第十七章 同じ鈴
春鈴祭が終わってから、インファはときどき手を止めるようになった。
誰かと一緒にいるときは、これまでと変わらない。
女中たちと話せば笑い、乳母に小言を言われれば頬を膨らませる。
ジュノが顔を見せれば、また怒っているのかと尋ね、シウォンがそばにいれば、いつものように名前を呼ぶ。
けれど、一人になると違った。
花を活けている途中で、枝を持ったまま動かなくなる。
菓子を口元まで運び、食べることを忘れたように皿へ戻す。
窓の外を眺めている大きな瞳に、ふと影が差す。
本人は誰にも気づかれていないつもりらしい。
だが、気づかないジュノではなかった。
その日も、ジュノは庭を横切る途中で、縁側に座るインファを見かけた。
膝の上には、小さな菓子の皿が置かれている。
いつもなら真っ先に手を伸ばす餅菓子が、一つも減っていなかった。
「インファ」
声を掛けると、インファの肩がわずかに揺れた。
「あ、ジュノ」
すぐに笑顔になる。
あまりにも普段どおりの笑顔だったため、かえってジュノは眉を寄せた。
「何かあったのか」
「何もないよ」
「じゃあ、どうして菓子を食べてないんだ」
インファは手元を見た。
初めて皿の存在を思い出したような顔をする。
「今から食べるところだったの」
「ずいぶん長い間、今からだったみたいだけどな」
インファは餅菓子を一つ取り、小さくかじった。
しばらく黙っていたが、やがて何でもないことを尋ねるように口を開いた。
「ねえ、ジュノ」
「何だ?」
「赤い紐の鈴を、もらったことはある?」
ジュノは目を瞬いた。
「俺が?」
「うん」
「渡されたことなら、何度かあるけど」
インファの手が止まった。
「何度かあるの?」
「そこに驚くのかよ」
「だって、ジュノだもの」
「どういう意味だ、それは」
ジュノが顔をしかめると、インファは少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「じゃあ、今も持っているの?」
「いや」
「なくしたの?」
「受け取ってないからな」
インファが顔を上げる。
「一つも?」
「一つも」
「どうして?」
ジュノは腕を組んだ。
「その気もないのに受け取ったら、相手に期待させるだろ」
「期待……」
「赤い紐の鈴は、ただの飾りじゃない。応えるつもりがない相手からは、最初から受け取らない方がいい」
インファは、手の中の菓子へ視線を落とした。
「そうなんだ」
小さな声だった。
ジュノは黙って、その横顔を見た。
春鈴祭で、ソンジンがインファへ差し出した赤い紐の鈴。
インファはあの場では受け取らなかった。
だが、断ったあとになって、あれでよかったのかと悩み始めたのかもしれない。
祭りのあとも、ソンジンからは文が届いている。
鈴を受け取るべきだったのか。
断ったことで、ソンジンを傷つけたのではないか。
それとも、これから彼の気持ちにどう応えればよいのか分からないのか。
ジュノには判断できなかった。
「インファ」
呼びかけると、インファが顔を上げた。
「何?」
「……いや」
今ここで尋ねれば、かえって追い詰める気がした。
ジュノは皿の上の菓子を指した。
「それ、食べないなら下げてもらうぞ」
「ジュノ、食べたいの?」
「いや、じゃあちゃんと食べろよ」
「分かってる」
インファがもう一口かじるのを見届けてから、ジュノは縁側を離れた。
若様の鈴のことで悩んでいるのなら、自分が無理に聞き出すことではない。
だが、祭りの日から様子がおかしいのは確かだった。
あの日、一日中インファのそばにいたシウォンなら、何か気づいているかもしれない。
ジュノが向かった先は、裏庭の鍛錬場だった。
シウォンは一人で刀の手入れをしていた。
「シウォン」
呼ばれたシウォンが顔を上げる。
「何だ」
「祭りの日、若様がインファに赤い紐の鈴を差し出したあと、何か言ってなかったか?」
刀身を拭いていた布が止まった。
「いや」
「本当に何も?」
「お嬢様は、受け取れないと断った。それだけだ」
それはジュノも知っている。
「そのあとだよ。気にしてる様子はなかったか?」
シウォンは少し考えた。
「分からない」
「お前、ずっとそばにいただろ」
「そばにいたって、考えてることまで分かるわけじゃない」
もっともな返事だった。
だが、それで引き下がれるほど、ジュノは物分かりがよくない。
「祭りの日から、ずっと様子がおかしいんだぞ」
「分かってる」
「お前も気づいてたのか」
「あれだけ手が止まっていればな」
ジュノは腕を組んだ。
やはり、若様の鈴を断ったことが引っかかっているのだろうか。
だが、ほかにも思い当たることがあった。
「まさか、若様が縁談で来たことを知られたんじゃないだろうな」
シウォンの手が止まった。
「いや」
「言い切れるのか?」
「知ってる様子はない」
インファがソンジンを縁談相手だと知っていれば、黙って考え込むだけでは済まないだろう。
なぜ自分に知らせなかったのか。
父はどう考えているのか。
ソンジンは最初から知っていたのか。
納得するまで、いくつでも尋ねるはずだ。
それがない以上、まだ知らないというシウォンの判断は正しいのだろう。
「じゃあ、やっぱり若様のことなのか」
ソンジンは祭りのあと、漢陽へ戻った。
それから、洪家には何度か文が届いている。
インファは文を受け取るたび、楽しそうに読んでいた。
ときどき声を上げて笑うこともある。
ソンジンがインファへ好意を持っていることは、文の届く間隔を見ているだけでも分かった。
だが、それがインファの物思いと関係しているのかまでは、ジュノにも判断できなかった。
「若様の文を読んでるときは、楽しそうなんだよな」
「ああ」
「じゃあ、違うのか?」
「分からない」
「さっきから、それしか言ってないぞ」
「分からないものは、分からない」
ジュノは腕を組んだ。
シウォンは再び刀へ視線を落とした。
だが、先ほどまで動いていた布は止まったままだった。
気づいている。
そして、気にしている。
ただ、その理由が分からないのは、シウォンも同じらしい。
「お前まで黙って考え込むなよ」
「考え込んでない」
「今、手が止まってるだろ」
シウォンは手元を見た。
それから何事もなかったように、刀身を拭き始める。
「手入れしてる」
「見れば分かる」
結局、何も分からないまま、ジュノは鍛錬場を離れた。
残されたシウォンは、刀を拭きながら、先ほどのジュノの言葉を思い返していた。
祭りの日から。
シウォンも、同じことを考えていた。
インファは以前にも、彼に対して遠慮がちになったことがある。
最も分かりやすかったのは、熊に襲われたあとだった。
あの一件のあと、インファはしばらくのあいだ、何をするにもシウォンの顔色をうかがった。
池の近くへ行く前には振り返り、町へ出たいと言いかけて口を閉ざした。
危ないと言えばすぐに引き下がり、もう少しだけと食い下がることもなくなった。
ひどく聞き分けがよくなった。
護衛はしやすくなった。
けれど、シウォンはそれを一度も嬉しいと思わなかった。
自分が傷ついたことで、インファが好きなことを我慢するようになった。
自分のために、彼女から笑顔や好奇心を奪ったように思えた。
今のインファは、あの頃と少し似ていた。
その日の午後、インファは裏庭へ向かう途中で足を止めた。
「池の向こうの梅を見に行ってもいい?」
「飛び石が濡れています」
朝に降った雨で、まだ乾いていない。
普段なら、インファは池の方を見ながら言う。
少しだけ。
気をつけるから。
シウォンが一緒なら大丈夫。
けれど今日は違った。
「そう。では、今日はやめる」
それだけ言って、縁側へ戻ろうとする。
シウォンは、その背中を見た。
「お嬢様」
インファが振り返る。
「何?」
「……いえ」
呼び止めておきながら、続ける言葉が出なかった。
何を考えているのですか。
私に何か言いたいことがあるのですか。
どちらも、簡単に尋ねられる言葉のはずだった。
けれどシウォンは、口にできなかった。
インファもしばらくその場に立っていた。
何かを言いかけるように唇がわずかに動いたが、結局、そのまま視線を伏せた。
「部屋へ戻るね」
「はい」
インファはそれ以上何も言わず、縁側を歩いていった。
シウォンは遠ざかる背中を見送りながら、無意識に懐の奥へ手を当てた。
衣の上から、小さな硬い感触が指に触れる。
幼いインファからもらった、赤い紐の鈴。
祭りの日、持っているのかと尋ねられたとき、持っていると答えた。
けれど、それが今も大切に持っているこの鈴だとは言えなかった。
幼いインファは、赤い紐の意味を知らずに渡した。
長くそばにいてほしい相手へ贈る、特別な鈴。
今のインファなら、その意味を知っている。
もし、この鈴を見せたら、何と言うだろう。
――忘れていたわ。
――そんなつもりではなかったの。
――もう、処分してほしい。
そんな言葉が返ってくるかもしれない。
実際に言われたわけではない。
インファがそう思っていると知ったわけでもない。
それでも、確かめることができなかった。
自分に鈴を渡したことなど、忘れられたままでよかった。
何の意味もない鈴として持っていると思われる方が、まだよかった。
手放してほしいと言われるよりは。
その夕方、漢陽からソンジンの文が届いた。
インファが自室で封を開くと、春の花びらが、はらはらと膝の上へ落ちた。
いかにもソンジンらしい文だと思いながら、インファは頬を緩めた。
そこには、漢陽の町の様子が書かれていた。
祭りのあと、通りに新しい菓子屋ができたこと。
珍しい細工をする職人がいること。
春の花を集めた市が開かれること。
それから、漢陽にいる一人の令嬢についても、少しだけ触れられていた。
幼い頃から親しくしている、海平尹氏の令嬢、尹瑞雅――ユン・ソアという方がおります。
インファ様とはお年も近く、明るく、好奇心の強い方です。
珍しいものを見つけると、周りの者が止めるより先に近づいてしまうところなど、少しインファ様に似ているかもしれません。
そう書かれた一文を読み、インファはわずかに眉を上げた。
自分はそこまで落ち着きがないだろうか。
けれど、文はそのまま続いていた。
きっと、お二人は気が合うと思います。
いつか漢陽へいらした折には、ご紹介いたしましょう。
会ったことのない令嬢の姿を思い浮かべる。
ソンジンが自分に似ていると言うのなら、鈴の音を聞けば立ち止まり、菓子屋を見つければ道を外れるような人なのだろうか。
少しだけ、会ってみたいと思った。
文の最後には、丁寧な文字でこう記されていた。
漢陽には、インファ様にお見せしたいものが、まだたくさんございます。
いつかいらしてくださる日を、楽しみにお待ちしております。
インファは小さく笑った。
ソンジンの文は、いつも優しかった。
読んでいると、知らない町の景色が目の前へ広がる。
堅苦しい挨拶より、面白かったことや、見せたいものが多く書かれている。
返事を書くのも楽しかった。
インファは文机へ向かい、紙を広げた。
筆に墨を含ませる。
季節の挨拶を書き、文への礼を書く。
庭の梅が咲き始めたことを書こうとして、手が止まった。
赤い紐の鈴をくれようとしたソンジンなら、分かるのだろうか。
シウォンが誰かから赤い紐の鈴をもらい、それを今も大切に持っている。
どうして、それを考えるだけで胸が苦しくなるのか。
なぜ、誰にもらったのかと尋ねることさえできないのか。
ソンジンに聞けば、何か答えをくれるかもしれない。
祭りの日も、インファが鈴を受け取れないと告げると、理由を問い詰めずに引いてくれた。
きっと今回も、笑わずに聞いてくれる。
インファは筆を持ったまま、しばらく紙を見つめた。
けれど、書くことはできなかった。
自分へ赤い紐の鈴を差し出した人に、別の人が持つ鈴について尋ねる。
それは、してはいけないことのように思えた。
それに、文で尋ねることでもない。
インファは筆を置いた。
誰にもらったの。
たったそれだけの言葉だった。
尋ねる相手は漢陽にいるソンジンではない。
いつも自分の半歩後ろにいる。
名前を呼べば、必ず返事をする。
けれど、その相手にだけは聞けなかった。
戸の外では、シウォンがいつもの場所に立っていた。
部屋の中から、紙を動かすかすかな音が聞こえる。
シウォンは懐の上へ手を置いた。
戸の内側で、インファは赤い紐の鈴を思い浮かべていた。
戸の外側で、シウォンは同じ鈴に触れていた。
二人が考えている鈴は、同じものだった。
それなのに、どちらも、そのことを口にできなかった。




