第十九章 見たことのない顔
翌朝、閔家へ使いに出ていた尹家の家人が戻り、洪家の宿を訪ねたソンジンが前日の夕刻に閔家へ戻ったと告げた。
その知らせを聞いた瞬間、ソアは立ち上がった。
膝の上に載せていた刺繍枠が傾き、途中まで縫った花の上を針が滑る。
「あっ」
隣に座っていた侍女が、落ちかけた刺繍枠を慌てて受け止めた。
「お嬢様、針がついております」
「ありがとう。そこへ置いておいて」
「まだ半分も終わっておりませんが」
「続きはあとでします」
ソアはすでに戸口へ向かっていた。
「お嬢様、どちらへ」
「閔家です」
「今からでございますか?」
「ソンジンお兄様に、お聞きしたいことがあるの」
裾を翻し、ソアは侍女を振り返った。
「すぐに輿の支度をしてちょうだい」
尹瑞雅――ユン・ソアは、漢陽でも名の知られた海平尹氏の令嬢である。
代々、中央へ人を送り出してきた家に生まれ、幼い頃から、家柄にふさわしい学問と礼儀作法を身につけてきた。
客人を迎え、決められたとおりに礼を尽くしている間は、申し分のない名家の娘だった。
もっとも、その状態はあまり長く続かない。
何かを思いつけば、考え終わるより先に立ち上がる。
珍しいものがあると聞けば、自分の目で確かめるまで落ち着かない。
家の者たちは、ソアの身分に敬意を払っていた。
同時に、彼女が突然何を始めるか分からないことも、よく知っていた。
「お嬢様」
侍女が、わずかに困った声を出す。
「閔家へは、まず訪問を知らせる使いを出した方がよろしいのでは」
「今から使いを出していたら、遅くなるでしょう」
「何に遅れるのでございますか」
ソアは答えなかった。
自分でも、何に遅れると思っているのか、うまく説明できなかった。
ただ、ソンジンが洪家の令嬢と再び会った。
そのことを聞いた途端、じっとしていられなくなった。
「幼い頃から何度も訪ねているのだから、先触れがなくても追い返されたりはしません」
「追い返される心配をしているのではございません」
「では、決まりね」
「何も決まっておりません」
侍女がため息をつく。
そのため息には覚えがあった。
幼い頃から、ソアが何かを思いつくたび、周囲の者たちは同じような息をついた。
木の上へ登ったとき。
塀の向こうから祭りの音が聞こえ、屋敷を抜け出したとき。
市場で見つけた珍しい菓子を、屋敷中の者へ配ろうと買い占めたとき。
そのたびに誰かが追いかけ、誰かが謝り、誰かがソアを部屋へ連れ戻した。
ソンジンだけは、あまり叱らなかった。
木から下りられなくなったソアを見上げても、大声で叱るのではなく、
「そこから動かないでください」
と、いつもの穏やかな声で言った。
それから人を呼ぶでもなく、自分で木へ登ってきた。
枝の上で動けなくなっていたソアへ手を差し出し、
「上まで来た勇気は認めます。ですが、下りる方法を考えてから登るべきでしたね」
と笑った。
その頃から、ソアは困ったことがあるとソンジンのところへ行くようになった。
困っていないときも、行った。
面白いものを見つけたとき。
新しい菓子を食べたとき。
町で妙な噂を聞いたとき。
何かを話せば、ソンジンはきちんと耳を傾けてくれた。
子どもの戯言として聞き流さず、何が面白かったのか、なぜそう思ったのかを尋ねてくれる。
それが嬉しかった。
気づいたときには、ソアにとってソンジンは、ただの幼なじみでも、兄のような人でもなくなっていた。
ほどなく輿の支度が整った。
ソアは侍女を伴って尹家を出た。
輿が動き始めると、侍女が外から念を押す。
「閔家へ着いても、廊下を走ってはなりませんよ」
「走りません」
「前にも同じことをおっしゃいました」
「今日は本当に走りません」
ソアは真面目な顔で答えた。
侍女から返事はなかった。
信じていないらしい。
閔家へ到着すると、ソアは客間へ通された。
海平尹氏と驪興閔氏は、ともに漢陽で長く続く家である。
ソア自身も幼い頃から閔家へ出入りしており、門前で長く待たされることはなかった。
それでも、ソンジンのいる場所へ直接押しかけることはできない。
閔家の使用人がソアの来訪を伝えに行き、その間に茶が運ばれた。
ソアは座布団へ座り、膝の上へ手を置いた。
少しして、その手の指先が動き始める。
まだかしら。
そう思ったところで、廊下から足音が聞こえた。
戸が開き、身なりを整えたソンジンが姿を見せる。
「ソア殿」
ソンジンは少し驚いたようだった。
「突然、どうなさいました」
「お邪魔でしたか?」
「いいえ。ただ、先触れもなくいらっしゃるとは思いませんでした」
「幼い頃は、何も知らせずに何度も来ていたではありませんか」
「幼い頃の話です」
「昨日まで幼かったわけではありません」
「そういう意味ではないのですが」
ソンジンは困ったように笑い、ソアの向かいへ座った。
見慣れた笑顔だった。
幼い頃から何度も見てきた、相手を安心させるための穏やかな笑み。
けれど、今日は少し違った。
笑顔になる前から、表情が柔らかい。
何か嬉しいことを、まだ胸の内に残しているような顔だった。
「洪家の皆様のところへ行っていらしたのですか」
ソアが尋ねる。
「ええ」
ソンジンは隠そうとしなかった。
「一昨日、漢陽へお着きになったと聞き、昨日ご挨拶に伺いました」
「洪家のお嬢様にも?」
「お会いしました」
まただ、とソアは思った。
声はいつもと変わらない。
けれど、洪家の令嬢について話すときだけ、ソンジンの目元がわずかに柔らかくなる。
地方の洪家を訪れ、漢陽へ戻って以来、ソアは何度もその変化を目にしていた。
最初は、遠方への旅が楽しかったのだと思っていた。
漢陽では見られない景色や、珍しい祭りの話をしているだけだと。
だが、ソンジンが話すのは、祭りそのものより洪家の令嬢のことが多かった。
鈴の音を聞くと、すぐに振り返る。
菓子を見ると目を輝かせる。
手遊びの仕掛けが分からないと、分かるまで追いかけてくる。
話す内容は、どれも小さなことだった。
洪家の家格や、令嬢としての教養について語ることはほとんどない。
その代わり、どのようなときに笑ったのか。
何を見て驚いたのか。
どのような言葉を返したのか。
そんなことばかり、よく覚えていた。
漢陽でも名のある家の次男である、ソンジンのもとへ縁談が持ち込まれるのは、これが初めてではない。
相手の家名や年齢が記された書状が届き、仲立ちの者が訪ねてくることは以前からあった。
ソアも、そのすべてを知っているわけではない。
それでも話があるたび、ソンジンがどのような顔をしていたのかは知っていた。
嫌そうではなかった。
嬉しそうでもなかった。
相手の令嬢と会ったあとも、
「お優しい方でした」
「よく学んでいらっしゃいます」
と、誰にでも言える感想を口にするだけだった。
相手が変わっても、ソンジンの顔は変わらなかった。
それが今回は違う。
洪家を訪れてから、ソンジンは何度も文を書いている。
使いの者へ、返事が届いたか確かめることも増えた。
町で珍しい菓子を見つければ、洪家の令嬢はこれを好むだろうかと口にする。
そして洪家の一行が漢陽へ着くと、その翌朝には宿を訪ねていた。
「お返事は、いただけたのですか」
ソアが尋ねる。
「まだです」
ソンジンは卓上へ置かれた扇へ手を伸ばした。
閉じたまま、指先でゆっくりと向きを整える。
「洪家のご当主は、漢陽に滞在されている間に返事をくださるそうです」
「では、もうすぐ決まるのですね」
「断られるかもしれませんよ」
言葉は軽かった。
けれど、ソアには分かった。
以前のソンジンなら、縁談が断られる可能性を、このような顔では話さなかった。
困ったように笑いながら、扇の端を指でなぞっている。
断られることを、少し怖がっている。
そのことに気づくと、ソアの胸の奥が小さく痛んだ。
「その方は、どのような方なのですか」
「以前もお話ししたでしょう」
「お話には聞きました。でも、鈴が好きとか、菓子を見ると立ち止まるとか、そのようなことばかりです」
「大切なことでしょう」
「縁談のお相手を知るためにですか?」
「私にとっては」
ソンジンはすぐに答えた。
ソアは口を閉じた。
思っていたよりも、ずっと深いところまで進んでいる。
「おきれいな方ですか」
「ええ」
「漢陽にもいないほど?」
「それは比べることではないでしょう」
「では、どのようにおきれいなのです?」
ソンジンは少し考えた。
いつものように、誰にでも当てはまる答えが返ってくると思った。
整った方です。
品のある方です。
その程度の言葉を。
「春の若葉のような色が、よく似合う方です」
予想していなかった答えだった。
色まで覚えている。
その衣を着た姿を、今も思い出している。
ソンジン自身も、それを隠そうとしていない。
「よく笑われます」
ソンジンが続ける。
「ですが、困っているときには、笑ってごまかすことができません。顔へ出てしまうのです」
「それは、お兄様もではありませんか」
ソンジンが目を瞬いた。
「私が?」
「今も、顔へ出ています」
「何がでしょう」
「その方を、とても気に入っていることがです」
ソンジンは否定しなかった。
扇を持ったまま、わずかに目を伏せる。
その沈黙だけで十分だった。
ソアの胸が、もう一度痛んだ。
大きな痛みではない。
泣きたくなるほどでもない。
ただ、長い間、自分だけが知っていると思っていた場所へ、知らない誰かが先に立っていたような心細さだった。
ソアは、いつかソンジンが自分を見てくれるかもしれないと思っていた。
急いではいなかった。
幼い頃から近くにいる。
これからも、近くにいられる。
だから、いつか。
その程度の、輪郭の曖昧な願いだった。
ソンジンの縁談を壊したいと思ったことはない。
相手の令嬢を憎んだこともなかった。
これまでの縁談には、ソンジン自身がさほど心を動かされていなかったからだ。
決まらなければよいと、心のどこかで願っていても、誰かを嫌う理由はなかった。
だが、今回は違う。
ソンジンは、洪家の令嬢を見ている。
自分がずっと見てほしかった目で。
「ソンジンお兄様」
「はい」
「その方のことを、本当によくご存じなのですか」
ソンジンの指が止まった。
「どういう意味でしょう」
「悪い方だと言っているのではありません」
ソアは慎重に言葉を選んだ。
「ただ、お兄様がこれほど一人の方のお話をなさるのは初めてです。よいところばかりを見て、何か大切なことを見落としてはいませんか」
ソンジンは笑わなかった。
「私が、インファ様に騙されているのではないかと心配しているのですか」
ソアは少し迷ったあと、正直にうなずいた。
「少しだけ」
「インファ様は、そのような方ではありません」
穏やかなまま、けれど迷いのない答えだった。
いつもより少しだけ低い声でもあった。
自分が何を言われても、ソンジンは笑って受け流す。
だが、洪家の令嬢が疑われたことには、すぐに答えた。
ソアは背筋を伸ばした。
「申し訳ありません」
「心配してくださったのでしょう」
「はい」
「ありがとうございます」
咎めるような言い方ではなかった。
それでもソアは、もう同じことを言う気にはなれなかった。
ソンジンが信じている相手なら、その信頼には敬意を払わなければならない。
相手を知らないまま、勝手に悪い人だと決めることは、ソア自身が最も嫌うことだった。
「では、本当にお優しい方なのですね」
「ええ」
「面白い方ですか?」
「時々、とても」
「お話ししていて、楽しい?」
「はい」
「お兄様の冗談にも、笑ってくださるのですか」
「怒られることの方が多いかもしれません」
ソンジンは、少し楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、ソアの胸の痛みがわずかに深くなる。
同時に、別の感情も生まれた。
見てみたい。
ソンジンをこのような顔にする人を。
「私も、お会いしてみたいです」
ソアが言うと、ソンジンの笑みが少しだけ警戒を帯びた。
「なぜです?」
「どのような方か知りたいからです」
「先ほどまで、私が騙されているのではないかと心配していたようですが」
「もう疑っていません」
「ずいぶん早いですね」
「ソンジンお兄様が、はっきり違うとおっしゃいましたから」
ソアは胸を張った。
「お兄様がそれほど信じている方なら、きちんと敬意を払います。失礼なこともしません」
ソンジンは答えず、しばらくソアを見た。
「何ですか、そのお顔は」
「失礼なことをしない、という部分について考えていました」
「私だって、やるときはきちんとできます」
「やるとき以外が多いのですよ」
「ひどいです」
ソアが頬を膨らませると、ソンジンは扇で口元を隠した。
笑っている。
見慣れた、ソアへ向ける笑顔だった。
優しくて、少し呆れている。
昔から変わらない笑顔。
それを見て安心する自分と、先ほどの知らない笑顔を思い出して寂しくなる自分が、胸の中に同時にいた。
「いつ、お会いできますか」
「いずれ、きちんとご紹介します」
「いずれとは、いつです?」
「洪家の皆様のご都合もあります。今は朝廷からの召し出しや縁談の返事もあり、落ち着かない時期です」
「少しご挨拶するだけでも?」
「尹家のご令嬢が突然訪ねれば、少しでは済みません」
ソアは口を閉じた。
海平尹氏の名が、ただの家名ではないことは分かっている。
ソア自身は、誰とでも気軽に話したいと思っている。
だが、自分が訪ねれば、相手はそのための支度をする。
洪家の当主へ知らせ、家人を整え、礼を尽くして迎えなければならない。
閔家と尹家のように、幼い頃から互いの屋敷を行き来してきた関係でもない。
洪家は漢陽へ着いたばかりだ。
そのうえ、朝廷からも動向を見られている。
今、尹家の娘まで正式に訪ねれば、余計な憶測を招くかもしれない。
「では、町で偶然お会いするのは?」
「偶然は、約束して起こすものではありません」
「そうですけれど」
「それに、まずはインファ様へお尋ねしなければなりません。ご本人が望んでいないのに、勝手に人を会わせることはできないでしょう」
「それは、そうですね」
ソアは素直にうなずいた。
ソンジンの言うことは正しい。
初めて漢陽を訪れた令嬢を、自分の都合で振り回してはいけない。
それくらいは分かっている。
「明日は、町をご案内する予定です」
ソンジンは卓上の紙を重ねた。
紙の一番上には、漢陽で名の知られた装身具店の名が書かれていた。
「明日?」
ソアは顔を上げる。
「洪様のお許しがいただければ、ですが」
「お二人で?」
「護衛の方々も同行されます」
「そうですか」
ソンジンが重ねた紙を使用人へ渡す。
「まずはこちらの店へ伺うつもりです。明日開いているか、確かめておいてください。それから、南の通りは荷車が多い。別の道を通れるかどうかも」
「承知いたしました」
使用人が紙を受け取り、客間を出ていく。
ソアはその背を見送り、それからソンジンを見た。
店の開く時刻。
通りの混み方。
歩きやすい道。
ソンジンが、誰か一人のためにこれほど細かく予定を立てているところを、ソアは初めて見た。
「楽しみにしていらっしゃるのですね」
「せっかく漢陽までお越しになったのです。よい思い出を持ち帰っていただきたいでしょう」
ソンジンはそう答えた。
だが、ソアにはもう分かっていた。
それだけではない。
よい思い出の中へ、自分も残りたいのだ。
だから店を選び、道を調べ、何を見せれば喜ぶかを考えている。
「ソア殿」
「はい?」
「何か考えていますね」
「何も」
「あなたは、考えていることが顔へ出ます」
先ほど自分が言ったことを、そのまま返された。
ソアは両手で頬を隠した。
「失礼ですね」
「何もなさらないでくださいね」
「何をです?」
「それが分からないので、お願いしているのです」
ソンジンは立ち上がった。
まだ明日の外出に向けて、確認しておくことが残っているらしい。
「もうお帰りになりますか。それとも、もう少しこちらで休んでいかれますか」
「帰ります」
ソアも立ち上がる。
客間の戸口まで進んだソンジンが、念を押すように振り返った。
「インファ様をご紹介するときは、きちんとお知らせします」
「本当ですね?」
「ええ。ですから、それまではお待ちください」
「分かりました」
ソアは素直に答えた。
ソンジンは少し疑わしそうに見たが、それ以上は言わなかった。
閔家の者に見送られ、ソアは再び輿へ乗った。
帰り道。
揺れる輿の中で、ソアは膝へ手を置いたまま考えていた。
洪家の令嬢。
春の若葉のような色が似合い、よく笑い、鈴の音を聞けば振り返る人。
ソンジンが信じている人。
ソンジンを、今まで見たことのない顔で笑わせる人。
嫌いではない。
まだ会ったこともない相手を、嫌えるはずがなかった。
縁談を壊したいわけでもない。
ソンジンが本当にその人を望んでいるなら、邪魔をするつもりはなかった。
けれど。
「どんな方なのかしら」
ソアは小さくつぶやいた。
一度気になり始めると、考えないようにすることができない。
正式に訪ねることはできない。
ソンジンに紹介してもらえるのは、いつになるか分からない。
明日は町へ出るという。
けれど、ソアには同行する理由がない。
「二人きりなら、ソンジンお兄様のことをどう思っているのか、本当のことをお話ししてくださるかもしれないのに」
輿の外を歩いていた侍女が、その言葉を聞きつけた。
「お嬢様」
「何?」
「まさかとは思いますが、何かお考えではございませんよね」
「まだ何もしていません」
「まだ、とおっしゃいましたね」
ソアは返事をしなかった。
輿の揺れに合わせ、膝の上へ置いた指がゆっくりと動く。
正式には訪ねられない。
ソンジンについて行くこともできない。
けれど、明日最初に向かう店なら分かっている。
女物の髪飾りや細工物を扱う、漢陽でも名の知られた店だ。
時刻が分からなくても、朝から近くで待っていればよい。
少しだけ。
ほんの少しだけ、二人で話せればよい。
そう考えた瞬間、ソアの目がふっと輝いた。
「いいことを思いつきました」
輿の外で、侍女が足を止めかけた。
「お嬢様」
「大丈夫よ。失礼なことはしないから」
「そのお言葉を聞いて、安心できたことが一度でもあったでしょうか」
ソアは答えず、楽しそうに口元を緩めた。
侍女の顔から、さっと血の気が引いた。




