59日前 十一回目に
訓練が終わると、エリオットは誰より早くその場を離れた。
セシリアが追おうとする。
レオンハルトが止めた。
「俺が行く」
セシリアは夫を見る。
「怒らないでくださいね」
「何故俺が怒る」
「あなたは励ますのがあまり上手ではありませんから」
「そうか?」
リゼットが即答する。
「下手です」
「お前まで」
「事実です」
レオンハルトは二人を残し、息子を追った。
◇
エリオットは中庭の隅にいた。
植え込みの向こう。
普段、人がほとんど来ない場所。
木剣を持ったまま、石段へ座っている。
レオンハルトは少し離れた場所で止まった。
「エリオット」
返事はない。
近づく。
隣へ座るほど近くは行かず、前に立つ。
「見ていましたか」
エリオットが言った。
「ああ」
「全部?」
「ああ」
「ひどかったでしょう」
「別に」
エリオットが顔を上げた。
「二回負けました」
「ああ」
「父上は悔しくないのですか」
「俺が負けたわけじゃない」
エリオットの顔が変わった。
すぐに俯く。
レオンハルトも、自分の言葉を一度頭の中で聞き直した。
少し遅れて、
「そういう意味じゃない」
と言った。
「では、どういう意味ですか」
声が硬い。
「お前が負けたことを、俺が悔しがる必要はないという意味だ」
「同じです」
「違う」
「私は父上の息子です」
「ああ」
「王子です」
「ああ」
「なら、負けて平気なのですか」
レオンハルトは答えなかった。
エリオットは木剣を握る。
指が白くなる。
「私は強くならなければならないんです」
「何故だ」
「何故って」
エリオットが顔を上げる。
「父上の息子だからです」
「それは理由にならん」
「なります!」
珍しく大きな声だった。
鳥が一羽、近くの枝から飛び立つ。
エリオット自身も少し驚いた。
だが、止まらなかった。
「父上は強いです」
「ああ」
「皆が父上を頼っています」
「そうだな」
「剣も強い。魔物も倒せる。国のことも全部考えてる。村の人たちにも好かれてる」
レオンハルトは黙って聞いている。
「私だって」
エリオットの声が少しだけ小さくなった。
「いつか父上の後を継ぐんでしょう」
レオンハルトの眉が動く。
「王になりたいのか」
エリオットが少し戸惑う。
「私は第一王子です」
「ああ」
「なら、私がなるものだと思っていました」
「その道はある」
レオンハルトは言った。
「だが、それだけがお前の生き方じゃない」
エリオットは父を見る。
「王になりたいなら目指せばいい」
「……」
「だが、俺の息子だからというだけで決めるな」
エリオットはしばらく黙っていた。
「そんなことを言われても困ります」
「そうか」
「そうです」
エリオットが木剣を見る。
「私はずっと、王になるんだと思っていました」
「それは悪いことじゃない」
「でも父上は、自分で決めろと言う」
「ああ」
「じゃあ私は、何のために強くなればいいんですか」
その言葉に、レオンハルトは少しだけ黙った。
風が通る。
木の葉が擦れる。
エリオットの木剣の先に、土がついていた。
「今日」
レオンハルトが言う。
「一戦目で負けた理由は分かるか」
エリオットが顔を上げる。
「踏み込みすぎました」
「それもある」
「剣を戻すのが遅かった」
「それも」
「他に?」
「俺を見てた」
エリオットが止まる。
「父上を?」
「ああ」
「戦ってる最中に見てません」
「目ではな」
「……」
「勝ちたかったんじゃない」
レオンハルトは言った。
「俺に勝つところを見せたかった」
エリオットは反論しなかった。
「だから攻め急いだ」
「……」
「二戦目は」
レオンハルトが続ける。
「今度は負けるところを見られたくなかった」
エリオットの指が少し緩む。
「だから動けなくなった」
「……はい」
小さな返事。
レオンハルトは腰を落とし、息子と目線を近づけた。
「どっちもダリオを見てない」
エリオットが目を上げる。
「剣を持って目の前にいる相手じゃなく、後ろにいる俺と戦ってた」
「……」
「それじゃ勝てん」
エリオットは俯いた。
しばらく何も言わない。
「父上」
「何だ」
「怒ってますか」
「何故」
「負けたから」
「怒る理由がない」
「でも二回」
「十回負けても同じだ」
エリオットが驚いて見る。
「十回も負けたら駄目でしょう」
「十一回目に何をするかだ」
「十一回目も負けたら?」
「十二回目を考えろ」
「十二回目も?」
「面倒だな、お前」
エリオットが少しだけ口を開く。
一瞬。
ほんの少し笑った。
「父上が言い出したんでしょう」
「そうだったか」
「そうです」
沈黙。
今度は重くなかった。
エリオットが訊く。
「父上も負けたことがありますか」
「ある」
即答だった。
「誰に?」
「色々」
「何回?」
「覚えてない」
「そんなに?」
「若い頃はな」
「今は?」
レオンハルトは少し考える。
「剣だけなら、俺より強い奴はいくらでもいるだろう」
「この国にも?」
「いるかもしれん」
「悔しくなかったのですか」
「悔しい」
「父上でも?」
「俺を何だと思ってる」
今度はエリオットが笑った。
ほんの少しだけ。
「何でもできる人です」
レオンハルトは顔をしかめる。
「やめろ」
「どうしてですか」
「面倒だからだ」
「皆そう思ってます」
「間違ってる」
エリオットは木剣を膝の上へ置く。
「私は父上みたいになりたいです」
レオンハルトは息子を見る。
「俺になる必要はない」
「……また難しいこと言ってる」
「同じ人間にはなれん」
「分かってます」
「なら、自分で強くなれ」
エリオットは考える。
「自分で」
「ああ」
「父上に見せるためじゃなく?」
「俺に見せても腹は膨れん」
「そういう話じゃないです」
「知ってる」
また少し笑った。
レオンハルトは立ち上がる。
「戻れるか」
「はい」
「なら戻れ」
「父上は?」
「仕事だ」
エリオットが少しだけ呆れた顔をする。
「本当に仕事してるんですね」
レオンハルトが見る。
「誰から聞いた」
「誰からも」
「お前も俺を暇だと思ってたのか」
「少し」
「……そうか」
今度はエリオットの方が笑った。
◇
訓練場へ戻ると、ダリオはまだいた。
木剣を片づけている。
エリオットを見ると、すぐ姿勢を正した。
「殿下」
エリオットはその前へ行く。
「ダリオ」
「はい」
少し間。
「次も、手を抜かないでください」
ダリオが目を瞬く。
「もちろんです」
「今日じゃないです」
「はい」
「次です」
ダリオの表情が少し緩む。
「分かりました」
エリオットは手を出した。
ダリオは一瞬迷い、その手を握る。
「次は勝ちます」
「俺も負けません」
「それでいいです」
少し離れた場所でリゼットが見ていた。
その隣にセシリア。
「少し機嫌直ったみたい」
リゼットが言う。
「そうね」
「父上、何言ったんでしょう」
「さあ」
セシリアは微笑む。
「ただ、余計なことを言っていないといいのだけれど」
◇
午後。
レオンハルトが執務室へ戻ると、オルフェンは同じ位置にいた。
紙だけが増えている。
「二時間二十三分です」
入るなり言われた。
「数えてたのか」
「仕事ですので」
「何の仕事だ」
「陛下の所在把握」
レオンハルトが席へ座る。
机の端に新しい紙がある。
「カイルか」
「はい」
レオンハルトは取った。
紙には、市場へ入った麦の量が前年、先月、今月と並べられていた。今月分はまだ途中集計だ。
一つの市場だけでは何とも言えない。
それでも、入荷量は下がっている。
レオンハルトは紙を置いた。
「他も取る」
「すでに指示しました」
「農村側は」
「調査中です」
「早いな」
「陛下が剣術見物をしている間も働いておりましたので」
「まだ言うのか」
「あと三回ほど」
レオンハルトはため息をついた。
それでも口元は少し緩んでいた。
◇
夕食の席。
リゼットは待っていた。
エリオットが座った瞬間、
「二回負けたんですって?」
と言った。
エリオットの顔が険しくなる。
「誰から聞いたんですか」
「城中」
「嘘です」
「半分くらい」
「もっと嘘です」
「じゃあ、私と母上」
エリオットは姉を睨んだ。
「見てたでしょう」
「見てたわよ」
「なら聞く必要ないじゃないですか」
「言いたかったの」
「最低です」
リゼットは笑う。
「でも」
少しだけ声が変わった。
「逃げなかったんでしょう」
エリオットが姉を見る。
「二回目もやったんでしょ」
「……はい」
「じゃあいいじゃない」
「負けてるんですよ」
「次勝てば?」
「簡単に言わないでください」
「簡単には言ってないわよ」
リゼットはスープを飲む。
「私なら一回負けたら、たぶん二回目やらないもの」
「姉上は剣をやらないでしょう」
「だからよ」
「意味が分かりません」
「私も」
エリオットは呆れた。
だが、少しだけ笑った。
セシリアが夫を見る。
「何を話したのですか」
「別に」
「その答えは信用できません」
「何故だ」
「実績です」
リゼットが笑う。
エリオットも笑った。
レオンハルトだけが納得していなかった。
◇
夜。
城の廊下を歩いていたレオンハルトは、庭から音がするのに気づいた。
木剣が空を切る。
一度。
止まる。
また一度。
覗く。
エリオットだった。
レオンハルトは黙って見た。
何度も振ってはいない。
一歩。
木剣を出す。
止める。
足元を見る。
戻る。
もう一度。
今度は踏み込みを浅くする。
剣を戻す。
「そこだと遅い」
レオンハルトが言った。
エリオットが飛び上がる。
「父上!」
「驚きすぎだ」
「いつから見てたんですか」
「少し前から」
エリオットは木剣を下ろす。
「一戦目のところを確認してました」
「そうか」
「踏み込みすぎてたので」
「ああ」
「二戦目は明日にします」
レオンハルトが少し意外そうに見る。
エリオットは先に言った。
「今日はもう寝ます」
「そうしろ」
「母上にもそう言ってください」
「何を」
「ちゃんと寝たって」
「自分で言え」
「父上が見てた方が信用されます」
「俺は証人か」
「はい」
エリオットは木剣を片づける。
歩き出す。
数歩進んだところで振り返った。
「父上」
「何だ」
「次は勝ちます」
レオンハルトは少し考える。
「そうか」
「それだけですか」
「勝て」
エリオットの顔が明るくなった。
「はい」
今度は満足したらしい。
木剣を抱えて城へ戻っていく。
レオンハルトもその後を歩いた。




