第二部六十八話 ディーが来た
「やっと、見つけた」
背後から聞こえた低い声に、セレンは足を止めた。
振り返る。
そこに立っていたのは、黒い男だった。
黒い髪。
銀色の瞳。
大きな体。
そして、どこか獣のような気配。
セレンは、じっとその男を見た。
見覚えがあるような。
ないような。
けれど、胸の奥が少しだけざわつく。
「……誰?」
男の銀の瞳が、わずかに細められた。
「わからないか」
低い声だった。
怒っているようにも、呆れているようにも聞こえた。
男は、一歩近づいた。
「ディーだ」
「ディー?」
セレンは首を傾げた。
そして、ぽつりと言った。
「いぬ?」
男――ディーの眉が、ぴくりと動いた。
「俺を犬扱いするのは、おまえだけだ」
その言葉に、セレンは目を瞬かせる。
「じゃあ、やっぱり知ってるやつか」
「知ってるどころではない」
ディーがそう言いかけた、その時だった。
空気が、ひどく重くなった。
腐った泥のような匂いが、風に混じる。
セレンが顔を上げる。
「セレンを離せぇぇぇ!」
轟くような声。
次の瞬間、巨大な影がこちらへ迫ってきた。
ガンザだった。
普段の小さな姿ではない。
膨れ上がった腐敗の気配をまとい、巨大化したガンザが、一直線にディーへ向かってくる。
「ガンザ!」
セレンが叫んだ。
だが、ガンザは止まらない。
止まれない。
腐敗の波が地面を舐めるように広がり、草が黒く崩れていく。
セレンの顔色が変わった。
「これ、やばいやつだ!」
このままだと。
この辺り一帯が、腐る。
セレンが動こうとした、その瞬間。
どこからともなく、眠たげな声が響いた。
「仕方のないやつだ」
ライくんの声だった。
「五秒やるから、なんとかしろ」
世界が、止まった。
風が止まる。
腐敗の波が止まる。
ガンザの巨大な体も、空中でわずかに鈍る。
だが、完全には止まらない。
五秒。
それだけだ。
セレンは考えなかった。
両手を広げる。
「ガンザ!」
そして、巨大化したガンザへ向かって走り出した。
「セレン!」
ディーの声が飛ぶ。
セレンは止まらない。
「ガンザ! 止まれ!」
ガンザの目が、わずかに揺れた。
「セレ……」
止まろうとしている。
けれど、勢いが強すぎる。
腐敗の力も、膨れ上がりすぎている。
このままでは、セレンごと巻き込む。
「セレン!」
ディーが地面を蹴った。
黒い影が走る。
五秒が、終わる。
止まっていた世界が動き出す。
巨大なガンザが、セレンへ突っ込む。
その瞬間、ディーが二人の間に飛び込んだ。
「っ……!」
ディーは片腕でセレンを抱え込み、もう片方の腕でガンザを受け止めた。
重い衝撃が走る。
腐敗の気配が、ディーの体をかすめる。
だが、ディーは離さなかった。
セレンも。
ガンザも。
黒い腕の中に抱え込むようにして、ディーはその場に踏みとどまった。
「……無茶をするな」
低い声が落ちる。
セレンは、ディーの腕の中で顔を上げた。
「止めないと、腐るだろ」
「だからといって、正面から行くな」
「ガンザなら、止まってくれると思った」
その言葉に、ガンザの巨大な体が震えた。
膨れ上がっていた腐敗の力が、少しずつしぼんでいく。
巨大だった体が、小さくなる。
いつもの姿へ戻っていく。
ディーの腕の中で、小さくなったガンザが、ぎゅっとセレンの服を掴んだ。
「……セレン」
「大丈夫だよ」
セレンは笑った。
「ちゃんと止まった」
「止まっておらん」
ディーが言った。
「俺が止めた」
「そうなのか?」
「そうだ」
「じゃあ、ありがとう。いぬ」
「犬ではない」
ディーは深く息を吐いた。
ガンザはセレンにしがみついたまま、ディーを睨んだ。
「キサマ、セレンを抱えるな」
「先に突っ込んできたのはおまえだ」
「セレンを離せ!」
「離したら転ぶ」
「ならば我が抱える!」
「おまえも今、抱えられている側だ」
セレンは、二人を見比べた。
それから、少し困ったように笑った。
「えっと」
ディーがセレンを見下ろす。
「なんだ」
セレンは真面目な顔で言った。
「やっぱり、いぬだよな?」
「犬ではない」
その声に、遠くでライくんが小さく笑った気がした。




