


だが、主人は言った。


知識は人を守る。


町の立て札が読めれば、危険な道が分かるかもしれない。


帳面が読めれば、働いた金をごまかされずに済む。


手紙が読めれば、離れた場所にいる仲間に何かあったとき、そのことを知ることができる。


道や土地の名を覚えれば、誰かを安全な場所へ逃がせる。


護衛になるのなら、なおさら必要なのだろう。


シウォンは黙々と自分の名を書いた。


「ねえ」


インファが袖を引く。


「なんだ」


「ちょっとだけ」


「自分のを書け」


「もうできたもん」


インファは得意げに紙を見せた。


大きく書かれた二つの文字が、紙の端から端まで広がっている。


片方は少し傾き、もう片方は線が一本多いように見えた。


「インファ、これね」


シウォンはインファが持ち上げた紙を見る。


「仁花」


先生が読み上げた。


「仁は、人を思いやる心。花は、そのまま花です」


インファは自分の胸を指した。


「わたしのなまえ」


「知ってる」


「でも、シウォン、よんでない」


「何を」


「インファって」


シウォンは黙った。


昨日は何度か呼んだ気がする。


少なくとも、ジュノから呼び捨てにするなと怒鳴られた。


インファはじっと待っている。


「……インファ」


呼ぶと、インファの顔が明るくなった。


「もういっかい」


「嫌だ」


「どうして?」


「今呼んだ」


「もういっかいがいい」


「お嬢様ってよべ!」


ジュノが口を挟んだ。


インファが頬を膨らませる。


「インファがいいの」


「こいつは使用人なんだぞ」


「ジュノおにいちゃんも、インファっていうよ」


「俺は昔から一緒だからいいんだ!」


「シウォンもきのうからいっしょ」


「昨日からだろ!」


先生が机を指先で軽く叩いた。


三人の声が止まる。


「続きは、学びが終わってからにしましょう」


「はあい」


インファだけが返事をした。


ジュノは不満そうに前を向く。


シウォンは再び筆を持った。


自分の名の隣へ、見本を確かめながら二つの文字を書く。


仁花。


インファが横から覗き込み、嬉しそうに笑った。


学びの時間が終わり、先生が紙と筆を片づけ始めたころ、一人の家人が書堂の外へ姿を見せた。


昨日、シウォンとともに港外れの物置へ行った男だった。


「シウォン」


呼ばれて、シウォンは顔を上げた。


「これから、昨日の子どもたちのところへ行く」


家人は、庭の端に用意された荷を示した。


外れた屋根板を取り替えるための板と藁。


縄。


金槌。


釘。


その隣には、布をかけた籠が置かれている。


「屋根を直して、今日の分の食べ物を届ける。お前はどうする」


シウォンはすぐには答えなかった。


自分の袖口へ目を落とす。


洗われた衣。


穴も、ほつれもない。


昨日まで土と埃で固まっていた髪も、今はきれいに洗われている。


爪の間に詰まっていた黒い汚れも落ちていた。


物置にいる子どもたちとは、もう違って見える。


この姿で、あいつらの前へ行く。


そう考えた瞬間、足が止まった。


「来ないのか」


「……行く」


行かない方がよいのではないかと少しためらってから返事をした。


それでも、昨日渡した食べ物は足りたのか。


屋根の穴から夜露が落ちなかったか。


幼い子どもたちは寒がっていなかったか。


考え始めると、確かめずにはいられなかった。


シウォンは板を一束抱え、家人のあとをついて屋敷を出た。


港外れの物置へ着くと、戸の向こうから足音が聞こえた。


「誰だ」


警戒した声だった。


以前なら、シウォンが真っ先にそう尋ねていた。


家人が戸を叩く。


「洪家の者だ。屋根を直しに来た」


中が静かになる。


少しして、戸が細く開いた。


隙間から、一人の少年が顔を覗かせる。


家人を見て、その後ろにいるシウォンへ気づいた。


目を見開く。


「……シウォン?」


戸が大きく開かれた。


「シウォン!」


一人が名を呼ぶ。


その声を聞きつけ、奥から残りの子どもたちも駆けてくる。


シウォンは板を抱えたまま、その場に立っていた。


どうして戻らなかった。


自分たちを捨てたのか。


一人だけ屋敷へ行ったのか。


何を言われても、返す言葉がなかった。


ところが、最初に聞こえたのは、まるで違う言葉だった。


「シウォン、きれいになってる!」


一人の少年が声を上げた。


別の子がシウォンの袖を見つめる。


「服に穴がない」


「髪もきれい」


「なんか、かっこいい」


子どもたちは、珍しい物でも見つけたようにシウォンの周りへ集まった。


笑っていた。


最後に、奥から小さな女の子が出てきた。


インファと同じくらいの年頃だった。


寝起きなのか、乱れた髪のまま目をこすっている。


女の子はシウォンの前まで来ると、じっと顔を見上げた。


「シウォ兄、きれい」


「……男に言う言葉じゃない」


「きれいだもん」


女の子はそう言うと、シウォンの袖へ顔を近づけた。


「いいにおいする」


シウォンの身体が強張った。


洗った髪。


日に干された衣。


屋敷で焚かれていた火と、温かな部屋の匂い。


昨日まで、自分からしたことのない匂いだった。


「ほんとだ」


「シウォン、若様みたい」


「兄貴かっこいい」


悪気はなかった。


羨んでもいない。


子どもたちは、ただ目にしたものを、そのまま口にしているだけだった。


自分だけが違っていた。


自分だけが温かい湯で身体を洗い、穴のない衣を着て、朝から温かな飯を食べてきた。


皆をここへ置いたまま。


――お前だけ、いい暮らしをしている。


誰も、そんなことは言っていない。


それでも、そう言われたように思えた。


「シウォ兄?」


女の子が首を傾げる。


小さな女の子の袖口から出た手は、赤く荒れていた。


シウォンは視線をそらした。


「屋根を直す」


それだけ言い、家人たちの方へ歩いていった。


梯子を押さえ、板を運び、古い藁を下ろす。


屋根へ上がった家人に縄や釘を渡し、地面へ落ちた傷んだ板を集める。


動いている間は、余計なことを考えずに済んだ。


やがて、食料の入った籠を見つけた子どもたちが声を上げた。


「これ、食べていいの?」


「お前たちの分だ」


家人が答えると、歓声が上がった。


シウォンは屋根の端を押さえながら、その声を聞いた。


以前なら、自分が持ち帰った食べ物を見て上がる声だった。


今日は違う。


自分は何も盗んでいない。


何も手に入れていない。


洪家が用意した食べ物を、ただ運んできただけだった。


「シウォンも食べる?」


下から声が飛んでくる。


「食べた」


シウォンが答えると、子どもたちは嬉しそうに笑った。


「よかった」


その一言が、胸の奥へ重く沈んだ。


屋根の修理が終わると、家人たちは道具をまとめ始めた。


子どもたちが戸口までついてくる。


「また来る?」


一人が尋ねた。


シウォンは答えなかった。


「明日も来る?」


小さな女の子が重ねて尋ねる。


「食べ物は届く」


帰る道を見ながら答えた。


「シウォ兄が持ってくる?」


シウォンは、女の子の顔を見た。


汚れた頬。


細い腕。


それでも、キラキラ輝く疑うことを知らない目。


「……分からない」


それだけ答え、背を向けた。


物置が見えなくなってからも、子どもたちの言葉が耳に残っていた。


きれい。


かっこいい。


いいにおい。


次からは、顔を見せない方がいいと思った。


そうすれば、皆も何も言わない。


自分も、あの目を見なくて済む。


それからシウォンは、物置へ食べ物を届けるとき、誰も起きていない早朝を選ぶようになった。


包みを戸の前へ置いて、中の気配を一度だけ確かめ、そのまま立ち去る。


子どもたちが目を覚ますころには、シウォンの姿はもうなかった。


その日、屋敷へ戻ったころには、すでに昼を過ぎていた。


屋敷に戻るとシウォンは主人の護衛に連れられ、屋敷の裏手へ向かった。


インファもついていくと言い張った。


「インファもいく」


「お嬢様はお昼寝の時間でございます」


乳母が答える。


「ねむくないもん」


そう言いながら、インファは大きなあくびをした。


「眠くない者は、そのようなあくびをいたしません」


「これは、ねむくないあくび」


「そのようなものはございません」


インファはシウォンの袖をつかもうと手を伸ばした。


けれど、その手が届く前に、乳母に抱き上げられる。


「やだ。インファもシウォンといく」


「お嬢様は、一刻ほど、座ったままで静かに見ていられますか」


インファは口を閉じた。


どうやら自分でも無理だと分かったらしい。


「おきたらあえる?」


乳母がシウォンを見る。


答えるよう目で促された。


「いる」


「ちゃんと?」


「ああ」


「どこにもいかない?」


「行かない」


ようやくインファは乳母に抱かれたまま、母屋へ戻っていった。


その途中でも、何度も振り返った。


ジュノもあとを追おうとしたが、乳母に呼び止められた。


「ジュノ。お前はこちらです」


「でも、インファが」


「お嬢様の護衛は、これからシウォンが務めます」


ジュノの顔が強張る。


「まだ見習いだろ」


「だからこそ、年長の護衛がつきます。お前がついていく必要はありません」


「俺は今まで、ずっとインファを見てきた」


「お前がずっとお嬢様を守ってきたことは、私も旦那様も分かっています」


ジュノは唇を結んだ。


「だからといって、新しく守る者が増えれば、お前のしてきたことがなくなるわけではありません」


「でも、俺は……」


「お前には、お前にしかできない役目があります。まずは、それを覚えなさい」


ジュノは唇を結んだ。


遠ざかっていくシウォンの背中を睨む。


昨日まで、どこの誰かも分からなかった奴だ。


泥棒で。


無愛想で。


インファを呼び捨てにして。


それなのに、今日から護衛になるという。


自分がずっとしてきたことを、横から奪われたような気がした。


「……納得できない」


小さく呟く。


乳母は聞こえなかったふりをして、息子へ荷物を渡した。


「それを倉へ運びなさい」


「重いんだけど」


「十歳の立派な男なのでしょう」


ジュノは言い返せず、荷物を抱えた。


鍛錬場は、屋敷の裏にある開けた場所だった。


地面は平らにならされ、端には木棒や弓、縄などが整然と置かれている。


鍛錬場には、一人の男が待っていた。


主人のそばで警護を務める、洪家の護衛頭だった。


日に焼けた顔に、濃い眉。


腰には刀を差している。


護衛頭は鍛錬場の端から、シウォンの身体に合う刀を一振り取り上げた。


刃は鞘へ収められたままだった。


「腰につけろ」


シウォンは刀を受け取った。


ようやく使い方を教えられるのだと思い、柄へ手をかける。


「抜くな」


護衛頭の声が飛んだ。


シウォンは手を止めた。


「使わないのか」


「今日はな」


刀を腰へ結びつけると、思っていた以上の重さが片側へかかった。


少し身体を動かすだけで鞘が揺れ、脚へ当たる。


シウォンは無意識に懐へ手を添えた。


中にある鈴が鳴らないよう、布越しに押さえる。


屋敷へ来てからも、人のいる場所ではなるべく音を立てないようにしていた。


鈴が揺れそうになれば歩幅を狭め、身を屈めるときには胸元を押さえた。


昨日までなら、それで十分だった。


だが、今は腰に慣れない刀がある。


護衛頭はさらに、短い木棒と縄をまとめた荷をシウォンの背へ負わせた。


「護衛が、身軽な格好で動けるとは限らん。武器も道具も持ったまま、主人についていかなければならない。両手を下ろせ」


シウォンは懐を押さえていた手を離さなかった。


「このままでは駄目なのか」


「護衛の片手が、常に塞がっていてどうする」


護衛頭はシウォンの腕をつかみ、胸元から離させた。


「主人の腕を引く。攻撃を防ぐ。道を塞ぐ物をどける。必要なときに使えない手は、ないのと同じだ」


シウォンは渋々、両腕を下ろした。


鈴を鳴らさないよう、胸を揺らさずに立つ。


それでも、背の荷を正そうと身体をひねった瞬間、腰の刀が脚へ当たった。


反射的にそちらへ手を伸ばす。


押さえを失った懐の中で、鈴がわずかに跳ねた。


――りん。


小さな音だった。


鍛錬場の外まで届くような大きさではない。


だが、護衛頭は聞き逃さなかった。


その視線が、まっすぐシウォンの胸元へ向く。


シウォンはすぐに懐を押さえた。


「今の音は何だ」


少し黙ってから、シウォンは答えた。


「鈴だ」


「なぜ持っている」


「盗んでない」


短く答え、胸元を押さえる指へ力を込める。


鳴らさないようにしていた。


それでも気づかれた。


この護衛頭の前では、音を隠したつもりになるだけでは足りないらしい。


護衛頭は鈴を見せろとは言わなかった。


「護衛が、音の鳴る物を持ち歩くな」


「捨てろってことか」


「大事な物なら、部屋へしまっておけ」


シウォンは懐を押さえたまま、護衛頭を見上げた。


「護衛には、気配を消して動かなければならないときがある。今の音ひとつで、お前だけでなく、守るべき相手の居場所まで知られる」


シウォンは返事をしなかった。


護衛頭の言っていることは当然だった。


自分も、物音を立てた相手を見つけて獲物にしてきた。


暗がりでは、姿より先に音が居場所を教える。


それでも、この鈴を部屋へ置いたままにする気にはなれなかった。


「今日はそのままでいい」


護衛頭は告げた。


「だが、明日までにどうするか考えろ」


シウォンはわずかに目を上げた。


取り上げられると思っていた。


護衛頭はすでにシウォンの胸元から視線を外し、鍛錬場の外周を示していた。


「そのまま走れ。まず五周だ」


一周目は何でもなかった。


二周目も、まだ余裕がある。


町では、追われて走ることなど珍しくなかった。


人混みを抜け、塀を越え、狭い路地を駆ける。


ただし、それは捕まらないための走り方だった。


最短の道を選び、隠れ場所を使い、相手が諦めれば終わる。


同じ場所を、一定の速さで走り続けたことはない。


三周目で、息が乱れた。


四周目には足が重くなる。


五周目を終えたとき、喉の奥が焼けるようだった。


「遅い」


護衛頭は言った。


シウォンは膝へ手をつきそうになり、耐えた。


「もう一度」


「今度は三周だ」


再び走る。


その後は、立ち方を教えられた。


足を開く幅。


重心の置き方。


押されても倒れない姿勢。


護衛頭が肩へ手を伸ばす。


シウォンは反射的に横へ避けた。


「避けるな」


「つかまれる」


「今は、つかむと分かっているだろう」


「分かってるから避ける」


護衛頭は足元を見ず、無言でシウォンの足を払った。


身体が宙へ浮く。


地面が迫る。


シウォンは反射的に手をつき、肩から転がった。


土の上を一回転し、すぐに立ち上がる。


護衛頭の目が、わずかに変わった。


「誰に習った」


「誰にも」


「今の受け身は」


「転び方を間違えたら、次に走れない」


教わったのではない。


生き延びるために覚えただけだ。


護衛頭はもう一度、足を払った。


今度は手をつかず、背中全体で衝撃を逃がすよう指示される。


何度も倒れた。


立つ。


倒される。


立つ。


足を運ぶ。


姿勢を保つ。


また走る。


結局、刀を鞘から抜くことは一度もなかった。


シウォンはそれが不満だった。


護衛になると聞いたとき、刀の使い方を教えられるのだと思っていた。


けれど、護衛頭が見ているのは、息の乱れと足の動きばかりだった。


「次は」


「今日はもう終わりだ」


護衛頭はシウォンの全身を見た。


「足が震えている」


「震えてない」


「自分の身体の状態も分からない者に、人は守れない」


シウォンは足へ力を入れた。


確かに震えていた。


それでも、ここで弱いと思われたくなかった。


役に立たないと判断されれば、屋敷から追い出されるかもしれない。


ここで働いて、仲間へ食べ物を届けると決めた。


たった半日で、それを失うわけにはいかない。


「倒れるまで身体を動かすのは、鍛錬とは言わない」


護衛頭の声は低く、揺るがなかった。


「お前の身体は、まだ痩せすぎている。まず食べろ。眠れ。明日も走れる身体を作れ」


シウォンは歯を食いしばった。


もっとできる。


町では、もっと空腹でも動いていた。


雪の日にも走った。


殴られても、食べ物を落とさなかった。


それなのに、たったこれだけで足が動かない。


自分の身体が、ひどく頼りないものに思えた。


「今日は終わりだ。道具を片づけたら休め」


シウォンは納得していなかった。


それでも、これ以上続けてもらえないことは分かった。


木棒を元の場所へ戻し、乱れた縄を揃える。


最後に護衛頭へ向き直り、頭を下げた。


書堂で教わったばかりの礼だった。


「ありがとうございました、師匠」


護衛頭は一瞬だけ足を止めた。


「明日は、夜明け前に起きろ」


「分かった」


「返事は」


シウォンは顔を上げる。


この屋敷の者は、ずいぶん返事にうるさい。


「……はい」


護衛頭が見えなくなるまで、シウォンは立っていた。


足音が完全に遠ざかる。


その瞬間。


両足から力が抜けた。


地面へ座り込み、そのまま仰向けになる。


腕も脚も投げ出した。


大の字だった。


立とうと思えば立てる。


たぶん。


少し休めばすぐ動ける。


目を閉じる。


春の風が、熱を持った頬を撫でていく。


土の匂いがした。


鳥の声が聞こえる。


町の物置で横になるときは、必ず壁を背にしていた。


誰かが近づけば、すぐ動けるように。


こんなふうに、空へ腹をさらして寝転がったことなどなかった。


危険だと思いながら、身体が動かない。


ほんの少しだけ。


ちょっと目を閉じるだけだ。


そう思ったところで、意識が途切れた。


インファが目を覚ましたのは、それからしばらく後だった。


「シウォンは?」


目を開けて最初に言った言葉が、それだった。


乳母は寝具を整えながら答える。


「鍛錬中でございます」


「もうおわった?」


「まだではありませんか」


「みてくる」


起きたばかりだというのに、インファは寝床から下りた。


「まずはお顔を整えてからです」


「あとで!」


乳母が手を伸ばすより早く、インファは部屋を飛び出した。


庭へ出ると、ちょうど荷物を運び終えたジュノが歩いていた。


「ジュノおにいちゃん!」


嫌な予感がしたらしい。


ジュノは顔をしかめる。


「走るな、転ぶぞ」


「シウォンどこ?」


「知るか」


本当は知っていた。


主人の護衛と一緒に、裏の鍛錬場へ向かったのを見ている。


「しらべて」


「俺は忙しい」


「いっしょにさがして」


「嫌だ」


インファはジュノの袖を引いた。


「おねがい」


「乳母に聞け」


「うばやは、あとでっていう」


「だったら、あとにしろ」


インファは頬を膨らませた。


「ジュノおにいちゃんのけち」


「何だと?」


インファは返事をせず、踵を返した。


小さな足で庭を横切っていく。


「おい、どこへ行くんだ」


「シウォンをさがす」


「場所も知らないだろ!」


「きくもん」


「誰に!」


インファは、向こうから歩いてくる護衛頭を見つけた。


先ほどシウォンへ稽古をつけていた、父の護衛だった。


「あ!」


ぶつかる勢いで駆け寄る。


「おじちゃん!」


護衛頭の眉が動いた。


「……お嬢様」


「シウォンは?」


「鍛錬場におります」


「どこ?」


護衛頭が屋敷の裏手を指す。


「この先ですが、走っては――」


最後まで聞かず、インファは走り出した。


護衛頭はしばらく、その後ろ姿を見ていた。


それからジュノへ目を向ける。


ジュノは腕を組み、そっぽを向いた。


「俺は行かないからな」


護衛頭は何も言わなかった。


ただ、インファが消えた方向を見る。


ジュノも同じ方向を見た。


「……あーもう」


ジュノは、誰に言うでもなく呟き、あとを追った。


鍛錬場へたどり着いたインファは、足を止めた。


地面の真ん中に、シウォンが倒れていた。


腕も脚も動かない。


目を閉じている。


「シウォン?」


返事がない。


インファの顔から血の気が引いた。


「シウォン」


もう一度呼ぶ。


動かない。


昨日、どこにも行かないと約束した。


今日も、ちゃんといると言った。


それなのに。


「シウォン!」


泣きながら駆け寄る。


シウォンのそばへ膝をつき、肩を揺らした。


「おきて!」


返事がない。


大きな瞳から、次々と涙がこぼれた。


インファはシウォンの顔を覗き込む。


息をしているか確かめる方法など知らない。


ただ、目を開けてほしくて、顔を近づける。


「シウォン……」


涙が一粒、シウォンの頬へ落ちた。


続いて、もう一粒。


冷たいものが顔へ触れ、シウォンの意識が戻る。


雨かと思った。


けれど空は明るい。


また一粒、唇の端へ落ちる。


舌先へ、わずかに触れた。


しょっぱい。


雨ではない。


シウォンは目を開けた。


視界いっぱいに、インファの顔があった。


黒曜石のような瞳。


涙に濡れた頬。


震える唇。


鼻先が触れそうなほど近い。


「……っ」


シウォンは驚いて身体を起こそうとした。


けれどインファが覗き込んでいたため、額同士がぶつかる。


「いたっ」


シウォンは声も出せず、目を見開く。


「シウォン!」


インファは痛がることも忘れ、その首へしがみついた。


「しんでなかった!」


「こんなところで死なない」


そっとインファの額の様子をうかがう。


「だって、うごかなかった」


「寝てた」


少し赤くなっていた。


「たおれてた!」


「休んでただけだ」


シウォンはインファを引き離そうとした。


けれど、腕に力が入らない。


泣き続けるインファをどうすればよいのか分からず、シウォンは片手を上げた。


涙に濡れた頬へ、指先が触れる。


「もう泣くな」


そう言おうとした、そのときだった。


鍛錬場の入口から、ジュノが駆け込んできた。


「インファ!」


目に入ったのは、地面に横たわるシウォンだった。


その上へ覆いかぶさるように、インファが顔を近づけている。


二人の顔は、今にも触れそうなほど近い。


しかもシウォンの片手は、涙に濡れたインファの頬へ添えられていた。


ジュノの足が止まった。


次の瞬間、顔色を変えて駆け出す。


「お前、インファに何してるんだ!」


ジュノは返事も待たず、インファを抱き上げるようにして引き離した。


そのままシウォンの襟元をつかむ。


「何もしてない」


「嘘つけ! 今、口づけしようとしてただろ!」


「くちづけ?」


インファがジュノの腕の中で首を傾げた。


シウォンも眉を寄せる。


「してない」


「だったら、どうしてあんなに顔が近かったんだ!」


「目を開けたら、インファがいた」


「インファのせいにするな!」


「雨かと思った」


「はあ?」


ジュノが目を丸くする。


雲ひとつない空を見上げ、それからシウォンへ向き直った。


「こんなに晴れてるのに、何が雨だ!」


「顔に水が落ちてきた」


シウォンは自分の頬を指で拭った。


「しょっぱかった」


「何を舐めたんだ、お前は!」


「舐めてない。口に入った」


「同じようなものだろ!」


「ジュノおにいちゃん、うるさい!」


インファが両手で耳を塞いだ。


「シウォンがしんでたの!」


「死んでない」


シウォンがすぐに訂正する。


「うごかなかったもん!」


「寝てた」


「こんなところでか?」


ジュノは思わずシウォンを見下ろした。


鍛錬場の真ん中で大の字になり、衣は土まみれになっている。


腕や肘には、何度も地面へ倒されたらしい擦り傷があった。


次にインファを見る。


涙の跡が頬に残り、シウォンへ触れた手にも膝にも土がついている。


「……シウォンが死んだと思ったのか?」


インファは唇を結び、こくんと頷いた。


ジュノはしばらく黙った。


どうやら、インファが泣きながらシウォンを起こそうとしていただけらしい。


そのうえ、頬へ添えられていた手も、泣いているインファの涙を拭おうとしただけなのだろう。


早とちりだった。


だが、素直に謝るのも悔しい。


ジュノはシウォンの襟をつかんでいた手を離し、わざとらしく咳払いをした。


「……それで、本当に大丈夫なのか」


先ほどより、声がわずかに和らいでいた。


「大丈夫だ」


「立てるか」


「立てる」


シウォンは地面へ手をつき、身体を起こし立ち上がろうとした。


膝が震える。


身体が傾いた。


ジュノが反射的に腕をつかむ。


「ふらふらじゃねーか」


「手を離せ」


「倒れるからつかんでるんだろ」


「一人で歩ける」


「だったら歩いてみろよ」


インファが二人の間へ割り込む。


「けんかしないで!」


「してない」


二人の声が、ぴたりと重なった。


結局、シウォンは片腕をジュノに支えられ、もう片方の袖をインファにつかまれながら、屋敷へ戻ることになった。


もっとも、五歳のインファは支えるというより、腕へぶら下がっているだけだったが。


日が傾くにつれ、屋敷の中を行き交う足音は少しずつ減っていった。


夕餉の膳が下げられ、台所では最後の火の始末が始まる。


門は閉ざされ、庭を渡る風も、昼間より冷たくなっていた。


軒下の灯りが一つずつともされる。


淡い光が廊下へ細長く伸び、庭木の影が白い紙戸の上で揺れていた。


遠くでは、夜番へ入る者たちが小声で言葉を交わしている。


昼間はあれほど騒がしかった屋敷も、今は別の場所のように静かだった。


行廊棟の一室にも、小さな灯りがともっていた。


シウォンは文机の前へ座り、昼間使った道具を一つずつ並べていた。


鞘についた土を布で拭い、刀を腰へ結びつけていた紐の緩みを確かめる。


師匠から渡された手入れ用の布や綿も、教えられたとおりに扱った。


慣れない作業だった。


盗んだ品なら、使えなくなれば捨てる。


自分の物など、壊れるまで使う。


手入れをして、明日も同じ物を使うという考えはなかった。


何度か手順を間違えながら、ようやく道具を片づけた。


昼間の言葉を思い出す。


――護衛が音の鳴る物を持ち歩くな。


衣の内側へ手を入れ、小さな銀の鈴を取り出す。


赤い紐。


指先ほどの大きさ。


掌の上で揺らす。


――りん。


静かな部屋に、澄んだ音が響いた。


昨日、祭りの屋台で聞いた音。


インファが、何の見返りも求めずにくれた物。


盗んだのではない。


奪ったのでもない。


何の代価も求めず、自分へ渡された物だった。


大事な物なら、しまっておけ。


師匠はそう言った。


文机には小さな引き出しがある。


そこへ入れればいい。


けれど、シウォンは鈴を置かなかった。


部屋へ置いていけば、誰かに見つかるかもしれない。


なくなるかもしれない。


盗まれるかもしれない。


自分が何度もしてきたことを、今度は誰かにされるかもしれない。


鈴を持ったまま、手入れ道具の箱を見る。


中には、柔らかな綿が残っていた。


シウォンは少し考え、その綿を細くちぎった。


鈴の内側へ詰める。


指では奥まで入らないため、細い棒を使い、音を鳴らす舌の周りへ押し込んでいく。


もう一度、掌の上で振った。


音はしなかった。


強く振る。


それでも鳴らない。


シウォンは鈴を灯りへかざした。


見た目は何も変わっていない。


赤い紐も。


銀色の表面も。


ただ、音だけが消えている。


シウォンは鈴を衣の内側へ戻した。


名を書いた紙の隣。


最も身体に近い場所へ、紐を結び直す。


立ち上がっても。


歩いても。


身体を振っても。


もう音は鳴らなかった。


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