18日前 王都へ
翌朝。
王都へ向かう道を、人が埋めていた。
一つの村ではない。
昨日まで別々の場所で暮らしていた人々が、荷車を押し、家畜を引き、子どもの手を握って、同じ方向へ歩いている。
王都へ。
◇
「一つだけだぞ」
父親が言った。
家の中で、娘が困った顔をしている。
「ほんとに一つ?」
「ああ」
「小さいのなら二つでも」
「一つだ」
娘は部屋を見回した。
木でできた人形。
母親に買ってもらった髪飾り。
古い絵本。
縫い目のほつれた熊のぬいぐるみ。
どれも置いていきたくない。
外では荷車へ荷物を載せる音がしている。
母親が入口から顔を出した。
「決まった?」
「まだ」
「急いでね」
娘は人形を持ち上げ、しばらく見てから置いた。
髪飾りにも触れ、絵本も開いた。
最後に、熊のぬいぐるみを抱く。
「これ」
父親が頷いた。
「分かった」
娘は家を出た。
けれど数歩進んだところで、また戻る。
「どうした」
「ちょっとだけ」
人形を棚の真ん中へ立てた。
髪飾りをその横へ置き、絵本は机の上へ戻す。
綺麗に並べ直してから、娘は小さく頷いた。
「帰ってきた時、分かるように」
父親は何も言わなかった。
ただ、娘を待った。
やがて扉が閉まった。
◇
別の村では、老人が最後まで家に残っていた。
「爺さん!」
外から息子の声が飛ぶ。
「もう出るぞ!」
「分かっとる!」
老人は窓を閉め、かまどの火を確かめた。
棚に残っていた器を伏せ、玄関へ向かう。
息子が待っている。
「何してたんだよ」
「戸締まりだ」
「帝国兵が来たら鍵なんて意味ないだろ」
「だから開けたままでいいのか」
「そういう意味じゃないけど」
老人は鍵を掛けた。
一度。
もう一度。
扉が開かないことを確かめてから、鍵を懐へ入れる。
「行くぞ」
息子がその手を見る。
「それ持ってくの?」
「家の鍵だぞ」
「家置いていくのに?」
老人が息子を見る。
「だから持っていくんだろうが」
息子は何も言えなくなった。
十歩ほど進んだところで、老人は一度だけ振り返った。
家は、いつもと同じ場所にあった。
◇
街道では、牛が動かなくなっていた。
農夫が綱を引く。
「ほら、行くぞ!」
牛は踏ん張ったまま動かない。
後ろから荷車が詰まり始め、兵士が走ってきた。
「どうした!」
「動かん!」
兵士は後ろへ伸びる列を見る。
「置いていけ!」
「無理だ!」
農夫は即答した。
「こいつがいなかったら、戻ったって畑ができん!」
兵士は牛を見る。
農夫を見る。
さらに、その後ろで待っている人々を見る。
「五分だ」
「え?」
「五分で動かなかったら置いていく」
「分かった」
農夫は牛の首を撫でた。
「頼むから行ってくれ」
その横へ、小さな男の子が草を一束持ってきた。
牛の鼻先へ差し出す。
「食べる?」
牛が匂いを嗅ぐ。
一歩。
農夫が目を見開いた。
「もう一回」
男の子が歩く。
牛もついていく。
兵士が笑った。
「五分いらなかったな」
農夫が男の子へ頭を下げる。
「助かった」
男の子は少し得意そうに、草を持ったまま牛の前を歩いた。
止まっていた列が、また動き出した。
◇
そうして、人のいなくなった場所から王国旗が一つずつ下りていった。
見張り台から。
町の役所から。
地方の兵舎から。
敵に奪われる前に、王国側の手で畳まれていく。
その横を、人々が王都へ向かった。
◇
翌朝。
内側の拠点で一夜を過ごした避難民たちも、さらに王都へ向かった。
フィンはその列の後ろを歩いていた。
前を行く人が、何度も振り返る。
一人だけではない。
十歩進んで、振り返る。
また歩いて、振り返る。
家も畑も、やがて道の向こうへ隠れていく。
「みんな見るんですね」
フィンが言った。
横を歩いていたガルドが答える。
「何を」
「後ろ」
「お前も見てるぞ」
フィンが振り返りかけて、止まった。
「……見てました?」
「三回くらい」
「数えてたんですか」
「暇だからな」
「暇じゃないでしょう」
ガルドが笑う。
少し前を歩いていたノアが振り返った。
「止まるなよ」
「止まってません」
「ならいい」
フィンは前を向いた。
腰には剣がある。
昨日と同じ剣だった。
血は洗った。
何度も洗った。
刃にはもう何も残っていない。
それでも、柄に触れた指が止まることがある。
ロイ。
名前だけが、まだ頭に残っていた。
道の脇で子どもが泣けば、フィンはしゃがんだ。
荷物を落とした老人がいれば拾う。
歩けなくなった者がいれば肩を貸す。
ガルドもノアも、何も聞かなかった。
今は、それでよかった。
◇
王都では、空いている場所が次々となくなっていた。
冒険者ギルドの二階にも毛布が並んでいる。
以前は依頼人との打ち合わせに使っていた部屋だった。
「そこ、あと三人!」
ミレイが声を張る。
「怪我してる人は先に奥! 荷物は壁際!」
冒険者たちが階段を行き来する。
「これどこだ!」
「食料なら倉庫!」
「毛布!」
「二階!」
「薬!」
「勝手に触るな! 救護所へ持ってけ!」
受付台には、依頼票より避難者の名簿が多く積まれていた。
フィンたちが戻ってくる。
ミレイは最初に三人を見た。
フィン。
ガルド。
ノア。
全員いる。
「おかえり」
「ただいまです」
フィンが答えた。
ミレイはその顔を少し見た。
何か聞きかけたようにも見えたが、結局何も聞かなかった。
「休める?」
「まだ手伝えます」
「じゃあ、これ」
紙の束を渡される。
フィンが受け取った。
「何ですか?」
「名前、家族、どこから来たか。分かる範囲で聞いて」
「はい」
ミレイはもう一枚、空の紙を重ねた。
「剣はいらない仕事」
フィンの目が、一瞬だけ止まった。
「……はい」
今度の返事は、少し小さかった。
◇
夕方。
王都の門には、まだ人の列が続いていた。
荷車。
家畜。
背負えるだけの荷物。
抱きかかえられた子ども。
門をくぐった者から、空いている家や集会所、倉庫の一角へ案内されていく。
王都の中は、人の声で満ちていた。
故郷を失った者たちの町になり始めている。
それでも。
門をくぐった老人は、懐へ手を入れた。
家の鍵が、まだそこにあることを確かめる。
熊のぬいぐるみを抱いた少女は、何度も後ろを振り返った。
牛を連れた農夫は、城壁の内側へ入ってからも綱を離さなかった。
誰も、自分が二度と戻れないとは言わなかった。
だから。
置いてきたものは、捨てたものではなかった。
まだ、帰るために残してきたものだった。




