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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第二十六章 選んだ人

翌朝。


インファは、いつもより少しだけ時間をかけて身支度を整えた。


といっても、特別な衣を選んだわけではない。


今日は朝から父に呼ばれている。


昨日のことについて話があるのだろうと、乳母から聞いていた。


髪を結い、衣の襟を整えてもらい、最後に帯を締める。


「これでよろしゅうございます」


乳母の言葉に、インファは鏡の中の自分を見た。


目元が、少しだけ赤い。


昨夜、泣いたせいだ。


それだけではない。


なかなか寝付けなかった。


目を閉じるたび、庭でのことを思い出した。


――あなたを愛しています。


思い出した途端、頬が熱くなる。


結局、眠りに落ちたのは明け方近くになってからだった。


インファは慌てて立ち上がった。


「お父様を待たせてしまうわね」


「はい」


乳母が後ろからついてくる。


戸を開け、廊下へ出た。


そしてインファの足が、一瞬止まった。


いつもの場所に、シウォンがいた。


黒い護衛服。


腰には刀。


柱のそばへ立ち、廊下の先と庭へ一度ずつ目を向けている。


昨日までと、何も変わらない。


十三年間、何度も見てきた姿だった。


いつもなら、インファの方から名前を呼ぶ。


――シウォン。


朝でも、昼でも、見つければそう呼んできた。


けれど今日は、声が出なかった。


昨夜の声が、先に頭の中へ蘇った。


――インファ。


自分を抱きしめながら、耳元で呼ばれた声。


続いて。


――かわいい。


インファは咄嗟に視線を落とした。


そのまま何も見なかったことにして、父の部屋へ向かおうとする。


「お嬢様」


呼ばれた。


足が止まる。


いつもと同じ呼び方だった。


いつもと同じ、落ち着いた低い声だった。


それなのに。


「お、おはよ」


顔を見ないまま、それだけ言う。


我ながら不自然だった。


けれど今シウォンの顔を見れば、何を思い出すか分からない。


インファはそのまま先へ進もうとした。


一歩。


その先へ、シウォンが出た。


「……?」


足を止める。


シウォンはインファの進路を塞ぐというより、顔を見るために一歩先へ出ただけらしい。


わずかに身を屈める。


インファは反射的に顔を背けようとした。


けれど、その前に目が合った。


切れ長の瞳が、インファの顔を見ている。


その目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「よく寝られましたか?」


インファは瞬きをした。


ただの問いだった。


朝、主人の体調を確かめる。


護衛としてなら、何もおかしくない。


シウォン自身も、それ以上の意味を込めているようには見えなかった。


ただ、昨日までなら、こんなふうに正面へ回り込み、顔を覗き込みながら尋ねただろうか。


そんなことを考えた途端、また頬が熱くなる。


「……寝たよ」


嘘だった。


シウォンは何も言わず、インファの顔を見た。


目元、頬、それからもう一度、目へ戻る。


「そうは見えません」


「……え」


「目が赤いです」


インファは思わず目元へ手をやりかけた。


そのとき、シウォンの手が先に動いた。


指の背が、インファのこめかみの近くへ伸びる。


肌へ触れる寸前で止まり、少し乱れていた横髪をそっと整えた。


耳の横へ髪を流し、元の位置へ戻す。


ほんの短い仕草だった。


けれどインファの身体は、ぴたりと固まった。


昨夜までは、こんなことをされても、きっと何とも思わなかった。


髪に何かついていれば取ってくれる。


衣が乱れていれば教えてくれる。


転びそうになれば、迷わず手を伸ばしてくれる。


全部、シウォンなら当たり前のことだった。


なのに今は。


――愛しています。


また、あの声が蘇る。


インファの顔が、さらに熱くなった。


誰のせいだと思ってるの。


そう言いたかったが、言えるわけがなかった。


シウォンは、そんなインファを見て眉をわずかに寄せた。


「顔も赤いです」


「これは……」


「疲れで熱でも――」


「平気だから!」


思っていたより大きな声が出た。


シウォンが目を瞬く。


後ろにいた乳母も、わずかに肩を揺らした。


「本当に平気。何ともないから」


「ですが」


「お父様を待たせてしまうわね!」


インファはそれだけ言うと、逃げるように歩き出した。


シウォンもすぐにその後を追う。


インファが妙に足を速めても、その半歩後ろから離れない。


その様子を、少し後ろから乳母が見ていた。


前を行くインファは、耳まで赤い。


そのすぐ後ろを歩くシウォンは、いつもと変わらない顔をしている。


インファが一度だけ振り返った。


何を見たのか、その途端、さらに顔を赤くして前を向く。


乳母の眉が、わずかに上がった。


昨夜のことだけでも十分驚いたというのに。


どうやら一晩明けても、元へ戻ったわけではないらしい。


「……まあ」


思わず、小さな声が漏れた。


どうやらシウォンは、何かを隠すこと自体をやめてしまったらしい。


当の本人だけは、自分が何をしているのか少しも分かっていない顔をしている。


「乳母、早く!」


廊下の先からインファの声が飛んできた。


「ただいま参ります」


乳母は答え、急いで後を追った。


泰元の部屋の前には、護衛頭が控えていた。


インファたちの姿を認めると、戸の向こうへ声を掛ける。


「旦那様、お嬢様がお着きになりました」


少し間を置いて、泰元の声が返った。


「入りなさい」


護衛頭が戸を開ける。


インファは一度だけ衣の裾を整え、部屋へ入った。


乳母もそのあとに続く。


シウォンはいつものように戸口の脇へ下がろうとした。


主人と娘が話をする間、護衛として外へ控える。


何度も繰り返してきた動きだった。


「シウォン」


泰元に呼ばれ、足を止めた。


「はい」


「お前も入りなさい」


シウォンがわずかに目を上げる。


「昨日のことについて話をする。お前からも聞いておきたい」


「承知いたしました」


シウォンは一礼し、部屋へ入った。


護衛頭は戸口近くへ控えた。


乳母はインファの少し後ろへ控え、シウォンはいつものように主人たちから距離を取った場所へ座った。


泰元はまず、インファを見た。


「昨日伝えたことは、覚えているな」


「はい」


インファは素直にうなずいた。


「どこへ行くときにも、必ず行き先を知らせます」


「それならいい」


叱る声ではなかった。


昨日もそうだった。


事情を聞いた泰元は声を荒らげなかった。


ただ、次から気をつけるようにと言っただけだった。


けれど今日は、それだけで終わるつもりではないらしい。


泰元の視線がシウォンへ移った。


「昨日、インファがいなくなってから見つかるまでのことを、もう一度詳しく聞かせてくれ」


「はい」


シウォンは背筋を伸ばした。


「装身具店の奥を確認した時点で、お嬢様と乳母殿のお姿がありませんでした。店内と内庭を確認しましたが、争った形跡はなく、店の者もお二人がどちらへ向かわれたのか把握しておりませんでした」


泰元は黙って聞いている。


「乳母殿も一緒におられたため、お嬢様が自ら店を出られた可能性も考えました。ただし、何者かに連れ出された可能性を捨てることもできませんでした」


昨日、その言葉を口にしたときとは違い、シウォンの声は落ち着いていた。


「移動できる範囲を絞り、その中にある輿を確認しました。人目を避けて人を留めておける建物についても、閔家の者が調べておりました」


「輿を確認した、と聞いたが」


泰元が尋ねる。


シウォンはわずかに間を置いた。


「はい」


「どの程度だ」


「お嬢様が店を出られたと思われる時刻から、輿で移動できる範囲にあったものを、すべてです」


インファが目を見開いた。


昨日、皆が自分を探していたことは聞いている。


けれど、そこまでのことになっていたとは知らなかった。


泰元の目がわずかに細くなった。


「それを、閔家の名で?」


「はい」


シウォンは答えた。


「閔公子のご判断です」


「反対する者はいなかったのか」


「おりました」


シウォンの返事は短かった。


「容易に中を改められない輿もあったはずだ」


「はい」


「それでも止めたのだな」


「閔公子は、ご自身が後の責任を負うとおっしゃいました」


泰元はしばらく何も言わなかった。


漢陽で、驪興閔氏の名を使って人々の輿を次々と止める。


それがどれほど目につく行いなのか、地方に暮らす泰元にも分かる。


止められた者の中には、名のある家の者もいただろう。


事情を理解する者ばかりとは限らない。


まして閔家ほど大きな家であれば、その行動を好意的に見ない者も少なくない。


「……閔公子は、ずいぶんと思い切ったことをしたものだ」


「はい」


シウォンは、それ以上何も付け加えなかった。


ソンジンの判断が正しかったとも、間違っていたとも言わない。


ただ事実だけを答えている。


泰元はそんなシウォンを一度見てから、視線を落とした。


「しばらくは、面倒なことになるかもしれんな」


インファが父を見る。


「ソンジン様が?」


「何も起きないかもしれない」


泰元は穏やかに言った。


「だが、名のある家ほど、一つの行動を見ている者は多い。閔公子に不満を持つ者がいれば、昨日のことを口実にする可能性もある」


インファの表情が曇った。


自分を探すためだった。


そのためにソンジンが何かを背負うのだとしたら。


「私のせいで……」


「そういう話ではない」


泰元が静かに遮った。


インファが顔を上げる。


「お前が頼んだことではない。閔公子が自分で判断し、自分で命じたことだ」


泰元はそこで一度、シウォンへ目を向けた。


「そうだな」


「はい」


シウォンは迷わなかった。


「閔公子ご自身の判断です」


そこには、ソンジンを責める響きもなかった。


むしろ、あの状況でソンジンが取った行動を、行動としてそのまま認めているようだった。


泰元は小さく息を吐いた。


「改めて礼を伝える必要があるだろう」


「はい」


インファもうなずいた。


「それから」


泰元の視線が娘へ戻る。


「尹家のお嬢様についても聞いておきたい」


「あ」


ソア。


その名を思い浮かべた途端、インファの顔が少し明るくなった。


「装身具店で偶然お会いしたのだったな」


「はい。ユン・ソア様です」


「閔公子とは幼い頃から親しい方だと聞いた」


「そうみたいです。ソンジン様からも、以前お話を聞いていました」


「それで、そのまま茶屋へ?」


インファは少しだけ小さくなった。


「……はい」


乳母が後ろで、ほんのわずかに息をついた。


「ソア様が、お話をしてみたいとおっしゃってくださって。それで私も……もっとお話ししてみたいと思って」


泰元は娘の顔を見た。


先ほどまで昨日の騒ぎについて話していたときとは違う。


ソアのことを口にするインファの表情は、明らかに明るかった。


「楽しかったのか」


「はい」


今度はすぐに答えた。


「とても」


泰元の目元が少し和らぐ。


インファは続けた。


「またお会いしたいです。今度は私が洪家の町をご案内すると約束しました」


「もうそこまで話したのか」


「はい。湖のことも、春鈴祭のこともお話ししました。ソア様も、漢陽のいろいろな場所を教えてくださるって」


言葉が次々と出てくる。


その様子を見ていた泰元が、かすかに笑った。


「ずいぶん気が合ったようだな」


インファは少し照れたように笑った。


「同じくらいの年頃のご令嬢と、あんなふうにお話ししたことがなかったから」


洪家の町では、インファは多くの者に囲まれて育った。


ジュノもいる。


シウォンもいる。


乳母も、女中たちもいる。


一人だったわけではない。


けれど、同じ年頃で、同じように家の娘として育てられた相手と、何でもない話を長くしたことはほとんどなかった。


「私……ソア様と、お友達になれたらいいなと思っています」


泰元はしばらく娘を見ていた。


「そうか」


それだけ言った声は、穏やかだった。


「それなら、次は行き先を知らせてから会いなさい」


「……はい」


インファは素直にうなずいた。


乳母の口元も、わずかに緩んだ。


部屋の空気が少しだけ軽くなる。


だが、泰元はそこで話を終わらせなかった。


「もう一つ、今日話しておかなければならないことがある」


インファは父を見る。


泰元の声が、先ほどまでよりわずかに改まった。


「閔公子との縁談についてだ」


インファの指が、膝の上で止まった。


少し離れた場所に座るシウォンも動かなかった。


「漢陽へ来た日に、今回の滞在中には返事をすると約束している」


「……はい」


「昨日のことで、その約束を曖昧にするつもりはない」


泰元は静かに続けた。


「むしろ、閔公子が昨日取った行動を見る限り、お前を軽く考えているとは思えない」


インファは黙って聞いていた。


「閔家としてどこまで話が進んでいるかは分からない。だが、少なくとも閔公子本人は、この縁談を進める意思があるのだろう」


それは、インファにも分かっていた。


春鈴祭で会ってから文を交わして、漢陽では町を案内してくれた。


昨日も自分がいなくなったと知ると、あれほどの人を動かして探してくれた。


ソンジンは優しい。


話していて楽しい。


知らないものをたくさん見せてくれる。


縁談の相手として、不満を探そうとしても、きっと簡単には見つからない。


それでも答えは、昨夜にはもう決まっていた。


泰元が尋ねた。


「インファ」


「はい」


「お前は、どうしたい?」


インファは膝の上で手を握った。


少しだけ息を吸う。


昨夜とは違う。


シウォンへ言うのとは違う。


これは父へ、自分の人生について答える言葉だった。


「……お断りしたいと思っています」


泰元の表情は変わらなかった。


シウォンも動かない。


インファは続けた。


「ソンジン様は、とてもよい方だと思います。優しいですし、私にも本当によくしてくださいました」


だからこそ、曖昧な返事はしたくなかった。


「でも、結婚はできません」


泰元はしばらく娘を見ていた。


「そうか」


責める声ではなかった。


驚いた様子もない。


ただ、答えを確かめるように一度うなずいた。


「理由を聞いてもいいか」


インファの指先に、力が入った。


「それは……」


昨日なら、答えられなかったかもしれない。


けれど今は、理由を知っている。


知っているのに。


父を前にすると、急に喉が詰まった。


――私が好きなのは、シウォンなの。


昨夜は泣きながら言えた。


なのに今、それを父へそのまま言うのは、まるで別のことのように恥ずかしい。


インファは口を開きかけた。


「私……」


その横から、静かな声がした。


「旦那様」


インファが振り向く。


シウォンだった。


先ほどまで微動だにせず座っていたシウォンが、泰元をまっすぐ見ている。


泰元も視線を向けた。


「何だ」


シウォンは立ち上がると、インファの少し横まで進み、改めて膝をついた。


「その理由について、私から申し上げたいことがございます」


部屋の空気が静まった。


インファは隣にいるシウォンを見た。


泰元も何も言わず、続きを待っている。


シウォンは一度だけ息を吸った。


言い逃れをするつもりはなかった。


言葉を選んで、少しでも聞こえをよくするつもりもない。


昨夜、インファへ伝えたことと同じだった。


ただ、自分の気持ちを、そのまま言う。


「私は、お嬢様を愛しています」


インファの目が大きくなった。


昨夜、自分へ向けられた言葉だった。


二人きりの庭で聞いたものを、今度は父の前で、シウォンがまっすぐ口にしている。


頬が熱くなる。


けれど、シウォンはインファを見なかった。


泰元だけを見ていた。


「お嬢様のお気持ちを、私から申し上げるつもりはございません」


そこで一度、言葉を切る。


「ですが、私自身のことは、旦那様へお伝えしなければならないと思いました」


泰元の表情は変わらない。


「続けなさい」


「はい」


シウォンは静かに答えた。


「私がお嬢様の相手として、釣り合う身分ではないことは分かっております」


インファがわずかに眉を寄せた。


シウォンは続ける。


「私は生家も持たず、姓すらなかった者です。十歳のとき、この家へ拾っていただきました」


あの日、盗みを働いて生きていた自分を、泰元は追い出さなかった。


食べる場所を与え眠る場所を与え文字を学ばせた。


護衛として生きる道を与えた。


名だけでは不便だと、字まで与えてくれた。


今ここにいる自分は、洪家がなければ存在しない。


「旦那様には、返しきれないほどのご恩があります」


シウォンの声は変わらなかった。


「そのご恩を受けておきながら、洪家の一人娘であるお嬢様を妻に望むことが、どれほど勝手なことかも分かっております」


インファが息を止めた。


妻に望む。


昨夜は、そこまでの話をしていない。


好きだと伝え合った。


愛していると言われた。


それだけだった。


なのにシウォンは、もうその先まで考えている。


インファの頬が、また少し熱くなった。


シウォンはそれにも気づかない。


「護衛としても、私はまだ未熟です」


泰元の眉が、ほんのわずかに動いた。


「昨日も、お嬢様のお姿が見つからなくなった際、冷静さを失いました」


インファがシウォンを見る。


「護衛であるなら、どのようなときにも状況を見なければならない。それでも私は、それができませんでした」


馬を走らせた。


人目も忘れた。


見つけた瞬間、周囲を確かめることさえせず、ただインファへ走った。


護衛として正しかったかと問われれば、シウォン自身、正しいとは言えなかった。


「私はまだ、旦那様に、お嬢様をお任せいただけるだけの者ではないのかもしれません」


「シウォン……」


インファが小さく名前を呼んだ。


けれどシウォンは止まらなかった。


ここで都合の悪いことだけ黙る方が、よほど泰元に対して失礼だった。


「それでも」


初めて、声にわずかな力が入った。


「お嬢様が、このまま別の方のもとへ嫁がれることを、黙って見ていることはできません」


泰元の目が静かにシウォンを見ている。


「これまでは、それも護衛として受け入れなければならないことだと思っておりました」


誰かの隣へ嫁ぐ姿を見たくない。


そう思うことさえ、自分には許されないのだと思っていた。


護衛なのだから。


主人の幸せを願うなら、それでいいのだと。


「ですが、もう、そう思うことはできません」


シウォンはまっすぐ泰元を見た。


「私は、お嬢様と共に生きたいと思っています」


今度こそ、インファは何も言えなくなった。


胸の奥が大きく鳴る。


隣では乳母まで目を見開いていた。


泰元だけが、静かだった。


しばらくして、低い声で尋ねる。


「私が許さないと言ったら、どうする」


インファの身体が強張った。


シウォンは、すぐには答えなかった。


諦めるという選択は、初めからなかった。


だが泰元へ逆らうつもりもない。


ならば答えは、一つしかなかった。


「許していただけるまで、努力いたします」


泰元の目がわずかに細くなる。


「何をするつもりだ」


「今の私に足りないものを、一つずつ身につけます」


シウォンは答えた。


「護衛として認めていただけるだけではなく、お嬢様の隣に立つことを認めていただける者になります」


簡単なことではない。


身分の隔たりは、努力だけで埋まるものではない。


十三年間受けてきた恩も、消えることはない。


それでも。


「どれほど時間がかかっても構いません」


シウォンは言った。


「旦那様に認めていただけるまで、何度でも申し上げます」


インファは、シウォンの横顔を見つめていた。


いつもの無表情に近い顔だった。


けれど、昨夜からもう知っている。


この人は、何も感じていないのではない。


ずっと、見えないところへ押し込めていただけだった。


シウォンが両手を床についた。


深く、頭を下げる。


「ですから」


その声だけが、静かな部屋へ落ちた。


「今すぐ私を、お嬢様の相手として認めていただきたいとは申しません」


インファの指先が、膝の上で動いた。


「ただ」


シウォンは頭を下げたまま続ける。


「これまでと同じように、お嬢様のおそばにいることだけは、お許しください」


部屋の中に、長い沈黙が落ちた。


やがて、泰元が口を開いた。


「インファ」


呼ばれて、インファは父を見る。


泰元の目はシウォンではなく、まっすぐ娘へ向けられていた。


「お前は、どう思っている」


インファは瞬きをした。


「……私?」


「そうだ」


泰元は静かに言った。


「今のは、シウォンの考えだ。お前の考えも聞いておきたい」


インファは一度、隣へ目を向けた。


シウォンはまだ頭を下げている。


自分には身分が足りない。


護衛としても未熟だ。


泰元に返しきれない恩がある。


先ほどから、シウォンは自分に足りないものばかりを並べていた。


けれどインファには、よく分からなかった。


シウォンに、何が足りないというのだろう。


「私は……」


膝の上へ置いた手を、そっと握る。


「シウォンと、一緒にいたいです」


シウォンの肩が、ほんのわずかに動いた。


インファは続けた。


「ずっと、そばにいてほしい」


幼い頃からそうだった。


嬉しいことがあれば、真っ先に話した。


怖いことがあれば、名前を呼んだ。


知らない場所へ行けば、振り返ればそこにいることを確かめた。


いつの間にか、それが当たり前になっていた。


けれど昨日、その当たり前がなくなるかもしれないと思ったとき、初めて分かった。


「シウォンは、自分には足りないものがあるって言うけど」


インファは少し眉を寄せた。


「私は、そう思わない」


シウォンが顔を上げた。


インファはその視線に気づいたが、今度は逸らさなかった。


「家があるとか、身分が釣り合うとか、そういうことは……私には、よく分かりません」


自分が何も知らないことくらい、分かっている。


婚姻が二人だけのものではないことも。


洪家の一人娘である自分には、家に対する責任があることも。


それでも。


「私が知っているシウォンに、足りないものがあるとは思えないの」


インファはシウォンを見た。


「一緒にいられたら、それで幸せです」


声に迷いはなかった。


「それ以上、何が必要なの?」


シウォンは何も言わなかった。


ただ、インファを見ていた。


泰元もすぐには口を開かなかった。


娘と、その隣にいる青年を静かに見比べる。


一人は、生まれたときから見てきた娘だった。


もう一人は、十歳の頃から見てきた少年だった。


一人は、鈴の音を追いかけて迷子になるような幼い娘だった。


もう一人は、誰も信用せず、いつ逃げてもおかしくない目をした痩せた少年だった。


十三年が過ぎた。


その二人が今、自分の前で互いを選んでいる。


やがて泰元は、小さく息を吐いた。


「分かった」


インファが父を見る。


シウォンも姿勢を正した。


「閔家には、そのように返事をしよう」


インファの目がわずかに大きくなる。


泰元は続けた。


「もともと漢陽にいる間に返事をすると約束していた。これ以上、先延ばしにする理由もない」


「お父様……」


「それに、昨日の礼もせねばならん」


ソンジンはインファを探すために、閔家の名を使って多くの者を動かした。


結果として何事もなかったとはいえ、その働きを当然のものとして済ませるわけにはいかない。


「午前のうちに使いを出そう」


泰元は護衛頭へ視線を向けた。


「本日の午後、時間をいただけないか伺ってくれ」


「承知いたしました」


護衛頭が頭を下げる。


「私が直接、閔家へ出向く」


インファは少しだけ唇を結んだ。


ソンジンの顔が浮かぶ。


優しく笑う顔。


扇の向こうからこちらを見る目。


漢陽の町を案内してくれたこと。


断ると決めたことに迷いはない。


けれど、何も感じないわけではなかった。


「……ソンジン様に、失礼にはならないでしょうか」


泰元は娘を見る。


「だからこそ、私が直接伺う」


穏やかな声だった。


「受けられない縁談を曖昧にしておく方が、よほど失礼だ」


インファはしばらく父を見ていた。


それから、静かにうなずいた。


「はい」


その隣で。


シウォンは、まだ何も言わなかった。


ただ一度だけ、深く頭を下げた。


インファとシウォンが部屋を出ていく。


乳母も、そのあとに続いた。


戸が閉じるまで、泰元は二人の後ろ姿を見送っていた。


その隣では、護衛頭も黙って立っている。


しばらくして。


「……まだ何も決まっていないというのにな」


泰元が小さく息を吐いた。


「もう嫁に出したような気分だ」


護衛頭は返事をしなかった。


ただ、ほんのわずかに口元を緩めた。


泰元はそれを横目で見る。


「笑うところではない」


「失礼いたしました」


そう答えながらも、護衛頭の口元は完全には戻らなかった。


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