58日前 王女の小さな秘密①
朝食の席で、リゼットは三度目に時計を見た。
セシリアが気づく。
「今日は何か予定があるの?」
「ありません」
答えが少し早かった。
隣でパンを食べていたエリオットが顔を上げる。
「姉上、さっきから時計ばかり見てますよ」
「あなたは人のことより、自分の剣のことを考えてなさい」
「考えてます」
「昨日二回負けたものね」
エリオットの眉が動く。
「それは関係ないでしょう」
「あるんじゃない?」
「ありません」
レオンハルトは黙ってスープを飲んでいた。
エリオットが姉を見る。
「それより、最近ずっと本を読んでますね」
リゼットの手が止まる。
「本?」
「詩集です」
「……そうね」
「そんなに面白いんですか」
「面白いわよ」
「どんな詩です?」
リゼットは少し黙った。
エリオットが目を細める。
「読んでないんじゃないですか」
「読んでるわよ」
「じゃあ、どんな詩です?」
「朝から詩の話をしたいの?」
「姉上がしてるんでしょう」
セシリアが紅茶を口へ運びながら二人を見る。
リゼットはエリオットを睨んだ。
「あなた、本当に昨日負けたばかりなのに元気ね」
「関係ないって言ってるでしょう」
レオンハルトがようやく口を開く。
「仲がいいな」
二人が同時に父を見る。
「よくありません」
「よくないです」
レオンハルトは少しだけ笑った。
食事が終わる。
リゼットは席を立った。
「では、私は部屋へ戻ります」
セシリアが言う。
「詩集?」
「はい」
また少し早い返事。
セシリアは娘を見た。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
◇
部屋へ戻ったリゼットは、扉が閉まるのを待った。
三つ数える。
それから振り返る。
「アンナ」
部屋の隅にいた侍女がため息をついた。
アンナは二十歳。淡い茶色の髪を後ろでまとめた、小柄な娘だった。
「今日はやめませんか」
「どうして?」
「今朝、王妃殿下に怪しまれました」
「いつもそんなこと言ってるわね」
「今日は本当に怪しまれていました」
アンナは真顔だった。
「私はまだ二十歳なんです」
「知ってるわ」
「処罰されるには若すぎます」
「処罰なんてされないわよ」
「王女殿下の秘密の外出を手伝っている侍女ですよ?」
「声が大きい」
「誰のせいですか」
リゼットは衣装棚を開けた。
豪華な色は避ける。
刺繍もない。
淡い茶色のワンピースを取り出した。
アンナが見ている。
「本当に行くんですね」
「行くわ」
「昨日も行きたかったんでしょう?」
「昨日はエリオットの試合があったもの」
「だから一日我慢したと」
「我慢って何よ」
「我慢ですよ」
アンナは服を受け取った。
「髪もまとめます」
「お願い」
腰まである淡い金髪を上へまとめ、上から地味な布を巻く。
鏡の中には、王女らしい装飾はほとんど残っていない。
近くで見れば育ちの良さまでは隠せない。
それでもリゼットは満足そうだった。
「どう?」
「高そうな家の世間知らずなお嬢さんです」
「町娘には見えない?」
「努力は認めます」
「それ褒めてないでしょう」
「褒めてません」
◇
アンナには、その日の買い出し許可が出ていた。
王城では厨房や女官の買い物で毎日何人もの使用人が城外へ出る。
門では責任者と人数、帰城予定を確認する。
城で働く者すべての顔を、警備兵が覚えているわけではない。
それでもリゼットにとっては、毎回一番緊張する場所だった。
今日はアンナを含め三人の買い出し組に混じる。
リゼットは籠を持ち、顔を上げすぎないよう歩いた。
門番が許可札を見る。
「三人だな」
「はい」
アンナが答える。
門番の目が順に動く。
リゼットのところでも一瞬止まった。
「新しい子か」
アンナが答える。
「最近、女官側の手伝いに入った子です」
「そうか」
それだけだった。
「日暮れ前には戻れよ」
「はい」
門を抜ける。
角を曲がったところで、アンナが長く息を吐いた。
「やっぱり無理です。毎回寿命が縮みます」
「今日は上手だったでしょう」
「殿下は籠を持って歩いていただけです」
「外ではリズ」
アンナが嫌そうな顔をした。
「……リズ」
「そう」
リゼットは笑う。
城壁から離れるにつれて、歩く速さが自然に上がった。
◇
王都は朝から人で溢れていた。
荷車の間を職人や商人、買い物客や子どもが行き交い、犬まで足元を走る。
焼いた肉とパンの匂いが混じり、城の窓から眺める町とはまるで違っていた。
リゼットは果物の露店で林檎を二つ買った。
「銅貨四枚」
今日は迷わない。
四枚を数えて渡す。
店主から林檎を受け取り、一つをアンナへ渡した。
「はい」
「ありがとうございます」
「今日は何も言わないのね」
「何をです?」
「お金の出し方」
アンナは林檎を齧る。
「三か月もあれば、さすがに銅貨くらい覚えていただかないと困ります」
「最初から知ってたわよ」
「銀貨を出した方が何か言っています」
「それは一度だけ」
「一度で十分です」
リゼットはむっとした。
そのまま西通りへ入る。
目当ての焼き菓子屋は、以前から気になっていた店だった。
城でも時々その店の菓子が出る。
けれど、自分で店へ入り、自分で選ぶのは別だった。
扉を開く。
「いらっしゃい」
年配の女主人がリゼットを見る。
「あら。また来たの」
「こんにちは」
「今日は銀貨じゃないだろうね」
アンナが吹き出した。
リゼットが振り返る。
「笑わないで」
「すみません」
全く悪びれていない。
「八つください」
「銅貨二十四枚」
今度はきちんと数える。
女主人が受け取りながら笑った。
「随分上手になったね」
「だから子どもじゃありません」
「はいはい」
包みを受け取る。
店を出ると、アンナが言った。
「成長しましたね」
「あなたまで言わないで」
◇
西通りから少し離れると、人通りが減った。
舗装もところどころ崩れ、小さな家や工房が増える。
その先に、古い石造りの建物があった。
二階建て。
壁には何度も補修した跡。
窓枠も少し歪んでいる。
正式には町の共同救護所だった。
親を亡くした子だけでなく、親族が見つかるまで預けられている子や、家庭の事情で一時的に暮らしている子もいる。
十人ほどの子どもたちを、町から雇われた世話役の女性と数人の手伝いが見ていた。
リゼットが最初に来た頃は、全員が孤児なのだと思っていた。
ミアに訂正された。
扉を叩く前に、中から声がした。
「開いてるよ!」
入った途端、子どもが三人走ってくる。
「リズ!」
「来た!」
「今日は何?」
「先に挨拶しなさい」
奥から声を飛ばしたのは、十二歳のミアだった。
濃い茶色の髪を顎の辺りで切った細身の少女で、少し目つきが鋭い。
リゼットを見る。
「遅い」
「まだ昼前よ」
「この前より遅い」
「色々あったの」
「また迷った?」
「迷ってない」
「この前もそう言った」
アンナが笑う。
「こんにちは、ミア」
「こんにちは、アンナ」
奥の台所から世話役の女性が顔を出した。
「また来てくれたのね」
「お邪魔します」
リゼットは焼き菓子の包みを見せた。
「これ、みんなで」
「いつも悪いわね」
「大したものじゃありません」
子どもたちが一斉に、
「食べたい!」
と騒ぎ出した。
「だから待ちなさいってば」
ミアが怒鳴る。
リゼットは笑いながら中へ入った。
◇
焼き菓子は半分に切って分けた。
小さい子には少し大きめ。
「なんで僕の小さいの?」
一人の少年が言う。
「この前二つ食べたでしょう」
「誰に聞いたの?」
ミアが手を上げる。
少年が睨む。
「裏切り者」
「食べすぎ」
リゼットはこういう会話が好きだった。
誰も頭を下げない。
誰も「王女殿下」とは呼ばない。
間違えれば笑われる。
知らなければ、知らないと言われる。
食べ終わると、ミアが紙を一枚持ってきた。
「この前の続き」
文字の練習だった。
ミアは簡単な文章なら読める。
書く方は、まだよく綴りを間違える。
リゼットが紙を見る。
「ここ。同じ文字が二つある」
「ない」
「あるわよ」
「見えない」
「ほら」
指で示す。
ミアが顔を近づけた。
「……ほんとだ」
「でしょう」
「字が細かいんだよ」
「もっと大きく書けばいいじゃない」
「紙がもったいない」
リゼットの手が止まる。
「そうなの?」
「そうだよ」
ミアはそれだけ言って、また続きを書き始めた。
リゼットもそれ以上は聞かなかった。
城では考えたこともなかった。
ただ、そのことだけは覚えた。
◇
昼過ぎ。
年下の少年が細い枝や木片を抱えて戻ってきた。
ミアが見る。
「少ないね」
「今日はこれだけ」
「向こうも?」
「ほとんど拾われてた」
リゼットが聞く。
「何をしてるの?」
「薪集め」
「買えばいいじゃない」
口にしてから、止まった。
ミアが見る。
「金があればね」
リゼットは口を閉じた。
アンナも何も言わない。
「最近高いんだよ」
ミアは枝をまとめながら言う。
「薪が?」
「うん。運んでくる量が減ったって」
「冬は?」
「だから今から集めてる」
「足りなかったら?」
「我慢する」
当たり前のように言う。
リゼットは黙った。
ミアが顔を見る。
「そんな顔しなくていいよ」
「どんな顔?」
「かわいそうって顔」
「してない」
「してる」
「してないわ」
「してる」
リゼットは言い返しかけたが、やめた。
「私も拾う」
「薪を?」
「そう」
ミアが笑った。
「無理」
「どうして」
「リズ、薪にできる木とできない木、分かる?」
「分かるわよ」
「じゃあ行く?」
「行く」
アンナが頭を抱えた。




