第六章 守る者の背
※この章には、動物による負傷・流血の描写があります。苦手な方はご注意ください。
湖の水面に、白い雲が映っていた。
風が吹くたび、空の形が細かく揺れる。
「シウォン、見て」
インファが湖畔へしゃがみ込み、水面を指さした。
「あそこに、お魚がいる」
「近づきすぎないでください」
「近づいてないもん」
答えながら、さらに一歩、水際へ寄る。
シウォンは背後からインファの帯をつかんだ。
「近づいています」
「ちょっとだけ」
「その少しで落ちるんです。以前も同じことを言って、池へ落ちました」
「あれは、石がすべったの」
「今も石の上に立っています」
インファは足元を見下ろした。
湖の水に濡れた石は、陽を受けてつやつやと光っている。
少し考えたあと、何も言わずに一歩下がった。
シウォンが帯から手を離す。
この春、シウォンは十六歳になった。
洪家へ来てから、六年が過ぎている。
背は大人の護衛たちに近づき、護衛として外出する際にも、刀を帯びるようになった。
懐には、敵の目をくらませて退路を作るための、小さな布袋も忍ばせている。
インファの短い外出であれば、行き先と道によっては、一人で護衛を任されることもある。
今日の湖畔も、その一つだった。
洪家から歩いて半刻ほど。
道はよく知っている。
周囲に集落はないが、湖へ続く街道には薪を運ぶ者や、町へ向かう者がときおり通る。
水辺は広く開けており、何かが近づけば遠くからでも見つけられる。
湖の反対側には森が広がっている。
深い山へ続く森ではない。
木の実を集める者や薬草を摘む者が入り、狩人も通る。
鹿や兎、栗鼠の姿を見かけることも多かった。
インファは、この場所が好きだった。
花を摘み、鳥の声を聞き、水辺へ集まる小さな生き物を飽きずに眺める。
シウォンにとっても、守りやすい場所だった。
人混みのある市場より、予測できない荷車が行き交う街道より、よほどよい。
ただし、本当に二人きりというわけではない。
少し離れた木の枝に、一羽の鷹が止まっている。
護衛頭が長年かけて馴らした鷹だった。
褐色の羽を重ね、枝の上から鋭い目で周囲を見下ろしている。
片脚には細い革の足緒がついていた。
その先の輪は、シウォンの腰帯にある小さな留め具へ掛けられている。
留め具を外して初めて、鷹は自由に飛び立てる。
シウォンの鷹ではない。
呼んでも来ない。
餌を見せれば受け取ることはあるが、気を許しているわけでもなかった。
足緒を解いて放てば、鷹は主人である護衛頭のもとへ戻る。
異変を知らせたあとは、放された場所へ再び戻るよう仕込まれていた。
護衛たちは、その鷹を追って現場へ向かう。
外出先で異変が起き、シウォン一人では対処できないと判断した場合に使う、緊急の知らせだった。
インファは、鷹を見るたびに触りたがった。
今日も、木の下から枝を見上げている。
「シウォン」
「駄目です」
「まだ何も言ってない」
「触りたいのでしょう」
「撫でるだけ」
「手をつつかれます」
「シウォンが持っててくれたら大丈夫」
「俺の手もつつかれます」
「護衛なのに?」
「鷹に護衛は関係ありません」
インファは不満そうに頬を膨らませた。
枝の上の鷹も、相手をするつもりはないらしい。
首だけを動かし、湖の反対側へ目を向けている。
「シウォンには、いつになったら慣れるの?」
「さあ」
「毎日、餌をあげたら?」
「師匠の鷹です」
「じゃあ、シウォンも鷹を飼えばいいのに」
「世話をする時間がありません」
「私がする」
「お嬢様は、ご自分の髪を結うこともできないでしょう」
「できるもん」
「今朝、乳母殿に結っていただいていました」
「今日は、乳母がしたいって言ったから」
「そうですか」
返事はしたが、信じている顔ではなかった。
インファは唇を尖らせ、湖畔を歩いていく。
淡い黄色のチョゴリに、柔らかな青色のチマ。
髪は一つにまとめられ、春の小花を模した飾りが差されていた。
五歳の頃より背は伸びた。
けれど、面白いものを見つけると周囲を忘れるところは、十一歳になっても変わらない。
今も、草むらの中に小さな花を見つけ、そちらへ走っていく。
シウォンは半歩遅れてついていった。
「シウォン、この花は何?」
「分かりません」
「シウォンにも分からないことがあるの?」
「あります」
「何でも知ってるのかと思った」
「それは先生に言ってください」
「先生は、お花の名前を聞くと、花の先生に聞きなさいって言うよ」
「では、花の先生に」
「今ここにいないもん」
インファは小さな紫色の花へ顔を寄せた。
摘もうとして伸ばした指が止まる。
「これは摘まない」
「なぜです」
「一つしか咲いてないから」
インファは立ち上がり、代わりに少し離れた場所へ群れて咲く白い花を二輪摘んだ。
そのうち一つを、シウォンへ差し出す。
「どうぞ」
「俺にですか」
シウォンはしばらく花を見下ろした。
刀を帯びた護衛の手に、指先ほどの白い花は似合わない。
受け取らずにいると、インファがさらに差し出してくる。
「いらない?」
「……いただきます」
結局、受け取った。
どこへ入れるべきか考え、腰帯へ差す。
インファは満足そうに笑い、自分の花を手に湖の方へ戻っていった。
その頃、洪家の正門へ、一頭の馬が駆け込んできた。
門番の制止を待たず、馬上の男が声を張り上げる。
「洪家の旦那様へ、急ぎのお知らせがございます!」
男は湖畔近くの村から来た使いだった。
馬から下りると足をもつれさせながら門をくぐり、駆けつけた家人へ訴えた。
「街道の近くで熊が出ました。薪を運んでいた者が襲われかけ、荷車を捨てて逃げ帰っております」
「熊?」
門番の顔色が変わる。
「今朝、山の方でも大きな足跡が見つかりました。このままでは街道を通れません。村の者だけでは手に負えず、洪家のお力をお借りしたく――」
報告は、すぐに主人と護衛頭へ伝えられた。
護衛頭は使者の話を聞きながら、湖畔周辺の地図を頭に浮かべていた。
熊が目撃されたのは、山から下りる古い道と、湖畔へ続く街道が交わる辺りだという。
普段なら、すぐに護衛を集めて現場を確認する。
だが、その日は事情が違った。
「湖畔……?」
近くにいた乳母の顔から、さっと血の気が引いた。
「本日、お嬢様は湖へ出かけておられます」
庭にいた者たちの動きが止まった。
主人が振り返る。
「誰がついている」
「シウォンです。昼過ぎにはお戻りになる予定で……」
護衛頭の表情が変わった。
「どちらの道を通った」
門番が答える。
「北の街道です。いつもの湖畔へ向かわれました」
熊が目撃された場所と、ほとんど重なっている。
屋敷の空気が、一瞬で張り詰めた。
「護衛を集めろ」
護衛頭の声が飛ぶ。
「弓を持て。槍も用意しろ。馬を出せ!」
庭にいた護衛たちが一斉に動き出した。
弓と矢筒が倉から運び出され、馬番たちが馬小屋へ走る。
門番は正門の前から人を退かせ、街道へ出る道を空けた。
主人が使者へ尋ねる。
「熊を見たのは、いつだ」
「四半刻ほど前です。荷車の男が村へ駆け込み、すぐに私がこちらへ参りました」
それだけの時間があれば、熊はすでに湖畔近くまで移動していてもおかしくない。
「シウォンは鷹を連れております」
乳母が、縋るように言った。
「あの鷹を放てば、こちらへ知らせが来るはずです」
護衛頭は答えなかった。
鷹を放す余裕があればよい。
だが、危険に気づく前に熊と遭遇していたら。
あるいは、インファを守りながら鷹の枷を外す時間がなかったら。
考えている時間はなかった。
護衛頭は馬へ飛び乗った。
「私が先行する。二人は湖へ続く街道を行け。残りは森側から回れ」
「はい!」
「熊を見つけても、私が着くまで不用意に近づくな。まずお嬢様を捜せ」
護衛たちが次々と馬へ乗る。
ジュノも騒ぎを聞きつけ、行廊棟から駆けてきた。
「お嬢が湖にいるって、本当か?」
誰も答えなかった。
答えるまでもなく、護衛たちの顔が事態を物語っていた。
「俺も行く」
ジュノが近くの馬へ手を伸ばす。
「ならん」
護衛頭が即座に制した。
「でも、親父――」
「屋敷に残れ」
「シウォン一人なんだろ!」
「だからこそ、戦えない者を連れてはいけない」
ジュノは言葉を失った。
護衛頭は息子から目を離し、手綱を握り直した。
「シウォンが異変に気づけば、必ず退く」
それは、長年教え続けてきたことだった。
敵を倒すことを考えるな。
まず守る相手を逃がせ。
自分の手に余ると判断したなら、迷わず助けを呼べ。
シウォンは、その教えを誰よりもよく守る。
そう信じなければならなかった。
「出るぞ!」
正門が大きく開かれた。
護衛頭を先頭に、馬が次々と屋敷を飛び出していく。
蹄の音が、街道を激しく打った。
ジュノは正門の前に立ち尽くし、遠ざかる背中を見送った。
乳母は両手を胸元で組み、唇を震わせている。
主人だけが門の向こうを見つめていた。
今はまだ、二人が熊と出会ったかどうかも分からない。
ただ、間に合うことを願うしかなかった。
静かな昼だった。
風が木々の梢を揺らし、水面へ細かな波を作っている。
シウォンはインファを見守りながら、湖と森の境を目で追った。
湖畔へ着いたときにも確認している。
街道からこちらへ近づく人影はなかった。
森の入口にも、不審な足跡や折れた枝は見当たらなかった。
風向きも変わっていない。
それなのに、何かが気にかかった。
シウォンは森へ顔を向けた。
木々は風に揺れている。
その下に広がる草も、葉の裏を返して波打っていた。
何も見えない。
だが、静かだった。
先ほどまで、枝から枝へ移っていた栗鼠の姿がない。
湖畔の草を食んでいた兎も消えている。
いつもなら、インファが近づけば飛び立つ小鳥が何羽もいるはずだった。
今は枝葉の擦れる音以外、何も聞こえない。
鳥の声がしない。
虫の羽音も。
森全体が、息を潜めている。
シウォンの手が、無意識に刀の柄へ触れた。
木の上の鷹も、先ほどから同じ方向を見ている。
羽をわずかに浮かせ、首を低くしていた。
「お嬢様」
湖のそばで石を拾っていたインファが振り向く。
「何?」
「戻ります」
「もう?」
「はい」
「まだ来たばっかりだよ」
半刻以上はいる。
けれど、インファにとっては、まだ来たばかりらしい。
「森の様子がいつもと違います」
「どう違うの?」
「静かすぎます」
インファは耳を澄ませた。
風が吹く。
湖の水が岸へ寄せ、ささやかな音を立てる。
「静かな方が、きれいな音が聞こえるよ」
「今日は帰ります」
「あと少しだけ」
「駄目です」
シウォンは森から目を離さなかった。
危険だと断定できるものは、まだ何もない。
けれど、何も見つからないから安全だとは限らない。
十歳の頃から何度も教えられた。
異変に気づいた時点で、守る相手を安全な場所へ移せ。
正体を確かめるために近づくな。
戦うことより、退くことを選べ。
師匠の声が、頭の中へ響く。
これは、シウォン一人の手には余る。
「帰ります」
「まだ帰る時間じゃない」
インファの顔から笑顔が消えた。
湖へ来られる日は多くない。
令嬢としての学びや稽古がある。
シウォンにも鍛錬や夜番がある。
たとえ同じ屋敷で暮らしていても、一日中一緒にいられるわけではなかった。
二人だけで出かけられる時間となれば、なおさら少ない。
インファが、この日を楽しみにしていたことは知っていた。
朝から何度も空を見上げ、雨が降らないか確かめていた。
弁当へ入れる菓子まで、自分で乳母に頼んでいた。
それでも帰らなければならない。
「明日、また来ましょう」
「明日は書の稽古があるもん」
「お嬢様」
「シウォンといられるのは、この時間だけなのに」
小さな声だった。
シウォンの手が、刀の柄の上で止まる。
幼い頃のインファなら、腕へしがみついたかもしれない。
十一歳になった今は、そうしない。
ただ唇を結び、シウォンを見上げている。
その瞳に責める色が浮かんでいるのを見て、シウォンは返す言葉を失った。
「あと少しだけ」
「駄目です」
それでも答えは変えられなかった。
「戻ります」
インファが一歩下がった。
「お嬢様」
シウォンが手を伸ばす。
インファはその手を避け、さらに後ろへ下がった。
「嫌だって言ってるのに」
インファはその場から動こうとしなかった。
白い花を握ったまま、シウォンを見上げている。
「お嬢様」
シウォンが手を差し出す。
「戻ります」
そのときだった。
木々の間に、黒い影が見えた。
最初は、大きな岩に見えた。
森の暗がりの中で、その影がゆっくりと動く。
太い前脚が地面を踏んだ。
枝が折れた。
湿った土を擦る音がした。
熊だった。
インファの背後。
十歩もない。
熊が鼻先を上げた。
空気の匂いを確かめるように、顔を左右へ動かす。
インファはまだ気づいていない。
「お嬢様」
シウォンは、できるだけ低い声で呼んだ。
いつもとは違う声に、インファが足を止める。
「動かないでください」
声を張らず、片手を静かに上げる。
インファは何かを尋ねようとしたが、シウォンの表情を見て口を閉じた。
その背後で、熊が鼻先を上げた。
まだこちらをはっきり捉えてはいない。
だが、インファまで十歩もなかった。
シウォンは一瞬で距離を測る。
逃げるよう指示することはできない。
背を向けて走らせれば、追いつかれる。
シウォンはインファから目を離さないまま、鷹の留め具を外す。
「行け」
抑えた声に反応し、枝の上の鷹が大きく翼を広げた。
鷹が枝を蹴って飛び立つ。
熊の前脚が地面を掻いた。
シウォンはその動きと同時に地面を蹴った。
鷹は木々の間を低く抜け、その先で森の上へ急上昇する。
シウォンは振り返らない。
鷹が師匠のもとへ戻ることを信じ、ただインファとの距離を詰めた。
熊の頭が動いた。
こちらに気づいた。
シウォンは走りながら刀の柄を握る。
インファへ届くまで、あと数歩。
熊が前脚を踏み出す。
シウォンは二人の間へ飛び込みざま、刀を抜いた。
横薙ぎに迫る前脚へ、両手で握った刀身を差し入れる。
重い衝撃が、腕から肩へ突き抜けた。
熊の力を受け止めきることなどできない。
シウォンは受け止めるのではなく、刃を斜めに差し入れ、爪の軌道を僅かでも逸らそうとした。
鋭い音が響く。
爪が刀身を滑り、その勢いのまま刀がシウォンの手から弾き飛ばされた。
刀は草の上を回転しながら滑り、手の届かない場所へ落ちる。
両腕が痺れた。
衝撃に押され、シウォンの足も一歩後ろへ下がる。
それでも、インファと熊の間からは外れなかった。
背後にいるインファへぶつからないよう踏みとどまり、身体だけで熊の前を塞ぐ。
熊が頭を振り、再び前脚を持ち上げる。
次の一撃を受けるものは、もうない。
シウォンは懐へ手を入れ、目潰しの布袋をつかんだ。
熊が踏み込む。
シウォンは袋の口を引き裂き、その顔へ中身を投げつけた。
灰色の粉が熊の鼻先で大きく広がる。
熊が咆哮し、頭を激しく振った。
シウォンはその隙に振り返り、インファの肩をつかむ。
「伏せます」
その場へ押し伏せると、自分も倒れ込むように、インファの上へ覆いかぶさった。
街道を駆けていた護衛頭が、頭上の鳴き声に顔を上げた。
一羽の鷹が、森の上から急降下してくる。
自分が育てた鷹だ。
見間違えるはずがなかった。
「止まれ!」
護衛頭が手綱を引く。
鷹は飼い主である護衛頭を見つけると、その頭上を低く旋回した。
一度、大きく鳴く。
それから湖畔の方角へ飛び、振り返るように再び輪を描いた。
シウォンが放したのだ。
ただの警戒ではない。
一人では対処できない何かが起きている。
「湖だ!」
護衛頭は馬の腹を蹴った。
「鷹を追え!」
護衛隊が一斉に進路を変える。
鷹は街道を外れ、森と湖の境へ向かって飛んでいく。
護衛頭はその後を追いながら、弓を手へ取った。
鷹を放す余裕はあった。
ならば、シウォンはまだ動けていた。
少なくとも、放した瞬間までは。
それ以上は何も分からない。
遠くで、獣の咆哮が響いた。
馬が怯え、足を乱す。
護衛頭は手綱を強く引き、馬を立て直した。
「急げ!」
今度の声には、隠しきれない焦りがあった。
インファの頭を胸元へ抱き込み、片手で後頭部を覆う。
もう片方の腕で肩と背を包み、自分の身体の下へ完全に隠した。
「耳を塞いでください」
「シウォン」
「目も閉じて」
インファの手が、シウォンの衣をつかんだ。
何が起きているのか分からないまま、震えている。
熊は目元を前脚で擦り、頭を激しく振っていた。
鼻を鳴らし、地面へ爪を立てる。
粉が目に入ったのか、こちらを正確には捉えられていないらしい。
だが、逃げる時間はなかった。
今から立ち上がれば、熊に背を向けることになる。
インファを抱いたままでは、走り切れない。
ならば、ここで耐えるしかない。
「師匠がすぐに来ます」
シウォンは言った。
「鷹を放しました。必ず見つけてくれます」
「でも、なにかいる……」
「大丈夫です」
熊が咆哮した。
インファの指へ力がこもる。
「絶対に、大丈夫です」
嘘だった。
鷹がどこまで飛んだのか。
師匠が今どこにいるのか。
助けが来るまで、自分の身体が持つのか。
何一つ分からなかった。
それでも、インファへはそう告げるしかなかった。
熊が周囲を歩き始めた。
土を踏みしめる音が近づき、遠ざかり、また近づく。
目が利かない代わりに、耳と鼻で二人の居場所を探している。
シウォンは息を殺した。
インファの顔を胸へ押しつけ、髪の上へ頬を寄せる。
動いてはいけない。
声を出してもいけない。
熊が別の方向へ行くのを待つ。
だが、熊は離れなかった。
先ほど目潰しを投げたとき、枝か爪で腕を傷つけたらしい。
袖の下から、細い血が流れていた。
熊が鼻を鳴らす。
血の匂いを嗅ぎつけた。
足音が、真っすぐこちらへ近づいてくる。
シウォンはインファを抱く腕へ、さらに力を込めた。
「苦しい……」
「少しだけ我慢してください」
「こわい」
「平気です」
また嘘をついた。
熊の息遣いが背後まで迫る。
湿った、生暖かい息が衣越しに触れた。
シウォンは目を閉じなかった。
顔だけをわずかに横へ向け、熊の気配を探る。
インファの上から退くつもりはなかった。
熊の爪が地面を掻いた。
次の瞬間、背中へ重い衝撃が走った。
上衣が裂け、その下に着込んだ護衛用の胴衣へ爪が食い込む。
厚い布と革が引き裂かれ、熱い痛みが肩から脇腹へ駆け抜けた。
身体が地面へ押しつけられる。
息が止まった。
それでも、インファを抱く腕は緩めなかった。
「シウォン、こわい」
「そのまま……目を閉じていてください」
声が震えた。
痛みを悟らせたくなかったが、抑えきれなかった。
熊はもう一度、前脚を振り下ろした。
背中へ爪が食い込む。
皮膚が裂ける感覚とともに、身体を横へ引かれた。
熊はシウォンをひっくり返そうとしている。
下に何かがいると気づいたのかもしれない。
シウォンは肘と膝を地面へ押しつけた。
動かない。
どれほど背を引かれても、身体を丸めたまま、インファを包み込む。
「シウォン!」
胸元でインファが叫んだ。
「動かないでください」
「シウォン……」
インファが顔を上げようとする。
シウォンは後頭部を押さえ、さらに強く胸へ抱き込んだ。
「見てはいけません」
「でも――」
「俺を信じてください」
熊の爪が、再び背へ立てられた。
身体が持ち上がりかける。
シウォンは地面の草をつかんだ。
指の間へ土が入り込み、爪が割れる。
意識が遠のきそうになる。
それでも、インファの身体だけは離さなかった。
この腕を緩めれば、熊の爪がインファへ届く。
それだけは許さない。
六年前、インファはシウォンの袖をつかみ、どこにも行かないでと泣いた。
あのとき、シウォンは今は行かないとしか答えられなかった。
今なら違う。
行かない。
離れない。
何があっても、この身体を退けない。
「シウォン」
インファの声も身体も震えていた。
胸元から、かすかな声がした。
「血の匂いがする」
「大丈夫です」
「シウォン」
「大丈夫です」
「さっきから、そればっかり」
泣いてる声がした。
シウォンは返事をしなかった。
返せるほどの息が残っていなかった。
熊が身体を押しつけてくる。
骨が軋んだ。
爪が傷をさらに広げる。
視界が暗くなる。
痛みが次第に遠くなっていく。
意識を失えば、腕の力が抜ける。
それだけは駄目だ。
シウォンは唇を噛んだ。
血の味がした。
「眠らないで」
インファの声が震えている。
「シウォン、眠らないで」
「……はい」
掠れた声で答える。
そのとき、地面からかすかな震えが伝わった。
シウォンは息を止めた。
熊が動いた振動ではない。
遠くから、一定の間隔で繰り返されている。
小さかった震えが、少しずつ強くなる。
やがて、地面を打つかすかな音が重なった。
馬の蹄だ。
一頭ではない。
何頭もの馬が、こちらへ近づいている。
頭上から、鋭い鳥の声が響いた。
熊が頭を上げる。
一羽の鷹が、二人の上空を大きく旋回していた。
翼を傾け、もう一度鋭く鳴く。
戻ってきた。
師匠を連れて。
地面を伝う震えは、はっきりとした蹄の音へ変わった。
木々の向こうから、護衛たちの声が響く。
「シウォン!」
聞き慣れた低い声だった。
熊が音の方へ身体を向ける。
護衛頭が森を抜け、湖畔へ飛び出してくる。
馬上で弓を構え、迷うことなく弦を引いた。
矢が放たれる。
一直線に飛んだ矢は、熊の片目へ深く突き立った。
熊の巨体が揺れる。
護衛頭はすぐに二本目の矢をつがえた。
続く矢が、熊の喉元へ突き刺さった。
熊は低く唸り、地面へ崩れ落ちた。
護衛たちが駆け寄り、熊を取り囲む。
完全に動かなくなったことを確かめる声が聞こえる。
それでもシウォンは、インファの上から動かなかった。
「シウォン」
護衛頭が近くへ膝をつく。
「もう大丈夫だ」
シウォンは反応しない。
「熊は倒した。お嬢様は無事だ。身体を起こせるか」
しばらくして、シウォンの指がわずかに動いた。
「……本当に」
「ああ」
「熊は」
「死んだ」
護衛頭はシウォンの肩へ手を置こうとして、背中の傷を見て止めた。
衣は大きく裂け、血で黒く濡れていた。
「お前の役目は終わった。もう力を抜いていい」
シウォンはすぐには動かなかった。
本当に危険が去ったのか確かめるように、周囲の声へ耳を澄ませている。
やがて、インファを抱いていた腕が少しずつ緩んだ。
護衛頭と別の護衛が、慎重にシウォンの身体を持ち上げる。
その下から、インファが現れた。
衣にはシウォンの血がついていたが、傷は一つもなかった。
インファはすぐに起き上がり、シウォンへ手を伸ばした。
「シウォン」
返事はなかった。
「目を開けて」
シウォンの瞼が、わずかに動く。
「お嬢様は……」
「ここにいる」
インファはシウォンの手を握った。
「怪我してない。シウォンが守ってくれたから、どこも痛くない」
その言葉を聞いて、シウォンの身体からようやく力が抜けた。
「よかった」
小さく呟きそのまま目を閉じた。
「シウォン?」
インファが手を強く握る。
「シウォン!」
「気を失っています。」
護衛頭が傷口へ布を当てながら答えた。
「すぐに屋敷へ運びます」
「死なない?」
インファの声が震える。
護衛頭は一瞬だけ言葉を止めた。
それから、はっきりと言った。
「死なせません」
護衛たちが外衣と木の枝で担架を作る。
インファはシウォンの手を握ったまま、離そうとしなかった。
湖畔の上空を、鷹が大きく旋回している。
森には、少しずつ鳥たちの声が戻り始めていた。




