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その鈴をなんと呼ぶのか護衛は知らない  作者: にちこ


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第十八章 漢陽への返事

漢陽から使者が到着したのは、ソンジンから新たな文が届いた翌朝だった。


使者は洪家の門前で馬を降りると、埃のついた旅装のまま主人への面会を求めた。


通された広間で差し出したのは、朝廷からの召し出しを告げる書状だった。


洪家の主人、洪泰元――ホン・テウォンは、書状に目を通したあと、しばらく何も言わなかった。


表向きの理由は、地方の情勢と政務について尋ねたいというものだった。


洪家は中央の官職から遠ざかって久しいが、周囲の村や町から厚い信頼を得ている。


凶作の年には蔵を開き、洪水が起これば人と物を出し、身分にかかわらず学ぶ場を与えてきた。


その人望は、漢陽にも知られていた。


そして今、中央で強い影響力を持つ驪興閔氏から、その洪家へ縁談が持ち込まれている。


二つの家が婚姻によって結ばれる。


王家が、それをただの娘と次男の縁談とは見なかったとしても、不思議ではなかった。


使者が帰ったあと、泰元はすぐに家人たちを集めた。


漢陽へ向かうのは、泰元と護衛頭。


インファと乳母。


専属護衛のシウォン。


供としてジュノ。


さらに馬や荷を扱う家人を四名。


長く屋敷を空けるわけにはいかないため、必要な人数だけに絞られた。


出立は三日後と決まった。


それからの洪家は、朝から晩まで落ち着かなかった。


旅の衣。


道中の食糧。


宿へ届ける文。


馬の蹄と荷車の車輪。


漢陽で必要となる礼装。


乳母は荷を増やし、ジュノはそれを減らし、再び乳母が増やした。


「漢陽まで屋敷ごと運ぶつもりかよ」


ジュノが呆れて言う。


「お嬢様に必要なものばかりです」


「菓子を三箱も?」


「道中で何があるか分からないでしょう」


「何があったら菓子を三箱食うんだ」


乳母が静かにジュノを見た。


「お前の分は入っておりませんよ」


「誰も食うなんて言ってないだろ!」


その横で、シウォンは荷の紐を確かめていた。


結び目を一つずつ引き、緩みがないかを見る。


紙に書いた旅程は、すでに頭へ入っている。


川を渡る場所。


山道へ入る時刻。


宿を取る町。


道幅の狭い場所。


盗賊が出たことのある道。


漢陽までの距離も、日数も、危険になり得る場所も、すべて確認した。


確認できないことが、一つだけあった。


今回の上京には、泰元の召し出しだけでなく、閔家への返答も含まれている。


漢陽へ着けば、洪家はいつまでも縁談の返事を延ばせない。


そのことだけは、どれほど考えても、備える方法が見つからなかった。


出立の日。


空は明るかったが、春の終わりを告げる風には、わずかに冷たさが残っていた。


泰元とインファは輿へ乗った。


乳母は別の小さな輿へ乗り、護衛頭とシウォンは馬で周囲を固める。


ジュノと家人たちは荷車や替え馬を見ながら、その間を歩いた。


屋敷の者たちに見送られ、一行はゆっくりと門を離れた。


インファは輿の小窓から、遠ざかる洪家を見ていた。


生まれてから、これほど長く屋敷を離れるのは初めてだった。


漢陽。


ソンジンの文に、何度も書かれていた町。


新しい菓子屋。


珍しい細工をする職人。


春の花を集めた市。


知らないものを見に行くのだと思えば、胸は弾むはずだった。


けれど今は、楽しみよりも、何かが始まろうとしている気配の方が強かった。


向かいに座る泰元は、朝からほとんど話さなかった。


膝の上へ置いた手は静かだったが、ときおり小窓の外へ目を向ける。


その横顔には、屋敷で書物を読んでいるときとは違う硬さがあった。


輿が街道へ入り、車輪と馬の足音が一定になった頃、泰元が口を開いた。


「インファ」


「はい」


インファは父へ向き直った。


泰元はすぐには続けなかった。


何から話すべきか、言葉を選んでいるようだった。


「お前に、話しておかなければならないことがある」


インファの指が、袖の端へ触れた。


「漢陽へ向かうことについてですか?」


「ああ」


泰元は一度、小窓の外を見た。


輿のすぐ外を、シウォンの乗る馬が歩いている。


黒い護衛服の袖が、ときおり窓の端へ見えた。


「今回、私が召し出されたのは、地方のことを尋ねるためだけではない」


インファは黙って聞いた。


「閔家が、洪家との縁談を望んでいることを、王家も承知している」


「縁談……?」


インファの唇から、小さな声がこぼれた。


泰元は娘の顔を見た。


「相手は、閔成眞殿だ」


輿の外で、馬具が小さく鳴った。


インファは動かなかった。


聞こえた言葉が、意味を持つまでに少し時間がかかった。


「ソンジン様が……?」


「ああ」


「私の、縁談のお相手なのですか」


泰元は静かにうなずいた。


祭りの日。


広間で初めて挨拶をしたとき。


ソンジンは、すでに知っていた。


ともに町を歩いたときも、手遊びを見せたときも、赤い紐の鈴を差し出したときも。


すべて、縁談の相手としてだったのだろうか。


「どうして、今まで教えてくださらなかったのですか」


責めるつもりはなかった。


それでも声には、わずかな痛みが混じった。


「すまなかった」


泰元は言い訳をしなかった。


「先方から話があったとき、私は、まずお前自身に相手を見てほしいと思った。縁談の相手だと先に知れば、お前はその者自身より、家や立場を見ようとするだろう」


インファは何も言えなかった。


きっとそのとおりだった。


ソンジンが驪興閔氏の次男で、自分との縁談のために来ると知っていたなら、祭りであれほど気軽に話すことはできなかった。


手遊びの仕掛けを知りたいと追いかけることも。


一緒に餅を食べることも。


笑いながら鈴を探すことも、できなかったかもしれない。


「閔家は、中央で力を持つ家だ」


泰元が続けた。


「洪家には、地方で積み重ねてきた繋がりがある。二つが結びつくことで、何かを得る者もいれば、警戒する者もいる」


「それで、お父様が呼ばれたのですか」


「おそらくは」


泰元の声は落ち着いていた。


「だが、お前が気にすることではない」


インファは父を見た。


「でも、私の返事で、洪家に何かが起こるのでしょう?」


「起こるかもしれない」


泰元は否定しなかった。


「縁談を受けても、断っても、何も起こらないとは言えない」


インファの指が、袖を強くつまんだ。


その手に、泰元の手が重なった。


「だが、それを考えるのは私の役目だ」


「お父様」


「お前は、洪家のために縁談を受ける必要はない」


迷いのない声だった。


「家のことも、閔家のことも、王家がどう見るかも考えなくてよい。成眞殿をどう思うのか。誰と、どのように生きたいのか。それだけを考えなさい」


インファの大きな瞳が、ゆっくりと揺れた。


「私が、思うようにしてもよいのですか」


「そのために、これまで育ててきた」


泰元の目元が、わずかに和らいだ。


「自分で考え、自分で選べるように」


インファは父の手を見下ろした。


幼い頃、その指に手を引かれて庭を歩いたことを思い出した。


転ばないように支えられたこともある。


けれど今、父は手を引いて行き先を決めるのではなく、自分で道を選べと言っている。


「ソンジン様は、とてもよい方です」


インファは小さく言った。


「優しくて、面白くて、一緒にいると、知らないものをたくさん見せてくださいます」


「ああ」


「でも……」


言葉が止まる。


泰元は急かさなかった。


輿が小さな石を越え、わずかに揺れた。


外から、護衛頭が道の状態を告げる声が聞こえる。


少し遅れて、シウォンが家人に注意を促す声もした。


インファは袖から手を離した。


「祭りの日、ソンジン様から赤い紐の鈴を差し出されました」


泰元の眉が、わずかに動いた。


「受け取ったのか」


インファは首を横に振った。


「受け取れませんでした」


「なぜだ」


「分かりません」


答えてから、インファは膝の上へ目を落とした。


少なくとも、あのときは本当に分からなかった。


今も、その理由をうまく言葉にすることはできない。


「ソンジン様の事が気に入らなかったか」


「違います」


インファはすぐに顔を上げた。


「とてもよい方です。鈴も、きれいでした。けれど……受け取ろうとしたら、どうしても手が動かなかったのです」


泰元は娘の顔を静かに見ていた。


「今は、理由が分かるのか」


「分かりません。ただ……」


インファの指が、袖の端をつまんだ。


「そのあと、ほかの人も赤い紐の鈴を持っていると知りました」


「その者の鈴が気になるのか」


インファはしばらく迷ったあと、小さくうなずいた。


「誰からいただいたのか、聞きたいと思っています」


「ならば、尋ねればよい」


「聞けないのです」


「なぜだ」


「その方が、今も持っていると言ったからです」


誰から贈られたのか。


今も持っているのは、その相手との縁を残しておきたいからなのか。


知りたい。


けれど、答えを聞くのが怖かった。


「私の知らない方からいただいたものかもしれません。その方を、今も大切に思っているのかもしれない。そう考えると……どうしても聞けないのです」


泰元はしばらく黙っていた。


「お前が知りたいのは、鈴を贈った者の名だけではないのだな」


インファが顔を上げる。


「その者の心が誰へ向いているのか。それを知るのが怖いのだろう」


インファは否定できなかった。


輿の外から、馬具の触れ合う音が聞こえた。


すぐ近くにいるはずなのに、その音はひどく遠く感じられた。


インファは小窓へ目を向けた。


簾の向こうに、一人の護衛の背が見える。


道の先を見ていたその人が、視線を感じ取ったように振り返った。


簾の隙間越しに、目が合う。


インファは、何かを尋ねたいと思った。


けれど、唇は動かなかった。


シウォンも何も言わない。


ただ、何かあったのかと確かめるように、しばらくインファを見ていた。


ほんの短い間、互いを見つめたあと、インファはそっと御簾を下ろした。


インファの胸には、尋ねられなかった言葉だけが残った。



その少し前、輿の外では、ジュノがシウォンの馬の横を歩いていた。


しばらくは何も言わなかった。


荷車の車輪が土を踏む音と、馬の蹄の音だけが続く。


やがてジュノは、前を向いたまま口を開いた。


「中で、何の話をしてると思う」


「知らない」


「聞こえてないのか」


「聞くつもりがない」


「耳のいい奴が、よく言う」


シウォンは答えなかった。


輿の近くに危険がないかを確かめるため、物音には注意を向けている。


だが、中の会話を聞き取ろうとはしていなかった。


聞けば、戻れなくなる気がした。


ジュノは輿から少し距離を取り、荷車の音に紛れるほどの声で話しかけた。


「旦那様は、インファに縁談のことを話すつもりだ」


シウォンの視線は動かなかった。


「漢陽へ着けば、閔家に返事をしないといけない。分かってるだろ」


「ああ」


「それだけか?」


「ほかに何を言えばいい」


ジュノは大きく息を吐いた。


「お前、昔から何にも変わってないな」


「背は伸びた」


「そういう話じゃねぇ」


ジュノは額を押さえた。


「分かってるくせに、何も分からない顔をするな」


「分からない」


「インファが若様との縁談を受ければ、お前はどうする」


シウォンの手が、手綱の上でわずかに固くなった。


「護衛を続ける」


「若様が洪家へ入ったあともか」


「ああ」


「二人のそばで、何も変わらない顔をして立ち続けるつもりか」


シウォンは答えなかった。


ジュノは横目でその顔を見る。


「今言ったことを、インファの前でも言えるのか」


「言う必要がない」


「言えないんだろ。若様と夫婦になったあとも、これまでどおり護衛を続けるなんて、インファの顔を見ては言えない」


「言ったところで、何も変わらない」


「またそれか」


ジュノの声が低くなる。


「護衛だから。仕事だから。何も変わらない。いつまで、その言葉の後ろに隠れるつもりだ」


シウォンが初めてジュノを見た。


「隠れていない」


「なら、言えよ」


「何を」


「若様との縁談を受けてほしくないって」


シウォンの目が、わずかに細くなる。


「俺が言えば、お嬢様を困らせる」


「決めるのはインファだ」


「だからこそだ」


「違う」


ジュノは足を止めかけ、すぐに歩調を戻した。


「お前が勝手に答えを決めるな。困るかどうかも、断るかどうかも、インファが決める」


「俺とお嬢様では、立場が違う」


「そんなことは、インファだって知ってる」


「知っているから、言えない」


シウォンは前へ視線を戻した。


「俺が口にすれば、お嬢様は俺と洪家の間で選ばなければならなくなる」


「旦那様が、家のためにこの縁談を受けろって言うと思うのか」


「思わない」


「なら――」


「だから、余計に言えない」


ジュノの口が閉じた。


シウォンの声は静かだった。


「ご主人様は、俺を拾い、育て、名をくださった。身分に合わない学びも、護衛になる道も与えてくださった」


手綱を握る指に、力が入る。


「その恩に、娘を望むことで報いるのか」


「インファは、恩に報いるためのものじゃない」


「分かっている」


「分かってないから、そんなこと言ってるんだろ」


ジュノはシウォンを睨んだ。


だが、シウォンは怒らなかった。


むしろ、怒られて当然だと受け入れている顔だった。


その顔が、ジュノには一番気に入らなかった。


「昔はな」


ジュノが言った。


「インファを守るのは、俺だと思ってた」


シウォンが横を見る。


「お前が屋敷へ来たときも、ずっとそう思ってた。どこの誰かも分からない奴に、インファを近づけるもんかって」


「ああ」


「今も、守りたいと思ってる」


ジュノは前を向いたまま続けた。


「だから、インファが何を考えてるのか、俺にも分かるつもりでいた」


シウォンは黙っている。


「けど、分からない」


ジュノはきっぱりと言った。


「若様との縁談をどう思っているのかも、お前のことをどう思っているのかも、俺には決められない」


風が街道を通り抜けた。


輿の簾が、かすかに揺れる。


「だから、お前も勝手に決めるな」


「何を」


「自分が何も言わない方が、インファのためになるってことをだ」


シウォンの目が、わずかに細くなった。


「俺が口にすれば、お嬢様を困らせる」


「困るかもしれない」


ジュノは否定しなかった。


「迷わせるかもしれないし、お前の望む答えは返ってこないかもしれない」


シウォンの手が、手綱の上で固くなる。


「それでも、何も言わずに若様との縁談が決まったら、お前は本当に後悔しないのか」


「……後悔しても、俺の問題だ」


「そうやって、全部一人で片づけたつもりになるな」


ジュノの声が低くなる。


「縁談が決まれば、若様は洪家へ入る。お前は、その二人のそばで護衛を続けることになるんだぞ」


シウォンは答えなかった。


「黙って見ているのか。それとも、自分の気持ちを認めるのか」


ジュノは横目でシウォンを見る。


「いい加減、どちらかを選ぶ覚悟くらい決めろ」


そのとき、輿の小窓で何かが動いた。


シウォンは反射的に目を向けた。


簾の隙間から、インファがこちらを見ていた。


視線が重なる。


インファは何か言いたそうに唇を開き、けれど結局、何も言わなかった。


シウォンも同じだった。


ほんの短い間、互いを見つめたあと、インファは、そっと御簾を下ろした。


ジュノは横目でシウォンを見た。


何か言いかけたように口を開いたが、結局は何も言わなかった。


眉間へ皺を寄せ、そのまま前を向いた。



漢陽へ着いたのは、出立から幾日もたった夕刻だった。


城門をくぐった途端、インファは輿の中で身を乗り出した。


通りを行き交う人の数も、並ぶ店の多さも、洪家の町とは比べものにならない。


衣の色。


荷車の形。


飛び交う呼び声。


遠くに見える大きな屋根。


見たことのないものばかりだった。


いつものインファなら、輿を降りたいと何度も頼んだだろう。


けれどその日は、小窓から町を眺めるだけだった。


ソンジンも、この町のどこかにいる。


そう思うたび、胸の奥が落ち着かなかった。


一行は、城内の宿へ入った。


表通りから少し離れた、奥庭のある静かな宿だった。


門を閉めれば、漢陽の町のざわめきも幾分遠くなる。


護衛頭とシウォンは、皆が部屋へ入る前に宿の周囲を確かめた。


門。


裏口。


井戸。


台所。


塀の高さ。


ジュノは家人たちに荷を運ばせ、馬の世話と翌朝の支度を指示する。


乳母は、旅の疲れが残るインファを早々に部屋へ入れた。


「今日はお休みください」


「少しだけ、外を見ては駄目?」


「駄目です」


「門の前だけ」


「駄目です」


「シウォンと一緒なら」


「シウォンと一緒でも、今日は駄目でございます」


乳母はインファの前へ茶を置いた。


「長い道中を終えたばかりなのですよ。それに、漢陽はお屋敷のある町とは勝手が違います。外をご覧になるのは、明日からになさいませ」


インファは窓の外へ目を向けた。


遠くから聞こえる人の声も、通りを行き交う馬車の音も、何もかもが気になって仕方がない。


それでも、乳母が一度決めたことを覆さないのはよく知っていた。


「……分かった」


名残惜しそうに答え、ようやく座布団に座り直した。


翌朝。


まだ宿が朝の支度を始めたばかりの頃、朝廷から迎えの者が到着した。


泰元は礼装に着替え、護衛頭と家人二名を伴って宿を出た。


朝廷で何を尋ねられるのか、詳しいことは誰にも話さなかった。


「昼を過ぎるかもしれない」


出発前、泰元はインファへ言った。


「宿から出てはいけない」


「分かっています」


「本当に?」


「お父様まで、皆と同じことを言うのですね」


「同じ心配をしているからだ」


インファが頬を膨らませる。


泰元は少し笑い、迎えの者とともに宿を出た。


父の姿が門の向こうへ消えると、宿は急に静かになった。


ジュノは家人たちと荷の確認へ向かい、乳母は朝の膳を見に台所へ下りた。


部屋の外には、シウォンが立っている。


近くにいることは分かる。


それなのに、声をかけることができなかった。


昨日の輿の中で、父から言われた言葉が残っている。


その者の心が誰へ向いているのか。


それを知るのが怖いのだろう。


インファは何度も戸口を見た。


呼べば、すぐに入ってくる。


鈴のことを尋ねるだけでよい。


けれど、声を出そうとするたび、胸の奥が固くなる。


結局、何も言えないまま、半刻ほどが過ぎた。


そのとき、宿の表がにわかに騒がしくなった。


人の声。


馬の音。


門番が慌てて誰かを迎える気配。


シウォンが廊下の先へ目を向けた。


ほどなく、宿の者が駆けてくる。


「お嬢様に、お客様でございます」


「どなた?」


尋ねながらも、インファには分かっていた。


知らせを受けた乳母も、台所から戻ってきた。


インファは乳母とともに客間へ向かった。


シウォンも、二人のあとに続いた。


客間へ入ると、淡い色の衣を隙なく着こなし、片手に扇を持った青年が立っていた。


その顔には、隠すつもりのない笑みが浮かんでいる。


「ようやくお会いできました」


ソンジンだった。


「インファ様。漢陽へようこそ」


ソンジンは本当に嬉しそうだった。


インファも、顔を見た瞬間は嬉しかった。


何度も文を受け取った。


書かれていた町へ、自分が来た。


話したいことも、尋ねたいこともたくさんあった。


けれど、足が一歩だけ後ろへ下がった。


ほんのわずかな動きだった。


それでもソンジンは見逃さなかった。


笑みは消さなかったが、目の奥にあった喜びが、少しだけ静かになる。


「どうやら」


扇を閉じながら、ソンジンが言った。


「お聞きになったようですね」


インファは目を伏せた。


「昨日、父から聞きました」


「私が、縁談の相手として洪家を訪れたことを?」


「はい」


廊下の端に、シウォンが立っている。


こちらを見てはいない。


だが、会話はすべて聞こえているはずだった。


「黙っていて、申し訳ございませんでした」


ソンジンが頭を下げた。


インファは驚いて顔を上げる。


「ソンジン様が謝ることでは」


「いいえ。私は、初めから知っていました」


ソンジンの声に、いつもの冗談めいた軽さはなかった。


「あなたが知らないことも承知していました。それでも、何も申し上げなかった」


「なぜですか」


「縁談の相手としてではなく、私自身を見ていただきたかったからです」


まっすぐな答えだった。


「先にお知りになれば、きっとインファ様は、私に気を遣われたでしょう。祭りを一緒に歩くことも、あれほど楽しそうに笑うことも、なさらなかった」


否定できなかった。


「騙すつもりはございませんでした。ただ、少しだけ卑怯だったとは思います」


「卑怯……」


「あなたが何も知らず笑ってくださる時間を、私は手放したくなかった」


ソンジンは少し困ったように笑った。


「祭りへ来るまでは、互いを知ったうえで、家同士にとって悪くない話なら受ければよい。その程度に考えておりました」


インファは黙って聞いていた。


「ですが、今は少し事情が変わりました」


「事情?」


「私は、インファ様に好かれたいと思っています」


あまりにも穏やかに言われ、インファはすぐに意味を理解できなかった。


理解した途端、目を丸くする。


ソンジンの笑みが、少し深くなった。


「そのお顔を、もう一度見たかったのです」


「ソンジン様」


「これまでは、あなたを困らせないよう、一歩引いているつもりでした」


閉じた扇が、ソンジンの掌で軽く動く。


「しかし、引いてばかりでは、いつまでたっても縁談の相手ではなく、手遊びを見せる知人のままで終わってしまう」


「そんなことは……」


「ですから」


ソンジンは一歩だけ近づいた。


インファが下がろうとすれば、すぐに止まれる距離だった。


無理に近づくのではなく、逃げ道を残した一歩。


「これからは、私のことをもう少し好きになっていただけるよう、多少は積極的にならなければいけませんね」


その言葉に、インファは返事を失った。


ソンジンは笑っている。


けれど、冗談ではなかった。


「困らせるつもりはございません」


ソンジンが続ける。


「返事を急がせるつもりも。ただ、家のためではなく、あなた自身がお選びになるのなら、そのとき私のことも考えていただけるようになりたいのです」


インファの胸が、かすかに痛んだ。


ソンジンは優しい。


誠実で、自分を大切にしようとしてくれている。


だからこそ、曖昧に笑うことができなかった。


「私……」


言いかけて、言葉が止まる。


ソンジンは、急かさず待っていた。


その視線の向こうで、シウォンがわずかに動いた。


宿の者が廊下を通るため、インファとの間に入らないよう位置を変えただけだった。


護衛として、いつもの動き。


けれどインファの目は、その姿を追ってしまった。


ソンジンも、それに気づいた。


祭りの日と同じだった。


困ったとき。


迷ったとき。


インファの視線は、必ず一人の男を探す。


ソンジンは何も言わず、扇を開いた。


その向こうに口元を隠した。


「今日は、まずご挨拶に伺いました」


目元には、いつもの柔らかな笑みが戻っていた。


「漢陽には、文に書ききれなかったものが、まだたくさんございます。滞在中、お時間をいただけますか」


インファは少し迷ったあと、うなずいた。


「はい」


「ありがとうございます」


ソンジンは嬉しそうに笑った。


その笑顔を見て、インファはまた胸が痛くなった。



泰元が宿へ戻ったのは、日が西へ傾き始めた頃だった。


朝廷で何を話したのか、顔からは読み取れなかった。


ただ、出発した朝よりも、眉間の皺がわずかに深くなっている。


護衛頭も多くを語らず、泰元の後ろから宿へ入った。


「お帰りなさいませ」


インファが迎える。


「ああ。変わりはなかったか」


インファが答えるより先に、別の声がした。


「私が訪ねたこと以外は、何も」


泰元が顔を向ける。


奥の客間から、ソンジンが出てきた。


泰元が戻るまで待つつもりだったらしい。


「成眞殿」


「突然お訪ねして、申し訳ございません」


ソンジンは丁寧に礼をした。


「朝廷からのお戻りを、お待ちしておりました」


「何か急ぎのご用ですか」


「いいえ。お疲れであれば、日を改めます」


泰元は少し考え、客間へ入るよう促した。


膳が整えられ、茶が運ばれる。


インファと乳母も同席し、シウォンは戸口の外へ立った。


ジュノは少し離れた廊下で、家人に指示を出しながら客間の様子を気にしている。


「洪様」


茶が置かれると、ソンジンが切り出した。


「漢陽でのご滞在についてですが、よろしければ閔家へお移りになりませんか」


泰元は黙ってソンジンを見る。


「父も、ぜひ洪家の皆様をお迎えしたいと申しております。こちらの宿より警護も整っておりますし、朝廷への行き来にも便利でしょう」


申し出そのものは、厚意に満ちていた。


しかし同時に、閔家と洪家が親しくしていることを、漢陽の者たちへ示すことにもなる。


「ありがたいお申し出です」


泰元は言った。


「ですが、今回は遠慮させていただきます」


ソンジンの表情は変わらなかった。


「やはり、朝廷からの召し出しが理由でしょうか」


「それもあります」


泰元は茶に手をつけず、まっすぐソンジンを見た。


「今、洪家が閔家へ入れば、余計な憶測を招くでしょう」


「すでに十分、憶測されております」


ソンジンは小さく笑った。


「ですが、増やす必要もございませんね」


「それに」


泰元の目が、一度だけインファへ向いた。


「縁談について、まだお返事をしておりません」


部屋の空気が静かになる。


インファの指が、膝の上で重なった。


戸口の外では、シウォンが微動だにせず立っている。


「返事を決めぬまま、閔家の世話になることはできません」


泰元の言葉に、ソンジンはゆっくりとうなずいた。


「ごもっともです」


拒まれたことに、不快な様子は見せなかった。


「では、この宿でお困りのことがあれば、何なりとお申しつけください。閔家からでなく、私個人からの助けとお考えいただいても構いません」


「お気遣いに感謝します」


「それから」


ソンジンの声が、わずかに改まった。


「縁談のお返事について、急かすつもりはございません」


泰元は答えなかった。


「ですが、インファ様が漢陽にいらっしゃる間に、もう少し互いを知る時間をいただきたいと願っております」


ソンジンの目は、泰元へ向けられていた。


だが、その言葉が誰へ届くことを望んでいるのかは、明らかだった。


泰元はしばらく考えた。


やがて静かに口を開く。


「返事は、今回の滞在中にいたしましょう」


インファの肩が、わずかに揺れた。


戸口の外で、シウォンの指がゆっくりと握られる。


「承知いたしました」


ソンジンは深く頭を下げた。


それ以上、何かを求めることはなかった。


茶を飲み終えると、泰元の疲れを気遣い、早々に席を立つ。


「では、また改めて伺います」


ソンジンは泰元へ礼をし、次に乳母へ、最後にインファへ向き直った。


「今日は、お会いできて嬉しかったです」


インファは小さく頭を下げる。


「私も……文のお話を、直接聞けて嬉しかったです」


その返事に、ソンジンは柔らかく笑った。


「次は、文に書いた場所を実際にご案内いたします」


ソンジンが客間を出る。


廊下で、シウォンと向き合った。


二人の視線が、短く重なる。


ソンジンは何も言わなかった。


シウォンも頭を下げただけだった。


けれどすれ違う瞬間、ソンジンの目が、シウォンの懐へ一度だけ落ちた。


衣の下に何があるのか、見えるはずはない。


それでもシウォンは、そこへ手を当てそうになり、止めた。


赤い紐の鈴。


ソンジンが宿を出ると、門の向こうで馬車の音がした。


その音は少しずつ遠ざかり、やがて漢陽の町のざわめきへ紛れていった。


客間には、誰もすぐには口を開けない静けさが残った。


滞在中に、返事をする。


それは、何日も先の話ではない。


インファは廊下へ目を向けた。


シウォンは、いつもどおりそこに立っていた。


半歩後ろ。


手を伸ばせば届きそうで、けれど、どちらからも動かなければ届かない距離に。


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