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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第二十三章 見失っていたもの

茶屋の前には、二台の輿が並んでいた。


「今日は、本当にありがとうございました」


ソアがそう言って頭を下げると、インファも笑顔で礼を返した。


「こちらこそ。とても楽しかったです」


茶屋を出てからも、二人の話はなかなか終わらなかった。


次に会うなら、どの店へ行くか。


漢陽で咲く花と、洪家の庭に咲く花は、どこが違うのか。


ソアが話していた寺の庭も見てみたい。


春鈴祭の鈴についても、まだ話していないことがいくつもある。


一つ口にすれば、また一つ思い出す。


「今度は、私が洪家の町をご案内します」


インファが言うと、ソアの大きな瞳が明るくなった。


「本当ですか?」


「はい。春鈴祭の頃でなくても、きれいな場所はたくさんあります。花の咲く湖もありますし、町には菓子のおいしい店も――」


「お嬢様」


インファの乳母が、控えめに声を掛けた。


「そろそろお戻りになりませんと」


乳母の視線は、通りの先へ向いていた。


茶屋へ入ったときには高かった陽が、今は建物の屋根近くまで傾いている。


宿へ戻る頃には、さらに暗くなっているだろう。


「お父様がお戻りになる前に、宿へ戻るのでした」


インファが言うと、乳母は深くうなずいた。


「そのように申し上げておりました」


ソアの乳母も、主人の背後から声を掛ける。


「お嬢様も、お屋敷へ戻られませんと」


「分かっています」


ソアは答えたものの、すぐには輿へ向かわなかった。


名残惜しそうにインファを見ている。


その少し後ろには、ソアの侍女が一人、静かに控えていた。


落ち着いた色の衣に身を包み、髪もほかの侍女たちと変わらない形に結われている。


手にはソアの小物を収めた包みを持ち、外から見れば、主人に付き従う女の一人にしか見えなかった。


けれど、その目は二人の会話へ向けられていない。


茶屋の出入口。


通りを行き交う人々。


向かいの建物の戸口。


輿の担ぎ手たちの位置。


視線だけが絶えず周囲を巡っていた。


立つ位置も、ソアから離れすぎず、それでいて動きを妨げない場所を選んでいる。


護衛なのだろう。


インファは先ほどから、そう思っていた。


ソンジンは、自分の護衛の顔をすべて知っているわけではないと言っていた。


ソアのそばにも、同じような者がついているのかもしれない。


「では、またお会いしましょう」


ソアが言った。


「はい。きっと」


インファが答える。


腰元の鈴が、身体の動きに合わせて小さく揺れた。


――りぃん。


そのときだった。


茶屋から曲がり角を一つ越えたあたりで、人々の声が上がった。


何を言っているのかまでは聞き取れない。


ただ、先ほどまでの通りのざわめきとは違っていた。


一つの声へ別の声が重なり、それが次々とこちらへ近づいてくる。


輿の担ぎ手たちが、一斉に顔を上げた。


ソアの後ろにいた女も、すぐに通りの先へ視線を向ける。


先ほどまで包みを持っていた手が、わずかに下がった。


もう片方の手は衣の脇へ寄せられている。


そこに何を隠しているのか、インファには分からなかった。


「お嬢様、こちらへ」


女が低い声で言った。


ソアの乳母が、すぐに主人のそばへ寄る。


インファの乳母も、インファの腕へ手を添えた。


曲がり角の向こうで、誰かが鋭く声を上げた。


角のそばにいた人々が、何事かと振り返る。


その直後、馬が一頭、勢いのまま飛び出してきた。


蹄が道を激しく打ち、通りにいた者たちが慌てて身を引く。


馬の首筋は汗で濡れ、荒い息を吐くたび、鼻先から白い泡が散った。


手綱を握っているのは、黒い護衛服の男だった。


シウォンだった。


馬上のシウォンは、すぐにインファを見つけた。


「インファ!」


喉の奥から引きずり出すような、切羽詰まった声が通りに響く。


インファは息をのんだ。


呼び捨てにされたことにも、見たことのないほど必死なシウォンの顔にも驚き、声が出なかった。


馬が茶屋の前へ迫る。


シウォンは手綱を放し、走る馬の背から飛び降りた。


地面へ足をついた勢いのまま、まっすぐインファへ駆ける。


走り抜けた馬は少し先で速度を落とし、茶屋の下男が慌てて手綱をつかんだ。


ソアの護衛が一歩前へ出て、主人を背へかばった。


けれど、シウォンはそちらへ視線すら向けなかった。


インファが動くより早く、シウォンが目の前まで来る。


伸びてきた腕に身体を引き寄せられ、次の瞬間には、強く胸の中へ抱き込まれていた。


あまりに突然のことで、インファは腕を上げることもできなかった。


息も整わないまま、シウォンは逃がすまいとするように、さらに腕へ力を込めた。


シウォンの息が、耳の近くで乱れている。


馬を走らせてきたためだけではない。


いつもならどれほど動いても崩れない呼吸が、今は浅く、途切れていた。


そこにいることを確かめるように。


腕の中から消えてしまわないように。


二度と見失うまいとするような、切羽詰まった抱き方だった。


シウォンの肩が、かすかに上下している。


インファは目を見開いた。


いつも半歩後ろに立ち、どのようなときにも冷静さを失わないシウォンが、今は周囲を見ることさえ忘れている。


そのことの方が、突然抱きしめられたことよりも驚きだった。


すぐそばにいた乳母も、言葉を失っていた。


インファの名を呼び捨てにしたことにも、人前で抱きしめたことにも驚いたらしい。


目を大きく見開き、止めるべきなのかさえ判断できずにいる。


ソアをかばっていた女護衛も、衣の脇へ添えていた手を止めていた。


警戒のために細められていた目が、今はわずかに見開かれている。


主人へ危害を加える者ではないと分かっても、目の前の光景までは予想していなかったのだろう。


その背後から、ソアがそっと顔をのぞかせた。


初めは、皆と同じように驚いていた。


けれど、インファを抱きしめた男の黒い護衛服と、周囲など何一つ目に入っていない様子を見つめるうちに、その大きな瞳が次第に輝き始める。


この方が。


先ほど、インファ様がおっしゃっていた――。


ソアは声を上げる代わりに、両手で口元をおさえた。


驚きよりも、答えを見つけた興奮の方が、すでにその顔にはっきりと表れていた。


周囲の困惑をよそに、シウォンの腕は緩まなかった。


背へ回された腕には、なお強い力がこもっている。


胸元へ押しつけられたまま、インファは息を吸おうとした。


「シウォン……くるしい」


かすれた声が届いた瞬間、シウォンは弾かれたように腕の力を緩めた。


それでも、インファを腕の中から離そうとはしなかった。


片腕を背に回したまま、もう片方の手でインファの肩をつかみ、わずかに身体を離して顔をのぞき込み、頬へ手を添える。


額から目元、頬、肩へと、怪我がないか確かめるように視線と指先を動かしていく。


いつもの冷静さは、どこにもなかった。


やがて、インファの目をまっすぐに見つめる。


その瞳が、確かに自分を見返していることを確かめると、シウォンは目を逸らさないまま、震える息を吐いた。


「よかった……」


そのとき、通りの向こうから、再び馬の蹄が近づいてきた。


今度は二頭だった。


先ほどのシウォンほどの勢いではなかったが、どちらも急いでここまで来たことは、馬の荒い息を見れば分かった。


先に馬から降りたのはジュノだった。


続いて、ソンジンも地面へ降りる。


二人は茶屋の前へ目を向けた。


インファを腕の中から離そうとしないシウォン。


そのそばで言葉を失っている乳母。


ソアを背にかばったまま、シウォンを見つめている女護衛。


そして、その背後から目を輝かせているソア。


ジュノはしばらく何も言わなかった。


それから、わざとらしく大きな咳払いをした。


「……こほん」


シウォンの肩が、わずかに動いた。


そこでようやく、周囲の存在を思い出したらしい。


インファの背へ回していた腕が離れる。


頬へ添えていた手も下ろされ、シウォンは一歩だけ後ろへ下がった。


わずかな距離のはずなのに、いつもより遠く感じられた。


腕の中から解放された途端、インファは自分が大勢に見られていることに気づいた。


乳母も、ジュノも、ソンジンもいる。


見知らぬ女護衛も、輿の担ぎ手たちも、茶屋の前にいた人々まで、こちらへ顔を向けていた。


何より、つい先ほどまで話をしていたソアが、両手を口元へ当てたまま、目を輝かせている。


頬が一気に熱くなった。


インファは視線を落とした。


腰元の鈴が、小さく揺れる。


――りん。


「インファ様、この方って――」


こらえきれなくなったソアが声を上げる。


だが、その先を遮るように、ソンジンがゆっくりと口を開いた。


「さて」


穏やかな声だった。


けれど、その目は少しも和らいでいなかった。


「どういうことか、説明してくれますね?」


ソアは目を瞬いた。


ソンジンが怒っていることは分かる。


けれど、何に怒っているのかが分からない。


視線をたどるように、インファとシウォンを見る。


先ほどまで、シウォンはインファを抱きしめていた。


そのことだろうか。


ソアの眉が寄った。


「ソンジンお兄様」


口元から手を離すと、ソアは女護衛の背後から出た。


「いくら縁談のお相手だからといって、そのようなお顔をなさるのは、ソンジンお兄様らしくありませんわ」


今度は、ソンジンが目を瞬いた。


「……何の話でしょう」


「ですから、インファ様があの方に抱きしめられたことです」


ソアはシウォンを指しかけ、名家の令嬢らしくないと乳母に叱られそうだと思い直したのか、途中で手を引いた。


「インファ様にも、幼い頃から大切にしていらした方がいるのです。それを見て、そのようにお怒りになるなんて――」


「ソア」


ソンジンが静かに名を呼ぶ。


その声に、ソアは口を閉じた。


シウォンは何も言わなかった。


表情にも、先ほどまでの動揺は残っていない。


すでにいつもの無表情へ戻っている。


ただし、周囲へ向ける視線だけが妙に忙しかった。


通りの先。


茶屋の戸口。


二台の輿。


足を止めてこちらを見ている人々。


誰かの顔へ視線を止めることはなく、乳母とも、ジュノとも、ソンジンとも目を合わせようとしない。


ジュノは、その様子を見て、口元をにやつかせていた。


何か言いたくて仕方がないらしい。


けれど今ここでシウォンをからかえば、あとでどうなるかは分かっている。


ジュノは笑いをこらえるように一度鼻をこすり、インファの乳母へ顔を向けた。


「乳母殿。いったい、何があったんです?」


乳母はすぐには答えなかった。


インファとシウォンを交互に見てから、深く息をつく。


その視線に耐えられず、インファはわずかに身を縮めた。


頬の熱が、まだ引かない。


誰も何も言わないのに、全員が先ほどのことを見ていたと分かる。


いたたまれなくなり、インファはジュノへ顔を向けた。


「ジュノ」


「何だ?」


「迎えに来てくれたの?」


「迎えというより、捜しに来たんだ」


ジュノは、茶屋の前へ集まった人々を見回した。


通りの足を止め、こちらをうかがっている者もいる。


インファとシウォンを見比べながら、何事かと囁き合う者。


ジュノは息を吐き、苦笑いを浮かべた。


「とりあえず、茶屋に入りましょう。ここで話していたら、また別の騒ぎになります」


ソンジンも周囲へ目を向けた。


「そうですね」


声は穏やかだったが、表情は硬いままだった。


ソンジンが片手を上げると、ソンジンたちを追ってきた閔家の護衛が二人、すぐに進み出た。


どちらも町人のような姿をしている。


けれど、ソンジンの前でわずかに頭を下げる動きには隙がなかった。


「一人は装身具店へ戻り、捜索を止めるよう伝えてください。見つかったという報を、動いている者全員へ回すように」


ソンジンはもう一人へ目を向けた。


「あなたは洪家の宿へ。インファ様がご無事であると、急いで知らせてください」


二人はもう一度頭を下げると、それぞれ別の方向へ走り去った。


「捜索……?」


ソアが、小さく繰り返した。


その声へ答える者はいなかった。


一行は、先ほどまでインファとソアが茶を飲んでいた離れへ戻った。


先ほどまで使っていた茶器が、卓上に残されている。


少し前まで二人の笑い声が満ちていた部屋だった。


けれど今は、同じ場所とは思えないほど空気が張りつめていた。


インファとソアが並んで座り、その後ろへそれぞれの乳母が控える。


シウォンはインファのすぐ後ろへ立っていた。


いつもの半歩後ろだった。


表情も、姿勢も、すでに普段のシウォンへ戻っている。


けれど、インファにはそうは見えなかった。


つい先ほどまで、自分を腕の中へ閉じ込めるように抱きしめていた。


声は震え、呼吸は乱れ、無事を確かめたあとにこぼした「よかった」という言葉も、まだ耳の奥に残っている。


それを思い出すたび、胸の内が落ち着かなかった。


ソンジンは二人の向かいへ座った。


ジュノはその少し横へ腰を下ろしたものの、シウォンを見て口元を緩めている。


何か言いたそうではあったが、今はソンジンの方が先だと分かっているらしい。


「さて」


ソンジンが扇を膝の上へ置いた。


「初めから、説明していただけますね」


ソアは姿勢を正した。


「はい」


「今日、装身具店へ行くことは、いつ決めたのですか」


「昨日です」


「誰に伝えましたか」


「乳母と、護衛の者には伝えました。それから、お兄様にも文を送りました」


「店の名は書きましたか」


「……書いておりません」


「茶屋の名は?」


ソアの声が小さくなる。


「それも、書いておりません」


「インファ様へ声を掛けることは?」


「書きました」


「そのあと、どこへお連れするのかは」


ソアは答えなかった。


ソンジンは声を荒らげていない。


ただ、一つ尋ねるたびに、次の逃げ道を塞ぐように言葉を重ねていく。


「装身具店を出る際、店の者へ行き先を伝えましたか」


「いいえ」


「輿に家名を示す印は?」


「目立たない方がよいと思って、外してもらいました」


「なぜです」


「インファ様と、静かにお話ししたかったのです。家名を出せば、周りの者が気にしますし……」


「その結果、どこの誰がインファ様を連れ出したのか、誰にも分からなくなりました」


ソアの肩が小さく揺れた。


「そのようなつもりでは……」


「分かっています」


ソンジンは即座に答えた。


「ソアに悪意がなかったことは、分かっています。ですが、悪意がなければ何をしても騒ぎにならないわけではありません」


ソアは膝の上へ視線を落とした。


「私は、お兄様が文を読んでくださると思っていました」


「私が文を読んだのは、インファ様を探し始めてから、かなり時間がたったあとです」


「でも、お兄様なら、私が使う茶屋もお分かりになるかと……」


「候補は三軒ありました」


ソアが顔を上げた。


「三軒も?」


「その三軒へ人を向かわせました。ですが、それまでに漢陽の輿を止め、空き家や倉へ踏み込み、花屋や菓子屋まで捜しています」


ソアの目が次第に大きくなる。


「そこまで……?」


「インファ様が連れ去られた可能性を考えました」


ソンジンの声が低くなった。


「閔家の政敵が関わっている可能性も。洪家との縁談を利用し、何かを要求してくる可能性も考えました」


ソアの顔から血の気が引いた。


「私、そんな大事になるとは思っていませんでした」


「思わなかったから、何も知らせずに連れ出したのですか」


「違います。ただ少し、お話をするだけのつもりで……。乳母も護衛も一緒でしたし、危険な場所へ行ったわけでもありません」


「ソアにとって安全かどうかを尋ねているのではありません」


ソンジンの目は、少しも逸れなかった。


「残された者が、どう考えるかという話です」


ソアの唇がわずかに震えた。


「ごめんなさい……」


先ほどまでの勢いは、もうどこにもなかった。


大きな瞳には涙がにじみ始めている。


それでも泣くまいとしているのか、何度も瞬きを繰り返していた。


インファはその横顔を見ていられなくなった。


「ソンジン様」


ソンジンの視線が、インファへ向く。


「ソア様だけのせいではありません」


「インファ様」


「私も、ちゃんと確認するべきでした。どこへ行くのか、店の方へ伝えるべきでしたし、シウォンたちにも知らせるべきでした」


ソアが驚いたようにインファを見る。


「ですが、インファ様は私が――」


「私は、自分で輿へ乗りました」


インファは静かに続けた。


「ソア様に無理に連れていかれたわけではありません。乳母も一緒でしたし、私も、少し話をするだけだと思っていました」


ソンジンはすぐには答えなかった。


インファは膝の上へ置いた手を、そっと握った。


本当に、これほどの騒ぎになるとは思っていなかった。


けれど、知らなかったでは済まされないことも分かる。


そして何より、シウォンのあの姿を見てしまった。


何が起きているのかも分からないまま抱きしめられ、その必死さに驚いた。


今もまだ、どう受け止めればよいのか分からない。


インファは、すぐ後ろへ立つシウォンの気配を意識した。


振り返ることはできなかった。


しばらくの沈黙のあと、ソンジンが静かに口を開いた。


「インファ様にも、行き先をお伝えいただきたかったとは思います」


責める口調ではなかった。


「ですが、今回の予定を立て、輿を用意し、行き先を知らせないまま店を出たのはソアです。インファ様が、すべての責任を負われることではありません」


「でも、私は自分で――」


「はい。ですから、次からは必ず、護衛の方へお伝えください」


ソンジンはインファをまっすぐに見た。


穏やかな目だったが、言葉は曖昧にしなかった。


「どれほど近い場所でも、どなたと一緒でもです。インファ様のお姿が見えなくなれば、残された方には、それが安全な外出なのか、連れ去られたのか判断できません」


インファは答えず、膝の上へ視線を落とした。


すぐ後ろに立つシウォンの気配が、先ほどよりも近く感じられた。


「……はい」


小さく答える。


「これからは、必ず伝えます」


ソンジンは一度うなずくと、再びソアへ目を向けた。


ソアはすっかり肩を落としていた。


大きな瞳にはまだ涙がにじんでいる。


けれど、先ほどのように言い訳をしようとはしなかった。


「ソア」


名を呼ばれ、ソアが顔を上げる。


「何がいけなかったか、分かりましたか」


「はい」


今度の返事は、迷いなく出た。


「私たちが安全だと思っていても、残された方には分からないということです」


ソアは膝の上で両手を重ねた。


「自分のことばかり考えて、皆様がどれほど心配なさるか考えていませんでした」


ソンジンは何も言わず、続きを待った。


ソアは唇を引き結んだ。


それから、インファへ身体を向ける。


「インファ様。申し訳ありませんでした」


深く頭を下げた。


「私のせいで、皆様にご心配をおかけしました。インファ様まで、危険な目に遭われたと思われることになって……」


「ソア様」


インファは慌てて手を伸ばしかけた。


けれど、ソアはすぐには頭を上げなかった。


「お会いしたかったのです。どうしても、直接お話ししたくて。そればかり考えて、ほかのことを何も考えていませんでした」


声がわずかに震えている。


「本当に、ごめんなさい」


インファはしばらくソアを見つめた。


今日、ソアと話せたことを後悔してはいなかった。


誰にも言えなかったことを話した。


シウォンのことも、赤い紐の鈴のことも。


知らないままでは何も選べないと、教えてもらった。


それでも、何も告げずに店を出たことで、多くの者へ心配をかけたことは事実だった。


「顔を上げてください」


インファが言うと、ソアはゆっくりと顔を上げた。


「私も、申し訳ありませんでした。自分で行くと決めたのに、誰にも行き先を伝えませんでした」


「インファ様……」


「でも、今日、ソア様とお話しできてよかったと思っています」


ソアの表情が、ようやく少し和らいだ。


「次にお会いするときは、きちんと皆へ伝えてからにしましょう」


インファが微笑む。


「どこへ行くのかも、いつ戻るのかも」


ソアは何度も大きくうなずいた。


「はい。必ずそうします」


その様子を見届けると、ソンジンは小さく息を吐いた。


怒りが消えたわけではない。


けれど、これ以上ここでソアを追い詰めるつもりもないらしかった。


ジュノが、ようやく口を開く。


「とにかく、無事でよかったよ」


その言葉はインファへ向けられていた。


けれど、目はインファの後ろにいるシウォンを見ている。


口元には、まだかすかな笑いが残っていた。


シウォンはその視線に気づいているはずだった。


それでも反応しない。


表情には何も浮かんでいなかった。


先ほど取り乱していた者と同じとは思えないほど、いつもの静かな顔へ戻っている。


ただ、誰とも目を合わせようとはしなかった。


戸口を見る。


庭へ目を向ける。


茶屋の外を通る者の足音に耳を澄ませる。


視線は絶えず動いているのに、インファとも、乳母とも、ジュノとも目が合わない。


ジュノの口元が、さらに緩んだ。


「シウォン」


呼ばれても、返事はない。


「聞こえてるだろ」


「聞こえている」


ようやく答えたが、ジュノの方は見なかった。


「そうか」


ジュノは楽しそうにうなずいた。


「ならいいんだ」


何がよいのか、インファには分からなかった。


けれど、ジュノが何を面白がっているのかは、なんとなく分かる。


頬がまた熱くなった。


このままここにいれば、先ほどのことを何か言われる。


そう思い、インファは立ち上がった。


「そろそろ、宿へ戻ります」


乳母がすぐに同意する。


「そうでございますね。旦那様がお戻りになる前に、少しでも早く参りませんと」


ソアも立ち上がった。


「今日は本当に、申し訳ありませんでした」


「もう、謝らなくても大丈夫です」


インファが笑顔で答えると、ソアもようやく小さく笑った。


茶屋の前へ戻ると、空はさらに夕方の色を深めていた。


通りに集まっていた人々の姿は、すでに少なくなっている。


二台の輿は先ほどと同じ場所へ置かれ、担ぎ手たちが出立の支度を整えていた。


ソアは自分の輿へ向かう前に、インファへ振り返った。


何か言いたそうに口を開く。


その視線は、インファの後ろに立つシウォンへ一度だけ向いた。


大きな瞳が再び輝きかける。


けれど、隣にいるソンジンの顔を見て、慌てて口を閉じた。


「それでは、また」


今度はそれだけを言う。


「はい。またお会いしましょう」


インファも笑顔で答えた。


ソアが輿へ乗り込む。


乳母と女護衛もそれに続き、戸が閉じられた。


担ぎ手たちが輿を持ち上げる。


動き始めた輿の小窓から、ソアが一瞬だけ顔をのぞかせた。


ソンジンの視線に気づき、すぐに引っ込む。


インファは思わず笑いそうになった。


けれど、隣に立つシウォンの気配を意識した途端、その笑みも消えた。


自分の輿へ向かう。


いつもなら、シウォンが先に戸を開け、乗り込むための手を差し出す。


今日も、シウォンは輿のそばへ立った。


けれど、すぐには手が伸びてこなかった。


知らない者なら、ためらったことにも気づかなかっただろう。


けれど、インファには分かった。


シウォンの手が、わずかに持ち上がり、途中で止まった。


ほんの一瞬のことだった。


やがてシウォンは目を伏せたまま、あらためて片手を差し出した。


そのわずかな間が、なぜか気になった。


「お嬢様」


呼び方は、もういつものものへ戻っていた。


「足元にお気をつけください」


インファは差し出された手を見た。


大きく、硬い手だった。


幼い頃から、何度もつかんできた。


池へ落ちそうになったときも、人混みの中を歩くときも、輿へ乗るときも。


いつもと同じ手のはずだった。


インファが自分の手を重ねると、シウォンの指がわずかに動いた。


触れた手が、ほんのわずかに震えていた。


インファは顔を上げた。


けれど、シウォンは目を伏せたままだった。


何も言わず、インファが輿へ乗るのを静かに支えた。


インファに続いて乳母が乗り込むと、戸が閉じられた。


外の光が細くなり、やがて見えなくなった。


輿が持ち上がる。


身体が揺れ、腰元の鈴が小さく鳴った。


――りぃん。


インファは帯へ手を添えた。


ソアの言葉が蘇る。


――知らないままでは、何も選べませんもの。


続いて、通りへ響いたシウォンの声。


――インファ!


そして、目を見つめながらこぼした、震えるような声。


――よかった……。


インファは指先で、淡い青い紐をなぞった。


シウォンが選び、買ってくれた鈴。


輿の外には、そのシウォンがいる。


きっと今は、いつも以上に輿のそばを離れず歩いているのだろう。


なぜ、あれほど必死に自分を探してくれたのか。


なぜ、誰の目も気にせず抱きしめたのか。


その答えを、知りたいと思った。


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