ハッピーハーピィ⑩
「あっ……いっ……!?いた、痛い!!」
痺れるような粘度のある熱が顔を伝い、遅れて痛みを知覚した。垂れた液体が目に、頬に垂れる。痛い、熱い、目が見えない。肌が音を立てて沸騰する。
生きる意味が分からない化物も、痛みからは逃れたいらしい。自分の手首を切るような化物でも。
私は置かれている状況を打破する事や、かかった液体の正体への疑問は考える隙もなく、耐え難い激痛の中から逃れることしか考えられない。地面に水溜まりのように溜まった、私が殺したグールの血液や体液に頭を突っ込んだ。その勢いで冷たいアスファルトは砕けて、水溜まりは深さを増す。
硫酸のようなを少しでも洗い流そうと手で掬って頭にかける。右腕が溶けて、肩から外れかけて殆ど動かない事に気がついたが、そんな事はこの液体を洗い流す事に比べたら二の次だった。
生暖かいはずのグール達の体液が冷たく感じる程、溶解した顔の傷は熱を帯びている。幾分液体が流れ落ちたのか、身体の溶けた範囲が拡がる速度は、なだらかになったか収まったかしたような気がする。
「ちょ、それ大丈夫!?」
『幽霊』の心配する声が聞こえるが、頭の一部が溶けているからか、その声の聞こえ方は酷く不鮮明だった。不思議と、グールは私に襲い掛かってこなかった。
「ギャハハハハ!!ダッサ!!踊ってるみたい!!」
ゲラゲラと嘲笑う甲高いエリの声は、痛みと、グールと私の呻き声の中でも鮮明に聞こえた。どこか俯瞰して考えている自分の思考の一つが、『幽霊』がハーピーについて言っていたことを思い出していた。
『ギリシャ神話に出てくる半人半鳥の化物よ。預言者ピネウスに食事を糞尿や吐瀉物を撒き散らしたり、奪ったりして、飢えさせた話が有名ね』
確かに、彼女はそう言っていた。つまり、この液体はーーー
「ほらほらぁ、もういっかいいくよ!?」
嗜虐的な愉悦が、エリの声から溢れる。甲高い彼女の声は、酷く耳障りだった。
「ゔぇッ、オぇェッ……!!」
直後、先程は聞こえなかった、嗚咽と、粘度の高い液体が聞こえる。残った左目でその音のした方をに顔を向ける。エリの口から、黄色みを帯びた液体が吐き出されていた。
私必死に立ち上がって、私はそれから逃れようとした。『そのもの』への生理的嫌悪感よりも、またあの痛みを味わいたくない事への恐怖からだった。グール達はその動きに合わせるように私に襲い掛かるが、その肉は紙切れのようで、骨は木の枝のようだった。
障子と大して変わらないグールは、いともたやすく私の突進で弾けたが、数メートル程走ったところでその肉が身体に絡み血で滑った私はまた無様に転び、頭から血に塗れたアスファルトに突っ込んだ。
後ろの地面で、ボトボトと液体が落ちる音が聞こえる。刹那、水たまりになっていた血液が沸騰する音が聞こえた。
「へー、避けれたんだ。やるじゃん。じゃあもういっかい行くよー。ヴぇぇッ!!」
そう言うと、いつの間にか私の真上に移動していたエリの口から、再び溶解液が吐き出される。慌てて避けようと立ち上がり、グールに向かって突進してそこから離れようとしたが、グールの肉壁が分厚い。少しだけ動いて、すぐにまたバランスを崩し脚に溶解液がかかった。皮膚が泡立ち、肉の焼ける匂いがする。痛い、私の足が溶けて焼けている。
「痛、いやぁぁあッ!!……っ」
その痛みよりも、痛みのせいで私から女みたいな声が出た事の方が、私の心底を傷付けた。気持ち悪くて、吐き気がする。そんな私の様子を気にしない様子で、エリは私を嘲笑った。
「今度は足にかかっちゃったねぇ~~?キャハ!!」
彼女の余裕はそういう事だったのか。私はそこで理解した。私を囲っているグールは、見た目は派手だけれどその実は壁で、あくまで足止めが目的。本命は、溶解液で私を溶かして殺す事。だから私が地面で喚いている間は、グールは襲ってこなかった。私に殺されてしまっては、壁の役割を果たせないから。
最初に襲ってきたのは、あわよくば、を考えたのだろう。それと、目くらましが目的か。
今も、グールは地面に倒れこむ私を見下ろすばかりで、襲い掛かる事もしない。きっと、迂闊に数を減らし過ぎてしまっては壁の役割を果たせなくなるからだろう。見下してきているのに何もしてこない彼らが、酷く不気味だった。
「ほら、もーいっかいいくよ!!」
再び彼女が溶解液を吐き出す。立ち上がろうとするが、溶けた足が痛くて上手く立ち上がれない。這うように数歩動いて、彼女の溶解液をまた私は足に浴びた。両足は骨が見える程だった。
「ーーーっ!!!」
必死に声を押し殺す。痛みは引かないが、それでも私の心は幾分か守れた。
このまま、私は彼女に殺されるのだろう。耐え難い痺れるような痛みを一身に感じながら、私はそんな事を感じた。
彼女の溶解液を避けきる事は最早私には出来ないし、打つ手もない。もうすぐ死ねる。そう考えると、この痛みもどこか愛しいものに思えなくもなかった。だから、それはいい。
「あーあ!!今度はモロに浴びちゃったねぇ!!ギャハハハハ!!」
彼女の声が、癇に障る。甲高い高音が痛みと相まって私の感情を逆撫でする。グールと、血の匂いが不愉快だ。けれど、死ぬ時ってこんなものかもしれない。大抵の事が思い通りにならなくて、大抵のものが不愉快で。自分で死ぬ時を選べなかった私は、それを受け入れなければならない。
「……でも、最期くらい好きな事したいよね」
そうだ。どうせ死ぬんだったらそうしたい。それに、今でも出来る事がある。例えば、『手首よりもすっきりしそうなところを切る』とか。
太刀を、首筋に当てた。
「ちょ、ちょっと!!貴女なにしようとしているのよ!」
そういえば、逃げている最中、私は太刀を持っていたっけ?そんな事が気になったけれど、今から死ぬ私には関係ない。
これで、楽になれる。そんな気持ちで私は斬首した。




