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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第二十五章 同じ鈴音

インファが、鈴の中へ綿を戻そうとしている。


シウォンは、その手を止めることができなかった。


細い道具を持つ指先は、慣れない動きで何度も鈴の隙間を探っている。


入らない。


それでもインファは諦めない。


端を細く整え、もう一度押し込もうとする。


「……入らない」


震え始めた声を聞いて、シウォンは何も言えなくなった。


止めればよかった。


もう戻さなくていいのだと、そう言えばよかった。


けれど、それを言うことができなかった。


鈴を鳴らすと決めたのは、自分だった。


十三年間、音を消してきた鈴。


初めは護衛として当然のことだった。


けれど、いつしかそれだけではなくなった。


鳴らさないことが、自分を護衛の場所へ留めておくためのものになった。


インファを守りたいのは、護衛だから。


いつもそばにいたいのも、護衛だから。


誰かの隣へ嫁ぐ姿を見たくないと思うことさえ、自分には必要のない感情だと押し込めた。


そうしていれば、半歩後ろに立ち続けられると思っていた。


だが、今日インファの姿が見つからなかったとき。


そんなものは何の役にも立たなかった。


名前を呼んだ。


人目も忘れて抱きしめた。


離したくないと思った。


もう、自分の気持ちをすべて護衛という言葉の中へ収めることなどできない。


だから鈴を鳴らした。


もう、いいと思った。


けれど、インファは、その鈴を元へ戻そうとしている。


鳴らない鈴へ。


十三年間と同じ鈴へ。


――困らせたのかもしれない。


その考えが浮かんだ。


一線を越えたのは、自分だ。


インファは何も望んでいなかったのかもしれない。


今まで通りでよかったのかもしれない。


主人と護衛。


それ以上でも、それ以下でもない。


その関係を壊そうとしているように見えたのなら。


鈴を鳴らしたことさえ、余計なことだったのかもしれない。


「……戻らない」


インファの声が震えた。


涙が落ちる。


シウォンの手が、わずかに動いた。


頬へ伸ばしかけて、止まる。


拭ってやりたかった。


昼間なら、迷わず触れていた。


無事か確かめるために頬へ手を伸ばし、その身体を抱きしめた。


だが今は、できなかった。


その涙を流させているのが自分かもしれないのに。


触れていいはずがないと思った。


「……嫌」


何が、と聞いた。


返ってきた言葉に、シウォンは動きを止めた。


「護衛じゃなくなるの、嫌」


一瞬、意味が分からなかった。


鈴を握りしめたまま、自分を見上げてインファは泣いていた。


「シウォンが、私のそばにいる理由がなくなっちゃう」


胸の奥で、何かが大きく揺れた。


――俺が。


いなくなることを嫌だと言っているのか。


鈴を鳴らしたことを拒まれたのだと思っていた。


違った。


インファが恐れていたのは、鈴が鳴ることではない。


その意味を、彼女はまるで違うものとして受け取っていた。


護衛でなくなれば、自分がそばからいなくなる。


そう思って、泣いている。


そのことを理解した瞬間。


胸の奥に浮かんだものに、シウォンは名前をつけられなかった。


ただ、痛いほど張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。


けれど。


「護衛でいいから、そばにいて」


続いた言葉に、また分からなくなる。


護衛でいい。


その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残った。


自分がいなくなるのが嫌なのか。


それとも。


十三年間、当たり前のようにそばにいた護衛を失うことが嫌なのか。


同じようで、まるで違う。


インファにとって、自分が必要なのだということは分かったが、それが何を意味するのかは分からなかった。


自分が勝手に期待していいことではない。


今日まで何度も、自分の都合のいいように気持ちを解釈しそうになるたび、押し戻してきた。


主人だから守る。


護衛だからそばにいる。


それでよかった。


少なくとも、インファにとっては、そうなのかもしれない。


鈴を鳴らしたのは自分だ。


もう護衛という言葉だけでは、この気持ちを抑えられないと認めたのも自分だ。


けれどインファまで、同じ場所へ来ることを望んでいるとは限らない。


そう思った、そのときだった。


「私、ソンジン様とは結婚しない」


シウォンは顔を上げた。


今、何と。


聞き返すより先に、インファが続けた。


「しない」


涙を流しながら、それでもはっきりと言った。


「ソンジン様は優しいし、とても素敵な方だと思う。でも、違うの」


違う。


何が。


先ほどまで頭の中にあった考えが、急に形を失った。


護衛を失いたくない。


ただ、それだけなのだと思おうとしていた。


そうでなければならないと、自分へ言い聞かせようとしていた。


ならばなぜ、ここでソンジンの名が出る。


縁談と自分がそばにいることが、どうして同じ話の中にある。


インファが息を吸った。


「私が好きなのは――」


その先を一瞬だけ、聞きたくないと思った。


胸の奥が冷えた。


誰かの名が続くのなら。


自分ではない名を、今ここで聞くくらいなら知らないままでいたかった。


半歩後ろへ戻ればいい、護衛でいればいい。


十三年間そうしてきたように。


そう思った。


「シウォンなの」


音が消えたような気がした。


庭を渡る風も、木々の葉が擦れる音も、何も聞こえない。


ただ、その一言だけが残った。


シウォン。


自分の名だった。


聞き間違えたのだと思った。


そうでなければ、おかしい。


インファが言うはずがない。


自分へ向けて、そんな意味で。


「私は、シウォンが好きなの」


もう一度。


今度は、聞き間違えようがなかった。


それでもシウォンは、信じることができなかった。


「……それは」


ようやく声が出た。


けれど、自分でも情けないほど頼りない声だった。


「どういう意味で……」


言ってから、何を聞いているのだと思った。


好きだと。


二度も、はっきり言われた。


それでも、確かめずにはいられなかった。


自分がインファへ抱いているものと、同じ意味なのではないか。


そう思ってしまうことが怖かった。


インファは涙に濡れた目でシウォンを見つめた。


それから、手の中の鈴へ視線を落とす。


赤い紐のついた、小さな銀の鈴。


「……この鈴と同じ意味」


シウォンは息を止めた。


「これを、大切な人に渡すのと同じ意味」


大切な人。


その言葉が胸の奥へ落ちる。


それでも、まだ動けなかった。


十三年間、自分に向けられるはずがないと思い続けてきたものだった。


たった一言で、それまでのすべてを覆すことなどできなかった。


インファはそんなシウォンを見て、少し眉を寄せた。


「今日ね」


「……はい」


「シウォンが、私の名前を呼んだでしょう」


シウォンの目がわずかに揺れた。


「ずっと、お嬢様って呼んでたのに。急に、インファって呼ぶから」


「……申し訳ありません」


反射的に出た言葉だった。


インファが目を丸くする。


「どうして謝るの?」


「それは……」


「あのとき、抱きしめたことも?」


シウォンは言葉を失った。


覚えている。


忘れられるはずがない。


何も考えられなかった。


ただ、無事だったことが嬉しくて、目の前にいることを確かめたくて、人目も、立場も忘れて抱きしめた。


「びっくりしたの」


インファが言った。


「何が起きたのか、分からなかった。どうしてシウォンがあんな顔をしてるのかも、どうして私の名前を呼んだのかも、どうして抱きしめたのかも」


シウォンは黙って聞いていた。


「でも」


インファがシウォンを見る。


「嬉しかったの」


胸が鳴った。


けれど、シウォンはまだ動けなかった。


インファは続ける。


「今まで、シウォンが何をしてくれても、護衛だからなんだって思ってた」


助けてくれることも。


そばにいてくれることも。


優しくしてくれることも。


全部。


「でも、今日のシウォンは、いつもと違った」


インファの声が少し震えた。


「だから、分からなくなったの。護衛だからなのか、それとも違うのか」


涙に濡れた瞳が、まっすぐ自分へ向けられている。


「分からなかったけど」


インファは鈴を握った。


「嬉しかったの」


もう一度、同じ言葉だった。


けれど今度は、シウォンにも、その意味が分かった。


名前を呼んだことも、抱きしめたことも、護衛としてではない自分がインファへ手を伸ばしたことも、嬉しかったと、そう言っている。


それなら先ほどの言葉も。


――私は、シウォンが好きなの。


自分が願っている意味で受け取っていいのか。


そう思った瞬間。


もう、止められなかった。


シウォンはインファへ手を伸ばし、その身体を引き寄せる。


細い肩へ腕を回し、もう片方の腕を背へ回した。


「……シウォン?」


驚いた声が胸元から聞こえた。


それでも、腕を緩めることはできなかった。


昼間とは違う。


あのときは、考えることすらできなかった。


失ったと思った人が目の前にいて。


無事だったことを確かめるように、ただ抱きしめた。


けれど今は分かっている。


自分が何をしているのか、どんな気持ちで、この人を抱きしめているのか。


分かった上で、シウォンは、インファを抱きしめた。


インファの肩を抱く腕に、少しだけ力が入る。


「俺も……」


言葉がすぐ続かない。


けれど、もう胸の内へ戻すつもりはなかった。


「同じです」


腕の中で、インファの身体が小さく震えた。


それに気づいたシウォンは抱きしめる腕の力を少し緩める。


シウォンはわずかに身体を離し、インファの顔を覗き込もうとした。


すると、インファは慌てたように顔を伏せた。


「……見ないで」


「なぜですか」


「だって……」


声がくぐもる。


「きっと、変な顔してる」


泣いている。


頬も赤い。


自分でも、どんな顔をしているのか分からなかった。


そんなところを、今のシウォンに見られるのは恥ずかしかった。


インファはさらに俯こうとした。


けれど。


「見せて」


思っていたより、ずっと優しい声だった。


インファの動きが止まる。


命令でもない。


護衛として何かを確かめるときの声でもない。


あまりにも静かで、あまりにも優しくて。


インファは、思わず顔を上げた。


すぐ近くに、シウォンがいた。


いつも見上げてきた顔。


けれど、こんな距離で、こんな目で見つめられたことはない。


切れ長の瞳が、まっすぐ自分だけを見ていた。


その中に小さく、自分が映っている。


泣いて頬を赤くして。


ひどく頼りない顔をした自分が逃げる場所もなく、シウォンの瞳の中にいる。


シウォンは目を逸らさなかった。


護衛だからではない。


主人だからでもない。


十三年間、自分でも名前をつけられなかったものを、もう別の言葉へ置き換えることはしない。


「愛しています」


インファの目が見開かれた。


シウォンは、視線を逸らさなかった。


「あなたを、愛しています」


インファは瞬きもしなかった。


何も言えない。


頭の中で、今の言葉だけが何度も繰り返される。


愛しています。


シウォンが。


自分を。


愛している。


――え。


待って。


どういうこと。


好きだと言ったのは自分だ。


だから、シウォンにも同じ気持ちでいてほしいと思った。


たしかに思った。


でも本当に同じだと言われるところまでは、なぜか想像できていなかった。


しかも愛しています。


好きです、ではなく、愛しています。


インファの顔が、見る見るうちに熱くなった。


「……え」


ようやく声が出た。


「え……?」


シウォンの眉がわずかに動く。


インファは自分でも何を言いたいのか分からなかった。


「ちょっと待って」


「はい」


「待って、シウォン」


「はい」


「私……」


何を待ってほしいのかも分からない。


自分から好きだと言った。


意味まで説明した。


昼間抱きしめられたことが嬉しかったと、二度も言った。


それなのに、いざシウォンから同じものを返されると、どうしていいのか分からない。


目の前にはシウォンがいる。


まだ近い、近すぎる。


しかも、ずっと自分を見ている。


「……そんなに見ないで」


インファが、また顔を伏せた。


シウォンは少しだけ目を瞬いた。


それから。


「分かりました」


素直にそう答えた。


インファがほっとしたように息を吐く。


けれど次の瞬間、シウォンは再び彼女を引き寄せた。


「え」


顔を見ないようにするためなのか、そのまま、インファの肩口へ顔を寄せる。


近い、さっきより、もっと近い。


頬のすぐそばにシウォンの髪が触れた。


インファの身体がまた固くなる。


「シ、シウォン」


返事の代わりに、シウォンの指が頬へ触れた。


先ほどまで流れていた涙の跡を、親指でそっと拭う。


見ないでと言われたから、顔は覗き込まない。


ただ、触れた指先だけで涙の跡を確かめるように。


「……もう泣かないでください」


耳の近くで声がした。


低い声。


いつも聞いているはずなのに、こんな距離で聞いたことはなかった。


インファは何も答えられない。


すると、ほんの少し間を置いて。


「インファ」


息が止まった。


また名前を呼ばれた。


昼間のように、取り乱して叫んだ声ではない。


今度は静かに、確かめるように、ただ自分を呼ぶ声だった。


「……なに」


やっと返す。


シウォンは答えなかった。


ただ、肩口へ顔を寄せたまま、小さく息を吐いて呟いた。


「……かわいい」


「……え?」


あまりにも自然に落ちてきた言葉だった。


インファは固まった。


今、何を言われた。


「……何?」


「はい?」


「いま、何て言ったの?」


シウォンは少し黙って首を傾けた。


なぜ聞き返されているのか分かっていないようだった。


「かわいい、と」


もう一度、今度ははっきり言われた。


インファの顔が一気に熱くなる。


「な、なんで二回言うの!」


「聞かれましたので」


「そうじゃなくて!」


インファは思わずシウォンの胸元を押した。


けれど、ほとんど力は入っていなかった。


シウォンは離れない。


むしろ、どうしたのかというように少しだけ腕を緩めただけだった。


「だって……」


インファはもう顔を上げられなかった。


愛していますと言われた。


名前を呼ばれた。


抱きしめられている。


そのうえ。


かわいい。


頭が追いつかない。


「いつもと全然ちがう……」


「そうでしょうか」


「ちがうよ……」


「……申し訳ありません」


「謝らないで」


シウォンは黙った。


けれど、インファの肩口に寄せられた顔は、離れなかった。


インファを抱く腕には、もう焦りも迷いもなかった。


ただ、そこにいることを確かめるように、静かに抱いていた。


インファが小さく身じろぎした。


その拍子だった。


二人の間で、鈴が揺れた。


――りぃん。


澄んだ音がした。


インファの動きが止まる。


シウォンの胸元へ伏せていた顔を、ゆっくりと上げた。


鈴。


さっきまで必死になって綿を戻そうとしていた、小さな銀の鈴。


その音を聞いてインファは、ようやく少しだけ我に返った。


「……ねえ、シウォン」


「はい」


「シウォン、護衛やめるの?」


シウォンは一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。


「いいえ」


「……やめないの?」


「やめるつもりはありません」


あまりにも当然のように返されて、インファが瞬きをした。


「でも……鈴が鳴ってたら、護衛はできないって言ってたでしょう?」


「はい」


「だから綿を詰めたんでしょう? それなのに、もう鳴ってもいいって……」


そこで、シウォンはようやく理解した。


「……そういう意味ではありません」


「え?」


「護衛をやめるから、鈴を鳴らしたわけではありません」


インファはしばらく動かなかった。


シウォンも何も言わなかった。


風が木々を揺らした。


「……じゃあ」


インファの顔が、みるみる赤くなっていく。


「私の、勘違いだったの?」


「……」


護衛をやめると思った、いなくなると思った。


それが嫌で綿を戻そうとして、戻らなくて泣いて、護衛でいいからそばにいてと言って、その勢いのまま好きだとまで言った。


全部が頭の中を一気に駆け抜けた。


「……やだ」


インファは再びシウォンの胸元へ顔を伏せた。


「どうされました」


「聞かないで」


「……はい」


「忘れて」


「それはできません」


思わず顔を上げかけて、やっぱり恥ずかしくなってまた伏せる。


シウォンはそんなインファを抱いたまま、しばらく何も言わなかった。


やがて。


「ですが」


インファは、シウォンの胸元からそっと顔を上げる。


「勘違いだったのは、そこだけです」


「……そこだけ?」


シウォンは二人の間にある鈴へ視線を落とした。


「護衛をやめるつもりはありません。ただ、もう、この鈴まで鳴らないままにしておく必要はないと思っただけです」


インファは、まだよく分からない顔をしている。


シウォンは少しだけ息を吐いた。


「俺が、あなたのそばにいたいからです」


インファの瞳が、驚いたように大きくなる。


「俺がそばにいて、あなたを守りたい」


シウォンはゆっくりと顔を上げた。


腕の中にインファを残したまま、少しだけ身体を離し、インファの目をまっすぐに見つめる。


「護衛だからではありません」


インファの顔が、また赤くなった。


さっきとは違う。


今度は、恥ずかしいだけではなかった。


何かを言おうとしたけれど、言葉にならない。


インファがわずかに身じろぎした。


――りぃん。


二人の間で、鈴が、もう一度鳴った。


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