第一章 鈴との出会い
――りぃん。
春の風に乗って、澄んだ音が響く。その音に縫い留められたように、小さな足がぴたりと止まった。
この春、五歳になった洪仁花――ホン・インファは、祭りのざわめきの中で耳を澄ませた。
インファは、豊山洪氏に連なる地方両班・洪家の一人娘である。由緒ある家に生まれ、蝶よ花よと大切に育てられた、正真正銘のお嬢様。
もっとも、本人がそれをどこまで理解しているかは怪しい。
なにしろ五歳である。天真爛漫、好奇心旺盛。面白そうなものを見つければ近付き、きれいな音が聞こえれば振り向く。
丁寧に結われた艶やかな黒髪には、春の花をかたどった小さな髪飾りが挿されている。淡い桃色のチョゴリと、ふっくらと広がるチマの裾は、祭りの人混みの中でもひときわ上品に映った。
その上品な装いの中で、黒曜石のような大きな黒い瞳だけが好奇心のままに忙しく動いていた。
やがて風に揺れる鈴を見つけると、優しげな目元がぱっと明るくなった。
「わあ……」
花が一斉にほころんだような笑顔を浮かべ、小さな唇から、感嘆の声がこぼれる。
人々の笑い声が行き交い、屋台からは甘い菓子の湯気が立ちのぼっている。色鮮やかな布飾りが風にはためき、その向こうでは淡い花びらが舞っていた。
春鈴祭――しゅんれいさいで賑わう市場の中で、インファには鈴の音だけが、まるで自分を呼んでいるように聞こえた。
「あっちだ……!」
音のする方へ紅潮した顔を向け、走り出す。
少し先の屋台の軒下に、いくつもの鈴が吊るされているのが見える。赤い紐の鈴。花の形をした鈴。指先ほどの小さな銀色の鈴。
風が吹くたび、それぞれに異なる音が、りん、りんと重なり合う。
「お嬢様、どちらへ――」
背後で乳母が声を上げた。
「インファ、勝手に行くな!」
その隣にいる少年も声を上げる。
金俊昊――キム・ジュノ。十歳。洪家に仕える乳母の息子であり、生まれたときから屋敷で育った、インファにとっては兄のような存在である。
二人の声がインファの後を追う。
けれど、インファは振り返らなかった。鈴の音に導かれるまま、人と人の間をすり抜けていく。
そのとき、大きな荷車がインファと二人の間を横切った。
「お嬢様!」
乳母が慌てて回り込もうとして、一瞬インファから目を離した。
ジュノも人波をかき分けて後を追ったが、荷車が通り過ぎたときには、小さな姿はすでに祭りの人混みへ紛れていた。
「インファ!」
ジュノは声を張り上げた。
けれど当のインファには、乳母の声もジュノの声も、もう届いていなかった。
「きれい……」
鈴だけを見つめ、さらに人波の奥へ進んでいった。
インファは、自分が迷子になったことに気づかず、鈴の屋台へたどり着くと、軒先を見上げ、嬉しそうに笑った。
そんなインファを、少し離れた路地の陰から見つめる少年がいた。
擦り切れ、色褪せた服を着た、土ぼこりで顔を汚した痩せた少年だった。
名はシウォン。姓はない。
港の外れの物置に集まった孤児たちの中でシウォンが一番年上だった。彼を兄貴と呼ぶ子どもは六人いる。
盗みが悪いことだとは知っている。
だが正しいことだけで七人分の腹が満たされるほど、世の中は都合よくできていなかった。
だからシウォンは盗んだ。
皆の腹を満たすために。
もう一度少女を確かめる。
上等な衣服。花をかたどった髪飾り。腰元で揺れる小さな巾着。
どれも、値打ちのありそうな品だ。
シウォンの視線が、少女の腰元で止まる。巾着は細い飾り紐で結ばれていた。結び目は甘く、刃物を使わなくても指先だけで外せそうだった。
人通りは多い。少女は巾着に注意を払ったりしていない。
鈴の音と店主たちの呼び込みが、多少の物音なら隠してくれる。
これほど身なりの良い子どもなら、近くに連れがいるはずだが、それらしい者の姿はない。鈴に気を取られ、はぐれたのだろう。
(どれかひとつあれば、今夜は皆に飯を食わせられる。)
少女は迷子になったことにも気づかず、軒先の鈴ばかりを見上げている。
周囲を警戒する様子も、連れを探すそぶりもなかった。
シウォンは壁から音もなく背を離した。
今が狙い目だったが、真っすぐ近づいたりはしない。まず荷車の後ろへ回る。
果物を抱えた男の横を抜け、立ち話をする女たちの陰へ入る。
少女の正面には立たず、視界の端にも残らない場所を選びながら、少しずつ距離を詰めていった。
急げば目立つ。
もたつけば、連れが探しに来る。
シウォンは人の流れに歩調を合わせた。
祭りを楽しむ子どものように屋台を眺め、店先の品へ目をやり、ときおり人波に押されたふりをする。
それでも、少女を視界の中から外すことはなかった。
少女が鈴を見上げたまま、一歩前へ出る。
シウォンも一歩進んだ。
少女が屋台の飾りへ手を伸ばした、その瞬間、シウォンは少女の肩にも髪にも触れず、衣擦れの音ひとつ立てないまま、背後を通り抜けた。
指先をわずかに動かせば、今すぐ巾着を外すこともできたが、シウォンはあえて手を出さなかった。
この場で奪えば、巾着がなくなったことに気づいて騒がれるかもしれない。人垣を抜ける前に連れが戻ってくれば、それまでだ。
それよりも、少女の方から品物を差し出させた方がいい。
そうすれば、盗られたと気づくのも遅れる。
先に警戒を解かせる。
相手が子どもならやりようはいくらでもある。
シウォンは少女から二歩離れたところで足を止めた。
店主がほかの客へ釣り銭を渡している隙に、シウォンは屋台の端に置かれた小さな鈴を指先でつまみ上げた。
少女の目に入る高さまで持ち上げ、そのまま指の間へ滑らせる。
手首を返す。
鈴が消えた。
つい先ほどまで少年の指先にあったはずなのに、影も形もない。
インファは瞬きを忘れたように、その手を見つめた。
右の手。
左の手。
細い指の間。
少し擦り切れた袖口。
どこを見ても、鈴は見当たらない。
けれど、少年が反対の手をゆっくりと開くと、何もなかったはずの掌に、銀色の鈴が乗っていた。
――りん。
小さな音が鳴った途端、インファの瞳がぱっと輝いた。
「えっ?」
そこに恐れはなく、それどころか、もっと近くで確かめようと、少年へ一歩近づいた。
小さな身体を前へ傾け、鈴を持つ手を覗き込む。
「どこ?」
右の掌を見て、次に左の掌を見る。
とうとうインファは少年の手首をそっとつかみ、掌を裏返した。
そこまで無防備に近づいてくるとは思っていなかったのだろう。
シウォンの指先が、ほんのわずかに強張った。
けれどインファは気づかず、少年の顔を見上げ、もう一度その手元へ視線を戻す。
「もっかいやって」
返事を待つ時間さえ惜しいらしい。
インファは髪に挿していた花飾りをためらいなく抜き取り、少年へ差し出した。ほどけた髪が一房、頬へさらりと落ちる。
「これもできる?」
シウォンは、驚きが顔に出るのをかろうじて抑えた。
(……警戒心ってものがないのか?)
知らない少年に対する恐れも、自分が迷子になった不安も、インファの表情からは少しもうかがえない。
今の彼女にあるのは、この不思議な手が次に何を見せてくれるのか、それを知りたいという好奇心だけだった。
シウォンは髪飾りを受け取った。
掌に乗せた重みと細工を、一瞬で確かめる。
(これなら、今日だけじゃなく何日か分になる)
指の間へ滑らせ、そのまま袖の内側へ隠した。
本来なら、それで終わりだった。
髪飾りを持ったまま人混みへ紛れればいい。
ところが少女は、盗られたなどとは少しも思わず、期待に満ちた目で彼の手を見つめている。
次はどこから現れるのか、息を詰めてその瞬間を待っていた。
シウォンの指が止まる。
ほんのわずかな間のあと、彼は何も入っていない方の手を握り、インファの目の前で、ゆっくりと開いてみせる。
消えたはずの髪飾りが、掌の上に現れた。
「ほら」
インファは目を丸くした。
次の瞬間、インファは顔いっぱいに笑みを広げた。
「おにいちゃん、すごい!」
シウォンは、返したばかりの髪飾りを胸に抱えて笑う少女を見つめた。
警戒を解くつもりだった。
すべて狙いどおりのはずだった。
それなのに、なぜか調子を狂わされているのは、自分の方だった。
インファが返された髪飾りに目を奪われている隙に、シウォンは鈴を何食わぬ顔で屋台の端へ戻した。
「お嬢様」
不意に声を掛けられ、シウォンの肩がわずかに強張る。
何でもないように装い、ゆっくりと声のする方へ視線を向けた。
声の主は、鈴の屋台の主人だった。
白いものの混じった顎ひげを撫でながら、店主はインファと、その傍らに立つシウォンを交互に見ている。
シウォンは反射的に店主と周囲へ目を走らせた。
今の手品を見られていたのか。
それとも、この少女の巾着を狙っていたことまで見抜かれたのか。
店主はシウォンの手元をちらりと見たが、鈴が元の場所へ戻されているのを確かめると、それ以上は何も言わなかった。
本能的に退路を探す。
逃げ道は背後の路地。
右手には人混み、左手には荷車。
掴まれたとしても、振りほどいて逃げられる。
シウォンは身体に力を入れながらも、顔には何も出さなかった。
だが、店主は彼を咎めることなく、軒先の鈴を指さした。
「そんなに鈴が気に入ったのなら、ひとつ買っておくれよ」
「かって?」
インファが首を傾げる。
「そうさ。春を寿ぐ、大切な人に贈る鈴だ」
店主はそう言って笑い、赤い紐の結ばれた小さな銀色の鈴を手に取り指先で軽く揺らす。
――りん。
澄んだ音に、インファの目が再び輝いた。
春鈴祭の日、町の軒先には、色も形も異なる無数の鈴が吊るされる。
長い冬を越え、再び草木が芽吹く春。
その訪れを祝い、新しい一年の幸せを願うための鈴である。
風を受けて鈴が鳴れば、冬の間に家へ留まっていた悪い気が追い払われ、澄んだ音とともに福が舞い込むといわれていた。
なかでも、赤い紐を結んだ小さな銀の鈴だけは、少し意味が違う。
これからも長くそばにいてほしいと願う、ただ一人の相手へ贈るものだった。
贈られた者がその鈴を持ち続けるかぎり、二人の縁は春の風に守られる。
そんな言い伝えがある。
「大切な相手に渡す、特別な鈴さ。まあ、お嬢様には、まだ少し早いかねぇ」
店主は冗談めかして笑った。
インファには、その言葉の意味がよく分からなかった。
ただ、鈴を誰かへ贈るものだということだけは分かった。
鈴が買えると分かると、嬉しそうに腰元へ手を伸ばした。
欲しいものがあったら、腰に付けた巾着の中のものと交換して買うのだと、乳母が言っていたのを思い出す。
インファは何の警戒もなく紐をほどき、中へ小さな手を入れる。
しゃら、と硬いものが触れ合う音がした。
シウォンの目が細くなる。
音を聞いて、思っていたよりも多くの銀が入っているのがわかった。
インファはその中から小さな銀の粒をひとつ取り出すと、店主の掌へ乗せた。
「これで、かえる?」
「ああ、もちろんだとも」
店主は銀粒を確かめ、赤い紐の鈴をインファへ差し出した。
インファは両手で鈴を受け取ると、手の中でそっと揺らした。
――りん。
その音を聞くと、花が咲いたように笑った。
シウォンはその横顔を見ながら、わずかに息をもらし、静かに一歩退いた。
時間をかけすぎた。
店主にも顔を見られた。
少女の連れも、そろそろ探しに来る頃合いだろう。
巾着の銀も髪飾りも惜しいが、この場に長くいる方が危険だった。
(潮時だ)
人混みに紛れれば、すぐに姿を消せる。
シウォンは踵を返そうとした。
「おにいちゃん」
その袖を、小さな手がつかんだ。
振り返ると、インファが彼の袖を握ったまま見上げている。
「……何だ」
正直、もう早く離れたかった。今日、皆に食べさせる分だけでも確保しなければならない。
「これ」
インファは買ったばかりの鈴を差し出した。
赤い紐の先で、小さな銀色の鈴が揺れる。
「おにいちゃんにあげる」
「いらない」
シウォンは眉を寄せた。
「必要ない」
「でも、たいせつなひとにあげるっていってた」
インファは店主から聞いた言葉を、そのまま口にした。
もちろん、その意味を理解しているわけではない。
ただ、鈴を消したり現したりする不思議な少年に、きれいな音のするものを渡したいと思った。
インファはシウォンの手を取り、掌を上へ向けさせた。
その上に鈴を置く。
――りん。
シウォンは掌の上の鈴を見下ろした。
返そうと手を動かすけれど、その前にインファは彼の手を両手で包み、小さな鈴を握らせた。
「とってもきれいなおとがするの」
「……」
「だから、あげる」
少女は満足そうに笑っていた。
あげたいから、あげた。
それだけだと言うような、屈託のない笑顔だった。
シウォンは、握らされた鈴を返す言葉を見つけられなかった。
「ねえ」
インファが再び袖を引く。
「おにいちゃん、ちょっとおおきいのもできる?」
「大きいもの?」
「うん」
インファは両腕を広げてみせた。
「これくらい」
「消したいのか?」
「おうちにね、なくしてほしいものがあるの」
シウォンの目がわずかに動いた。
「家に?」
「うん。おとうさまが、もってきたの」
インファは困ったように眉を下げた。
「りゅうなの」
「龍?」
「これくらいでね」
もう一度、胸の前で両腕を広げる。
先ほどよりも少し大きくなっている。
「おめめが、むらさきいろでね」
インファは自分の目元を指で丸く囲った。
「くらくなると、こっちをみてるの」
思い出しただけでも怖いらしく、声が少し小さくなった。
「こわいの」
父親が買った龍の彫り物らしい。
五歳の少女が抱えられるほどの大きさなら、相応に立派な置物だろう。
目に紫色の石が嵌め込まれているのだとすれば、それだけでも値が張る。
この少女の着物。
髪飾り。
巾着の中の銀。
そして、父親が買い求めた龍の置物。
屋敷まで行けば、髪飾りひとつとは比べものにならないほどの稼ぎになるかもしれない。
家の中に入ってしまえば、品物のある場所も、戸口の位置も、使用人の数も分かる。
何かひとつ盗んで逃げることもできる。
うまくいけば、しばらく皆を飢えさせずに済む。
「おうちでなくしてほしいの」
インファは何の疑いもなく言った。
シウォンは、無邪気に自分を見上げる少女を見つめた。
普通なら、見知らぬ人間を家へ連れていこうなどとは考えない。
まして、自分が盗人だとは、夢にも思っていないのだろう。
警戒心がないにもほどがある。
だが、シウォンにとっては好都合だった。
「……できる」
「ほんと?」
インファの顔が明るくなる。
「ああ」
「じゃあ、きて!」
インファは歓声を上げると、シウォンの袖をつかんだまま歩き出した。
「おうちはこっち!」
迷いのない足取りで人混みを進んでいく。
ところが、通りをひとつ曲がったところで、インファはぴたりと立ち止まった。
右を見て、左を見る。
「……こっちだったかな」
シウォンは黙って少女を見下ろした。
「家の場所、分からないのか」
「わかるよ」
インファはむっとしたように頬を膨らませると、右の道を指さした。
「あっちに、大きな木があるの。その木のところを曲がって、橋を渡って、それから……」
少し考えたあと、今度は反対の道を指さす。
「やっぱり、こっちかも」
シウォンは小さく息を吐いた。
この少女に任せていては、日が暮れても着きそうにない。
「家の名前は」
「ホンのおうち」
「洪家か?」
「うん。おとうさまのおうち」
それなら知っていた。
町外れにある、大きな屋敷だ。
門構えだけでも、並の両班の家ではないと分かる。
あの屋敷なら、金目の物はいくらでもありそうだ。
シウォンは通りの向こうへ視線を向けた。
少女の連れが追ってくる気配はまだない。
おそらく今も、市場の人混みを探し回っているのだろう。
今なら、少女の連れに見つかる前に屋敷へ入り込める。
「こっちだ」
シウォンはインファが指さしたのとは反対の道へ歩き出した。
「そっちなの?」
「家に帰りたいんだろ」
「うん!」
インファは疑うことなく、その後を追った。
やがて二人は、人の多い市場を抜けた。
インファは道端の花や、軒下で鳴る風鈴を見つけるたびに立ち止まり、そのたびにシウォンが無言で引き戻した。
そうしてしばらく歩くと、白い塀が見えてくる。
「あっ、わたしのおうち!」
長い白壁に大きな正門が見えてくる。
門の前には家人が立っていた。
春鈴祭の日とはいえ、名家の屋敷である。出入りする者を確かめる人間くらい、当然いる。
シウォンは足を止めた。
自分の擦り切れた着物と、日に焼けた手を見る。
インファと一緒にいるとはいえ、正面から入れば、誰かに呼び止められるだろう。
それどころか、迷子の令嬢を連れ歩いていた怪しい少年として捕まる可能性もある。
(無理そうだな……)
ところがインファは正門へ向かわず、白壁に沿って歩き始めた。
「こっち」
「門はあっちだろ」
「こっちのほうが、りゅうのところに近いの」
インファは何でもないことのように答えた。
白壁の脇には、屋敷の裏手へ続く細い道がある。
人ひとり通るのがやっとの道で、片側には塀、もう片側には竹や低い木々が茂っていた。
シウォンは周囲を確かめながら、その後を追った。
道の途中で、インファが一本の古い梅の木の前に立ち止まる。
枝は白壁の上へ伸び、根元には背の高い草が生い茂っていた。
どう見ても行き止まりである。
「ここ」
インファは草をかき分けた。
その奥には、白壁の一部を隠すように、古びた木の板が立て掛けられていた。
インファが両手で板を押す。
板は土を擦る鈍い音を立てながら、横へずれた。
その向こうから、大人には通れず、子ども一人がようやく通れるほどの狭い穴が現れた。
壁の下に造られた、古い水路だった。
かつて庭へ雨水を引き込むために使われていたらしいが、今では草に覆われ、屋敷の者にもほとんど忘れられている。
ただし、完全に忘れられているわけではない。
インファとジュノは知っていた。
以前、庭で遊んでいたとき、ジュノが偶然見つけたのである。
もちろんジュノは、その日のうちにインファへ言い聞かせた。
絶対に入るな。
外へ出るな。
誰にも教えるな。
インファは三つのうち、最後のひとつだけは、今日までちゃんと守っていた。
「ここから入るのか」
「うん」
インファは得意そうに胸を張った。
「ひみつのみちなの」
秘密の道。
シウォンは狭い穴を見つめた。
正門の家人にも見つからず、屋敷の内側へ入ることができる。
盗みに入ろうとする者にとっては、この上なく都合のよい道だった。
もっとも、それを教えた本人には、盗人を屋敷へ招き入れているという自覚など、これっぽっちもない。
インファはチマの裾を持ち上げると、慣れた様子で身を屈めた。
「ついてきて」
「お前、本当にこの家の子なのか」
「そうだよ」
インファは振り返り、不思議そうに目を丸くした。
「だって、インファのおうちだもん」
答えになっているようで、なっていない。
だが、本人はそれで十分らしい。
(インファ。それがこの少女の名か)
明るく柔らかい響きだった。
覚える必要などないのに妙にすんなりと胸へ残った。
インファは四つん這いになり、狭い水路の中へ入っていった。
シウォンは一度だけ、正門の方角を振り返った。
少女をここへ置いて立ち去ることもできる。
しかし、この先には大きな屋敷がある。
米も、布も、銀もあるかもしれない。
それに、紫色の石を目に嵌めた龍の置物も。
シウォンは少女の後を追って水路へ入った。
中は暗く、湿った土の匂いがした。
五歳のインファなら余裕で通れるが、十歳のシウォンには少し窮屈だった。
肩を斜めにし、膝をついて進まなければならない。
少し先から、インファの声が聞こえる。
「もうちょっとだよ」
やがて前方に光が見えた。
先に外へ出たインファが、内側に置かれていた板を押しのける。
シウォンも穴から這い出すと、そこは屋敷の裏庭だった。
背の高い竹と、低く刈り込まれた植え込みに囲まれた場所である。
母屋からは離れており、近くに人の姿はなかった。
インファは服についた土を小さな手で払い、何事もなかったように立ち上がった。
淡い桃色のチマの膝には、見事な土汚れがついている。
名家の令嬢としては、少々問題のある帰宅姿だった。
「こっち!」
インファはシウォンの袖をつかみ、庭の奥へ駆け出した。
シウォンは引かれるまま歩きながら、屋敷の中へ目を走らせた。
屋敷といっても、建物がひとつあるだけではない。
町外れの緩やかな坂を上った先に、長い白壁が左右へ伸び、その中央に大きな門が構えている。
門の向こうには母屋があり、その周りを客を迎える棟、使用人たちの住まい、台所、倉、馬小屋などが取り囲んでいた。
庭もひとつではない。
門を入ってすぐの前庭。
家族が過ごす母屋の中庭。
花や薬草を育てる小さな庭。
さらに奥には、果樹や竹の植えられた場所まである。
家というより、塀の中にもうひとつ小さな村があるように見えた。
正面の母屋は地面より一段高く造られ、広い縁側が建物を巡っている。
幾重にも重なる瓦屋根は緩やかな曲線を描き、深く張り出した軒が春の日差しを遮っていた。
磨かれた柱にも、きれいに並べられた飛び石にも、長く手入れされてきた家の落ち着きがある。
派手な金箔も、目を奪うほど華美な飾りもない。
それでも門の大きさ、庭の広さ、行き交う使用人の数を見れば、洪家が並の両班ではないことはすぐに分かった。
春鈴祭の日だというのに、屋敷の中には人の気配が絶えない。
台所からは薪を割る音。
井戸のそばでは水を汲む音。
倉の前では荷を運ぶ男たちが声を掛け合い、庭では女中たちが干した布を取り込んでいる。
それだけ多くの人間が働き、暮らし、それでも窮屈に見えないほど、洪家は広かった。
シウォンは自分に必要な情報を集めていく。
門から母屋までの距離。
使用人たちの動き。
裏へ続く細い道。
鍵の掛かった倉。
開いたままの戸口。
どこを見ても、彼がこれまで忍び込んだ商家とは比べものにならない。
少女の着物を見たときから、裕福な家の子どもだとは思っていた。
しかし、想像していた以上だった。
これほどの屋敷なら、値の張る品はいくらでもある。
しかも今、自分は正門を通らず、誰にも見つからないまま、その中へ入り込んでいる。
(来た甲斐があった。)
そんな彼の胸の内など知らず、インファは嬉しそうに振り返った。
「はやく。りゅう、こっちなの!」
迷子になっていたくせに、屋敷へ戻った途端、足取りだけは誰よりも確かだった。
そのまま庭を横切り、縁側へ連れていかれた。
母屋の奥からも死角になる縁側で、祭りの支度に追われる使用人たちが近づく気配はなかった。
そこには、子どもの背丈の半分ほどもある龍の彫り物が置かれていた。
黒々とした胴をくねらせ、口を大きく開けている。
両目には紫色の石が嵌め込まれ、日の光を受けて鈍く輝いていた。
インファはシウォンの後ろへ隠れ、龍を指さした。
「これ」
先ほどまでの勢いが嘘のように、声が小さくなる。
「夜になるとね、おめめが光るの」
シウォンは龍の置物を見た。
そのまま持っていくにはかさばるが、目に使われている紫色の石だけなら楽に持っていけそうだった。
シウォンは紫色の石へ手を伸ばし、指先で縁を探った。
だが、石は思った以上に固く嵌め込まれている。
外すには時間も道具も必要だった。
今はインファを納得させる方が先だと考え、手品に付き合うことにした。
「これを消せばいいのか」
「うん」
インファはシウォンの袖を握ったまま、こくりとうなずいた。
「できる?」
もちろん、この大きさの物を手品で消せるはずはない。
けれど、五歳の少女を納得させるだけなら方法はある。
シウォンは置物の前へ進み、形や重さを確かめるように触れた。
ふと縁側の端へ目をやると、畳まれた布が置かれていた。
「目を閉じろ」
「どうして?」
「見ていたら消せない」
インファは慌てて両手で目を覆った。
けれど、指の隙間がわずかに開いている。
「消さなくていいのか?」
「だめ!」
今度こそ目が隠れたことを確かめると、シウォンは布を手に取り、龍の置物へ掛けた。
そのまま素早く持ち上げ、縁側の端に積まれた屏風の陰へ滑り込ませる。
布だけを元の場所に落とした。
「もういい」
インファが恐る恐る目を開ける。
そこに龍の姿はなかった。
「……ない」
何度も瞬きをする。
置物があった場所へ駆け寄り、布をめくり、縁側の下まで覗き込む。
それでも龍は見つからない。
インファは勢いよく振り返った。
「すごい!」
その顔いっぱいに笑みが広がる。
「ほんとうに、いなくなった!」
シウォンが答える前に、インファは嬉しそうに手を叩いた。
「ほかのもなくして!」
「まだあるのか」
「きえるところ、もっとみたいの!」
インファが次々と品物を持ってきては、シウォンが消してみせる。
別の簪。
木彫りの鳥。
小さな茶碗。
シウォンは袖や布の陰へ器用に隠し、そのたびにインファは声を上げて笑った。
その頃、ジュノは市場中を駆け回っていた。
日に焼けた顔に、短く整えた黒髪。
年齢のわりにしっかりした体つきで、祭りの人波を器用にすり抜けていく。
眉は険しく寄り、口元も固く結ばれている。
かなり怒っているように見える。
実際、怒っていたし、それ以上に、心配していた。
感情が何ひとつ顔に隠れてくれないのが、ジュノという少年である。
「インファ!」
鈴の屋台も、菓子の店も、見世物の周りも探したけれど、小さな姿はどこにもない。
胸の奥で、嫌な想像ばかりが膨らんでいく。
誰かに連れ去られたのではないか。
転んで怪我をしているのではないか。
「くそっ、どこ行ったんだよ……」
走れば走るほど、不安は大きくなっていった。
額の汗を拭ったとき、ふと屋敷のことが頭をよぎった。
もしかすると、一人で戻っているかもしれない。
インファなら十分にあり得る。
人を散々心配させておきながら、自分だけ先に帰り、何事もなかったように菓子でも食べているかもしれない。
そうであってほしいと願いながら、ジュノは乳母との合流を待たず、一足先に洪家へ向かって走り出した。
坂を駆け上がり、大きな正門が見えると、そのまま門前に立つ家人のところへ駆け寄った。
「インファは戻ったか?」
突然声を掛けられた門番は、目を丸くした。
「ジュノ? お嬢様なら、乳母様と祭りへ行かれたはずだろう」
「はぐれたんだ。ここへ一人で戻ってきてないか?」
門番の顔から、のんびりした表情が消えた。
「いや。お嬢様はお戻りになっていない」
「本当に?」
「ああ。少なくとも、この門は通っていない」
門番は慌てて屋敷の内側を振り返った。
「裏門の者にも確かめるか?」
「いや……」
ジュノは息を切らしたまま、長い白壁を見つめた。
正門を通っていない。
裏門も、インファが一人で戻れば必ず誰かが気づく。
それでも、胸の奥には妙な引っ掛かりがあった。
あの秘密の道。
以前、庭で遊んでいたときに見つけた、古い水路の穴。
絶対に入るな。
外へ出るな。
誰にも教えるな。
そう何度も言い聞かせた。
インファも、そのたびに大きくうなずいていた。
もっとも、あのうなずきにどれほどの効力があるかは、ジュノ自身が誰よりよく知っている。
「まさかな……」
ジュノは白壁の向こうへ目を向けた。
「どうした?」
「何でもない。屋敷の中を見てくる」
門番の返事を待たず、ジュノは門をくぐった。
前庭を横切り、母屋の方へ走る。
途中で女中や使用人に尋ねたが、誰もインファを見ていないという。
やはり戻っていないのか。
ジュノは裏庭へ続く道へ向かう。
そのとき、縁側の方から、聞き慣れた声がした。
「もっかい! これも!」
ジュノは足を止めた。
踏みしめた砂利が、ざり、と鳴った。
探し回っていたインファが、縁側に座っていた。
泣いてもいない。
怪我もしていない。
それどころか、見知らぬ少年を前に、今まで見たこともないほど楽しそうに笑っている。
少年が手を開いた。
消えたはずの髪飾りが、その掌に現れた。
インファが嬉しそうに手を叩いている。
ジュノは、縁側の二人を呆然と見つめた。
幼いころから一緒に育ったインファを守るのは、自分の役目だとジュノは思っていた。
頼まれたわけではない。
役目として与えられたわけでもない。
ただ、インファが木に登ろうとすれば止め、池へ近付けば引き戻し、転びそうになればつかまえる。
それを毎日繰り返すうちに、いつの間にか本人の中では、立派な使命になっていたのである。
自分が市場中を駆け回っていた間、この見知らぬ少年は、インファの隣に座り、楽しそうに笑わせていたのだ。
ジュノは拳を固く握りしめた。
インファが無事だった。
それだけで、本当なら十分なはずである。
勝手にいなくなったことも、秘密の道を使ったことも、あとでいくらでも叱ればいい。
いや、叱るつもりではある。
かなり叱る。
けれど今は、それより先に気になるものがあった。
インファの目の前にいる、見知らぬ少年である。
自分と大して年も変わらないように見える。
擦り切れた服。
土に汚れた顔。
愛想の欠片もない表情。
それなのに、まるで昔からそこにいたような顔で洪家の縁側に座っている。
しかも、インファが笑っている。
自分が見たこともないほど、楽しそうに。
それが妙に腹立たしかった。
どこの誰とも知れないくせに。
勝手に屋敷へ入り込んだくせに。
自分が必死になって捜していたインファの隣で、どうしてこいつが平然と手品など見せているのか。
インファへ向けるはずだった小言も、安堵の言葉も、すべて腹の底で行き場をなくした。
代わりに膨れ上がった苛立ちが、目の前の少年へ真っすぐ向かっていく。
ジュノは少年を睨みつけた。
「おい」
低い声が、春の庭に落ちた。




