ハッピーハーピィ②
ヨウコが自分の手首に傷が無い事に気が付いたのは、それから数時間後の事だった。
彼女は、あれから田中となんて事ない雑談をしていた。彼がトイレに席を立ち、1人になってまた手首を切りたくなったのか、純粋に意識が自分の身体に回ってその違和感に気が付いたのかは不明だが、とにかく、包帯の下で疼いていた痛みが、無くなっている事にヨウコは気が付いた。
驚きこそしたが、彼女はさして動揺はしなかった。なにせ、散々訳の分からない目にあったのだから、傷が消えた程度では、彼女の心は乱れなかった。精々、『ああ、これも幻覚の一種か』そう思う程度に留まった。
「こんばんは。……こういう夜のお店だと、『おはよう』の方が正しいのかしら?」
彼女が、再び現れるまでは。変わらず田中の座っていた席の、2つ隣の壁際の席に、変わらずふてぶてしい態度で腰掛ける。
その声に目線を向け、驚いたように目を見開くが、彼女を幻認識しているヨウコは、『ああ、また幻覚か』と眉をひそめ、疲れたように深くため息を吐き、必死に彼女から目を逸らした。
「幻覚じゃないわよ。私も、貴女の、見苦しかった腕の傷が消えているのも」
驚いたように体をビク、と振るわせるが、それでもヨウコは見えない振りをした。彼女の反応に、却って気をよくしたように笑みを浮かべ、カウンターに肘をついた。
「まあいいわ。いずれ私とお話したくなったら、またお話ししましょう?その時に教えてあげる。この世界のルールについて」
そう言って、サンタクロースが来るのを待ちわびる子供のような無邪気さと、獲物が罠にかかるのを眺める詐欺師のような陰湿さが混じった笑みでヨウコ、それと店内を眺める。
丁度、その時田中が戻ってくると、またヨウコは接客用の媚びた笑みを浮かべた。
「田中さんおかえり!」
「……あ、ああ、ただいま」
そう言いながら再び席に着いた田中は、どこか気もそぞろ、といった雰囲気だ。
「田中さん、どうしたの?なんか、元気なくなっているけど」
ヨウコも、その事に気が付いたらしい。そう訊ねると田中は逡巡し、説明する事に決めたのだろう、口を開いた。
「前にも言ったかもしれないけれど、実は僕、新宿の方に住んでるんだよ」
「あー!言ってたね!『家賃高くない?』みたいな会話した記憶あるかも!それで?」
「さっき調べたら、今日も『歌舞伎町の歌姫』がいるらしくてさ。近寄りたくないなって。」
当然、そう言われたことろで、ヨウコはまるで分かっていないかった。頭にいくつもクエスチョンマークが浮かんでいるような彼女の反応に、田中は困惑したような表情を浮かべた。
まるで、未だに地球平面説を唱える人間と話しているかのような、そんな表情。その反応は当たらずといえども遠からずだ。『こちら』ではそのレベルの常識を、彼女は知らない。
「あれ?……ああ、そう言えば、前にユキちゃん、『あまりニュースとか見ない』って言ってたよね。でも、最低限これくらいは知っておいた方が良いよ、下手すると死んじゃうよ?」
「え、なになに、どういう事??歌舞伎町で何が起こってるの?」
わざとらしく聞き返すヨウコ、今は『ユキ』と呼ばれているが、とにかく彼女の反応に気をよくした田中は、自慢げに、誇らしげに、彼女の質問に答えた。
「今、『フリークス』が新宿に居座ってるんだよ。『歌舞伎町の歌姫』って、そんな風にネットで呼ばれてる。歌を聞くと虜にされるらしい。探せば、動画も結構上がってるよ」
当然のように言われ、さらに混乱しているのが、彼女から見て取れた。はっ、と気付いたような表情で、幻覚だと思っていた彼女の方を、ヨウコは『これの事を言っていたのか』と言わんばかりの表情で見つめた。
「あら、もう私とお話ししたくなったかしら?」
ふふ、と、遂に始まった彼女の手に、何かカクテルでもあれば絵になったのかもしれないが、残念ながら今の彼女に、何かを手に持つ手段はない。頬杖をついたまま、怪しげな笑みでヨウコを見つめた。
「どうしたの?そんなに角を見つめて」
田中が不思議そうにヨウコに訊ねた、途端、彼女達を中心に、半径2キロは証明を1つ落としたかのように夜が深まり、『モブ』からは自我が失われた。最も、それを認識できるのは、精々この世界の神と、招かれた『化物達』のみだ。
「『え、何?………ははは、そうなんだ。』」
田中は、急に虚空に話しかけだした。身振り手振りで言えば、まるで誰かと話しているようであった。
「え?田中さんどうしたの?」
「『え、何?………ははは、そうなんだ。』」
ヨウコの声に、田中は反応せず、先程と同じセリフを繰り返す。彼だけではない。この店内にいる人間全て、先程言った半径2キロ全ての『モブ』が、同様の台詞を繰り返している。その異変に、ヨウコも気が付いたようだった。
「え、ちょ、あーもう!何これ!?」
再びの混乱に、彼女は周囲を不安そうに見渡すが、数時間前よりは多少余裕そうではあった。というより、苛立ちを覚えているようだった。何の説明もなく、理解不能な出来事が連続で起きる、確かに苛立つのも道理が通っている。
「『開演』………!?まさか、そんな!」
この段階で『開演』されるのは、『ゴースト』からしても想定外だったようだ。先程までの余裕を欠いて、彼女は狼狽えた。せめてヨウコに説明をする程度のゆとりはあると思っていたはずだ。
その慢心が、彼女の命を脅かした。彼女と、ヨウコの命を。
「お姉さん、ごめんだけど、色々と教えてくれない?いい加減頭おかしくなりそう。まあ、元からおかしいんだけどね」
そんな彼女の動揺に気付いていないのか、能天気な調子でヨウコは言った。両手を上げて、『降参だ』とでも言わんばかりのヨウコに、彼女は吐き捨てるように舌打ちをした。
「あ、ちょっと!確かに無視したのはよくなかったけどさ!」
「説明はするわ」
「え?」
「ただ、一旦ここから出ましょう」
「いや、あの、私仕事中なんだけど………」
「大丈夫よ。どうせ『モブ』達は何も認識できないから。それより、早く移動しないと、彼らが殺されるわよ。貴女か、もう1人の『フリークス』に」
「どういう、事?」
未だに状況を理解できていないヨウコだが、そんな事は関係ない。既に幕は上がり、彼女は舞台の上に立たされた。最早、自らの役割を演じる以外、選択肢は無い。




