第二十章 無邪気な風の行方
朝の支度は、すぐに終わった。
乳母がインファの帯を整え、髪へ小さな花の簪を挿す。
乳母は鏡台の端に置かれていた小さな鈴を取り上げた。
銀色の、飾り気の少ない鈴だった。
淡い青い紐の先へ結ばれ、歩けば帯の脇でわずかに揺れるようになっている。
十五歳の春鈴祭で、シウォンが買ってくれたものだった。
「こちらも、お付けになりますか」
「うん」
インファがうなずくと、乳母は淡い青い紐を帯飾りへ結びつけた。
衣の上で小さく揺れ、澄んだ音が一度だけ鳴る。
――りぃん。
インファは鏡の中の鈴へ目を向けた。
漢陽には、見たことのないものがたくさんある。
けれど今日は、知らない町の中へ、洪家の春を一つだけ連れていくような気がした。
今日の衣は、漢陽まで持ってきたものの中から選んだ淡い青緑色だった。
町へ出るため、旅の衣よりは整っている。
だが、客を迎える日の礼装ほど華やかではない。
ソンジンと町を歩くからといって、彼に見せるために着飾るようなことは、なんとなくしたくなかった。
「お支度が整いました」
乳母の言葉に、インファは鏡の前を離れた。
窓の外から、漢陽の朝の音が聞こえている。
道を行き交う人の声。
荷車の車輪。
品物を売る者の呼び声。
洪家の町より早く、途切れることがない。
廊下へ出ると、シウォンが待っていた。
黒い護衛服に刀を帯び、柱の近くへ立っている。
インファが部屋を出る前から、廊下の先と庭の両方を見ていたらしい。
「待った?」
「いいえ」
シウォンの視線が、インファの帯と足元を確かめるように一度動く。
「今日は人が多いそうです。私から離れないでください」
「分かってるよ」
「店に気を取られてもです」
インファは少しだけ頬を膨らませた。
「まだ宿も出ていないのに」
シウォンは答えず、半歩後ろへ下がった。
「閔公子がお見えです」
宿の門前には、ソンジンが立っていた。
淡い灰色の衣に、深い青の帯を締めている。
手には、いつもの扇があった。
ソンジンは一人で来たように見えた。
少なくとも、目に見えるところに供の姿はなかった。
けれど、閔家の護衛が本当に誰もついていないとは、シウォンも思っていなかった。
「おはようございます、インファ様」
ソンジンが礼をする。
「おはようございます」
インファも礼を返した。
昨日、父はソンジンに、滞在中に縁談の返事をすると告げた。
そして、互いを知る時間を持つことも許した。
今日の外出は、そのためのものだった。
もっと緊張するかと思っていた。
けれど、目の前に立つソンジンは、文を送ってきたときとも、春鈴祭をともに歩いたときとも変わらない。
穏やかに笑い、インファが返事に困るほど改まった態度を取ることもなかった。
「文に書いた場所を、ご案内するとお約束しましたから」
ソンジンが言った。
「今日はその中から、一つだけお見せします」
「一つだけですか」
「一日ですべて回れば、日が暮れても宿へ戻れません」
「そうでしたね、たくさん教えていただきました」
「書いていない場所もございます」
ソンジンが柔らかく目を細め、扇を開く。
「残りは、また次の機会に」
次があることを疑わない言い方だった。
インファは答えず、宿の外へ目を向けた。
乳母がインファの後ろにつき、シウォンはさらにその後ろを歩く。
漢陽の通りへ出ると、人の流れがすぐ近くを通り過ぎた。
鮮やかな布を肩へ掛けた商人。
筆や紙を入れた箱を背負う者。
野菜を載せた籠を両手に提げた女性。
役所へ向かうらしい役人の一団。
道の両側には店が連なっていた。
陶器。
扇。
紙。
薬草。
菓子。
店先へ並ぶ品の多さも、客を呼び込む声の大きさも、洪家の町とはまるで違っている。
インファは右へ左へと視線を移した。
色鮮やかな扇が並ぶ店の前では足を緩め、細かな絵の描かれた陶器を見つけると、思わずソンジンの袖へ手を伸ばしかけた。
けれど、人目のある通りで殿方の袖を引くのは、令嬢らしい振る舞いではない。
そう思い直して手を引いたものの、目を輝かせた表情までは隠せなかった。
「漢陽には、こんなにたくさんのお店があるのですね」
声にも、抑えきれない弾みが混じっている。
菓子を焼く甘い匂いが流れてくればそちらを振り返り、軒先に珍しい飾りを見つければ、通り過ぎたあとまで名残惜しそうに目で追った。
歩みこそ止めなかったが、インファの心は、とうに店から店へ駆け回っているようだった。
シウォンはインファが見ているものではなく、その周囲を見ていた。
店から出てくる者。
道を横切ろうとする荷車。
人と人との間に生まれる狭い隙間。
インファが漢陽の町へ目を奪われている間、シウォンの視線は一度も止まらなかった。
「漢陽はいかがですか」
ソンジンが尋ねる。
「思っていたより、ずっと賑やかで楽しいです」
インファは店先を眺めながら笑った。
「見たいものが多すぎて、どこから見ればよいのか迷ってしまいます」
「その笑顔を拝見できただけでも、ここへお連れした甲斐がありました」
そう言って、ソンジンは嬉しそうに微笑んだ。
インファが少し目を見開く。
「私には見慣れた町ですが、インファ様と一緒に歩くと、まるで初めて見る場所のように感じます」
インファはすぐには答えず、賑わう通りへ目を向けた。
その横顔には、わずかな照れが浮かんでいた。
「生まれたときから見ている町なのに、不思議なものですね」
ソンジンも通りの先を見る。
「もっとも、しばらく離れて戻ると、以前より騒がしくなったように感じることもあります。人が増えたのか、私が静かな場所に慣れたのかは分かりませんが」
「洪家の町は、静かでしたか」
「はい」
ソンジンの目元が柔らかくなる。
「鈴の音が、遠くからでも聞こえる程度には」
その言葉のあとを追うように、どこかで澄んだ音がした。
――りん。
インファが顔を上げる。
店の軒に吊るされた、小さな金属飾りが揺れていた。
ソンジンは、その様子を見て微笑んだ。
「今日お連れする店にも、鈴がございます」
「鈴を扱う店なのですか」
「装身具や細工物を扱う店です。特に金属の細工で名を知られています」
「それで、私を?」
「お気に召すと思いました」
道を一本曲がると、先ほどまでの喧騒が少し遠ざかった。
大通りほど人は多くないが、両側に並ぶ店の造りは整っている。
高価な布や書画、装身具などを扱う一帯らしい。
ソンジンは、その中の一軒で足を止めた。
間口は広くない。
だが、戸口の木枠には花と鳥の彫りが施され、磨かれた金具が光を受けている。
軒下には、銀色の小さな鈴が一つ吊るされていた。
風が通る。
――りぃん。
先ほど聞こえたものより、細く長い音だった。
店へ入ると、主人らしい年配の男が深く頭を下げた。
「閔公子。お待ちしておりました」
「急なお願いをして、申し訳ございません」
「とんでもございません。奥も整えてございます」
店主はソンジンの後ろへ視線を向け、インファへ改めて礼をした。
「どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
店の中には、低い卓と棚が置かれていた。
簪。
櫛。
衣の紐へ下げる飾り。
小さな玉を連ねたもの。
銀の板を花の形へ打ち出したもの。
一つひとつが布の上へ並べられている。
店の奥に近い棚には、いくつもの鈴が下げられていた。
丸いもの。
花の蕾のようなもの。
銀色のものもあれば、わずかに金を帯びたものもある。
インファが近づくと、店主が棚から一つを外した。
「こちらは、春に作ったものでございます」
薄い銀の花弁が、幾重にも重ねられている。
中央には小さな鈴が収められていた。
店主が掌の上で揺らす。
――りん。
柔らかな音だった。
「花の形をしているのに、よく響くのですね」
インファは細工を受け取り、裏側を確かめた。
「板が薄いからでしょうか」
「おっしゃるとおりでございます。厚くすると形は保ちやすくなりますが、音が重くなります。こちらは衣へ下げるものですので、なるべく軽く仕上げております」
「形を崩さず薄くするのは、難しそうです」
店主の顔に笑みが浮かんだ。
「細かなところまでご覧になる」
インファは別の鈴へ目を移した。
同じほどの大きさでも、音は一つずつ違っていた。
高く短い音。
深く残る音。
わずかに二つの音が重なるもの。
片端にあった飾り気の少ない鈴を手に取る。
振ると、澄んだ音が店の奥までまっすぐに届いた。
――りぃん。
インファは振り返った。
シウォンは戸口に近い壁際へ立っていた。
店へ入ってから一度も、品物のそばへは来ていない。
通りと店内、奥へ続く廊下を順に見ている。
「この音は、よく聞こえる?」
インファが鈴を示す。
シウォンの視線が、ようやく鈴へ向いた。
「はい」
「離れていても?」
「今の距離であれば」
音の美しさではなく、届く距離を確かめる答えだった。
インファは鈴へ目を戻した。
十年前も、シウォンはそうだった。
鈴を選ぶとき、かわいいか、きれいかではなく、どこまで音が届くかを考える。
護衛らしい答えだと思う。
それでも、シウォンが選ぶのは、いつもインファが好きになる音だった。
「こちらも、ご覧になりますか」
ソンジンが声を掛けた。
卓の上に、銀の枝をかたどった髪飾りが置かれている。
枝の先には白い花が三つ並び、そのうちの一つから、小さな鈴が下がっていた。
歩けば、わずかに揺れるように作られている。
「鈴がついていますね」
「それだけでお勧めしたわけではございません」
ソンジンが髪飾りを持ち上げる。
「花の色が、今のお衣によく合うかと」
インファは髪飾りと自分の袖を見比べた。
白い花の縁には、ごく薄い青が入っている。
たしかに、今日の衣とはよく馴染みそうだった。
「お目が高い」
店主が言う。
「こちらは、髪へ挿した方が細工の形がよく分かります。よろしければ、奥でお試しください」
店主が女性の店員を呼んだ。
「衣も、何点かご用意してございます。髪飾りに合わせてご覧いただけます」
店の奥には、女性客が髪や衣を整えるための部屋が設けられているという。
インファは乳母を見る。
乳母は髪飾りを確かめ、一度うなずいた。
「では、拝見いたしましょう」
女性店員が髪飾りを受け取り、奥へ続く廊下を示した。
インファが進もうとすると、シウォンが壁際から離れた。
「奥には、どなたが」
店主が少し驚いたように振り返る。
「当店の女の者だけでございます」
「裏から通りへ出る戸は」
「裏に、女性のお客様がお帰りになるための戸がございます。表の殿方と顔を合わせずに済むよう設けております」
店主はすぐに続けた。
「ですが、店の者が必ず付き添います。ご心配には及びません」
シウォンは奥へ目を向けた。
短い廊下の先に衝立が置かれ、その向こうは見えない。
「お嬢様がお戻りになるまで、ここで待つ」
「承知しております」
店主は深く頭を下げた。
インファはシウォンを見た。
「髪飾りを合わせるだけ」
「はい」
「すぐ戻るよ」
シウォンは答えず、廊下とインファを一度ずつ見た。
乳母が付き添う。
店の女性もいる。
裏の戸を使う際にも、店の者が必ず知らせると店主は言った。
シウォンは一歩下がった。
「何かあれば、お呼びください」
インファはうなずき、乳母とともに奥へ入った。
衝立の向こうには、小さな中庭があった。
庭を囲むように二つの部屋があり、片方には衣桁と大きな鏡が置かれている。
もう片方の戸は閉まっていた。
女性店員は、インファを鏡の前へ案内した。
乳母が後ろへ立ち、今つけている簪を抜く。
「少し結い直した方がよろしゅうございますね」
「時間がかかりますか」
「すぐでございます」
女性店員が鏡台の脇を整えていた。
そのとき、向かいの部屋の戸が開いた。
鮮やかな朱色の袖が見えた。
続いて、一人の若い女性が部屋から出てくる。
艶のある黒髪。
整った顔立ち。
身につけている衣も、髪の飾りも、一目で名家の娘と分かるものだった。
黙っていれば落ち着いた令嬢に見えたかもしれない。
だが、その大きな瞳は、インファを見つけた瞬間にはっきりと輝いた。
女性は二歩進み、思い出したように足を止めた。
それから、改めて深く礼をする。
「初めてお目にかかります」
インファは椅子から立ち上がった。
女性の後ろには、年長の女性と若い侍女が一人ずつ控えている。
「ユン・ソアと申します」
その名を聞き、インファは目を見開いた。
ソンジンの文に書かれていた名前だった。
幼い頃から親しくしている、海平尹氏の令嬢。
明るく、好奇心が強く、自分と少し似ているという女性。
「ソア様」
インファが呼ぶと、ソアの顔がさらに明るくなった。
「私のことをご存じなのですか」
「ソンジン様から届いた文に、お名前がありました」
「どのように書かれていました?」
尋ねてから、ソアは後ろの年長の女性に見られていることへ気づいたらしい。
表情を整え、もう一度姿勢を正す。
「失礼いたしました。ホン・インファ様でいらっしゃいますね」
「はい」
「お会いできるのを、楽しみにしておりました」
嘘ではないことが、その顔を見れば分かった。
隠すことが苦手なのだろう。
好奇心も、期待も、少しの緊張も、すべて目に表れている。
乳母がソアと、その後ろの二人を順に見た。
「本日のことは、閔公子から?」
ソアが乳母へ顔を向ける。
「ソンジンお兄様から、インファ様がこちらのお店へいらっしゃると聞きました」
それも、迷いのない答えだった。
「いつか、きちんとご紹介すると伺っております」
乳母の表情から、わずかに警戒が解ける。
ソンジンの文には、実際にそのように書かれていた。
インファも読んでいる。
乳母にも、その話をした覚えがあった。
「それで、奥でお待ちになっていたのですか」
「はい」
ソアはうなずいた。
「表から入れば、ソンジンお兄様に見つかってしまいますから」
「見つかってはいけないのですか」
インファが尋ねる。
「いけないわけではありません」
ソアは少し考えた。
「ただ、お兄様が間に入る前に、インファ様とお話ししてみたかったのです」
あまりにも率直な答えだった。
インファは思わず笑いそうになり、口元を押さえた。
ソンジンが文に書いていたとおりの人なのかもしれない。
周りが止める前に動く。
そして、動いたあとで何を説明するべきか考える。
「お嬢様」
ソアの後ろにいた年長の女性が、控えめに声を掛ける。
「まずは、お掛けいただいた方がよろしいのでは」
「そうでした」
ソアが鏡の前の椅子を示す。
「どうぞ、お座りください」
「こちらは、私がお借りしている部屋です」
インファが言うと、ソアは目を瞬いた。
「そうですね」
それから、また笑った。
初めて会った相手にも、昔から知っているように向けられる笑顔だった。
女性店員は、突然現れた客に困っているようだった。
だが、ソアたちの衣や立ち居振る舞いから、無理に部屋を出るよう言うこともできないらしい。
「お髪を整えるため、櫛を取ってまいります」
女性店員はそう告げると、中庭を渡り、表の間へ続く廊下の向こうへ姿を消した。
「少し場所を変えて、お話ししませんか」
ソアは中庭の奥にある戸口へ目を向けた。
「この近くに、静かにお話しできる部屋を借りています。お茶をいただく間だけでも、いらしていただけませんか」
乳母の眉がわずかに動く。
「閔公子も、そのことをご存じなのでございますか」
「こちらへ来る前に、ソンジンお兄様へ文を届けさせました」
ソアは迷いなく答えた。
「今日ここでインファ様にお会いすることも、そのあと少しお連れすることも、書いてあります」
「では、もう閔公子のお手元へ?」
「ええ。もう届いていると思います」
ソアが答えると、後ろに控えていた年長の女も頭を下げた。
「使いは、確かに閔家へ向かわせております。閔公子にもお話が通っているものと、私どもは承知しております」
使いが閔家へ着いたときには、ソンジンはすでに洪家の宿へ向かったあとだった。
その文は今も、ソンジンの帰りを待っている。
だが、ここにいる者たちが、それを知るはずもなかった。
乳母は少し考えた。
ソンジンは以前から、ソアをインファへ紹介したいと文に書いていた。
ソア本人も、何一つ隠している様子はない。
尹家の者たちも、ソンジンへ知らせが届いていると信じている。
ソンジンにもすでに知らせが届いているのなら、改めて表へ戻って許しを求める必要はないように思えた。
「長くは滞在できません」
乳母が言った。
「旦那様がお戻りになる前に、宿へ戻らなければなりませんので」
「もちろんです」
ソアはすぐにうなずいた。
「少しお話しするだけです」
その言葉にも、偽りはなかった。
少なくとも、今のソアはそのつもりだった。
「インファ様はいかがですか」
インファは、向かいに立つソアを見た。
ソンジンが、きっと気が合うと書いていた女性。
いつか会ってみたいと思っていた相手が、目の前にいる。
「少しだけでしたら」
そう答えると、ソアの目元が柔らかく下がった。
「ありがとうございます」
髪飾りを合わせることは、あとになった。
乳母は鏡台へ置いていた簪を取り、インファの髪へ挿し直した。
女性店員はまだ戻ってこない。
ソアたちは中庭の奥へ向かった。
そこにあるのは、通りへ出る裏戸ではなかった。
壁際の戸を開けると、屋根のついた細い渡り廊下が現れた。
装身具店と、隣の建物の内庭をつなぐ通路だった。
身分ある女性客を、人目に触れさせず出入りさせるために使われるものだという。
渡り廊下の先には、壁に囲まれた小さな庭があった。
覆いを掛けた輿が二つ、すでに用意されている。
店の表からも、裏手の路地からも、この庭は見えなかった。
インファと乳母が一つの輿へ乗る。
ソアはもう一つへ向かいかけたが、途中で足を止めた。
「インファ様とご一緒してもよろしいですか」
乳母が輿の中を確かめ、インファの隣へ移る。
ソアはインファの正面へ乗り込んだ。
戸が閉じられる。
「参ります」
外から声が掛かり、輿が持ち上がった。
庭の門が開く。
その門が面しているのは、装身具店のある通りとも、店の裏路地とも異なる道だった。
輿は店の周囲を離れ、ソアが借りた茶屋の離れへ向かって進み始めた。
インファたちが輿へ乗ったことは、表で待つソンジンとシウォンには知られないままだった。
表の間では、ソンジンが店主の勧めた茶を口へ運んでいた。
シウォンは座らず、奥へ続く廊下が見える場所に立っている。
「漢陽へいらしたのは、初めてですか」
ソンジンが尋ねた。
「はい」
「道は、もう覚えられましたか」
「宿からここまでは」
「一度で?」
「必要ですので」
ソンジンは茶碗を置いた。
「洪家のご主人が、あなたを同行させた理由が分かります」
シウォンは答えなかった。
店の中では、客が増え始めていた。
女性たちの声。
棚から品を下ろす音。
店員が細工について説明する声。
その中で、奥からインファの声は聞こえてこなかった。
髪を結い直し、衣を何点か合わせるのであれば、不自然な長さではない。
乳母もいる。
店の女性もついている。
奥は女性客のために設けられた場所である。
護衛だからといって、理由もなく踏み込むことはできない。
それでも、シウォンは何度も廊下へ目を向けた。
やがて、髪飾りを一つ試すだけにしては長いと思えるほどの時が過ぎた。
シウォンは近くを通った女性店員を呼び止めた。
先ほど、インファを奥へ案内した女性だった。
手には櫛を持っている。
「お嬢様の支度は、まだ終わらないのか」
女性店員は目を瞬いた。
「まだ、お部屋にいらっしゃるのでございますか」
シウォンの目が止まる。
「どういう意味だ」
「私は櫛を取りに出たあと、別のお客様に呼び止められてしまいまして……」
女性店員は奥へ目を向けた。
「もう、表へお戻りになったものとばかり」
店主が会話に気づき、近づいてくる。
「何の話だ」
「洪家のお嬢様が、まだ奥にいらっしゃるのかと」
「確認しろ」
店主に命じられ、別の女性店員が奥へ向かった。
ほどなくして、青ざめた顔で戻ってくる。
「どなたも、いらっしゃいません」
ソンジンが立ち上がった。
「いない?」
「鏡の間も、隣のお部屋も空でございます」
シウォンは女性店員を見る。
「裏の戸口は」
「ございます」
「誰かが出るところを見た者は」
店主が店の者たちを見回した。
隣の内庭へ通じる戸を任されていた女性が、おそるおそる前へ出る。
「身分のあるらしい女性の方々と、ご一緒に出られました」
シウォンの視線が、女性店員の顔で止まった。
「いつです」
普段と変わらない低い声だった。
ただ、問い返すまでの間がなかった。
「奥へ入られてから、ほどなくしてでございます。先にお待ちだった方々と、向こうの戸口から……」
女性店員が奥を示す。
シウォンはすぐに歩き出した。
店主が声を掛けるより先に衝立を越え、中庭へ出る。
鏡の前には、インファが試すはずだった髪飾りが残されていた。
小さな鈴が、入ってきた風に揺れる。
――りん。
「お嬢様」
シウォンが呼んだ。
声は大きくなかったが、中庭の隅々まで届いた。
返事はない。
鏡の間を確かめ、隣の部屋の戸を開ける。
誰もいなかった。
遅れて中庭へ入ったソンジンも、すぐに室内を見回した。
鏡台に残された髪飾り。
開いたままの箱。
人の気配が消えた二つの部屋。
その顔から、笑みが消えた。
手にしていた扇を閉じる。
いつもなら音を立てない動作だったが、パチリと扇の骨が乾いた音を立てて重なった。
「こちらの戸は、どこへ通じているのですか」
ソンジンが店主へ尋ねる。
口調は穏やかなままだった。
しかし、店主が答えるより先に、シウォンは戸へ手を掛けていた。
「隣の建物の内庭でございます」
店主が慌てて続ける。
「身分ある女性のお客様が、人目を避けて出入りなさるための通路で――」
戸の先には、屋根のついた細い渡り廊下があった。
シウォンは説明を聞き終える前に進んだ。
走ってはいない。
だが、ソンジンが追いつくためには、普段より歩幅を広げなければならなかった。
渡り廊下の先には、壁に囲まれた内庭がある。
人の姿はなかった。
土の上に、輿を置いていたらしい跡だけが残っている。
庭の門は開いていた。
シウォンは門の外へ出る。
道は少し先で二つに分かれ、そのどちらにも人と荷車が行き交っていた。
輿の姿はない。
右へ目を向ける。
次に左。
もう一度、右。
どちらにも、インファの姿はなかった。
「店を出てから、どれほど経っています」
ソンジンが、後ろから来た女性店員へ尋ねた。
女性は胸元で手を重ね、記憶をたどる。
「奥へお入りになって、さほど経たないうちにお出になりました。ですから……」
言葉を濁し、表の間の方を見る。
インファが髪や衣を整えていると思い、二人が待っていた時間。
その間、インファたちはすでに漢陽の町を進んでいたことになる。
ソンジンの指が、閉じた扇を強く握った。
「お連れになった方について、覚えていることをすべて教えてください」
女性店員はうなずいた。
「お若いご婦人でございました。お供は、年長の女性の方と侍女らしい方が一人ずつ。皆様、身なりの整った方々で……」
「名や家を示すものは」
「見当たりませんでした。こちらでは、身分を伏せてお越しになるお客様もいらっしゃいますので」
ソンジンは短く息を吐いた。
叱責する言葉はなかった。
代わりに、問いを重ねる速度だけが少しずつ速くなった。
「行き先について、何か話してはいませんでしたか」
「近くの別邸へ、とだけ」
「どちらの別邸かは」
「申し訳ございません」
女性店員が深く頭を下げる。
「お嬢様は、嫌がっておられましたか」
今度はシウォンが尋ねた。
「いいえ。乳母様もご一緒でございました。お知り合いの方だと思いまして……」
シウォンの顎に、わずかに力が入った。
インファだけではない。
乳母も疑わず、共に輿へ乗った。
相手には、二人を信じさせるだけの理由があった。
シウォンは門の外へ顔を戻す。
拳を握り、すぐに開いた。
「お嬢様は、知らない者へ理由もなくついていく方ではありません」
「乳母殿も同じです」
「はい」
シウォンの返事は短かった。
「相手を知っていたか、私たちからの使いだと思ったか」
ソンジンの表情が固くなる。
「私の名を使われた可能性があります」
シウォンの目が動いた。
一瞬だけソンジンを見る。
責める視線ではなかった。
だが、ソンジンは閉じた扇を握る手へ、さらに力を込めた。
「いるか」
店の表へ向けた声は大きくなかった。
ほどなくして、人波の中から地味な衣の男が姿を現した。
閔家の護衛だった。
「隣の門から出た輿を見たか」
「はい」
迷いのない答えだった。
「その輿に、インファ様が乗っているとは思わなかったのか」
「輿の中までは確かめておりません。隣の建物を出た女性客の一行と見受けました。年長の女も付き添い、争う様子もなく、若様への脅威ではないと判断いたしました」
ソンジンは短く息を吐いた。
護衛を責める言葉はなかった。
その判断は、与えられた役目の中では間違っていない。
「どこへ向かったかは」
「確認しておりません。若様への脅威ではないと判断したため、それ以上は追いませんでした」
ソンジンは一度、目を閉じた。
インファを乗せた輿が、護衛の視界を通り過ぎていた。
それでも、その行き先は分からない。
「まず、誰が今日の予定を知っていたのか確かめてください」
シウォンが言った。
「分かりました」
ソンジンは護衛へ向き直る。
「閔家へ戻り、今日の予定を知っていた者を確かめろ。私のもとへ届いた文も、すべて調べてくれ」
「承知いたしました」
護衛が人波へ姿を消す。
「俺はこの門から先を確認します」
シウォンはすでに門の外へ目を向けていた。
「私も参ります」
ソンジンが答える。
二人はすぐに動き出した。
人目を集めぬよう走りはしなかった。
だが、人波へ入った途端、その歩調はほとんど駆けるのと変わらない速さになった。




