第二十一章 探しているもの
少し前――。
輿が持ち上がった。
身体がわずかに傾き、インファは壁へ手を添えた。
向かいに座ったソアも、同じように片手をついて身体を支える。
二人は一度だけ顔を見合わせ、それぞれ姿勢を整えた。
インファと乳母が乗るはずだった輿へ、ソアが加わっている。
もう一つの輿も用意されていたのだから、それぞれに乗ればよかったはずである。
けれどソアは、自分の輿へ向かいかけた途中で足を止め、インファと同じ輿へ乗ってもよいかと尋ねた。
断る理由はなかった。
インファとソアは向かい合い、乳母は戸口に近い場所へ身体を寄せて座っている。
輿の中は、窮屈というほどではない。
それでも三人で乗れば、正面に座るソアとの距離は近かった。
輿が進み始める。
外から、担ぎ手たちの足音が聞こえた。
装身具店の内庭にあった静けさは遠ざかり、代わりに漢陽の町の音が近づいてくる。
人々の話し声。
荷車の車輪が道を転がる音。
遠くから聞こえる、品物を売る者の声。
どれも輿を覆う布と戸に隔てられ、少しくぐもって聞こえた。
インファは膝の上へ両手を重ねた。
そして、正面に座るソアをそっと見た。
尹瑞雅――ユン・ソア。
滑らかな卵形の顔に、艶のある黒髪。
髪はきちんと結われ、挿された飾りにも、衣の襟元にも乱れはない。
鮮やかな色の衣が、華奢な身体によく似合っていた。
すっと通った鼻筋。
柔らかな色を帯びた唇。
背筋を伸ばして座る姿には、漢陽の名家に生まれた令嬢らしい品がある。
装身具店で初めて姿を見たときにも、きれいな人だと思った。
けれど、あのときのソアは、仕切りの向こうから現れたかと思えば、インファを店の奥へ誘い、次には茶屋へ行こうと言い出した。
こうして黙って座っていると、先ほどとは別人のように落ち着いて見える。
もっとも、その大きな瞳だけは、少しも落ち着いていなかった。
戸口へ向く。
向かいに座る乳母を見る。
それから、インファの衣の袖へ移る。
膝の上へ重ねた手。
髪に挿された花の簪。
そして最後に、インファの顔へ戻ってきた。
目が合った。
ソアの瞳が、驚いたように丸くなる。
インファも、思わず視線を膝の上へ落とした。
見ていたことに気づかれた。
そう思ったが、正面からは何も言われなかった。
輿は一定の速さで進んでいる。
道の小さな窪みを越えるたび、二人の身体が同じ方向へわずかに揺れた。
インファは少し間を置き、再び顔を上げた。
今度は、ソアも前を向いている。
長い睫毛。
形のよい眉。
何かを言いたそうに、わずかに開いては閉じる唇。
黙って座っていれば、申し分のない名家の令嬢だった。
けれど、ソアは何度もインファの方を見ようとする。
そのたびに目が合いそうになり、正面へ戻っているようだった。
何を考えているのだろう。
ソンジンから受け取った文には、明るく、好奇心の強い娘だと書かれていた。
周りが止める前に動く、とも。
初めて会ったばかりのインファを茶へ誘い、別の輿まで用意していたのに、同じ輿へ乗り込んできた。
少なくとも、考えたことを行動へ移すのは早いらしい。
それでも、なぜ自分に会いたかったのかは、まだ聞いていない。
ソアが不意に顔を上げた。
再び、目が合う。
今度は、どちらもすぐには逸らさなかった。
ソアの大きな瞳が、インファの顔を確かめるように動く。
髪から、簪へ。
簪から、目元へ。
その視線には、何かを探すような真剣さがあった。
けれど、敵意は感じない。
ただ、知りたいと思っている。
目の前にいるインファが、どのような娘なのか。
顔を見ただけで、その答えを見つけようとしているようだった。
インファも同じことをしている。
そう気づいた途端、少しおかしくなった。
「……あの」
二人の声が重なった。
インファとソアは同時に口を閉じる。
戸口側に座る乳母が、二人を交互に見た。
「どうぞ」
インファが先を譲った。
「いいえ、インファ様から」
「私は、その……」
何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなった。
ソアを見ていたことを謝るべきだろうか。
けれど、ソアも自分を見ていた。
インファが言葉に迷っていると、ソアが先に口を開いた。
「すみません。先ほどから、何度も見てしまって」
あまりにもそのまま言われ、インファは瞬きをした。
「私も、見ていました」
「そうなのですか?」
ソアの表情が、急に明るくなる。
大きな瞳が輝き、目尻が柔らかく下がった。
頬がわずかに持ち上がり、花が開くような笑顔になる。
初めて会った相手に向けるものとは思えないほど、親しみのある笑い方だった。
「はい」
インファが答えると、ソアは嬉しそうにうなずいた。
なぜ、見られていたことを喜ぶのだろう。
インファにはよく分からなかった。
けれど、その笑顔につられ、自然と口元が緩んだ。
「お会いする前から、どのような方なのか気になっていたのです」
ソアが言った。
「私もです。ソンジン様から、ソア様のお話を伺っていましたから」
「お兄様は、私のことを何と?」
ソアは身を乗り出しかけた。
その瞬間、輿が小さく揺れる。
ソアは慌てて壁へ手を添え、元の姿勢へ戻った。
「きっと気が合うと、書かれていました」
「それだけですか?」
「明るくて、好奇心の強い方だとも」
「ほかには?」
ソアの目が、期待するように輝いている。
インファは文に書かれていた言葉を思い出した。
「珍しいものを見つけると、周りの方が止める前に近づいてしまうと」
ソアの表情が止まった。
戸口側の乳母が、わずかに顔を伏せる。
「お兄様は、そのようなことまで書いたのですか」
「はい」
「間違ってはいませんけれど」
少し不満そうではあったが、否定はしないらしい。
インファは小さく笑った。
ソアもすぐに笑う。
今度は、先ほどよりも自然に目が合った。
「私は、インファ様が鈴をお好きだと聞きました」
「ソンジン様からですか?」
「はい。鈴を見つけると、すぐに足を止めると」
「いつもではありません」
「菓子を見つけたときも、道を外れると」
今度はインファが言葉を失った。
乳母が小さく咳払いをする。
「私は、道を外れたのではありません。少し見に行っただけです」
「私も、珍しいものを見つけるたびに走り出すわけではありません」
二人は互いを見つめた。
どちらの言い分も、そばにいる乳母には信じてもらえていないらしい。
それが分かり、同時に笑った。
輿の中にあった緊張が、少しずつ薄れていく。
インファは、あらためてソアを見た。
よく動く大きな瞳。
思ったことが、そのまま表れる顔。
名家の令嬢らしく整った外見とは裏腹に、感情を隠そうという様子がほとんどない。
ソアもまた、インファを見ていた。
淡い青緑色の衣。
きちんと結われた艶のある黒髪。
そこへ挿された、小さな花の簪。
小柄な身体を包む衣は派手ではないが、柔らかな色がよく似合っている。
目元は優しく、黙っていると穏やかに見える。
けれど笑えば、大きな黒い瞳が言葉より先に明るくなる。
ソンジンが話していた娘は、この人なのだ。
そのように確かめているような目だった。
「ソア様は、私に会ってみたいとおっしゃっていたのですか?」
インファが尋ねた。
「はい」
ソアは迷わず答えた。
「お兄様が、インファ様のお話を何度もなさるものですから」
「何度も?」
「はい。同じことを、少しずつ言い方を変えて」
インファは目を瞬いた。
ソンジンから直接そのようなことを聞いた覚えはない。
詳しく尋ねようとしたところで、輿の速度が緩んだ。
外から、担ぎ手の声がする。
「到着いたしました」
ソアが戸口を見た。
インファも外へ意識を向ける。
二人とも、同じように驚いていた。
「もう着いたのですね」
ソアが言う。
「思っていたより、早かったです」
「私もです」
実際の道のりが短かったわけではない。
互いの顔を見て、わずかな言葉を交わしているうちに、着いてしまったのだ。
輿が静かに下ろされる。
戸が開き、先に乳母が外へ降りた。
続いてインファが降り、そのあとからソアが姿を現す。
茶屋は、大通りから少し入った静かな場所にあった。
表の客が使う建物とは別に、小さな庭へ面した離れが設けられている。
人目を気にせず話せるよう、ソアがあらかじめ部屋を用意させていたらしい。
「こちらです」
ソアが先へ進もうとする。
そのとき、離れの戸口から年長の女性が出てきた。
ソアの乳母だった。
今日は装身具店には同行せず、先に茶屋へ入り、部屋と茶菓の支度を整えていたらしい。
「お嬢様」
呼ばれたソアの足が止まる。
「お客様より先に行ってはなりません」
「走ってはいません」
「走るかどうかではございません」
ソアは口を閉じた。
インファの乳母が、わずかに目元を和らげる。
何か、通じるものがあったらしい。
「お待ちしておりました」
ソアの乳母はインファへ向き直り、深く頭を下げた。
「お茶の支度は整えてございます。どうぞ、お入りくださいませ」
案内された部屋には、すでに茶と菓子が用意されていた。
開いた戸の向こうに、小さな庭が見える。
風が入るたび、器から立つ湯気がわずかに揺れた。
ソアの乳母はインファへ上座を勧め、二人が向かい合って座るのを確かめると、静かに茶を注いだ。
淡い香りが広がる。
茶のほかには、形の整った小さな菓子が二種類。
急に決めた茶会ではなく、前もって準備されていたことが分かる。
インファは、目の前の茶とソアの顔を交互に見た。
自分と会うために、ここまで用意していたのだろうか。
「それでは、私どもは隣の部屋へ控えております」
ソアの乳母が言った。
インファの乳母は、すぐには動かなかった。
普段であれば、乳母は同じ部屋の端へ控える。
ましてや、インファが初めて会った娘と二人だけで話すのである。
茶器のそばへ座る場所を確かめるように、室内へ一度目を向けた。
すると、ソアの乳母が小さく声を掛けた。
「お嬢様が、インファ様とお二人でお話しになりたいとのことでございます」
インファの乳母は、ソアを見る。
ソアは少しだけ姿勢を正した。
「すぐ隣におります。何かございましたら、声を掛けていただければ」
ソアの乳母が続ける。
二つの部屋を隔てているのは、襖一枚だった。
声を上げれば、すぐに届く。
インファの乳母はなおも一瞬迷っていたが、やがてインファへ視線を向けた。
「お嬢様」
「大丈夫です」
インファがうなずくと、乳母はようやく頭を下げた。
「では、隣に控えております」
ソアの乳母が襖へ向かい、インファの乳母もそのあとに続く。
二人が隣室へ下がると、襖が静かに閉じられた。
インファとソアは、茶を挟んで向かい合った。
輿の中でも向かい合っていた。
けれど今は、正面から目を見ても、道の揺れを理由に視線を逸らすことはできない。
ソアが茶碗へ手を伸ばす。
インファも、それに続こうとした。
しかし、ソアの指は茶碗へ触れる前に止まった。
何かを決意したように、インファを見る。
「インファ様」
「はい」
「お尋ねしてもよろしいですか?」
そのために二人だけで話せる場所を用意したのだろう。
インファはそう思い、姿勢を正した。
「何でしょうか」
ソアは、ためらわなかった。
「インファ様は、ソンジンお兄様との縁談を、どのように思っていらっしゃるのですか?」
インファの手が止まった。
まだ茶碗へ触れてもいない。
挨拶を終え、席へ着いたばかりである。
茶を一口も飲んでいない。
同じ年頃の両班の娘と、二人だけで話した経験はほとんどなかった。
洪家を訪れる令嬢はいても、父や乳母の見ている前で挨拶を交わし、天候や季節の花、衣や刺繍について話す程度だった。
尋ねることにも、順序がある。
少なくとも、席へ着いて最初に縁談への気持ちを尋ねる娘には、これまで会ったことがない。
インファは、正面に座るソアを見た。
大きな瞳が、答えを待っている。
そこに遠慮はあっても、回り道をするつもりはないらしい。
文に書かれていたとおりだった。
周りが止めるより先に動く。
そして、気になったことは、相手が構えるより先に尋ねる。
インファは答えることも忘れ、しばらくソアの顔を見つめていた。
その頃、装身具店では――。
装身具店の内庭には、次々と人が集まり始めていた。
いずれも閔家の者だった。
表から入ってきた者は少ない。
隣家の屋根を越えてきた者、路地の奥から何食わぬ顔で現れた者、荷を運ぶ町人の姿のまま門をくぐった者もいる。
それまで通りの中へ紛れていた護衛たちが、ソンジンのもとへ集まってきたのである。
内庭の中央には、輿を置いた跡が残っていた。
シウォンはその脇へしゃがみ、土に残された足跡を見ている。
担ぎ手は四人。
輿は二つ。
置かれていた時間は長くない。
インファが店の奥へ入ってから、自分たちが異変に気づくまでの時間を考えれば、輿が進める距離にも限りがある。
「店を出た正確な時刻を、もう一度」
ソンジンが尋ねた。
女性店員は、すでに何度目かになる説明を繰り返した。
インファたちが奥の部屋へ移った時刻。
見知らぬ娘たちが現れた時刻。
輿が内庭へ入ってきた時刻。
店を出た時刻を聞き終えると、閔家の護衛の一人が、折り畳まれた紙を内庭の縁台へ広げた。
漢陽の道筋を記した簡略な地図だった。
大路と橋、門、市場、主だった屋敷や店の位置が書き込まれている。
すべての路地まで正確に記されたものではないが、人や輿の動きを追うには十分だった。
シウォンは装身具店の位置へ指を置いた。
「店を出たのが、この時刻」
続いて、女性店員が答えた時刻と、自分たちが異変に気づいた時刻を確かめる。
「輿が普通の速さで進んだなら、ここまでです」
指先で、装身具店を中心に範囲を示す。
ただし、きれいな円にはならない。
人通りの多い大路では進みが遅くなる。
狭い路地では、輿同士がすれ違えない。
反対に、空いている道を選べば、予想より遠くまで進んでいる可能性がある。
ソンジンが地図へ目を落とした。
「この時刻なら、南側は市場を抜けるのに時間がかかります。東は橋の手前まで。北は大路を使えば、もう少し先まで行けるでしょう」
護衛の一人が、それぞれの道へ印をつけていく。
「普通に進んだなら、今いるのはこの範囲です」
シウォンが言った。
「普通に進んだなら、ですね」
ソンジンの視線は、地図の外側へ向いていた。
「連れ去るつもりなら、輿を降り、馬か別の車へ移した可能性もあります」
シウォンは答えなかった。
否定できない。
門の外で、馬の足音が止まった。
間もなく、閔家の使いが内庭へ入ってくる。
その後ろには、今日のソンジンの予定を知っていた家人が二人、さらに文箱を抱えた者が続いていた。
「若様」
先頭の男が膝をつく。
「本日のお出ましについて知る者を連れてまいりました。また、今朝から閔家へ届いた書状と文を、すべてお持ちしております」
ソンジンの表情がわずかに変わった。
今日、ソンジンがインファと町へ出ることを知っていた者は多くない。
だが、閔家の中だけとは限らなかった。
家人が口を滑らせた可能性。
出入りの商人が耳にした可能性。
政敵の手の者が、予定を探っていた可能性。
そして、インファを狙ったのではなく、ソンジンや閔家へ揺さぶりをかけるために連れ去った可能性もある。
「知っていた者は」
「若様のお支度を担当した者。馬を用意した者。昨日、外出先の確認を受けた者。ほかに、門を出られるところを見た者がおります」
「全員、別々に話を聞いてください。誰から聞いたのか、誰へ話したのかも」
「承知いたしました」
「今日に限らず、洪家の方々が漢陽へ来られてから、不審な問い合わせがなかったかも調べてください」
男が頭を下げる。
ソンジンは次に、集まった護衛たちへ目を向けた。
「動かせる者を、すべて出してください」
命を受けた者たちが一斉に姿勢を正した。
「インファ様が店を出られたと見られる時刻から、輿で移動できる範囲を割り出します。その内側にいる輿は、すべて止めてください」
店主が息をのむ。
漢陽の町には、数え切れないほどの輿が行き交っている。
町人だけではない。
官人の家族。
名家の令嬢。
高位の者に仕える女官。
容易に戸を開けさせられない相手もいる。
だが、ソンジンは言葉を変えなかった。
「閔家の名を出して構いません。中にいる方の顔を確かめ、インファ様と乳母殿でなければ、すぐにお通ししてください」
「騒ぎになります」
護衛の一人が言った。
「構いません」
ソンジンは即答した。
「お叱りも、後の始末も、すべて私が引き受けます」
護衛たちが散る。
内庭から出た者たちは、それぞれ別の方向へ走った。
人通りの多い道では、輿を一つずつ止めた。
担ぎ手へ出発した場所と行き先を尋ね、戸を開け、中にいる者の顔を確かめる。
閔家の印を見せても声を荒らげる者はいた。
名を尋ねる前に怒り出す者もいた。
それでも、一つとして確認を省かなかった。
別の者たちは、シウォンが示した範囲の外へ向かった。
人目を避けて使える無人の屋敷。
長く閉ざされた小屋。
持ち主が地方へ下っている別宅。
倉として使われている建物。
輿のまま遠くへ運ばず、どこかで人を降ろし、隠した可能性を考えたのである。
門が閉ざされていれば、周囲に残る足跡を見る。
新しい泥。
馬の蹄。
車輪の跡。
中から物音がすれば、返事を待たずに踏み込んだ。
範囲の内側では、別の捜索も始まっていた。
「お嬢様が、ご自分で店を出た可能性も捨てない」
シウォンが言った。
乳母が一緒にいる。
争った跡もない。
インファ自身が、知っている相手についていった可能性は高かった。
だからといって、安全とは限らない。
「インファ様がお立ち寄りになりそうな場所を」
ソンジンが護衛へ命じる。
「花を扱う店。菓子屋。細工物や鳴り物を置く店。庭を見られる場所もです」
護衛の一人がシウォンを見る。
シウォンは短く付け加えた。
「鈴の音がする場所」
命を受けた者が走り去る。
茶屋。
菓子屋。
花を売る店。
珍しい装飾品を並べる店。
風鈴や小さな鳴り物を軒へ吊るした店。
インファが興味を持ちそうな場所へ、次々と人が送られた。
その間にも、文箱の中身が改められていた。
閔家へ届いた書状。
ソンジン個人へ宛てられた文。
面会を求めるもの。
返事を催促するもの。
贈り物へ添えられた挨拶。
家同士の取り決めに関するもの。
一通ずつ差出人を確認し、封の不自然なものを分けていく。
「要求を記したものは」
ソンジンが尋ねる。
「今のところ、ございません」
「金や人を求める文も?」
「ございません」
「脅しに使える言葉が一つでもあれば、別にしてください。洪家、縁談、娘、護衛。そのどれかに触れているものも」
閔家には敵が多い。
表向きは礼を尽くしながら、裏で足を引こうとする家。
ソンジンと兄の間へ争いを起こそうとする者。
洪家との縁談を利用しようとする者。
この機会に何かを要求してくるつもりなら、すでに文を寄越している可能性があった。
だが、脅迫状は見つからなかった。
インファを預かったと告げる文もない。
何かと引き換えに返すと書かれたものもない。
積み上げられた文の中に、一通だけ、海平尹氏の屋敷から届けられたものがあった。
ソンジン個人へ宛てた、ソアの文だった。
封には急ぎを示すものがない。
差出人も明らかで、危険を知らせる言葉も添えられていなかった。
仕分けをしていた者は、封を確かめると、それを私的な文の束へ重ねた。
今、優先すべきは、送り主の分からない文と、閔家の政敵に関わる書状である。
幼なじみから届いた私信は、緊急性のないものと判断された。
その文には、今日、インファを少し連れ出して話をするつもりだと書かれていた。
だが、まだ誰の目にも触れなかった。
捜索は続いた。
輿を止めたという報告が、次々と戻る。
「西の大路、確認を終えました。お姿はございません」
「南側の市場も、該当する輿はありません」
「無人の屋敷を三軒、小屋を五つ改めました。人が入った形跡はございません」
「花を扱う店、菓子屋、細工物の店にも、お見えではありません」
報告が届くたび、捜索範囲は広げられた。
最初に引かれた線の内側から、その外へ。
大通りから裏道へ。
人の多い場所から、人の寄りつかない場所へ。
それでも、インファの姿は見つからなかった。
一方、茶屋の離れでは――。
「まあ。では、お兄様からの赤い紐の鈴は、お受け取りにならなかったのですか?」
「はい」
インファは膝の上へ視線を落とした。
赤い紐の鈴が持つ意味については、先ほどソアへ説明したばかりだった。
春鈴祭で、想いを寄せる相手へ贈るもの。
これからも長く一緒にいたい相手へ贈る鈴。
インファがソンジンから鈴を差し出されたことまで話すと、ソアは当然のように、受け取ったのだと思っていたらしい。
「どうしてですか?」
ソアはすぐに尋ねた。
その声に責める響きはない。
ただ、分からないから知りたいという気持ちが、そのまま言葉になっていた。
インファは袖の端へ触れた。
「ソンジン様に、何か足りないところがあったわけではありません」
誠実で、優しい人だった。
話していれば楽しく、インファが困るようなことは無理に進めない。
洪家の事情にも、インファ自身の気持ちにも、きちんと心を配ってくれる。
縁談の相手として見れば、申し分のない人なのだと思う。
「ソンジン様は、とてもよい方です」
「でしたら、なぜ……」
ソアはそこまで言い、口を閉じた。
インファが答えを探していることに気づいたらしい。
大きな瞳だけが、静かに続きを待っている。
「分からないのです」
インファは小さく言った。
「あのとき、ソンジン様から赤い紐の鈴を差し出されて……受け取ろうと思えば、受け取れたはずなのに」
手を伸ばすことができなかった。
嫌だったわけではない。
ソンジンの想いを迷惑だと思ったわけでもない。
むしろ、受け取れないと伝える方が申し訳なかった。
それでも、初めて赤い紐の鈴を受け取る相手がソンジンになるのだと思った途端、胸の内に何かが引っかかった。
「今は、まだ受け取れないと思いました」
「なぜ、そう思われたのですか?」
インファは答えようとした。
けれど、言葉が見つからない。
ソンジンが嫌だからではない。
縁談が不満だからでもない。
初めての鈴を大切にしたいから――それだけなら、いつか受け取ればよい。
けれど、そういうことでもない気がした。
「うまく説明できません」
インファの指先が、袖をつまむ。
「ただ、ソンジン様から受け取ってはいけないような気がしたのです」
ソアは何も言わなかった。
インファは、自分の言葉を確かめるように続けた。
「それよりも……」
そこで、声が止まる。
頭に浮かんだのは、ソンジンから差し出された鈴ではなかった。
シウォンも、赤い紐の鈴を持っている。
実物を見たことはない。
誰から贈られたものなのかも知らない。
それなのに、その見たことのない鈴のことばかりが気になっていた。
「ほかの方が持っている赤い紐の鈴の方が、気になっているのです」
インファがそう言うと、ソアはすぐに目を輝かせた。
「その方は、インファ様にとって、どのような方なのですか?」
あまりにも真っすぐ尋ねられ、インファは言葉に詰まった。
少しは迷ったり、遠回しに聞いたりするものではないのだろうか。
けれど、ソアは答えを急かすこともなく、大きな瞳をインファへ向けている。
インファは膝の上の袖へ触れた。
「幼い頃から、ずっとそばにいる方です」
「幼い頃から?」
「はい。私が五歳の頃からです」
どのような人かと尋ねられると、簡単には答えられなかった。
寡黙で、表情がほとんど変わらない。
人の顔より先に手元を見て、どこへ行っても周囲ばかりを気にしている。
インファが少し道を外れれば、すぐに気づいて戻しに来る。
危ない場所へ近づけば止める。
転びそうになれば、転ぶ前に支える。
呼べば、いつも振り向く。
「とても真面目な方です。いつも私の半歩後ろにいて、何かあれば、誰より先に私と相手の間へ入ります」
「インファ様を、とても大切になさっているのですね」
インファは、すぐには答えなかった。
シウォンに尋ねれば、きっと特別なことではないように言う。
護衛ですから。
自分のすべきことをしているだけだと。
何を尋ねても、その言葉の後ろへ隠れてしまう。
「その方が赤い紐の鈴を持っていると、最近知りました」
「ご本人から聞かれたのですか?」
「はい。けれど、鈴を見せてもらったわけではありません」
誰から贈られたものなのか。
どうして今も持っているのか。
大切にしているのか。
尋ねたいことはいくつもあった。
それなのに、本人を前にすると、一つも口にできない。
「誰からもらったのか、聞いてみたいのです」
インファは袖をつまんだ。
「どうして持っているのかも。けれど、聞けません」
「なぜですか?」
「分かりません」
本当は、何も分からないわけではなかった。
尋ねて、その鈴が誰か大切な人から贈られたものだと知るのが怖い。
その誰かへ、同じ想いを返していると分かるのが怖い。
けれど、なぜ怖いのかまでは、考えないようにしていた。
「聞いてはいけないことのような気がするのです。私には関係のないことですから」
ソアは少し首を傾けた。
それから、何でもないことを告げるように言った。
「その方のことが、お好きなのですね」
「えっ」
インファが声を上げた。
ソアは、驚いた様子もなくインファを見ている。
「私でしたら、聞けない理由はそうなります」
「そう……なるのですか?」
「はい」
ソアは一度、膝の上へ視線を落とした。
「聞くのが怖いのは、その方の想い人が私ではないと、ご本人の口から聞きたくないからですわ」
先ほどまでと同じ、真っすぐな口調だった。
けれど、その目にはわずかな影が差している。
「私も、お兄様には聞けませんでした」
インファは何も言わず、ソアの続きを待った。
「好きだから、困らせたくないのです。私がそのようなことを尋ねれば、お兄様はきっと、どう答えるべきかお困りになります」
ソアの指先が、衣の上でゆっくりと重なった。
「それに、知らないままでいれば、ずっと好きでいられます」
声は明るさを保っていた。
けれど、笑ってはいなかった。
「今のままなら、お兄様はこれからもずっと、私に優しくしてくださいます。幼い頃からの妹のように、大切にしてくださいます」
ソアは顔を上げた。
「でも、私が何も聞かず、何も言わずにいた間に、インファ様との縁談が進んでいました」
インファの指が、袖の端で止まる。
ソアの大きな瞳が、まっすぐにインファを見つめていた。
責めているのではない。
自分のことを話しながら、インファにも同じことが起きるのではないかと心配している目だった。
「このまま黙っていたら、インファ様は、きっと取り返しがつかなくなってしまいます」
ソアは静かに尋ねた。
「それで、後悔いたしませんか?」
インファは、すぐには答えられなかった。
「ソア様は……後悔していらっしゃるのですか?」
「はい」
ソアは、今度は迷わなかった。
「聞かなかったことも、何も言わなかったことも、後悔しています」
「それでも、今からお尋ねになるのは怖くありませんか?」
「怖いです」
ソアは静かに答えた。
「ですが、知らないままでは、何も選べませんもの」
その頃、装身具店では――。
装身具店の表から、誰かが駆け込んでくる音がした。
通りを走る足音が店内を抜け、そのまま渡り廊下へ続く。
戸口に立っていた閔家の護衛が振り返った直後、閔家から知らせを受けたジュノが、宿から駆けつけてきた。
「インファは!」
息を切らしながら、庭の中を見回す。
返事の代わりに目に入ったのは、地図を囲む者たちと、縁台に積まれた文。
そして、土の上に立ち尽くすシウォンだった。
「まだ見つかっていません」
ソンジンが答えた。
ジュノの顔から血の気が引く。
だが、すぐにシウォンを見た。
「どこまで捜した」
「店を出た時刻から、輿で移動できる範囲はすべて調べている」
シウォンは地図を見たまま答えた。
「輿を降りた可能性を考えて、無人の屋敷や小屋にも人を出した。お嬢様が立ち寄りそうな店も――」
言葉が一度止まる。
「だが、いない」
声は平静だった。
少なくとも、聞こえ方だけは。
「俺が、目を離した」
シウォンの指先が、地図の端を強く押さえた。
「店の中だった。乳母殿もいた。奥の部屋に入っただけだと思った」
誰に説明しているのか分からない。
ジュノにも、ソンジンにも聞こえていた。
けれど、シウォンの目には、そのどちらも映っていなかった。
「先に出入口を確認するべきだった。隣の建物へ続く戸があることも、輿が入れる内庭があることも――」
「シウォン」
ジュノが呼んだ。
返事はない。
「店へ入る前に、周囲を調べておくべきだった。俺が外へ出なければ」
「おい」
「もし、どこかで輿を乗り換えていたら、もうこの範囲にはいない。馬を使われていたら――」
地図の上を、シウォンの指が動く。
先ほどまで捜索範囲を正確に割り出していた指だった。
今は、印のない道まで追っている。
北の門。
東の橋。
町の外へ続く街道。
確かなものではない。
考えられる限りの最悪を、一つずつ拾い上げていた。
「俺が見失った」
シウォンが繰り返した。
「俺が傍にいたのに」
ジュノは地図を回り込み、シウォンの正面へ立った。
それでも、シウォンは顔を上げない。
「シウォン!」
ジュノがシウォンの目の前で両手を打った。
ぱん、と乾いた音が内庭へ響く。
シウォンの瞳が、初めてジュノを捉えた。
「よく考えろ」
ジュノは低い声で言った。
走ってきたため、まだ肩が上下している。
それでも、言葉だけは一つずつ、シウォンへ届かせるように区切った。
「インファは、あのことがあってから知ってる。お前が、自分に何かあったら、命だって懸けるやつだって」
シウォンの目が、わずかに動いた。
「あのこと?」
ソンジンが尋ねた。
ジュノはそちらを見なかった。
「そんなインファが、自分から店を出たんだ」
シウォンだけを見て続ける。
「誘拐だの、閔家の敵だのと決めつける前に、もっと単純な可能性も考えろ」
「だが、安全だという根拠はない」
「今のお前は、考えられる危険を片端から膨らませてるだけだ」
ジュノが言い切った。
「インファは、お前に心配をかけることになるなんて微塵も思ってない。思ってたら、黙って出ていくはずがないだろ」
シウォンは何も言わなかった。
「自分がいなくなればお前がどうなるか、分かっていて出ていったわけじゃない。まさか、お前がここまで大騒ぎするとも思ってない」
ジュノは地図の上を指した。
町の門。
人気のない屋敷。
隠れ場所になりそうな小屋。
インファが自分から向かうとは思えない場所ばかりだった。
「もっと単純な話のはずだ」
内庭が静かになった。
通りの向こうから、人々の声が聞こえている。
店の軒に下がった小さな飾りが風に触れ、かすかな音を立てた。
シウォンは地図へ目を落とした。
店に争った跡はない。
乳母も一緒にいる。
インファは、自分の足で奥の部屋を出た。
相手を疑っていなかったからこそ、ついていったのだろう。
そして、自分がこれほど心配するとは思っていなかった。
そこまで考え、シウォンの指から力が抜けた。
大きく息を吸う。
先ほどまで浅くなっていた呼吸が、ゆっくりと戻っていく。
「……そうだ」
シウォンが言った。
もう一度、地図を見る。
今度は恐れに押し流されるのではなく、そこにある道を確かめる目だった。
「お前の言うとおりだ」
ジュノは短く息を吐いた。
そのやり取りを見ていたソンジンが、静かに口を開いた。
「先ほどの、あのことというのは?」
ジュノが振り返る。
尋ねられて初めて、ソンジンがその場にいることを思い出したような顔をした。
「ああ……以前、インファが熊に襲われたことがあったんです」
ソンジンの目がわずかに見開かれる。
「熊に?」
「シウォンが間に入って、身体で守りました」
ジュノは簡潔に答えた。
「背中を深くやられて、あと少し傷が深かったら死んでたそうです。それでもこいつ、ほかの護衛が駆けつけるまで、インファを腕の中から離さなかった」
ソンジンは、シウォンを見た。
シウォンはすでに地図へ向き直り、インファが向かった可能性のある道を洗い直している。
先ほどまでの取り乱した姿は消えていた。
けれど、それは恐れが消えたからではない。
恐れを抱えたまま、インファを見つけるために動こうとしているのだ。
ソンジンは、自分が春鈴祭で差し出した赤い紐の鈴を思い出した。
インファを大切にすると告げた。
誠実に向き合うつもりだった。
けれど、この男は、言葉にするより先に、すでに命を懸けていた。
必要になれば、この男は何度でも命を懸けるだろう。
――敵わない。
ソンジンは、初めてそう思った。
シウォンは、もう一度地図へ目を落とした。
「だが、どこを探せばいい」
声から焦りは消えていた。
代わりに、行き先を定められない苛立ちが残っている。
インファは自分の意思で店を出た。
危険を感じていたわけではない。
それならば、連れ出した相手を知っていたか、少なくとも警戒する必要がないと思ったのだろう。
そこまでは分かった。
だが、相手が誰なのかが分からない。
「店の者は、若い女性たちだったと申していました」
ソンジンも地図を見ながら言った。
「身なりは整っていたそうですが、家紋の分かるものは身につけていなかった。輿にも印はなかった」
「店員が顔を覚えている。似顔を作らせて、門と大路へ――」
「それには時間がかかります」
ソンジンが答える。
「では、先に立ち寄りそうな場所をもう一度――」
二人は再び地図へ向かった。
菓子屋。
花を扱う店。
鈴や装飾品を置く店。
庭のある茶屋。
インファが興味を持ちそうな場所を、一つずつ拾い直そうとしている。
ジュノは二人を見た。
この朴念仁どもが。
喉まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。
インファが好きそうな物ばかり考えている。
だが、今日のインファは、一人で鈴を追いかけて店を出たのではない。
誰かに連れ出されたのだ。
しかも、女性に。
ジュノは一度息を整えた。
相手は驪興閔氏の次男である。
これから口にしようとしていることが、どれほど無礼かは分かっていた。
それでも、今は礼を守って黙っている場合ではない。
「閔公子」
「何でしょう」
「失礼を承知で、伺ってもよろしいでしょうか」
ソンジンが顔を上げた。
ジュノの改まった口調に、わずかに目を細める。
「どうぞ」
「女性関係です」
内庭が静かになった。
地図へ印をつけていた護衛の手が止まる。
ソンジンは一度だけ瞬きをした。
シウォンがジュノを見る。
「何の話だ」
「お前は黙ってろ」
ジュノは即座に返し、再びソンジンへ向き直った。
「インファを連れ出したのは、女性だったんですよね」
「店の者の話では、そのようです」
「なら、閔家の政敵だの、縁談を利用した策略だのと、大げさな方へばかり考えなくてもいいんじゃないですか」
ソンジンは黙って続きを待った。
「もっと個人的な理由かもしれない」
ジュノは言った。
「以前、閔公子と縁談の話があった方。今も閔公子へ想いを寄せている方。あるいは、閔公子から好意を向けられたと思い込んでいる方」
ソンジンの表情が、わずかに固まった。
「嫉妬で、インファへ何か言おうとしたのかもしれません。傷つけるつもりまでなくても、直接確かめたいと思って、連れ出した可能性はあるでしょう」
「私の、過去の縁談相手が?」
「過去に限りません」
ジュノは容赦なく続けた。
「今、閔公子へ懸想している女性もです」
ソンジンが扇を持つ手を止める。
「思い当たる方を挙げてください」
「そう申されましても」
「一人もいないとは言わせませんよ」
ソンジンは困ったようにジュノを見た。
その顔を見て、ジュノは確信した。
一人も思い当たらない顔ではない。
どこまでを思い当たる相手に含めればよいのか、本気で迷っている顔だった。
「縁談のお話であれば、正式に進む前に断られたものも含め、いくつかはありました」
「相手の家と名前を」
ジュノが言うと、閔家の家人がすぐに紙を用意した。
「ですが、そのような方に誘われて、インファ様がついていくでしょうか」
ソンジンが疑問を口にした。
「初対面の相手を、理由も聞かずに信用する方ではないでしょう」
「『若様からお名前を伺っています』とか、『若様には連絡してあります』と言われたら、ついていきますよ」
ジュノは迷わず答えた。
ソンジンがわずかに目を見開く。
「ましてや、相手が女性ならなおさらです。これから縁談を結ぶかもしれない相手に、以前どんな縁談があったのか、今も想いを寄せている女性がいるのか。好きかどうかに関係なく、気になって当然でしょう」
ジュノは断言した。
「そんな相手が訪ねてきて、『若様のことで、お耳に入れておきたいことがございます』とでも言えば、インファなら絶対についていきます」
シウォンの眉間に、深い皺が刻まれた。
ソンジンは記憶をたどりながら、いくつかの家名を挙げた。
父同士で話が出ただけの家。
仲介を通して意向を探られた家。
宴席で何度か言葉を交わした令嬢。
贈り物や文を受け取ったことのある相手。
「ほかには?」
ジュノが尋ねる。
「ほか、と申されましても」
「閔公子がどう思っていたかではありません。相手がどう思っていたかです」
ソンジンが黙り込む。
ジュノは額を押さえたくなった。
隣を見ると、シウォンも真剣な顔でソンジンの答えを待っている。
やはり、どちらも同じだった。
「今朝から届いた文の中に、女性からのものはありませんでしたか」
ジュノが家人たちへ尋ねた。
「脅迫や要求のない文は、私的なものとして分けております」
文箱を調べていた者が答えた。
「もう一度、すべて改めてください。女性から届いたものか、女性の名義で送られたものがあれば、内容に関係なくこちらへ」
家人たちが積み分けた文へ向き直る。
封に記された名。
添えられた印。
届けた家。
一通ずつ、先ほどとは別の基準で確かめていく。
正式な縁談に関するもの。
宴への誘い。
季節の挨拶。
贈り物への礼。
家人は、先ほど私的な文として分けた束へ手を伸ばした。
その中から、一通の文が取り上げた。
「若様」
家人が封を確かめ、ソンジンへ差し出す。
「海平尹氏のお屋敷から届いた文がございます」
ソンジンが顔を上げた。
封には、よく見知った筆跡で名が記されていた。
尹瑞雅。
ソアからの文だった。




