第二十七章 微笑みに隠されたもの
午後。
閔家の客間には、すでに茶が整えられていた。
上座には閔家の当主。その隣にソンジンが座り、向かいには泰元がいる。泰元の後ろには護衛頭が控えていた。
形式どおりの挨拶は、すでに済んでいる。昨日の騒ぎについても、泰元から改めて礼を伝えた。
閔家の者を多く動かしたこと。漢陽の町で、行き交う輿まで止めてインファを探してくれたこと。
それについてソンジンは、
「見つかったのですから、それで十分です」
とだけ答えた。
だが、それで済む話ではないことを、ここにいる者は皆分かっていた。
茶が一度入れ替えられたあと、泰元が姿勢を正した。
「本日は、もう一つお話ししておかなければならないことがございます」
ソンジンは静かに泰元を見る。
「インファとの縁談についてですが――」
ソンジンの指が、膝の上の扇をゆっくりとなぞった。それから泰元へ視線を上げる。
「洪様」
ソンジンが穏やかに声を挟んだ。扇はまだ閉じたままだった。
泰元が言葉を止める。
「縁談のお返事についてでしたら、その前に、私から申し上げてもよろしいでしょうか」
泰元の目に、わずかな意外の色が浮かんだ。
隣に座る閔家の当主は何も言わない。弟が何を話すのか、すでに知っているようだった。
泰元は小さくうなずいた。
「伺いましょう」
ソンジンは扇に添えていた手を止めた。
「今回のお話は、私の方から辞退させていただきたいと思っております」
泰元はすぐには答えなかった。
「……ソンジン殿から、ですか」
「はい」
ソンジンは迷わなかった。
「兄にも、今朝すでに話をしております」
泰元の視線が、閔家の当主へ向く。
当主は静かにうなずいた。
「ソンジンの意向は聞いております」
それから隣の弟へ一度だけ目を向ける。
「こういうことを、曖昧なまま口にする男ではありませんので」
ソンジンがわずかに眉を上げた。
「ずいぶん信用してくださるのですね、兄上」
「今さら疑っても仕方がないだけだ」
穏やかな声だった。
ソンジンは小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。
当主も再び口を閉じる。この先は、弟自身が話すべきことだと分かっているようだった。
ソンジンは泰元へ向き直る。
「もちろん、インファ様に何か足りなかったわけではございません」
ほんの少し、目元を和らげた。
「むしろ、私には惜しいほどの方でした」
ソンジンはそこで、ようやく扇を開いた。口元へ持っていくわけではない。ただ、いつものようにゆっくりと風を送る。冗談めかした響きはなかった。
「明るく、素直で、身分で人を見ることもない。知らないものを見れば目を輝かせ、楽しいことがあれば周囲まで一緒に笑わせてしまう」
春鈴祭で初めて長く話した日。鈴の屋台を見つけるたびに足を止めた姿。手品の仕掛けを知ろうと、まっすぐこちらを見つめてきた大きな瞳。
漢陽へ来てからも変わらなかった。見たことのない店を見つければ喜び。鈴が鳴れば振り向き。何でもないことまで楽しそうに話す。
あの娘と共にいられたなら。そう思ったことに、嘘はなかった。
「だからこそ」
ソンジンの声が少しだけ静かになる。
「ご本人が望まない縁を、家同士の話だからと進めるつもりはございません」
泰元は黙って聞いていた。
「インファから、何か聞いたのですか」
「いいえ」
ソンジンは首を横に振った。
「インファ様から、縁談についてのお返事を直接いただいたことはございません」
「では、なぜ」
ソンジンは一度、視線を落とした。
「以前から、気づいておりましたので」
「何にでしょう」
「インファ様が、私ではない誰かを見ていらっしゃることに、です」
泰元の目が、わずかに細くなった。
けれどソンジンは、その相手の名を口にしなかった。言う必要はなかった。
「困ったとき、迷ったとき、インファ様は、無意識に誰かを探していらっしゃいました」
祭りの日も、漢陽の宿でも、話に迷えば、その視線は自然と同じ場所へ向かった。そのたび、そこには一人の男がいた。
ソンジンは気づいていた。
扇を動かしていた手が、一度止まった。
「それでも私は、選んでいただきたいと思っておりました」
一呼吸のあと、再び扇がゆっくりと動き始める。
泰元がソンジンを見る。
「私ではない方を見ていらっしゃると分かっていても、まだ何も決まってはいなかった」
ソンジンは小さく笑った。
「ですから、多少は努力をしてみてもよいだろうと思ったのです」
文を書いた。町を案内した。好きそうなものを探した。もっと話したいと思った。自分といる時間を楽しいと思ってほしかった。
そしていつか、その視線が、自分を探してくれるようになればいいと思っていた。
「ですが」
笑みが、ほんの少し薄くなる。
「どうやら、私は選んでいただけなかったようです」
ソンジンは笑って、扇を少し持ち上げた。その笑みの下半分が、扇の向こうへ隠れる。
泰元は何も言わなかった。
ソンジンも、すぐには続けなかった。
わずかな沈黙のあと。
「選ばれなかったことと、その方から選ぶ自由まで奪ってよいことは、別です」
静かな声だった。そこには、負け惜しみもなかった。
「インファ様には、ご自身で選んでいただきたいと、最初から思っておりました」
それは、以前インファ本人へ伝えたことでもあった。
家のためではなく、洪家のためでも、閔家のためでもなく。
本人が、自分で選ぶ。
その結果が自分でなかったからといって、今さらその言葉を変えるつもりはなかった。
泰元はしばらくソンジンを見つめていた。
「……それでは」
やがて、静かに口を開く。
「洪家が縁談を断ったことにはならないようになさるおつもりですか」
ソンジンの目が、ほんの少し細くなる。
閔家から持ち込まれた縁談を、地方の洪家が断る。
それだけなら、家同士の話で済む。
だが相手は、中央で大きな力を持つ驪興閔氏である。
必要以上の憶測を生む可能性は、十分にあった。
ソンジンは扇の向こうから泰元を見ながら穏やかに答えた。
「その方が、双方にとって余計な話を生まずに済むでしょう」
泰元の眉が寄る。
「ですが」
声が少し低くなった。
「昨日のことがあります」
ソンジンは黙って続きを待つ。
「ソンジン殿がインファを探すため、漢陽でどれほどのことをなさったのかは聞いております」
輿を止めた。
相手が誰であろうと、中を改めさせた。
拒む者がいれば、驪興閔氏の名を出した。
その責任はすべて自分が負うとまで言った。
当然、何事もなく終わるはずがない。
すでに漢陽では、昨日の騒ぎについて様々な話が飛び交っている。
「ただでさえ、ソンジン殿のお立場に影響が出るでしょう」
泰元は言った。
「そのうえ、縁談まで閔家から取り下げるとなれば――」
その先を言わなくても分かる。
地方から来た娘のために漢陽を騒がせ。
そのうえ後日、縁談がまとまらなかったことまで知られれば、事情を知らない者たちがどのような話を作るか。
「それは、私が考えることです」
ソンジンはあっさりと言った。
泰元が口を閉じる。
「ですが」
「洪様」
ソンジンは穏やかだった。
「昨日、あの命令を出したときに、こうなる可能性も承知しておりました」
あの時インファがどこにいるのか分からなかった。
攫われた可能性もあった。
一刻遅れれば、取り返しのつかないことになるかもしれなかった。
自分の評判。
閔家の名。
あとで誰から何を言われるか。
そんなものを考えている時間はなかった。
「インファ様が無事に見つかることと、私の評判のどちらを取るかと問われれば、昨日と同じことをいたします」
泰元はソンジンを見た。
ソンジンは少しだけ笑った。
「結果として、少々高くつきましたけれど」
「……笑い事ではないでしょう」
泰元の声は低かった。
ソンジンの笑みが、わずかに深くなる。
「ええ」
手にした扇を、ゆっくりと口元へ上げる。
「ですが、笑っておかなければ、少々格好がつきませんので」
泰元は何も言えなかった。
扇の向こうでは、いつものようにソンジンが笑っている。
人懐っこく、柔らかく、何を考えているのか、少しだけ分からない笑顔。
けれど、その目だけは、笑っていなかった。
ほんの短い間だった。
ソンジンはすぐに目元までいつもの笑みに戻す。
「まあ」
扇をゆっくり動かしながら、ソンジンは言った。
「しばらく漢陽では、少々歩きにくくなりそうですが」
「少々、で済めばよいがな」
隣から声がした。
ソンジンが扇越しに兄を見る。
「兄上まで、そのようなことをおっしゃるのですか」
「昨日、お前が何をしたと思っている」
「必要なことをしたまでです」
「そう言うと思った」
呆れたような返事だった。
けれど、弟を責めているようには聞こえなかった。
ソンジンもそれが分かっているのか、少しだけ目元を緩める。
泰元は二人を見比べた。
どうやら閔家の当主は、弟がどれほど面倒なことを持ち帰ってきたのか承知したうえで、それでも責めるつもりはないらしい。
「ソンジン殿」
「はい」
「インファのためにしてくださったこと、父親として、改めて礼を申し上げます」
泰元が深く頭を下げた。
ソンジンの扇が止まる。
「そして」
泰元は顔を上げた。
「今回のことまで、洪家へ余計な負担がかからぬようお考えくださったことにも」
ソンジンは少しだけ目を見開いた。
それから静かに扇を閉じた。
「……どういたしまして、と申し上げるところなのでしょうか」
「そこは素直に礼を受けてください」
ソンジンは一瞬黙った。
やがて、困ったように笑う。
「承知いたしました」
洪家の一行が閔家を辞したあと入れ替わるように、尹家から客が訪れた。
もっとも、昨日の騒ぎについての挨拶や謝罪は、すでに両家の間で済んでいる。
今日の訪問は、それとは別だった。
昔から付き合いのある家同士として。
そして何より、長く互いを知る者として。
尹家の者が客間へ通されている頃。
ソアは、一足先に廊下を急いでいた。
「お嬢様、走っては――」
後ろから侍女の声がしたが、聞こえないふりをした。
目的の部屋は分かっている。
何度も訪れたことのある、ソンジンの自室だった。
戸口の前にいた家人が、慌てて頭を下げる。
「尹お嬢様」
「ソンジンお兄様は?」
「中におられますが……」
家人が困った顔をした。
「どなたもお通ししないようにと、申しつけられております」
「そう」
ソアはうなずいた。
そして、そのまま戸へ手をかけた。
「お嬢様」
「わたくしは特別です」
言い切って、戸を開ける。
部屋の中は静かだった。
開け放たれた窓から、午後の光が差し込んでいる。
ソンジンは、その窓辺にいた。
窓の桟へ半身を預け、身体を外へ向けている。
いつも手にしている扇は、腰元へ無造作にのせられていた。
「ソンジンお兄様」
呼んでも、すぐには振り返らなかった。
逆光の中にある横顔は、よく見えない。
けれど、ソアは足を止めた。
泣いているように見えた。
そう思った、そのとき、ソンジンが振り返った。
ほんのわずかな間だった。
次の瞬間には、腰元にあった扇を手に取っている。
「誰も通すなと申しつけていたのですが」
いつもの声だった。
ソアは胸を張った。
「わたくしは特別です」
「……そういう問題ではないのですけれどね」
ぱらり、と扇が開く。
口元が、その向こうへ隠れた。
「困った方ですね」
いつものソンジンだった。
穏やかに笑って。
少しだけ呆れて。
それでも結局、ソアを追い出そうとはしない。
頬は濡れていなかった。
目元が赤いわけでもない。
やはり、泣いていたわけではなかったのだ。
それなのにソアは、その目から視線を逸らせなかった。
いつもと同じように笑っているはずなのに、何かが違う。
悲しいとも、つらいとも、悔しいとも、この人は言わない。
誰かを責めることもしない。
ただいつものように扇を開いて、いつものように笑って、何もなかったような顔をするのだろう。
そのことが、ソアにはたまらなく悲しかった。
お兄様は泣かない。
ぽろり、とソアの目から涙がこぼれた。
今度はソンジンの方が目を瞬いた。
「……どうしたのです」
ソアは答えようとした。
けれど、一度こぼれた涙は止まらなかった。
「お兄様の……」
声まで震えた。
「お兄様の代わりに、泣いているのです」
ソンジンはしばらく何も言わなかった。
「私の?」
「そうです」
ソアは涙を拭おうともせず、ソンジンを見る。
インファが悪いわけではない。
そんなことは分かっている。
インファには、自分で選ぶ権利がある。
そして、インファが想っている相手も、何も悪くない。
ソア自身、昨日あの男がどれほど必死にインファを探していたのかを見ている。
インファを見つけた瞬間。
人目も忘れて駆け寄り、名前を呼び、強く抱きしめた。
あれを見てしまえば分かる。
あの人も、ずっとインファを大切にしてきたのだ。
誰も悪くない。
だからこそ。
「お兄様だって……」
また涙が落ちた。
「こんなに素敵な方なのに」
ソンジンの目が、わずかに揺れた。
漢陽では、昨日の出来事がすでに噂になっていた。
驪興閔氏の若様が、地方から来た娘一人のために町中を騒がせた。
輿を止め、人を動かし、名のある家を相手にしてまで、探し回った。
話というものは、事実のままでは歩かない。
人から人へ渡るたび、形を変える。
ずいぶん入れ込んでいるらしい。
地方の娘一人のために、閔家の名まで使ったそうだ。
あれほど人を動かす必要があったのか。
今日だけでも、ソアはいくつも耳にした。
腹が立った。
けれど、誰へ怒ればいいのか分からなかった。
インファへではない。
その想い人へでもない。
もちろん、ソンジンへでもない。
どこにもぶつけることのできないものが、胸の中に溜まっていた。
「お兄様は何も悪くないのに」
とうとう声を詰まらせた。
「なのに……」
ソンジンは静かにソアを見ていた。
やがて。
「あなたが泣くことではありません」
そう言って、扇を閉じた。
卓の上へ置く。
窓辺から離れ、ソアの前まで歩いてくる。
「ですが……」
「ほら」
ソンジンが片手を差し出した。
何もない掌だった。
ソアが涙に濡れた目で見る。
指が閉じる。
もう一度開いたとき。
そこには、小さな飴が一つ載っていた。
ソアが瞬きをする。
瞳から涙がこぼれる。
「……お兄様」
「一つでは止まりませんか?」
もう片方の手が動く。
二つ目。
「では、こちらも」
三つ目。
いつの間に隠していたのか、また飴が現れる。
幼い頃から何度も見せられた手品だった。
退屈すれば、機嫌を損ねれば、泣けば、いつもこうして、どこからともなく飴を出してくれた。
けれど今日は、涙が止まらなかった。
ソンジンが少し困ったように眉を下げる。
「三つでも駄目ですか」
ソアは首を横に振った。
「困りましたね」
昔から聞いてきた声だった。
「では、どうしたら泣き止みますか」
ソアは袖で涙を拭った。
それでも、またすぐに溢れてくる。
「お兄様が」
「はい」
「お兄様が泣くのをおやめになったら、わたくしの涙も止まります」
ソンジンの手が止まった。
掌には、三つの飴が載っている。
しばらく何も言わなかった。
窓から入る風が、二人の衣の裾をわずかに揺らした。
やがてソンジンが微笑んだ。
いつものように見える笑顔だった。
けれど、今度は扇で隠さなかった。
「それは……」
ほんの少しだけ、声が掠れた。
「今は、止めるすべがありませんね……」
ソアの顔が、またくしゃりと歪んだ。
ソンジンは困ったように、それでも優しく笑った。




