化物と幽霊③
「うちのお店は、60分1セットで4,000円で、ハイボールとビール、あとこっちに書いてある飲み物は飲み放題になります」
そう言って、いつもの調子でラミネートされたA4サイズのメニュー表を差し出す。言い慣れた常套句を言うと、『自分がしている事は接客だ』と再認識できる。おかげで、気持ちが少し落ち着いた。
聞いている彼女はメニュー表に目線を落とし、何やら興味ありげな様子で微笑む。
彼女がお酒を、どころか何か飲み物を飲むイメージはまるでわかないが、きっと飲むのだろう。こういうお店に来ている以上。
先程『ガールズバーには初めて来た』と言っていたが、流石にお酒を飲むタイプの店だとは知っているはずだ。そうでなければ、こんな妖しげな雰囲気の店に独り来ることは無いだろう。きっと。
そんな事を考えながら、私は説明を続ける。
「だだ、キャストドリンクは1,000円かかるのと、反対のこっち面に載ってる飲み物と、ボトルメニューは別料金になります。ここまでは大丈夫?」
「ええ。大丈夫。だって………」
意味ありげに溜めてから、彼女は上目遣いで私を見つめる。蠱惑的な微笑みと、妖しげに光る翡翠のような瞳に私は思わず気圧された。
「私は貴女とお話がしたいだけだもの。だから、正直今の説明は全部、どうでもいいわ」
「えっ。そ、それって、どういう………」
期待に胸を膨らませながら私はそう訊ねる。が、そこに割り込むように、「ゆ、ユキちゃん!」と意を決したように、田中さんが私に呼び掛けた。
「ちょっと待って!今、いいところだから!!」
「な、何が?」
「ちょっと見てたら分かるから!多分!」
今だけは、察しの悪い田中に怒りを覚える。と同時に、彼の存在を認識したことで、自分が化物だという事を再び思い出した。もし、この先の彼女の言葉が愛の言葉であったらどうしよう?もしかしたらドッキリで、喜ぶ私の無様が動画サイトに流されて、世界から嘲笑されるのではないか。そんな被害妄想が頭をかすめる。
しかし、すぐにそんな憂慮は、田中さんの言葉で上書きされた。
「ええ………?さっきからずっと『1人で』話してるけど、今日ってそういうイベントなの?お化けみたいな。」
一瞬聞き流して、その言葉を反芻した後、田中さんの顔をまじまじと見返す。彼の顔からはありありと困惑が見て取れた。どうやら、ふざけているわけではなさそうだ。
「………今、『1人で』って言った?」
「え、うん。ずっと、何か話してるから、最初接客練習かと思ったけど、今やる意味も分からないし、様子も変だし、『なにやってるのかな』って」
「え………でも………?」
それ以上を口に出さず、彼女と田中さんを何度も交互に見つめる。やはり、嘘を付いているように見えないし、そもそもそんな嘘を付く人間じゃない。
つまり、彼女は遂に異常をきたした私の精神が見せた幻覚?まだ幻覚を見た事はないけれど、こんなにはっきりと見えるものなのだろうか?
恐る恐る、彼女に向かってゆっくりと手を伸ばす。その手を目線で追いながら、彼女は避けるでもなく、変わらず蠱惑的な笑みを携えるだけだった。
ゆっくりと伸びた手は彼女の鎖骨付近に向かって伸び、遂に触れる、はずの場所を、彼女の身体を、私の手は貫通した。
驚いて手を引く私に、変わらず微笑んだままの彼女は言う。
「あーあ。バレちゃった。」
残念そうに笑う彼女に、どこか楽しそうに笑う彼女大して、恐怖よりも、困惑が勝った。
彼女は、一体何なのだろう?私の精神が異常をきたして見せた幻覚にしても、幽霊にしても、あまりに存在感がある。先程触れなかったのは何か勘違いだったのではないか、そう思ってしまう程に。
「そんなに驚かないでよ、ショックじゃない」
そう言う彼女は、さして変わらない笑みを浮かべて、むしろ私の狼狽を楽しんでいるように見えた。
「安心して。別に貴女に危害を加えるつもりはないわ。そもそも触れない以上、危害を加えられないでしょ?」
「それは、そうだけど……」
もし仮に幽霊だとしたら、呪い殺すとかは出来そうではある。が、何となくそういった、誰彼構わず当たり散らかす、八つ当たりの悪意のようなものは彼女からは感じられない。むしろ、勝手に困惑するこちらの様子を楽しむタイプだ。
「言ったでしょ?私は貴女とお話をしに来たの。悩める女の子のお話。名前は、確か、『榊ヨウコ』、だったかしら?」
「なん、で……!?」
言葉が出てこない。何故、その名前を?彼女が言った名前、それはーーー。
「どうしたの?ユキちゃん。まるで、『自分の名前と同じ』名前を聞いた、みたいな顔をして」
そう、その通り。まさしく、彼女が言った名前は、私の本名。
ドッキリだ。そうに違いない。
私の本名を知るのは、お店のスタッフ位だし、田中さんは、このお店の常連さんだ。理由は分からないが、ドッキリを仕掛けられた、そう考えるのが自然だ。そんな風に多少の矛盾を無視して正当化しようとする。
「お店で本名を言うのってマナー違反だよ?そう思うよね、田中さん?」
引き攣った笑みを浮かべながら、顔を彼の方に向けた。
彼は、微動だにしなかった。正しくは、彼を含めた、私と彼女以外の、世界の全てが。
「なに、これ………?」
理解の出来ない事の連続で、頭が働かない。ふらついて、私は背後のボトルが並べられた棚にぶつかる。壁にぶつかる痛みを感じるが、反して音は一切鳴らなかった。ガラス同士がぶつかる音も、私の身体が、棚にぶつかった音でさえ。




