化物と幽霊④
「だから、そんなに怯えなくてもいいじゃない。さっきから言っているけれど、私は貴女とお話がしたいだけなのよ。私達以外が止まっているのは、そのついで。嫌でしょ?一人で話していると思われるのは。これで、世界は私と貴女、2人だけよ」
明らかに異常な状況、からかうように笑う彼女に、そんな中でも私は魅了された。
元々生きる事に対して執着がなかったからなのか、それだけ彼女が魅力的だからなのか、私には分からない。理解できない事象の連続に、物事の連続性を理解せず、ただ目先の情報を脳が受容しているだけ、そんな気もする。
「それで、『榊ヨウコ』ちゃんの話に戻すけれど。彼女は、自分を化物だと思っているみたいなの」
何事も無かったかのように、平然と彼女はそう話し出す。その口から紡がれた女の子は……やっぱり、私だ。
「産まれた時から、自分が女の子である事に、違和感があるんですって。柔らかい肉体も、高い声も、大きな乳房も。その全てが、受け入れられない。心それでいて、男になりたい訳でもない。何故だか分かる?」
やっぱり、私の話だ。
「……分かる、から。この話以外の話、しない?」
「男が嫌いなのよ。生き物として。筋肉質な体も、低い声も、高い背も。その全てに嫌悪感を覚えるらしくて。しかも、彼女が劣情を抱くのは女の子。自分の身体も女の子。心だけが、女でも男でもない。だから、『化物』」
「ねえ、その話、聞きたくない。辞めて」
それでも、彼女は続ける。耳を塞いで、目を塞いだ。しかし、彼女の声は私の手を透過した。
「その癖、ガールズバーで働いているのよ?意味が分からないでしょ。嫌いな男に、女を売っているの。……自傷行為、なんですって。嫌いな男に媚びを売って、自分の心を傷付けて、その痛みで辛うじて生を実感できる。手首の傷も塞がらないうちに、心も傷つけていく。本当に、気持ち悪い。ねえ、『ユキちゃん』?」
彼女から滲む、明確な悪意。妖艶な彼女の言葉は、蛇のように私の身体に絡みつき、心を縛る。呼吸は浅くなり、目を開いているのにも関わらず、自分がどこを見ているのかすら分からない。
「だから辞めてよ!!聞きたくない!!」
彼女の言葉を遮るように私は声を張り上げる。彼女の言っている事は、何一つ間違っていない。だから、聞きたくない。考えたくもない。自分の事なんて。気持ち悪くて、歪んでいて惨め。そんな気持ちが増すばかりだ。
震える手で、スカートのポケットに隠したカッターを取り出して、ワイシャツをめくる。さっき巻いたばかりの包帯を強引に外すと、なりかけのかさぶたが引っ付いて、傷口が開く。けれど、そんな過去のものよりも、今、生きている実感が欲しい。刃を出して、皮膚に当てて思い切り引くと、新しく出来た傷口をコンマ数秒遅れて追いかけるように、絶頂に近い痛みが走った。
「っーーー!!」
ああ、生きてる。不快感と、確かな実感。それと僅かな後ろめたさ。自分が生きている事を誰かに肯定された気がして、嫌な事が少し忘れられた。強いて言えば、この止まった時間では、血が流れない事だけが少し物足りなかった。皮膚の内側に、表面張力程度に滲むだけだった。
「ああ、貴女やっぱり素敵だわ。」
そんな私を、うっとりとした眼差しで見つめながら、彼女はそんな事を言った。他人にリストカットを見られた気恥ずかしさと、沈むような高揚感が綯交ぜになり、私は
「え?何が?」
とやけに明るい調子で聞き返した。この状況も、彼女も、私の感情でさえも、今のこの場に、私に理解と制御が出来るものは、一片たりともなかった。
「私は、貴女を選ぶわ」
彼女がそう言うと、世界は歪み、彼女の面影だけを残して、光は後方に吸い込まれる。昔流行ったSFの、ワープをする時のようだった。違いは、星々の光か、ネオンの光かだけ。
彼女の面影も薄れていく中、最後にその言葉が聞こえた。
「こちらの世界へようこそ、『フリークス』」
◆◇◆◇◆
そうして数秒経った後、ヨウコの目の前にいた彼女の姿は消えていた。残ったのは、『一見』いつもと何ら変わらない景色。安い酒と、香水の匂い。浮かれたような、男女の声に、少し薄暗い店内。背面に感じる、棚と酒瓶の存在感。
「どうしたの、ユキちゃん。さっきからぼぅっとしているけど。」
常連の田中は、心配そうにヨウコを見つめる。彼の声にハッとした表情で周囲を見渡すが、やはり彼女はいない。ヨウコはほっとしたように息を吐いた。先程までのものは、幻覚と結論付けたのだろう。実際、彼女からはそう結論付けるのが、一番現実味がある。
「ううん、何でもない!ごめんね、ちょっと寝不足気味でさ。」
そんな風にヨウコは誤魔化す。実際見てもおかしくない精神状態ではずっとある訳だし、遂にその時が来た、そんな風に思っているのだろう。結果としては間違っているが、因果としてはそう間違いでもない。『そういう精神状態』だからこそ、彼女は選ばれた。
「大丈夫?無理はしないでよ?」
「うーん、何か飲み物飲んだら、もうちょっと頑張れるかなー、なんて。……ちらっ?」
「もー。しょうがないな。良いよ、ドリンク入れて。」
「やった!ありがとー!」
わざとらしく喜んで、ヨウコはいつもの日常に戻る。しかし、彼女はすぐに気が付くべきだった。『そこ』は、いつもの日常と、いくつか相違しているのだと。少なくとも、その変化の一つは、彼女の身体に怒っているのだから。
着ている長袖のワイシャツの、包帯のさらに下。自ら付けた生の実感の証。リストカットの傷は、一切合切消えていた。




