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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第二章 離されなかった手

縁側に座っていたインファが、ぱっと顔を上げる。


「あ、ジュノおにいちゃん」


嬉しそうに呼ばれたのに、ジュノはどなった。


「何やってんだ、インファ!」


大声に、インファの肩が跳ねた。


「……ジュノおにいちゃん?」


ジュノは縁側へ駆け寄る。


そして、インファを背にかばい、座ったままこちらを見上げている少年を睨みつける。


自分と同じ年頃に見えるのに、目だけは妙に静かだった。


「お前、どこの誰だ」


少年――シウォンは答えなかった。


逃げるそぶりもなく、おびえた様子もなかった。


ただジュノの肩越しに、隠されたインファを見ている。


その視線が、ジュノには気に入らなかった。


「インファに何をした」


「何もしてない」


「嘘つけ。どうやって屋敷へ入った!」


「インファが連れてきた」


「呼び捨てにするな!」


ジュノが一歩踏み出す。


シウォンも立ち上がった。


背丈は大して変わらない。


けれど、二人の立ち方はまるで違っていた。


ジュノは怒りのまま拳を握っている。


シウォンは腕を下ろしたまま、いつでも動けるよう静かに重心を落としている。


そしてジュノの顔ではなく、肩と手元を見ていた。


殴りかかってくるなら、その前に動く。


そんな目だった。


「お前、泥棒だろ」


ほんの一瞬、シウォンの瞳が動いた。


ジュノはそれを見逃さなかった。


「やっぱりそうだ!」


襟元をつかもうと、手を伸ばす。


けれど、その手がシウォンへ届く前に、小さな両手がジュノの腕を押し戻した。


「だめ!」


インファだった。


ジュノとシウォンの間へ入り、両腕を広げて少年をかばっている。


「インファ、どけ!」


「いや!」


インファの黒曜石の瞳が強い意志を見せていた。


「そいつは悪い奴かもしれないんだぞ!」


「わるくないもん!」


「どうして分かるんだ!」


「わかるもん!」


子どもらしい答えだった。


けれど、インファは一歩も引かなかった。


泣くのをこらえるように唇を結び、まっすぐジュノを見上げている。


「おにいちゃんは、まほうがつかえるの」


「……魔法?」


「りゅうをけしてくれたの」


「それは手品だ!」


「まほうだもん!」


インファは言い返すと、シウォンの袖をぎゅっと握った。


その手を見て、ジュノの胸の奥がざわついた。


市場で出会ってから、屋敷へ戻ってくるまで、インファはずっとこの少年の袖をつかんでいたのかもしれない。


「そいつに騙されてるんだ」


「だまされてないもん」


「髪飾りだって盗ろうとしたかもしれないだろ!」


「ここにあるもん!」


「返したからって、いい奴とは限らない!」


「いいひとだもん!」


シウォンは、自分の袖を握る小さな手を見下ろした。


少し力を入れれば、簡単に振りほどける。


ジュノの脇を抜け、裏庭の水路まで走れば、まだ逃げられるかもしれない。


屋敷の造りも、おおよそ分かった。


目当てだった紫石を嵌めた龍も、屏風の陰にある。


逃げる理由はいくらでもあった。


ここに残る理由など、どこにもない。


それなのに、シウォンの腕は動かなかった。


遠くから慌ただしい足音が近づいてくる。


「お嬢様!」


乳母だった。


その後ろから、門番や家人たちも駆けてくる。


「お嬢様、ご無事で……!」


乳母はインファの前へ膝をつき、頬や肩を何度も確かめた。


怪我がないと分かると、安堵に緩んだ顔が、すぐさま険しくなる。


「どれほど心配したと思っているのです!」


「ご、ごめんなさい……」


「祭りでは勝手に離れてはいけないと、あれほど――」


乳母の言葉が止まった。


インファの後ろに立つ少年へ気づいたからだ。


門番たちも表情を変える。


「その者は?」


「こいつがインファを連れ回したんだ」


「インファがつれてきたの!」


ジュノとインファの声が重なった。


門番の一人が、シウォンの汚れた衣へ目を走らせる。


「ひとまず捕らえましょう。祭りに紛れて近づいた盗人かもしれません」


その言葉を聞いた途端、インファはシウォンの腕へしがみついた。


「だめ!」


「お嬢様、危のうございます。こちらへ」


乳母が手を差し出す。


「いかない」


インファは、強く首を横へ振った。


ぎゅっと腕に力がこもる。


「お嬢様」


「おにいちゃんをいじめるなら、インファもここにいる」


乳母は、なだめるようにインファに言い聞かせた。


「いじめるのではありません。事情を尋ねるだけです」


「みんな、おかおがこわいもん!」


大きな瞳から、とうとう涙がこぼれた。


一粒、二粒と頬を伝っていく。


ジュノの顔から怒りが消えた。


「インファ……」


ジュノは自分でも情けない声色だと思った。


インファが泣いた。


そう気づいても、もう遅かった。


インファは、指先が白くなるほどシウォンの袖を握っている。


ジュノはインファの涙だけは本当に苦手だった。


シウォンは、自分の腕にしがみつくインファを見下ろした。


泣く子どもなら、いくらでも見たことがある。


腹を空かせて泣く子。


寒さに震えて泣く子。


親の名を呼びながら泣く子。


けれどシウォンのために涙を流す子どもなんて見たことなかった。


「……離れろ」


シウォンは、袖を握る手へそっと触れた。


「いや」


インファはさらに強く腕を抱き顔を押し付け首を振る。


「何もしない」


優しい声だった。


「どこにもいかない?」


シウォンは答えに詰まった。


嘘なら、いくらでもつける。


これまでだって、そうして生き延びてきた。


けれど、涙に濡れた瞳に見上げられると、なぜか軽い約束を口にできなかった。


「……今は、行かない」


「ほんと?」


「ああ」


インファはようやく少しだけ腕の力を緩めた。


それでも、袖は離さなかった。


やがて屋敷の外から馬の蹄の音が近づき、正門の前で止まった。


「旦那様がお戻りです」


門が開き、祭りの視察から戻った洪家の主人が姿を現す。


前庭の向こうに集まった人々を認めると、家人の報告を片手で制し、一人でこちらへ歩いてきた。


その姿が近づくにつれ、門番たちは背筋を伸ばし、乳母はインファの前へ半歩進んだ。


ジュノも口を閉ざす。


シウォンだけが、逃げ道を確かめるように主人の背後へ視線を走らせた。


門までは遠い。


前庭には家人がいる。


今から走っても、あそこへたどり着く前に囲まれるだろう。


主人は母屋へ続く飛び石を進み、縁側の手前でようやく足を止めた。


泣いた跡の残る娘。


娘に袖をつかまれている見知らぬ少年。


少年に詰め寄るように立つジュノ。


そして、警戒した顔で周囲を囲む門番たち。


主人はその場をひと目見渡したが、すぐには誰にも近づかなかった。


まず門の方に残っている供の者たちへ、下がるよう手で示す。


それから乳母へ視線を向けた。


「何があった」


低く、落ち着いた声だった。


乳母は主人の前へ進み、頭を下げた。


「祭りの最中、お嬢様を見失いました。皆で町を捜しておりましたが、お嬢様はすでに屋敷へ戻られており……こちらの少年を伴っておられました」


主人の目がシウォンへ向く。


シウォンは視線をそらさなかった。


「少年が娘を連れ去ったのか」


「それは……」


乳母が答えに迷うと、ジュノが一歩前へ出た。


「違います。インファが連れてきたそうです」


先ほどまでシウォンを盗人だと怒鳴っていたジュノが、悔しそうに付け加えた。


「俺が戻ったときには、もうこいつと一緒にいました。インファは自分が屋敷へ連れてきたと言っています。でも、どこで会ったのかも、何のためについてきたのかも分かりません」


「ジュノおにいちゃん!」


インファが悲しそうな声を上げた。


主人は娘を見たが、まだ話しかけなかった。


「娘に怪我は」


乳母が首を横へ振る。


「ございません。衣が少し汚れているだけでございます」


「何か失った物は」


「今のところは、何も」


「その少年が、娘へ乱暴をした様子は」


乳母は再び首を横へ振った。


「ございません。お嬢様は、少年が手品を見せてくれたと……」


「りゅうをけしてくれたの!」


堪えきれず、インファが口を挟んだ。


主人の視線が縁側の置物があるはずの位置へ動く。


本来置かれているはずの黒い龍が見当たらない。


インファが怖がっていた置物だ。


主人は門番へ尋ねる。


「お前たちは、なぜこの少年を囲んでいる」


「盗人の可能性がございます。捕らえて事情を聞くべきかと」


「まだ何も盗まれてはいないのだな」


「はい。しかし――」


「分かった」


主人はそこで片手を上げ、門番の話を切った。


報告を聞き終えると、ようやくインファの前へ歩み寄る。


インファはシウォンの袖を握ったまま、父を見上げていた。


いつもなら父の姿を見つければ、真っ先に駆け寄る。


けれど今は、動こうとしない。


主人はそのことを咎めず、娘と目の高さが同じになるよう静かに膝をついた。


「インファ」


穏やかに名を呼ばれ、インファの大きな瞳が揺れる。


「……おとうさま」


「こちらを見なさい」


インファは恐る恐る父の顔を見た。


主人はまず娘の額に触れ、次に頬、肩、両手へと目を移した。


目立った怪我がないことを自分でも確かめると、張り詰めていた息を静かに吐く。


「痛いところはないか」


「ない」


「怖い思いはしたか」


インファは少し考え、首を横へ振った。


「してない。おにいちゃんがいたもの」


シウォンを見る。


「そうか」


主人はただインファの目をまっすぐ見つめて話を続ける。


「皆がお前を探していたことは分かっているか」


インファの表情が曇った。


「……うん」


「乳母も、ジュノも、門番たちも、お前に何かあったのではないかと、町中を走り回った」


インファは乳母を見る。


祭りへ出たときにはきれいに整っていた髪が乱れ、額には汗が浮かんでいる。


次にジュノを見る。


衣の裾は泥で汚れ、荒い息もまだ完全には収まっていない。


インファの指から、少しだけ力が抜けた。


「ごめんなさい……」


「私にだけ謝るのか」


インファは小さく首を横へ振った。


「うばや、ごめんなさい」


乳母は厳しい顔を保とうとしたが、目元がわずかに緩んだ。


「ジュノおにいちゃんも、ごめんなさい」


ジュノは何か言おうと口を開いたが、結局、いつもの調子にもどった。


「……もう勝手にいなくなるなよ」


「うん」


インファは門番たちにも、頭を下げる。


「みんなも、ごめんなさい」


主人は、娘が一人ずつに謝るのを待った。


すべて終えると、乱れた髪を優しく撫でる。


「無事でよかった」


叱責より先に告げられたその一言で、インファの目に再び涙が浮かんだ。


「おとうさま……」


「だが、二度としてはならない」


「はい」


「きれいな音が聞こえても、一人で行ってはいけない」


「……はい」


返事をしながらも、インファはシウォンの袖を離さなかった。


主人はその小さな手へ目を落とす。


「それほど、この少年から離れたくないのか」


インファは涙を拭うこともせず、こくりとうなずいた。


「みんなが、つかまえるっていうの」


「それが怖かったのか」


「おにいちゃんはわるくない」


「どうしてそう思う」


「りゅうをけしてくれたから……インファがおねがいしたの」


インファは迷わず答えた。


主人の目が、わずかに細くなる。


娘の言葉だけで少年を信用したわけではない。


だが、少なくともシウォンには、無防備な五歳の子どもを傷つけたり、その持ち物を奪って逃げたりする機会があった。


それでも、娘は無事にここにいる。


主人はシウォンを見た。


少年は痩せた身体をわずかに緊張させ、逃げ道を探るように周囲へ目を配っている。


疑われることにも、囲まれることにも、捕らえられることにも慣れているような目をしていた。


主人は再び娘へ向き直る。


「インファ。お前がこの少年を信じていることは分かった」


インファの顔が少し明るくなる。


「だから今度は、父にこの少年と話をさせてくれないか」


袖を握る指に、再び力が入った。


「つかまえる?」


「まずは話を聞く」


「いじめる?」


「いじめるために話すのではない」


「おこる?」


主人は少し考えてから答えた。


「それは、話を聞いてから決める」


正直な返事だった。


インファは不安そうにシウォンを見上げる。


主人はインファを安心させるように続ける。


「話が終われば、また会わせよう」


「ほんと?」


「父が、お前との約束を破ったことがあるか」


インファはしばらく考えたあと、小さく首を横へ振った。


「……ない」


「ならば、任せてくれるか」


長い迷いの末、インファはようやくシウォンの袖から指を離した。


シウォンの袖には、インファが握りしめた跡が皺となって残っていた。


けれど乳母に手を引かれても、インファは、すぐには歩き出さなかった。


「おにいちゃん」


呼ばれてシウォンが顔を上げる。


「ちゃんといてね」


「……ああ」


「どこにもいかないでね」


シウォンは返事に詰まった。


主人は少年を見たが、答えを強要しなかった。


それでもインファは、じっと返事を待っている。


「……分かった」


その言葉を聞いて、インファはようやく乳母とともに屋敷の奥へ入っていった。


何度も振り返りながら。


小さな姿が見えなくなるまで、シウォンはその場から動かなかった。


ジュノも残ろうとしたが、母である乳母に睨まれ、渋々あとを追う。


門番たちも、主人の指示で下がった。


庭には、主人とシウォンだけが残された。


ただし、少し離れた場所には家人が控えている。


捕らえるには遠い。


逃がすには近い。


その距離が意図的なものだと、シウォンには分かった。


主人は縁側へ腰を下ろした。


「何があったか、君から聞こう」


シウォンは立ったままだった。


「名は?」


「シウォン」


「姓は?」


「ない」


「歳は?」


「十」


「家は?」


「ない」


「親は?」


「いない」


聞かれたこと以外答えない。


主人は、シウォンの短い答えを遮らなかった。


「インファとは、祭りの市場で会ったのだな」


「ああ」


「君から近づいた」


シウォンの目がわずかに動く。


「……そうだ」


「なぜだ」


「一人だったから」


「それだけか」


シウォンは黙った。


主人も急かさない。


春の風が庭を通り抜け、縁側に置かれた布の端を揺らした。


主人の視線が、その向こうの屏風へ向く。


「ところで、龍はどこへ消えたのだ」


シウォンの肩がわずかに固くなった。


主人は立ち上がると、屏風の陰を覗いた。


そこには黒い龍の彫り物が、傷一つなく置かれている。


紫色の石も、両目に嵌まったままだった。


「なるほど。見事な手品だ」


主人は龍を元の場所へ戻す。


「値の張る物を前にして、何も手をつけなかったのか」


「盗る時間がなかった」


シウォンは低く答えた。


主人が振り返る。


「正直だな」


「捕まえるなら、早くしろ」


「君は、ここへ盗みに来たのだな」


シウォンはチラッと主人の周りに視線を向けた。


逃げ道は、まだある。


家人たちの位置も分かっている。


けれどシウォンは走らなかった。


「……そうだ」


「娘へ近づいたのも、そのためか」


「ああ」


「だが何も盗らなかった」


「……」


「なぜだ」


シウォンは答えられなかった。


インファが笑ったから。


自分の手を疑いもせず覗き込んだから。


大切な人へ渡すのだという鈴を、会ったばかりの自分へ差し出したから。


そんなことを口にしたくなかった。


「分からない」


しばらくして、ようやくそう答えた。


主人は、少年の顔をじっと見た。


「盗みは許されることではない」


「知ってる」


「ならば、罰を受ける覚悟はあるか」


シウォンの拳が固くなる。


殴られることには慣れている。


追い払われることにも。


「俺一人にしろ」


「何?」


「ほかの奴らは関係ない」


「ほかの者とは」


シウォンはしまったと一瞬年相応な表情を浮かべて口を閉じた。


主人は先ほどよりも低い声で尋ねる。


「仲間がいるのか」


沈黙が落ちた。


やがてシウォンが答える。


「六人」


「皆、孤児か」


「ああ」


「それで盗んでいる」


「俺が盗らなければ、あいつらが食えない」


言葉の端に、初めて感情がにじんだ。


主人はすぐには何も言わなかった。


「君は十歳と言ったな」


「ああ」


「十歳の子どもが、六人の子を養っているのか」


「子どもじゃない」


「私から見れば子どもだ」


シウォンの眉が寄る。


同情されるのが、一番嫌だった。


「施しはいらない」


「まだ何も与えるとは言っていない」


主人は言った。


「仕事をしないか」


シウォンは目を上げた。


「仕事?」


「盗む代わりに働け。働いた分だけ、食べ物を受け取る」


「何をさせるつもりだ」


シウォンの瞳に警戒の色が宿る。


「十歳の子どもでも、できる仕事はいくらでもある」


「俺を信用するのか」


「していない」


迷いのない答えだった。


「だから働くところを見て決める。君も私を信用しなくてよい。まずは互いに信用に足るか確かめればいい」


主人は片手を上げて家人を呼び寄せ、耳元で短く何事か告げた。


家人は一礼してその場を離れ、しばらくすると、大きな布包みを抱えて戻ってきた。


握り飯。


餅。


蒸した芋。


干した肉。


七人が今夜食べても、十分に余るほどだった。


シウォンの表情が変わる。


「これは」


「明日の分の前払いだ」


「俺が戻らなかったらどうする」


「そのときは、人を見る目がなかったと諦めよう」


主人は平然と言った。


「ただし、一つ条件がある」


「何だ」


やはり何かあるのかと警戒をゆるめない。


「その食べ物を、君自身の手で仲間へ届けること。そして、戻るかどうかは君自身で決めることだ」


シウォンは布包みを見つめた。


罠かもしれない。


子どもたちの居場所を確かめ、まとめて捕らえるつもりかもしれない。


「見張りをつける」


主人は当然のように言った。


「好きにしろ」


主人は一人の家人を呼んだ。


そのとき、屋敷の奥から、トタトタと小さな足音が聞こえてきた。


着替えを済ませたインファが、乳母の手を振りほどくようにして駆けてくる。


その後ろから乳母とジュノが慌てて追ってきていた。


「お嬢様、走ってはいけません!」


「インファ、待てって!」


二人の声にも構わず、インファはシウォンの前で立ち止まった。


シウォンが抱えている大きな布包みを見て、目を丸くする。


「どこかにいくの?」


「ああ」


「どこにいくの?」


「仲間に食べ物を届ける」


少し離れたところで、ジュノの眉が寄った。


主人とシウォンが何を話していたのかは知らない。


けれど、見知らぬ少年が食べ物を持って屋敷を出ようとしていることだけは分かった。


インファの顔が曇る。


「かえってくる?」


シウォンは答えなかった。


戻ると決めたわけではない。


食べ物を渡したあと、そのまま仲間たちと逃げることもできる。


この家の主人を、まだ信じたわけではなかった。


「かえってきてね」


インファが、また袖をつかむ。


「……約束はできない」


「じゃあ、まってる」


シウォンは目を瞬いた。


泣いて引き留めるのではない。


帰ってくると信じ切り、当然のように待つと言う。


「どうして」


思わず、言葉がこぼれた。


インファは何を聞かれたのか分からない表情で首をかしげている。


「どうして俺が戻ると思う」


インファは、難しいことを聞かれたという顔で、しばらく考える。


やがて、当たり前のように答えた。


「さっき、やくそくした」


先ほど交わした約束を、覚えている。


ちゃんといてね。


どこかにいかないでね。


――分かった。


シウォンは唇を結んだ。


「……食べ物を渡したら戻る」


自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


インファは顔いっぱいに笑みを広げ、ようやく袖を離した。


「まってるね」


「待て」


今度はジュノが声を上げた。


皆の視線が集まる。


ジュノはシウォンを睨んだまま、主人へ頭を下げる。


「俺も行きます」


「ジュノ?」


乳母が眉をひそめる。


「こいつが本当に食べ物を届けるのか、確かめます。それに、そのまま逃げるかもしれません」


シウォンがジュノへ冷たい目を向ける。


「来るな」


「お前が決めることじゃない」


ジュノは主人の方を見ながら答える。


主人は二人を見比べ、小さく笑った。


「では、ジュノも行きなさい」


「旦那様」


乳母は主人の様子を窺うように声を上げた。


「家人一人より、同じ歳の者が見た方が分かることもある」


こうしてシウォンは、布包みを背負い、ジュノと家人を連れて屋敷を出た。


門を離れ、祭りの賑わいが遠ざかるにつれて、町の景色は少しずつ変わっていく。


華やかな飾りは消え、道は狭くなり、家々の壁も古びていく。


シウォンは何度も後ろを振り返った。


家人との距離を測り、ジュノの足取りを確かめている。


わざと細い路地へ入り、何度も道を曲がった。


「おい、本当にこっちで合ってるのか」


ジュノが尋ねる。


シウォンは前を向いたまま淡々と答える。


「嫌なら帰れ」


「誰が帰るか」


「だったら黙ってついてこい」


「お前、さっきから偉そうだな!」


「ジュノ」


家人にたしなめられ、ジュノは口をつぐんだ。


町の港のはずれにある古い物置につく頃には日が傾き始めていた。


古い物置は、シウォンが見つけた場所ではなかった。


かつて彼を拾った年上の少年が住み着き、行き場のない子どもを追い返さずにいるうち、いつしか七人の住み家になったのである。


シウォンが八歳になった冬、その少年は港の荷運び人に雇われ、町を離れた。


それからはシウォンが最年長になった。


望んで兄になったわけではない。


ただ、するべきことを黙って引き受けているうちに、皆が彼を「兄貴」と呼ぶようになった。


シウォンが十歳になった春鈴祭の日、物置で暮らしていた子どもは、シウォンを含めて七人。


一番幼い子は、まだ四歳だった。


食べ物を持ち帰れなければ泣く。


寒ければ泣く。


シウォンが帰らなくても、やはり泣く。


扉と呼ぶには頼りない板を押し開ける。


暗い小屋の中から、数人の子どもたちが一斉に顔を上げた。


「兄貴!」


一番に駆けてきたのは、八歳くらいの少年だった。


その後ろから、さらに幼い子どもたちが姿を見せる。


「遅いよ」


「何か持ってきた?」


「その人たち、誰?」


家人を見た子どもたちは、怯えて身を寄せ合った。


シウォンはすぐに彼らの前へ立つ。


「大丈夫だ」


その声は、洪家で話していたときよりも柔らかかった。


「今日は食べ物がある」


布包みを開く。


白い餅が見えた途端、子どもたちの目が輝いた。


「ごはんだ!」


「餅だ!」


「芋もある!」


「お肉まで!」


一番幼い女の子が手を伸ばす。


シウォンは蒸した芋を取り、二つに割って中の熱さを確かめてから、その手へ渡した。


「ゆっくり食べろ」


次に小さな少年へ。


その次は、痩せた女の子へ。


幼い順に食べ物を分け、自分の分は一つも取らない。


「兄貴は?」


六歳ほどの少年が尋ねる。


「俺はあとでいい」


「お腹すいてるだろ」


「いいから食え」


残った餅を、少年の手へ押しつける。


ジュノはその様子を、黙って見ていた。


屋敷では、何を考えているのか分からない無愛想な少年にしか見えなかった。


インファへ近づいた怪しい奴。


泥棒。


信用できない人間。


けれど今、シウォンは自分より幼い子どもたちの前へ座り、誰より腹を空かせているはずなのに、自分の分をすべて後回しにしている。


「お前、食わないのか」


ジュノが尋ねた。


「こいつらが食べてからだ」


「全部なくなるぞ」


「それでいい」


即答だった。


ジュノは口を閉じる。


完全に信用したわけではない。


それでも、インファを騙すためだけに、この顔ができるとは思えなかった。


「シウォ兄、どこかに行くの?」


幼い女の子が尋ねた。


シウォンの手が止まる。


「どうしてそう思う」


「その服の人たちと来たから」


ジュノや家人を見ながら言う。


「……少し、仕事をするかもしれない」


「ここに帰ってくる?」


子どもたちが一斉にシウォンを見る。


シウォンは答えられなかった。


女の子の顔が曇る。


そのとき、ジュノが口を挟んだ。


「こいつは町の外へ行くわけじゃない」


シウォンが振り返る。


「洪家で働くなら、ここから歩いて来られる。会えなくなるわけじゃない」


「まだ働くとは言ってない」


「じゃあ何だ。インファとの約束を破るのか」


シウォンの目が鋭くなる。


二人はしばらく睨み合った。


先に目をそらしたのは、シウォンだった。


子どもたちへ残りの食べ物を渡し、布を畳む。


家人が子どもたちの人数と小屋の状態を確かめ終えた。


「旦那様へ報告する。明日の朝には、また人を寄こすだろう」


シウォンは警戒を解かないまま尋ねる。


「追い出すためじゃないだろうな」


「屋根の穴を直すためだ」


家人が天井を見上げる。


「雨が降れば、これでは眠れまい」


シウォンは何も言わなかったが、握っていた拳が少しだけ緩んだ。


「必ずまた来る」と仲間たちに約束し、シウォンは立ち上がった。


「戻るのか?」


ジュノが尋ねる。


シウォンは洪家のある方角を見た。


自分を待つと言った、小さな少女の顔が浮かぶ。


「約束した」


短く答え、歩き出す。


逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。


けれどシウォンは、自分の意思で洪家へ戻る道を選んだ。


帰る家ではない。


少なくとも、その時はまだそう思っていた。


ただ、戻ると約束した場所だった。


洪家の門が見えた頃には、空はすっかり暗くなり、祭りの名残を告げる灯りも、遠くにわずかに残るだけだった。


家人が門を叩くと、内側からすぐに扉が開かれる。


屋敷へ足を踏み入れたシウォンは、無意識に辺りを見回した。


縁側にも、庭にも、インファの姿はない。


「何をきょろきょろしてるんだ」


隣を歩いていたジュノが言った。


「別に」


シウォンの表情は変わらない。


「インファを探してるんだろ」


ジュノの瞳は少し楽しそうに見えた。


「探してない」


「嘘つけ」


シウォンは答えず、顔を背けた。


家人は二人を連れ、そのまま主人のもとへ向かった。


部屋には明かりがともり、机の上には書き物が広げられている。


家人は膝をつき、子どもたちの人数と、今夜休んでいる小屋の状態を報告した。


「確かに六人おりました。最も幼い子は四つほどです。小屋は古く、屋根にも穴がございます。雨が降れば、あそこで夜を越すのは難しいかと」


主人はうなずいた。


「明日の朝、人を向かわせよう。屋根を直し、必要な物を確かめさせなさい」


「かしこまりました」


「食料は足りたか」


主人の問いに、家人がシウォンを見ながら答える。


「子どもたちには、ひとまず行き渡りました」


「そうか」


主人の視線がシウォンへ移る。


「君は食べたのか」


シウォンは黙った。


その代わりに、ジュノが呆れたように答えた。


「食べてません。全部、あいつらに渡してました」


「余計なことを言うな」


「本当のことだろ」


二人が睨み合う。


主人は小さく息を吐いた。


「戻ったのだな」


シウォンは主人を見る。


「……約束したから」


「そうか」


主人は優しく目を細めた。


「インファは、ずっと君を待っていた」


その言葉に、シウォンの目がわずかに動く。


「どこにいる」


尋ねてから、シウォンは口を閉じた。


自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。


主人は何も指摘せず、穏やかに答えた。


「もう眠った」


「……そうか」


「帰ってくるまで起きていると言い張っていたがな。今日は朝から祭りへ出ていた。さすがに疲れたのだろう」


シウォンは屋敷の奥へ視線を向けた。


待っていると言ったくせに。


そう思いかけて、すぐに打ち消した。


まだ五つの子どもだ。


眠ってしまうのは当然だった。


主人が立ち上がる。


「今度こそ、着替えて食事をしなさい」


「でも――」


「子どもたちには、食料を届けたのだろう」


「……ああ」


「ならば、君が食べない理由はもうない」


シウォンは黙った。


主人は家人を呼び、シウォンのために着替えと食事を用意するよう命じた。


「部屋へ案内しなさい。その前に、湯を使わせるように」


「かしこまりました」


家人に促され、シウォンは歩き出す。


ジュノもついてこようとしたが、主人に呼び止められた。


「ジュノ、お前も今日はもう休みなさい」


「でも、こいつが何かしないように――」


シウォンを指差し、言いつのろうとするジュノに主人は静かな声色で答える。


「戻ると約束し、自分の足で戻ってきた者だ」


主人はシウォンを見る。


「今夜くらい、信じてやってもよいだろう。何かあれば、私が責任を取ろう」


ジュノは不満そうだったが、やがて渋々うなずいた。


「……分かりました」


シウォンは何も言わず、家人のあとをついて廊下を進んだ。


案内されたのは、使用人たちが湯を使うための小さな部屋だった。


大きな桶には、すでに湯気の立つ湯が張られている。


そばには清潔な布と、新しい衣まで畳んで置かれていた。


シウォンは戸口の前で足を止めた。


「これは」


「旦那様のご指示だ。ここで湯を使って、着替えなさい」


家人が答える。


「その間に食事を用意する」


シウォンは自分の衣へ目を落とした。


擦り切れた袖。


泥と埃の染みついた裾。


何度洗っても落ちない汚れ。


それが、今までの自分には当たり前だった。


「この服でいい」


仲間たちの着ている服が頭をよぎった。


「そのままでは、屋敷が汚れる」


家人の声に責める響きはなかった。


ただ、当然のことを伝えているだけのようだった。


シウォンは眉を寄せる。


「新しい服なんていらない」


「この屋敷で仕事をするなら、それを着てもらう」


主人と同じ考え方だった。


それも施しではなく、働くために必要な物だということらしい。


そう言われると、拒む理由が見つからなかった。


家人が戸を閉める。


一人になったシウォンは、しばらく湯気の向こうにある桶を見つめていた。


これほどたっぷりの湯を、自分一人で使ったことなどない。


寒い時期でも、川の水で汚れを落とすのが当たり前だった。


幼い子どもたちの身体を拭くために湯を手に入れたことはあっても、自分が使うことはほとんどなかった。


指先を湯へ入れる。


温かい。


思わず、すぐに手を引いた。


物置にいる子どもたちは、今頃どうしているだろう。


食べ物は十分に渡した。


屋根も直してもらえるという。


それでも、夜になれば冷える。


自分だけが温かい湯を使ってよいのか。


そんな考えが胸をよぎる。


けれど、身体にこびりついた汚れを見下ろし、シウォンはゆっくり衣を脱いだ。


湯を使い終えるころには、身体の汚れも髪についた埃も落ちていた。


畳まれていた衣へ袖を通す。


まだ自分の身体には少し大きい。


けれど、生地は柔らかく、ほつれも穴もなかった。


シウォンは袖口をつまんだ。


慣れない感触だった。


こんな衣を着た自分は、自分ではないように思える。


それでも、脱いだ服へ戻ろうとはしなかった。


元の衣は、家人が洗うために別の籠へ入れている。


ただ一つ、赤い紐のついた銀の鈴だけは、誰にも触れられないよう自分で外し、新しい衣の内側へ結び直した。


指先で鈴を包む。


――りん。


小さな音が鳴った。


その音を確かめてから、シウォンは部屋を出た。


次に通された部屋には、一人分の膳が用意されていた。


湯気の立つ飯。


温かな汁物。


焼いた魚。


漬物。


決して豪華ではない。


けれど、シウォンにとっては、どれも一度に並ぶことなどない食べ物だった。


「全部、俺のか」


思わず尋ねる。


「そうだ」


家人は不思議そうに答えた。


「冷めないうちに食べるといい」


シウォンは膳の前へ座った。


使い慣れない箸を手に取る。


けれど、すぐに食べ物を口に運ぶことはできなかった。


目の前の膳には、分ける相手がいない。


自分一人で食べてもよいと言われても、どうすればよいのか分からなかった。


「どうかしたか?」


家人に尋ねられ、シウォンは箸を握り直す。


「……何でもない」


まず、飯をひと口食べた。


温かかった。


噛むほどに甘みが広がる。


物置に残してきた子どもたちの顔が浮かぶ。


それでも今日は、皆の腹にも食べ物が入っている。


そう言い聞かせ、シウォンはようやく二口目を食べた。


汁物も、魚も、残さず口へ運んだ。


それでも、腹が満たされていくほど、胸の奥に落ち着かないものが積もっていった。


温かい。


柔らかい。


雨も風も入ってこない。


ここには、今まで自分が持たなかったものが、当たり前のようにある。


食事を終えると、家人が膳を下げながら言った。


「今夜休む部屋へ案内する」


シウォンは返事をしなかった。


今夜どこで眠るかなど、まだ考えていなかった。


けれど、そのことを尋ねる前に、家人は廊下を歩き始めてしまった。


シウォンは少し迷い、あとを追う。


夜の屋敷は静かだった。


昼間の騒ぎが嘘のように人の声はなく、灯りもところどころ落とされている。


柱も廊下も、きれいに磨かれていた。


歩くたび、自分の足音だけが妙に大きく聞こえる。


新しい衣の裾が、足へ触れる。


慣れない。


落ち着かない。


それでも、内側に結んだ鈴の重みだけは、昼間と変わらなかった。


角を曲がったとき、シウォンはふと足を止めた。


閉じられた戸の向こうから、かすかな寝息が聞こえた気がした。


「どうした」


先を歩いていた家人が振り返る。


「……何でもない」


シウォンは答えたが、閉じられた戸から目を離さなかった。


誰の部屋なのかは知らない。


それでも、なぜかその前を素通りできなかった。


すると、廊下に乳母の姿が見えた。


部屋の前に座り、膝の上で小さな衣を畳んでいる。


シウォンに気づくと、乳母は手を止めた。


「お嬢様との約束を守ってくれたのね」


その言い方が落ち着かず、シウォンは視線をそらした。


「食べ物を渡しに行っただけだ」


「そう」


乳母はそれ以上追及しなかった。


代わりに、自分の背後にある戸へ目を向ける。


「お嬢様は、あなたが戻るまで起きていると仰っていたのだけど」


シウォンも閉じられた戸を見る。


「でも、もう寝たんだろ」


「ええ。ずっと門の方を気にしておられたけれど、さすがにお疲れになったのでしょう」


乳母は立ち上がると、音を立てないように戸を少し開けた。


「戻ったことを、そばで伝えてあげてくれるかしら」


シウォンは眉を寄せる。


「寝てるんだろ」


「ですから、起こさないよう静かに」


乳母は戸口を空け、シウォンが入れるよう脇へ寄った。


それでもシウォンは動かなかった。


両班の娘の部屋へ、素性の知れない自分が入ってよいとは思えない。


乳母はその戸惑いを察したようだった。


「私もここにおります。少し顔を見せるだけです」


「俺が入る必要はない」


「お嬢様は、あなたを待っていたのですよ」


シウォンはしばらく黙っていた。


やがて乳母の横を通り、恐る恐る部屋へ足を踏み入れる。


戸口から離れすぎない場所で立ち止まった。


部屋の奥では、インファが布団にくるまって眠っている。


よほど疲れていたのだろう。


頬を赤くし、規則正しい寝息を立てていた。


「眠ってる」


「ええ」


「だったら、もういいだろ」


そう言いながらも、シウォンはすぐに出ていこうとはしなかった。


布団の横に片方の手が投げ出されている。


昼間、何度も自分の袖をつかんでいた小さな手だった。


乳母が声を落とす。


「帰ってきたら知らせてほしいと、何度も申しておりました」


「寝てるのに、どうやって知らせるんだ」


「あなたがここにいるだけで十分かと」


シウォンには意味が分からなかった。


それでも、もう少しだけ近づいた。


起こさないよう足音を忍ばせ、布団のそばに膝をつく。


「……帰ってきた」


聞こえるはずもないほど小さな声で呟いた。


その瞬間、インファの指がわずかに動いた。


何かを探すように布団の上をさまよい、シウォンの袖へ触れる。


シウォンが目を見開いた。


眠っているはずのインファは、そのまま小さな手で彼の袖をつかんだ。


「……いっちゃだめ」


かすかな寝言だった。


部屋の行燈の明かりが揺らめき、シウォンの影が壁の上でかすかに揺れた。


けれど、シウォン自身は動けなかった。


少し力を入れれば、簡単に振りほどける手だった。


昼間から、何度もそう思っていた。


けれど結局、一度も振りほどくことはできなかった。


「お嬢様」


乳母がそっと手を外そうと近づく。


けれどシウォンは、小さく首を横に振った。


「……このままでいい」


乳母は彼を見つめたあと、静かに手を引いた。


シウォンは袖をつかまれたまま、眠るインファを見下ろす。


盗むために足を踏み入れた屋敷だった。


つかまれたままの袖を見つめながら、シウォンは寝具のそばへ座り直す。


その手を振りほどかず、シウォンは肩からずれていた布団をそっと掛け直した。


「……分かった」


眠る少女に届くかどうかも分からない声で、もう一度約束する。


「行かない」


翌朝。


部屋を訪れた主人は、壁に背を預けて眠るシウォンと、その袖を握ったまま眠っている娘を見つけた。


主人の気配に、シウォンが目を開け、すぐに身構えたが、インファの手を振りほどくことはしなかった。


主人は静かに尋ねる。


「逃げなかったのだな」


「逃げられなかっただけだ」


「その手のせいか」


主人は微笑みながらインファの手へ視線を落とした。


シウォンは答えなかった。


主人は、眠る娘と少年を交互に見た。


「今日から、ここで働きなさい」


「まだ決めてない」


「では今、決めればよい」


主人は穏やかに続けた。


「盗みは許さない。働いた分だけ食べ、仲間へ届けたいものがあるなら、自分で稼いだ中から届けなさい」


シウォンは黙って聞いている。


「読み書きも学ぶように」


「必要ない」


「知識は人を守る。君一人だけでなく、君が守ろうとしている者たちもだ」


主人の声に、憐れみはなかった。


その言葉は命令でもなかった。


道を一つ差し出し、選ぶのを待っている。


シウォンは、自分の袖を握る小さな手へ目を落とした。


これまで自分の手は、盗むために伸ばし、奪われないために握りしめるものだった。


誰かに、ここにいてほしいと求められたことなどない。


けれど今、インファの手は、彼を引き留めるようにその袖を握っていた。


「……働く」


シウォンは言った。


「そうか」


朝の風が、開いた戸口から部屋へ入ってくる。


衣の内側で、小さな銀の鈴が揺れた。


――りん。


インファの手は、まだ離れなかった。


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