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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第二十二章 気づかなかったこと

「ですが、知らないままでは、何も選べませんもの」


ソアは静かに言った。


開いた戸の向こうから、庭を渡る風が入ってくる。


卓上の茶から立っていた湯気は、いつの間にかほとんど消えていた。


インファは膝の上へ視線を落とした。


知らないままでは、何も選べない。


シウォンが持っている赤い紐の鈴について、自分は何一つ知らない。


誰から贈られたものなのか。


なぜ持っているのか。


今も大切にしているのか。


尋ねなければ分からない。


けれど、尋ねることが怖い。


その怖さが何を意味するのかは、先ほどソアから告げられたばかりだった。


――その方のことが、お好きなのですね。


まだ、その言葉を自分のものとして受け入れることはできなかった。


けれど、否定する言葉も見つからない。


インファが黙っていると、ソアは急かさなかった。


自分の茶碗を取り上げ、一口飲もうとして、少し眉を寄せる。


「冷めてしまいましたね」


その言葉に、インファも茶碗へ手を伸ばした。


口をつけると、たしかに先ほどまでの温かさはなくなっていた。


「お話に夢中になってしまいました」


インファが言うと、ソアは少し恥ずかしそうに笑った。


「私が、最初からお尋ねしすぎたのです」


「私も、たくさんお話ししました」


「では、お互いさまですね」


ソアの笑顔につられ、インファも口元を緩めた。


先ほどまで胸の内にあった重さが、少しだけ薄くなる。


恋の話をしていたはずなのに、目の前にいるソアのことを、もう少し知りたいと思った。


「ソア様は、ソンジン様と幼い頃から親しくしていらっしゃるのですよね」


「はい。私が物心ついた頃には、もうお兄様はそばにいらっしゃいました」


ソアは茶碗を置いた。


「昔から、今のような方だったのですか?」


インファが尋ねる。


「穏やかで、何でもよくご存じで……いつも少しだけ、何を考えていらっしゃるのか分からないような」


ソアは少し考えたあと、首を横に振った。


「今より、分かりやすい方でした」


「そうなのですか?」


「はい。子どもの頃は、困るとすぐに黙り込まれました」


インファは目を丸くした。


「ソンジン様が?」


「今は、困っても笑ってごまかしてしまわれますけれど……。いつの間にか扇を持たれるようになって、そこから少しずつ変わっていかれました」


ソアの目が、懐かしむように細められる。


「昔は、私が無理なお願いをすると、眉間に小さく皺を寄せて、そのまま何もおっしゃらなくなりました」


「どのようなお願いを?」


「木へ登って降りられなくなった時に助けてほしいとか、池へ落とした履物を拾ってほしいとか」


「ソア様が履物を落とされたのですか?」


「履物が勝手に落ちたのです。私が落としたのでは、ありません」


ソアはきっぱり答えた。


その言い方に、インファは思わず笑った。


「でも、お兄様は最後には必ず助けてくださいました。文句もおっしゃらずに」


「優しいのですね」


「はい」


ソアはすぐにうなずいた。


その声には、迷いがなかった。


「だから余計に、困るのです」


ソアは笑っていた。


けれど、その笑みの奥には、先ほどと同じ影があった。


インファは、何も言わずにソアを見た。


優しいから、尋ねられない。


失いたくないから、何も言えない。


ソアの抱えているものは、少し前までの明るい印象からは想像できないほど、長く胸の内に置かれていたらしい。


「その方は、昔からそのような方だったのですか?」


今度はソアが尋ねた。


「先ほど、いつもインファ様の半歩後ろにいらっしゃるとおっしゃっていましたけれど」


「はい。出会った頃から、とても真面目でした。ただ、今よりもっと話しませんでした」


「お名前を伺ってもよろしいですか?」


インファは一瞬だけ目を瞬いた。


「シウォンです」


「シウォン様」


ソアは、その名を確かめるように繰り返した。


「では、シウォン様は、幼い頃からあまりお話しにならない方だったのですね」


「はい。尋ねても、必要なことしか答えてくれなくて。名前を呼んでも、こちらを見るだけのこともありました」


「それでは、お話しするのが大変だったのでは?」


「私が一人で話していました」


ソアが瞬きをした。


インファは、五歳の頃を思い出す。


「庭で見つけた花のことも、書堂で先生に褒められたことも、乳母に叱られたことも、全部話しました。シウォンは何も言わないことが多かったですけれど、聞いてはくれていました」


「返事がなくてもですか?」


「呼べば、必ず振り向いてくれましたから」


口にしてから、インファは少しだけ目を伏せた。


それだけで十分だった。


幼い自分にとっては、どれほど話しても離れずに聞いてくれる相手がいることが嬉しかった。


「それに、ときどき手品も見せてくれました」


「手品?」


「はい。手の中に隠したものを消したり、何もなかったはずのところから出したりするのです」


その途端、ソアの顔が明るくなった。


「ソンジンお兄様もです!」


インファも目を見開いた。


「やはり、ソア様にも見せていらしたのですね」


「インファ様もご覧になったことがあるのですか?」


「はい。以前、見せていただきました」


「昔から、私が退屈していると、小さなものを手の中から消して見せてくださったのです」


「シウォンも同じです」


二人は顔を見合わせた。


「何度見ても、どこへ隠しているのか分からないのです」


インファが言うと、ソアは大きくうなずいた。


「分かります。教えてくださいとお願いしても、笑うだけで教えてくださらなくて」


「シウォンも教えてくれませんでした。両方の手を開かせても、どこにもないのです」


「お兄様は今でも飴を出してくださるんですけど、一つではなく二つも三つも隠していらしたりして」


「私は、袖も確かめました」


ソアが目を丸くする。


「そこまで?」


「だって、ほかに隠せそうなところがありませんでしたから」


インファが真面目に答えると、ソアはこらえきれずに笑った。


けれど、シウォンが手品を見せてくれたのは、インファがまだ幼かった頃のことだった。


大きくなるにつれ、いつの間にか見せてくれなくなった。


それでも、話を聞いてくれるところは今も変わらない。


話の途中で周囲を見ることはあっても、インファの声を聞き逃すことはない。


呼べば、必ずこちらを見てくれる。


「ただ、少し心配しすぎるところはあります」


照れを隠すように、インファは続けた。


「少し水辺へ近づいただけで帯をつかみますし、三歩道を外れただけで迷子だと言います」


「三歩は、迷子ではありませんね」


ソアが真剣な顔で言った。


「そうでしょう?」


インファは身を乗り出した。


「私も何度もそう言っているのです。でも、シウォンは聞いてくれません。護衛ですから、危ないことは見過ごせないのだと思います」


「……そうでしょうか?」


ソアが、わずかに首を傾けた。


「危険からお守りするのは、護衛としてのお役目なのでしょうけれど。三歩離れただけで迷子だとおっしゃるのは、少しお役目を越えているようにも思えます」


インファは目を瞬いた。


「越えている?」


「はい。インファ様が危ないからというより、シウォン様ご自身が、インファ様から目を離したくないように聞こえます」


「そんなことは……」


インファは言いかけ、口を閉じた。


ソアはそれ以上追及せず、少し考えるように視線を落とした。


「けれど、お兄様も似たところがあります。私が少し急いだだけで、走らないようにとおっしゃいます」


「少し、ですか?」


インファが尋ねる。


ソアが一瞬黙った。


「……走ることもあります」


「やはり」


二人は顔を見合わせ、同時に笑った。


その拍子に、インファの腰元で小さな音がした。


――りぃん。


ソアの視線が、インファの帯へ向く。


淡い青い紐の先に、小さな銀の鈴が揺れていた。


「きれいな音ですね」


ソアが言った。


インファは帯飾りへ手を添えた。


「十五歳の春鈴祭で、シウォンが買ってくれたものです」


「シウォン様が?」


ソアの瞳が輝く。


先ほどまでその目に差していた影が、ひととき薄れた。


「はい。私が、選んでほしいと頼んだのです」


「インファ様から?」


「鈴はたくさん並んでいたのですけれど、自分では決められなくて」


あのときの屋台を思い出す。


色も形も違う鈴が、狭い台の上へいくつも並んでいた。


インファはその前を離れられず、何度も同じ鈴へ目を戻していた。


シウォンは何も言わなかった。


ただ、インファが見ていたものを手に取った。


音が遠くまで届く、小さな銀の鈴だった。


「私が見ていた鈴を、シウォンが選びました。それから、私が銭を出す前に払ってくれて」


「でしたら、贈り物ですね」


ソアが柔らかく言った。


インファは、今度は否定しなかった。


淡い青い紐へ指を添える。


「……そうですね」


否定する代わりに、インファは淡い青い紐を指先でなぞった。


自分から選んでほしいと頼んだ。


シウォンは、インファが気にしていた鈴に気づいていた。


そして、自分の銭で買ってくれた。


それを贈り物と呼ばずにいたのは、そう考えることが少し気恥ずかしかったからなのかもしれない。


「シウォン様は、インファ様がお好きなものを、よく分かっていらしたのですね」


ソアは鈴を見つめた。


「はい」


インファは、今度は迷わずうなずいた。


「シウォンは、かわいいものを選ぶのが得意ではありません。でも、私が好きな音は分かっていたのだと思います」


鈴を揺らす。


――りぃん。


三年たった今も、その音は好きだった。


洪家を離れて漢陽へ来るときも、ほかの鈴ではなく、この鈴を持ってきた。


今朝、乳母がこの鈴を手に取り、身につけるかと尋ねたときにも、迷わずうなずいた。


「漢陽にも、お持ちになったのですね」


「はい」


インファは小さく笑った。


「漢陽に持ってくるなら……この鈴がよいと思ったのです」


音がよく届くから。


そう考えていた。


けれど、それだけではなかった。


シウォンが選び、買ってくれた鈴だから、身につけていたかったのだ。


「私、この鈴が好きです」


インファは淡い青い紐を指先でなぞった。


「音も。それから……シウォンが選んでくれたことも」


口にすると、頬が少し熱くなった。


それでも、もう言葉を取り消そうとは思わなかった。


ソアは何も言わず、ただ嬉しそうに目元を和らげた。


鈴が再び、かすかに揺れた。


――りん。


その音は襖を越え、隣の部屋にも届いた。


「まあ。鈴でございますね」


ソアの乳母が顔を上げた。


向かいに座っていたインファの乳母は、音を聞いただけで何の鈴か分かったらしい。


「お嬢様がお持ちのものでございます」


「鈴がお好きだと伺っております」


「お好きという言葉では足りません」


インファの乳母は、深く息をついた。


最初は互いに姿勢を崩さず、控えめに言葉を交わしていた。


主同士が初めて会ったばかりである。


乳母たちもまた、相手がどのような人物なのか慎重に見極めていた。


けれど、娘たちの笑い声が襖越しに何度か聞こえるうち、二人の間にあった固さも少しずつ薄れていた。


「そこまででございますか?」


ソアの乳母が尋ねる。


「朝の支度の途中で鈴が鳴れば、衣の紐を結ぶ前でも窓へ向かわれます」


「まあ」


「五歳の頃には、祭りで鈴の音を追って人混みへ入られました」


ソアの乳母は、驚くより先に納得したようにうなずいた。


「それは、お止めするのが大変でございましたでしょう」


「今も変わりません。ご本人は、もう迷子にはならないとおっしゃいますが」


「うちのお嬢様も、もう子どもではないとおっしゃいます」


ソアの乳母が答えた。


「けれど、何かを思いつかれると、こちらが止めるより先に立ち上がっておられます」


「今日も、でございますか?」


インファの乳母が問う。


ソアの乳母は一瞬だけ目を伏せた。


「……今日もでございます」


二人は、閉じた襖を同時に見た。


その向こうから、娘たちの楽しそうな声が聞こえる。


「お互い、気の休まる暇がございませんね」


インファの乳母が言う。


ソアの乳母は、深くうなずいた。


「昨日も、髪を整えた直後に庭へ出られまして」


「分かります」


「まだ何も申しておりませんが」


「裾を汚されたのでございましょう」


「そのとおりでございます」


二人の声が、少しだけ弾んだ。


「うちのお嬢様は、花を見つけるとしゃがみ込まれます。どれほど衣を整えても、膝へ土をつけてお戻りになります」


「ソア様は、道を急がれると裾をお持ちになるのを忘れます」


「何度申し上げても」


「何度申し上げても、でございます」


今度は、二人が同時に言った。


一瞬の沈黙のあと、隣室にまで届かないよう声を抑えて笑う。


初対面だったはずの二人は、すでに長年同じ苦労をしてきた仲間のようだった。


茶屋の女中が、新しい茶を運んできた。


冷めた茶碗が下げられ、湯気の立つ茶が注がれる。


インファとソアの部屋にも、同じように新しい茶が届けられた。


「ありがとうございます」


ソアが礼を言う。


空になりかけていた菓子の皿も下げられ、代わりに別の菓子が置かれた。


先ほどのものより小さく、花びらの形をしている。


「きれい」


インファは一つ手に取り、裏返すように眺めた。


「シウォン、これ――」


そこまで言って、言葉が止まる。


いつもなら半歩後ろにいるはずの相手から、返事はなかった。


振り返った先にいるのは、閉じた襖だけである。


インファは一度、目を瞬いた。


家の外で、これほど長くシウォンと離れていたことはなかった。


ほんの少し話をするだけのつもりだったせいか、今まで、そのことすら忘れていた。


「いつも、そうしてシウォン様にお話しになっていらっしゃるのですか?」


ソアが尋ねた。


インファは手の中の菓子を見たまま、少しだけ目を瞬いた。


「……そう、なのかもしれません」


自分でも、今初めて気づいたような声だった。


珍しいものを見つければ呼ぶ。


きれいなものがあれば見せる。


思いついたことがあれば、振り返りもせずに話しかける。


そうすれば、いつもシウォンが聞いていた。


それがあまりにも当たり前で、これまで考えたこともなかった。


「ずっと、そうしてきましたから」


そう答えると、なぜか頬が少し熱くなった。


ソアは何も言わず、ただ目元を柔らかくした。


「こちらの茶屋は、季節ごとに菓子が変わるのです」


それ以上は追及せず、嬉しそうに説明した。


話題は、いつの間にか漢陽の店へ移っていた。


ソアがよく行く布屋。


庭の花が美しい寺。


季節によって菓子の形を変える店。


インファが洪家の町で好きな場所。


春鈴祭の日に、最初に鈴を買った屋台。


洪家の庭で一番早く花が咲く木。


一つの話から、次の話が生まれる。


話し終わる前に、どちらかが新しいことを思い出す。


「それで、シウォン様は何とおっしゃったのですか?」


「何も言いませんでした」


「またですか?」


「でも、顔を見れば分かります」


「無口なのに?」


「無口だからこそです」


インファは、シウォンのわずかな表情の違いを話した。


眉がほんの少し動けば、呆れている。


目元が緩めば、機嫌がよい。


答えるまでに一呼吸置けば、言っても無駄だと思っている。


ソアは興味深そうに聞いていた。


「分かります」


その声には、素直な納得があった。


「私も、お兄様の表情はよく分かります。ほかの方には、いつも同じように見えるらしいのですけれど」


「ソンジン様もですか?」


「はい。笑っていらしても、本当にお困りのときは、少しだけ目元が違います」


インファは小さくうなずいた。


「シウォンも同じです」


二人は顔を見合わせた。


長くそばにいた者にしか分からない変化がある。


そのことを、互いに説明する必要はなかった。


けれど、ソアはそのまま、何かを確かめるようにインファの顔を見ていた。


シウォンのことを話すときだけ、インファの目元がわずかに柔らかくなる。


その変化が、自分がお兄様を語るときと似ているように思えたのだろう。


その視線に気づき、インファは少し気恥ずかしくなって、菓子へ手を伸ばした。


庭へ差していた光が、少しずつ傾いていく。


開いた戸の近くまで届いていた陽は、いつの間にか庭石の向こうへ移っていた。


通りから聞こえていた荷車の音も減り、代わりに、夕餉の品を売る者たちの声が混じり始める。


茶屋の前で待つ輿の担ぎ手が、肩を回した。


もう一人が、道の端へ座り直す。


初めはすぐに戻ると思って立って待っていた者たちも、今では壁際の日陰へ移っていた。


部屋の中にいる者たちは、その変化に気づかない。


娘たちは三度目の菓子へ手を伸ばし、乳母たちは二度目の茶を飲んでいた。


「お嬢様は、夜になってもお話をやめられないことがございます」


ソアの乳母が言った。


「うちのお嬢様もでございます。眠いとおっしゃりながら、次々と話を思い出されます」


「こちらが返事をしなければ、眠ったと思われますでしょう?」


「いいえ。顔をのぞき込まれます」


二人はまた、深くうなずき合った。


そのとき、インファの乳母がふと庭へ目を向けた。


陽の位置を見て、表情が止まる。


「まあ」


ソアの乳母も、その声に庭を見た。


「もう、このような時刻なのですね」


二人は同時に立ち上がった。


娘たちの部屋でも、インファが襖越しの声に顔を上げる。


「もう?」


ソアが戸の外へ目を向けた。


先ほどまで明るかった庭には、長い影が伸びていた。


インファも驚いて立ち上がる。


「こんなに時間が経っていたなんて」


「少しだけのつもりでしたのに」


ソアは本当に驚いていた。


インファも同じだった。


話し始めたときには、まだ茶から湯気が立っていた。


それから、何度茶が替わったのか。


菓子の皿がいくつ運ばれたのか。


数えようとして、思い出せなかった。


襖が開き、二人の乳母が姿を見せる。


「お嬢様、そろそろお戻りになりませんと」


インファの乳母が言った。


「お父様がお戻りになる前に、宿へ戻るのでした」


インファが帯へ手を添える。


その動きに合わせて、銀の鈴が鳴った。


――りぃん。


「申し訳ありません」


ソアが立ち上がった。


「私が、長くお引き止めしてしまいました」


「私も、話し続けてしまいましたから」


インファは笑った。


「とても楽しかったです」


ソアの表情が明るくなる。


「私もです」


その頃、装身具店の内庭では、家人がソアから届いた文をソンジンへ差し出していた。


「海平尹氏のお屋敷から届いた文がございます」


封には、尹瑞雅の名が記されている。


ソンジンは文を受け取った。


「いつ届いたものですか」


「今朝、若様がお屋敷を出られたあとでございます」


封を切り、紙を開く。


シウォンとジュノも、ソンジンの言葉を待っていた。


文は長いものではなかった。


ソンジンは素早く目を通し、顔を上げる。


「ソアからです。今日、装身具店でインファ様へ声を掛け、近くの茶屋で少し話すつもりだと書いてあります」


「どこにいる」


シウォンが即座に尋ねる。


「近くの茶屋、としか書かれていません」


ジュノが額へ手を当てた。


「どうして店の名を書かないんだ……」


「本人は、私なら分かると思ったのでしょう」


「分かるんですか」


「候補はいくつかあります」


ソンジンはすぐに家人へ向き直った。


「海平尹氏がよく使う茶屋を挙げてください。離れがあり、女性が人目を避けて入れる店です」


「承知いたしました」


「装身具店から輿で遠くない場所に絞ってください」


家人たちが地図へ集まる。


ソンジンがいくつかの通りを指した。


「こちらの茶屋は、庭に面した離れがあります」


「ですが、尹家からは少し遠うございます」


「ソアが使うのは、家から近い場所とは限りません」


「こちらは、以前にもお嬢様がお使いになったと聞いております」


候補が三つまで絞られた。


ソンジンは地図の上へ指を置いた。


「この三軒へ、すぐに人を向かわせてください。店の前に輿があれば、家名を示す印と、担ぎ手の人数を確かめるように」


「承知いたしました」


護衛たちが一斉に動き出す。


シウォンは地図の上へ視線を走らせた。


どの道なら、輿が目立たず進めるか。


装身具店を出た時刻から考え、どこまで行けるか。


やがて、内庭の外から急ぐ足音が近づいた。


一番近い茶屋へ向かった閔家の護衛が、息を切らして駆け込んでくる。


「若様」


男はソンジンの前へ膝をついた。


「候補に挙げられた茶屋の一つに、家名を示す印のない輿が二台停まっております」


シウォンの目が上がる。


「二台?」


「はい。担ぎ手は合わせて八人。店を出た輿と、数が一致します」


「場所は」


護衛はすぐに地図へ歩み寄り、先ほどソンジンたちが候補に挙げた茶屋の一つを指さした。


「こちらでございます」


シウォンは示された場所を見た瞬間、すぐに踵を返した。


「シウォン!」


ジュノが呼ぶ。


シウォンは振り返らない。


内庭を抜け、店内を横切り、表へ出る。


門の近くに、閔家の者が乗ってきた馬がつながれていた。


シウォンは手綱を外し、鐙へ足を掛ける。


「待て、俺も――」


追ってきたジュノの声が届く前に、シウォンは馬上へ身体を引き上げた。


手綱を引く。


馬が前脚を上げ、すぐに通りへ駆け出した。


人々が驚いて道を開ける。


馬の蹄が、漢陽の道を激しく打った。


シウォンは、一度も振り返らなかった。


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