58日前 王女の小さな秘密②
建物の裏手から少し歩いたところに、使われなくなった空き地があった。
端に雑木が残っている。
ミアは慣れた手つきで乾いた枝を拾う。
リゼットも真似した。
一本拾う。
折ろうとする。
折れない。
「それ生木」
「見れば分かるの?」
「分かる」
「どうやって」
「色とか触った感じ」
「全部同じに見える」
「それはリズが何も知らないから」
「言い方」
別の枝を拾う。
今度は乾いていた。
力を入れると折れる。
「これは?」
「使える」
リゼットの顔が少し明るくなる。
「でしょう」
「一本だけだけど」
「最初から何でもできる人なんていないわ」
「誰に教わったの?」
「父上――」
止まる。
ミアが見る。
「父?」
「……父」
「何してる人?」
「色々」
「何それ」
「人の話を聞いたり」
「それ仕事?」
「仕事よ」
「変なの」
リゼットは少し笑った。
「変なのは否定しない」
その時、アンナが辺りを見回した。
「トムは?」
ミアが振り向く。
七歳の少年がいない。
さっきまで近くで枝を拾っていた。
「トム?」
呼ぶ。
返事がない。
ミアの顔から笑いが消えた。
三人はすぐ救護所へ戻った。
世話役にも確認する。
戻っていない。
近所を手分けして探した。
市場裏。
井戸の周辺。
荷車置き場。
リゼットが路地を曲がった時、小さく犬が鳴いた。
立ち止まる。
もう一度。
木箱の陰だった。
「トム!」
少年が顔を上げる。
泣いていた。
その前に、小さな犬がうずくまっている。
前脚に血がついていた。
リゼットは駆け寄った。
「何してるの!」
トムがびくっとする。
リゼットは息を整えた。
しゃがむ。
「……ごめん。どうしたの?」
「犬が」
「怪我してた?」
頷く。
「だから追いかけたの?」
また頷く。
「置いていけなかった」
リゼットは少年と犬を見た。
強く怒れなくなった。
「助けたかったのね」
「うん」
「でも、黙っていなくなったら皆が心配するでしょう」
「ごめんなさい」
「次からは言って」
「うん」
犬を見る。
城なら。
王女なら。
誰かを呼べば済む。
「兵を――」
言いかけて止まった。
トムが顔を上げる。
「兵?」
「……詳しい人を呼ぼうかと思って」
「犬に?」
「獣医とか」
「ここにいないよ」
「そうよね」
後ろから足音がした。
「トム!」
ミアだった。
駆け寄り、少年を叩きそうになって。
途中で手を止めた。
代わりに抱きしめる。
「馬鹿!」
「ごめん」
「本当に馬鹿!」
リゼットは黙ってそれを見た。
◇
犬は近くの厩で働く男が診てくれた。
骨は折れていない。
傷を洗い、布を巻く。
代金を払おうとリゼットが財布へ手を伸ばしたところで、アンナが止めた。
「今日は私が」
「でも」
「毎回リズの財布から銀貨が出てきたら不自然です」
リゼットは手を止める。
「……そうね」
「やっと分かりました?」
「今は分かってたわよ」
アンナが笑った。
帰り道。
鐘が鳴った。
二人が同時に空を見る。
「何時?」
リゼットが聞く。
アンナの顔が青くなる。
「走ります」
「そんなに?」
「走ります」
説明はそれで十分だった。
◇
部屋へ戻った時には、二人とも息を切らしていた。
リゼットの裾には土。
袖にも薄い汚れ。
まとめた髪も少し崩れている。
アンナが扉を閉める。
「誰にも見られてませんよね」
「たぶん」
「たぶんって――」
二人とも止まった。
椅子にセシリアが座っていた。
「おかえりなさい」
アンナの顔から血の気が引く。
リゼットも動けない。
「母上」
セシリアの視線が娘の裾から袖、崩れた髪へ移る。
次にアンナを見て、最後に机の上の詩集で止まった。
「詩集は面白かった?」
リゼットは何も言えなかった。
◇
アンナは先に下がらされた。
「王妃殿下、私は――」
「あなたからも後で聞きます」
「はい……」
扉が閉まる。
母娘だけになる。
セシリアは怒鳴らない。
その方が怖かった。
「いつから?」
リゼットは観念した。
「……三か月くらい前から」
「三か月」
「毎日じゃありません」
「それは分かっています」
「いつから気づいていたの?」
「数日前からです」
リゼットが顔を上げる。
「靴や服に、説明のつかない汚れが何度かあったから」
「そんなところまで見るの?」
「母親ですから」
「今日の朝で?」
「確信しました」
「詩集?」
「ええ」
リゼットは小さくため息をついた。
「エリオットのせいだわ」
「人のせいにしない」
「はい」
セシリアが向かいの椅子を示す。
「座りなさい」
リゼットが座る。
「どこへ?」
「町です」
「何をしに?」
「最初は、本当に歩いてみたかっただけです」
「今は?」
リゼットは少し迷った。
「共同救護所に行っています」
それから、ミアや子どもたちのこと、字の練習や焼き菓子、薪集め、それにトムと犬のことまで話した。
セシリアは途中で一度も口を挟まなかった。
「そう」
全部聞いてから、ようやく言った。
リゼットが恐る恐る聞く。
「怒っていますか」
「怒っています」
「やっぱり」
「町へ行きたいと思ったことにではありません」
セシリアは続ける。
「何も伝えず、護衛もなく出続けたことにです」
「アンナはいました」
「アンナは侍女です。あなたを守る訓練を受けた者ではありません」
「……はい」
「今日、トムという子を探したのでしょう」
「はい」
「もし、その途中であなたがいなくなったら?」
リゼットは答えなかった。
「あなた一人の問題では済みません」
「分かっています」
「本当に?」
リゼットは少し黙ってから、
「今日、少し分かりました」
と答えた。
セシリアは娘を見る。
それ以上責めなかった。
「もう行ってはいけませんか」
「勝手には駄目です」
リゼットの顔が曇る。
「ただし、行くこと自体は禁止しません」
「え?」
「行き先を伝えること。日暮れ前に戻ること。そして護衛を一人つけること」
「それじゃ王女だと分かるでしょう」
「分からない服装で同行させます」
「できるの?」
「あなたが三か月できたのですから、訓練を受けた人間ならもっと上手にできます」
反論できなかった。
「アンナは?」
リゼットが聞く。
「叱ります」
「処罰は?」
「あなたを何度も止めようとしていたのでしょう?」
リゼットは少し考えた。
「……一応」
「一応?」
「かなり」
「なら、責任をすべてアンナへ押しつけるつもりはありません」
リゼットがほっとする。
セシリアはそれを見逃さなかった。
「ですが、あなたも一緒に叱られます」
「はい」
「父上には?」
「私から話します」
「怒るでしょうか」
「心配はするでしょうね」
少し間。
「理由を聞けば、怒るだけでは終わらないと思います」
「どうして?」
「本人も似たことをしていますから」
リゼットは嫌そうな顔をした。
「それは少し嫌です」
セシリアが笑った。
◇
夕食の席。
リゼットは何事もなかったように座っていた。
そのつもりだった。
レオンハルトが娘の袖を見る。
「泥」
リゼットが固まる。
エリオットも見る。
「本当だ」
「見ないで」
「何したんですか」
「何も」
「何もして泥つかないでしょう」
「あなたには関係ない」
レオンハルトがセシリアを見る。
セシリアは普通に食事をしていた。
「何かあるのか」
「食事のあとで話します」
レオンハルトは妻を見る。
リゼットを見る。
「分かった」
それ以上追及しない。
エリオットだけが納得しない。
「何ですか」
「あなたには関係ないって言ってるでしょう」
「絶対何かある」
「しつこい」
「姉上が怪しいからです」
「昨日二回負けた人は黙ってなさい」
「またそれ!」
食卓はいつもの調子へ戻った。
◇
食後。
レオンハルトはセシリアから概要を聞いたあと、リゼット本人にも尋ねた。
「何故行った」
「母上から聞いたでしょう」
「お前から聞きたい」
リゼットは少し黙った。
「誰も私を王女だと知らない場所へ行ってみたかったんです」
レオンハルトは黙っている。
「自分で歩いて」
「自分で買って」
「間違えたら笑われて」
「知らないことを、知らないって言われて」
少し笑う。
「そこでは、私が何を言っても『王女殿下のおっしゃる通りです』ってならないから」
「馬鹿なことを言ったら?」
「馬鹿って言われます」
「そうか」
「ひどいでしょう」
「いい場所だな」
リゼットが目を瞬く。
「怒らないの?」
「勝手に出たことには怒ってる」
「やっぱり」
「でも理由は分かる」
「どうして?」
レオンハルトは少し考えた。
「似たことをしてるな」
「誰に?」
「俺に」
リゼットの顔が露骨に嫌そうになる。
「それは少し嫌です」
「何故だ」
「母上に怒られてばかりでしょう」
レオンハルトがセシリアを見る。
セシリアは微笑んでいる。
「否定できん」
「でしょう?」
レオンハルトは娘へ視線を戻す。
「町へ行くなとは言わん」
リゼットが少し驚く。
「ただ、自分が何でもできると思うな」
「はい」
「困ってる奴を助けようとするなとも言わん」
リゼットは父を見る。
「でも、自分まで助けられる側になるな」
少し間。
「分かりました」
レオンハルトは頷いた。
「ならいい」
◇
翌日。
リゼットはまた地味な服を着ていた。
ただし今日は、アンナのほかにもう一人いる。
三十歳前後の女性。
黒髪を簡単にまとめ、町の女性と変わらない服装をしている。
腰にも目立つ武器はない。
女性が軽く頭を下げた。
「エマと申します。本日はご一緒します」
リゼットは少し眺める。
「護衛には見えない」
「そう見えないようにしております」
セシリアが言う。
「行き先を変える時はエマへ伝えること」
「はい」
「日暮れ前」
「はい」
「勝手に一人で離れない」
「はい」
「返事だけは立派ね」
リゼットは少し笑った。
「行ってきます」
◇
救護所の扉を開ける。
「リズ!」
子どもたちが走ってくる。
ミアは奥から顔を出した。
リゼットを見る。
その後ろのエマを見る。
「誰?」
「知り合い」
「また変な人連れてきた」
「変な人じゃないわよ」
エマが少しだけ笑う。
ミアはすぐリゼットへ戻る。
「今日は遅くないね」
「今日は迷ってないから」
「昨日も迷ってないって言ってた」
「本当に迷ってない」
「怪しい」
「何がよ」
「リズ、今日ちょっと機嫌いい」
「いつもいいわよ」
「嘘」
リゼットがむっとする。
ミアは紙を持ってきた。
「この前の続き」
「また字?」
「終わってないから」
「薪は?」
「あとで」
「今日はちゃんと三本拾うから」
「目標低いね」
「昨日一本だったんだから三倍よ」
「そういう数え方するんだ」
「うるさい」
リゼットは靴を脱いで中へ入った。
今日も誰も頭を下げなかった。




