7日前 王都の前
最後の避難民が、王都の門へ向かっていた。
城壁の外には、まだ人がいる。
荷車。
家畜。
負傷者。
それを守りながら戻ってくる兵。
そして、そのさらに向こうには帝国軍がいた。
この十日の間に、街道や橋、地方拠点へ散っていた帝国軍は、少しずつ王都の周囲へ集まっていた。
王国側もまた、その間に残る住民と物資、兵を内側へ戻し続けてきた。
いま城壁の外にいるのは、その最後だった。
◇
王城の作戦室では、地図の上からいくつもの印が消えていた。
国境。
地方拠点。
街道沿いの砦。
守れなくなった場所を、そのたびに消してきた。
レオンハルトは地図ではなく、その横に置かれた帳簿を見ていた。
「一年、持つんだな」
オルフェンが頷く。
「現在の人数で配給を管理し、各地から回収した物資を予定どおり使えれば、その見込みです」
「食料だけじゃないぞ」
「薬、矢、飼料、燃料、水。すべて含めて確認しています」
レオンハルトはもう一度、地図を見る。
帝国軍に追われるたび、ただ後ろへ逃げたわけではない。
住民を先に出した。
兵を戻した。
運べる食料を運んだ。
薬も矢も、使える荷車も連れてきた。
家畜も、動かせるものは王都へ入れた。
守備線が破られてから逃げれば、それらは置いていくしかない。
だから、その前に下がった。
「向こうは?」
レオンハルトが尋ねる。
「王都まで来た兵を、毎日食わせ続ける必要があります」
オルフェンが地図の外側を指す。
「兵だけではありません。馬、荷車、補給要員。ここまで伸びた道を維持し続ける必要もあります」
「途中で食えるものは」
「多くありません」
王国側が持ち出せるものを先に持ち出したからだ。
何も残っていないわけではない。
だが、大軍を支えられるほどではない。
レオンハルトが腕を組む。
「一年は待てない」
「帝国も、そのつもりはないでしょう」
「三か月」
オルフェンが視線を上げる。
「はい」
「三か月ここに縛りつければ、今の規模の軍をそのまま置き続けるのは重くなる」
「補給だけではありません。他国への進軍も、灰化への対応も遅れます」
レオンハルトは地図の中心にある王都を見る。
自分がいる場所なら、帝国兵を押し返せる。
だが、自分一人で国中の道も橋も村も守ることはできない。
それなら。
守るものを、自分たちが守れる場所へ集める。
「だから、ここまで下がった」
オルフェンが静かに言った。
レオンハルトは頷いた。
「逃げるためじゃない」
窓の向こうに、王都の城壁が見える。
「あそこで止めるためだ」
扉が開いた。
兵が入ってくる。
「陛下。最後の避難列が見えました」
レオンハルトは立ち上がった。
「行くぞ」
◇
城門の前では、役人と兵士が声を張っていた。
「荷車は止めないでください!」
「歩ける人は右へ!」
「負傷者を先に!」
門の内側では、受け入れる側も走り回っている。
空になった倉庫へ食料を運ぶ者。
家畜をつなぐ場所を探す者。
家族とはぐれた子どもの名前を聞く者。
リゼットも水桶を運んでいた。
「王女様、それは私が!」
兵士が手を伸ばす。
「半分持ってください」
「え?」
「一人で持つより早いでしょ」
兵士は一瞬だけ固まり、慌てて反対側の取っ手を掴んだ。
「はい!」
二人で桶を運ぶ。
門の外から、また荷車が入ってきた。
車輪が傾いている。
数人の兵と農民が横から押していた。
「止めるな!」
「あと少し!」
リゼットが桶を置き、そちらへ走る。
「縄!」
「殿下、危ないです!」
「止まったままの方が危ない!」
門の内側からも人が出る。
皆で縄を引いた。
軋んでいた車輪が石の段差を越え、荷車が城壁の中へ入った。
乗っていた老人が何度も頭を下げる。
誰も立ち止まらせなかった。
次が来る。
その次も。
まだ外には人がいた。
◇
城壁の外。
王国軍は、王都から少し離れた場所に最後の防衛線を置いていた。
土地を守るためではない。
後ろにいる人間を、全員門の中へ入れるためだった。
レオンハルトは馬を防衛線の後方へ預け、歩いて前へ出た。
隊長が遠くを見る。
「近づいてきます」
帝国軍の先頭が、街道の向こうに見える。
一列ではない。
街道脇の畑にも兵影があり、その後ろにはさらに旗が続いている。
「あとどれくらいだ」
レオンハルトが聞く。
「最後の物資隊が一つ。避難民もまだ少し残っています」
「なら、それまでだ」
隊長が剣を抜いた。
「追い返しますか」
「必要ない」
レオンハルトも剣を抜く。
「時間だけ取る」
王国兵が盾を並べた。
後ろを振り返れば、王都の門が見える。
そこへ向かって、人が走っている。
前を見れば、帝国軍が来る。
「来るぞ!」
最初の衝突は、街道の上だった。
盾がぶつかり、槍が伸びる。
王国軍は前へ出ない。
一歩押されれば、隣が支える。
帝国兵が横へ広がれば、王国側も列をずらした。
レオンハルトがいる場所では、帝国兵の動きが鈍る。
「あれだ!」
「レオンハルトだ!」
声が走った。
帝国側も、もう知らない相手ではない。
正面から深く入り込まず、距離を取りながら別の兵が横へ回ろうとする。
レオンハルトは追わなかった。
「列を崩すな!」
王国兵へ声を飛ばす。
「前へ出すぎるな! 門から離れるな!」
一人を倒すための戦いではない。
敵を押し返すためでもない。
ただ、後ろの人間が門へ届くまで。
そこに立っていればいい。
◇
城壁の上から鐘が鳴った。
一度。
まだ終わりではない。
王国兵は持ち場を保つ。
少しして、二度目。
荷車が最後の坂を上っている。
門の内側から兵が飛び出し、車輪へ手を掛けた。
その後ろには、歩くのが遅れた老人と、子どもを抱いた女がいる。
フィンとガルドも一緒だった。
「こっちです!」
フィンが老人の腕を取る。
「門まであと少しです!」
ガルドは振り返る。
遠くで王国軍と帝国軍がぶつかっている。
その中にレオンハルトの姿も見えた。
「見るな」
ノアが言った。
「前見ろ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「お前に言われたくねえな」
ノアはすでに三回は後ろを見ていた。
フィンが老人を門の内側へ連れていく。
最後の荷車も続く。
「あと誰ですか!」
門番が叫ぶ。
兵が名簿を見る。
「外の守備隊だけだ!」
その声が城壁へ上がった。
伝令が走る。
◇
帝国軍の圧力が強くなっていた。
王国軍の目的が撤収だと分かっている。
ここで王国兵を多く削れれば、城壁の中へ戻る戦力も減る。
それでも王国兵は、前へ出なかった。
レオンハルトが横を見る。
隊長の盾には深い傷が増えている。
「まだ持つか」
「門が閉まるまでなら」
「十分だ」
その時。
王都から三度目の鐘が鳴った。
長く。
一度だけ。
レオンハルトが顔を上げる。
終わった。
全員、入った。
「下がるぞ!」
声が防衛線を走った。
前列が下がる間、後ろの列がその場に残って帝国軍を受け止める。
前列が距離を取ると、今度は残っていた列が下がった。
列を入れ替えながら、少しずつ王都へ近づいていく。
帝国軍も追ってくる。
だが王国側は、もう守る場所を変えない。
目の前にあるのは城門だけだった。
「陛下!」
隊長が叫ぶ。
「先に!」
「お前らが先だ!」
「またそれですか!」
「まただ!」
兵が一人、門へ走る。
次。
また次。
レオンハルトは最後尾近くに残った。
帝国兵が迫る。
剣を交える。
一度だけ押し返す。
それ以上は追わない。
王都までの距離を確認する。
あと少し。
後方から兵が馬を引いてくる。
「陛下!」
門番の声も聞こえた。
「早く!」
「分かってる!」
レオンハルトが馬へ飛び乗った。
最後に残っていた兵も走る。
帝国軍が距離を詰める。
その瞬間、帝国側から声が飛んだ。
「深追いするな!」
追撃の勢いが鈍った。
城壁の上には弓兵が並んでいる。
ここから先まで近づけば、今度は帝国側が城壁を見上げることになる。
レオンハルトは振り返らなかった。
馬が城門をくぐる。
門番が叫ぶ。
「全員入った!」
重い扉が動き始めた。
レオンハルトは馬を止め、初めて外を見た。
畑がある。
家がある。
道がある。
壊れていないものも多い。
その向こうに、帝国軍がいる。
ついさっきまで、あの道の先には王国兵がいた。
今はもう誰もいない。
扉の隙間が狭くなる。
最後まで見えていたのは、王都から外へ伸びる一本の道だった。
「陛下」
門番が見る。
レオンハルトは頷いた。
「閉めろ」
扉が閉じた。
大きな音が、城壁の内側へ響いた。
閂が入る。
誰も声を上げなかった。
その音を聞いていた。
王家も。
兵も。
冒険者も。
避難してきた人々も。
城門の向こうには、帝国軍がいる。
こちら側には、国の中から集めてきた人間がいる。
守る場所は、もう減らせなかった。
けれど。
ここまで減らしたのは、ただ追い詰められたからではない。
ここから先を、守り切るためだった。
次に失うのは。
土地ではない。
王都だった。




