19日前 道がなくなる
道は、まだあった。
地図にも載っている。橋も、街道も、村と村をつなぐ細い道も消えてはいない。
ただ、使えなくなっていた。
倒木で塞がれた道。
荷車を出せば狙われる街道。
伝令を送っても戻ってこない区間。
道そのものがなくなったわけではない。
人と物を通せない道から、順番に意味を失っていた。
翌朝。
前線寄りの地方拠点でも、撤収の準備が始まっていた。
兵舎。
倉庫。
共同の救護所。
周囲の村から逃れてきた住民も集まっている。
「残っているのは」
レオンハルトが尋ねる。
現地指揮官が答えた。
「兵が七十ほど。負傷者が二十六。住民は百を少し超えます」
「食料は」
「二日ほどです」
「水は」
「井戸はまだ使えます」
「王都側へ抜ける道は」
指揮官が地図の細い線を指した。
「主街道には帝国兵が断続的に出ています。荷車を通せる別路も塞がれました。ただ、裏手の農道なら徒歩と小型の荷車は通せます」
レオンハルトはその線を見る。
前日に決めた新しい守備位置より、この拠点は外側に残っていた。
今はまだ守れる。
だが、道がもう一本切れれば、負傷者と住民を抱えたまま孤立する。
「そこから出す」
指揮官が顔を上げた。
「拠点を捨てますか」
「ああ」
「まだ戦えます」
「知ってる」
レオンハルトは拠点の印から目を離さない。
「だから、帰れるうちに帰す」
「兵は」
「最後だ。住民、負傷者、動かせる物資。その後に兵」
指揮官は少し黙ったあと、頷いた。
「拠点はどうします」
「持てるものだけ持って帰れ」
レオンハルトが地図を畳む。
「建物は置いていけ」
◇
その知らせが冒険者ギルドへ届いたのは昼前だった。
ミレイが依頼票を掲示板へ貼る。
「地方拠点からの避難支援。荷物運び、誘導、道の確認」
フィンがすぐに手を挙げた。
「行きます」
「一人では行かせない」
「分かってます」
「帝国兵を探しに行かない」
「分かってます」
「戦いに行く依頼じゃないからね」
「分かってますって」
ミレイがじっと見る。
フィンが少しだけ目を逸らした。
横からガルドが入ってくる。
「三回言われる奴は、大体分かってない」
「分かってます!」
「四回目」
「ガルドさんは黙っててください」
掲示を読んでいたノアが言った。
「裏の農道を使うのか」
ミレイが頷く。
「軍の斥候は通れると見てる。ただ、途中で荷車が通れなくなる可能性があるって」
「古い水路がある」
ノアが紙から目を上げる。
「乾いてれば、農道が塞がれても人だけは横へ抜けられる」
ガルドが見る。
「知ってるのか」
「前に通った」
「いつだよ」
「覚えてない」
「そういうところだけ便利だな、お前」
ノアは答えなかった。
ミレイは三人を見た。
「全員、帰ってきて」
フィンが頷く。
今度は、何も付け足さなかった。
◇
地方拠点では、すでに人が動き始めていた。
「持っていけるのは一人一袋まで!」
兵士が声を張る。
「荷車は負傷者優先! 歩ける人は歩いてください!」
毛布を背負う者。
鍋を抱える者。
子どもの手だけを握っている者。
救護所からは、歩けない負傷兵が次々に運び出されてくる。
フィンは小型の荷車へ毛布を積んだ。
「もう少し詰められます」
ガルドが横から覗く。
「詰めすぎると次に人が乗らん」
「あ」
「荷物じゃなくて人を運ぶんだぞ」
「……はい」
そこへノアが戻ってきた。
「農道は今なら通れる」
近くの兵が尋ねる。
「帝国兵は?」
「痕跡はある。でも新しくない」
周囲の手が止まった。
ノアは続ける。
「急ぐなら今だ」
隊長がすぐに声を上げた。
「第一陣、出せ!」
拠点の門から避難列が動き始めた。
フィンもその横につく。
出る時に一度だけ振り返った。
王国旗は、まだ門の上で揺れていた。
◇
農道は狭かった。
荷車一台がようやく通れる幅しかなく、両側には畑、その先には低い林が続いている。
避難民の列は細長く伸びた。
先頭と最後尾に王国兵がつき、フィンたちは列の中を行き来する。
「止まらないで! 前の人についていってください!」
後ろから老婆の声がした。
「袋を落としたよ!」
ガルドが振り返る。
「何が入ってる」
「皿」
「皿?」
「三十年使ってる」
ガルドは地面の袋を拾い、老婆へ返した。
「今度は落とすなよ」
「ありがとう」
列はまた進む。
しばらくして、前方が止まった。
ノアが確認へ走り、すぐに戻ってくる。
「先が崩れてる」
フィンが聞く。
「帝国ですか」
「分からん。雨かもしれない」
道の端が大きく崩れ、荷車が通れる幅が残っていなかった。
後ろでは避難民が詰まり始めている。
ガルドが来た道を見る。
「戻すか?」
「戻る方が危ない」
ノアは道の脇を指した。
草に半分隠れた古い水路が、畑の向こうへ伸びている。
ほとんど水はなく、底も乾いていた。
「人はこっちへ下ろせる」
フィンが荷車を見る。
「負傷者は?」
「背負う。担架も作る」
「荷車は」
ノアは少しだけ黙った。
「置いていく」
誰もすぐには動かなかった。
そこには歩けない負傷兵が乗っている。
隊長が声を上げた。
「人を移せ! 持てない荷物は置いていけ!」
その言葉で皆が動いた。
兵が負傷者を背負い、毛布と槍で簡単な担架を作る。食料袋も全部は持てない。持てるだけを分け、残りは荷車と一緒に道端へ置いた。
老婆は皿の入った袋だけを自分で抱えた。
◇
水路へ下りると、列の進みはさらに遅くなった。
足の悪い老人もいる。泣き始めた子どももいる。揺らされて傷が開いた兵士もいた。
フィンは一人の負傷兵へ肩を貸す。
「大丈夫ですか」
「大丈夫に見えるか?」
「見えません」
「じゃあ聞くな」
「喋れるなら大丈夫そうですね」
兵士が笑った。
「お前、誰に習った」
「いろんな人です」
少し前にいたガルドが振り返る。
「聞こえてるぞ」
「ガルドさんとは言ってません!」
「俺以外に誰がいる」
負傷兵がまた笑った。
その笑いが消えるより先に、ノアが片手を上げた。
「静かに」
列の声が小さくなる。
ノアは水路の上、林の枝の間を見ていた。
人影が動いた。
「帝国兵だ」
王国兵たちがすぐに避難列の外側へ出る。
隊長が声を張った。
「住民は止まるな! そのまま水路を抜けろ!」
先を急ぎたい。
だが、走れない。
負傷者も老人も子どももいる。
林から現れた帝国兵は十人ほどだった。その後ろにも人影がある。
帝国兵の側も、細い水路を進む長い避難列を見つけた。
一瞬だけ双方が止まる。
次の瞬間、王国兵が盾を前へ出した。
衝突は水路の縁で起きた。
ガルドも盾を構え、王国兵と並んで帝国兵を押し留める。
「フィン!」
「はい!」
「列から離れるな!」
フィンは剣を抜いた。
相手は魔物ではない。
鎧の隙間から見える顔も、息を切らす声も、自分たちと何も変わらなかった。
怖い。
そう思った時、王国兵の脇を抜けた一人の帝国兵が、避難列の中へ入り込もうと走った。
その進路上には、肩を貸されて歩く負傷兵と、小さな男の子の手を引く母親がいる。
「止まって!」
フィンが前へ出る。
帝国兵もこちらに気づき、剣を向けた。
最初の一撃を受けた瞬間、腕の奥まで痺れた。
重い。
魔物の爪とも牙とも違う。
相手も、自分が止まれば死ぬと思っている。
続く横薙ぎをフィンは身を沈めて外した。
近い。
若い男だった。
自分と、それほど歳が離れていない。
怯えているようにも見えた。
それでも剣は止まらない。
もう一度踏み込んできた男の刃を、フィンは教わった通り外へ流した。
身体が半歩ずれる。
相手の腹の前が空いた。
そこへ剣を突き入れたのは、ほとんど反射だった。
男の動きが止まった。
フィンも止まる。
剣が深く入っている。
男が目を見開いた。
フィンも、その目を見返した。
剣を抜くと、男は膝をついて前へ倒れた。
「ロイ!」
林側から声が飛んだ。
「ロイ!」
帝国兵が、倒れた男を呼んでいる。
名前だった。
フィンは動けなかった。
ロイ。
名前があることなど、当たり前だった。
なのに今まで、考えたことがなかった。
「フィン!」
ガルドの声が飛ぶ。
別の帝国兵が近づいていた。
フィンが反応するより先に、ノアが横から入り、その剣を短刀で外へ逸らした。
「後ろ見ろ!」
振り返る。
避難列はまだ水路を抜け切っていない。
老人がいる。
子どもがいる。
負傷者がいる。
ガルドが帝国兵を盾で押し戻しながら叫んだ。
「止まるのは後だ!」
フィンは震える手で剣を握り直した。
「前へ!」
自分の声が少し裏返る。
「止まらないで! そのまま進んで!」
住民が歩く。
王国兵がその外側を塞ぐ。
フィンも列へ戻った。
もう倒れた男を見る余裕はなかった。
しばらくして、拠点から最後に撤収してきた王国兵の一隊が後方に姿を見せた。
それに気づいた帝国側から短い合図が飛ぶ。
長く戦うつもりはなかったらしい。
帝国兵は林へ下がり始めた。
王国側の隊長が叫ぶ。
「追うな! 避難列を進めろ!」
一人の帝国兵だけが、倒れた男を見ていた。
「ロイ!」
もう一度呼ぶ。
だが仲間に腕を引かれ、その姿も林の中へ消えた。
フィンは地面の男から目を離せなかった。
「フィン」
ガルドだった。
「行くぞ」
「……でも」
「行く」
「この人」
ガルドも一度だけ男を見る。
「分かってる」
「私が」
「分かってる」
フィンの手が震える。
ガルドは褒めなかった。
仕方ないとも言わなかった。
ただ、先へ進む避難民を見る。
「後ろにまだ人がいる」
フィンもそちらを見た。
列の最後尾が遠ざかっている。
「今は歩け」
フィンはすぐには動けなかった。
それでも一歩を出した。
もう一歩。
剣を持ったまま、皆の後を追った。
◇
夕方。
最後の避難列が内側の拠点へ着いた。
途中で荷車も食料も置いてきた。
負傷者も増えた。
それでも、避難民はたどり着いた。
フィンは人の輪から少し離れた場所に座っていた。
剣は地面へ置いてある。
洗った。
血はもう見えない。
それでも、手にはまだ残っている気がした。
ガルドが隣へ腰を下ろす。
しばらく、何も言わなかった。
フィンが口を開く。
「ロイって」
「ああ」
「名前、呼ばれてました」
「ああ」
「家族もいるかもしれない」
ガルドは少し間を置いた。
「いるかもな」
「帰る場所も」
「あるかもな」
フィンは自分の手を見る。
「魔物を殺した時も、嫌でした」
「ああ」
「でも……違いますね」
「違うな」
否定してくれなかった。
フィンは顔を上げる。
「私、あの人を殺しました」
「そうだ」
短い返事だった。
ガルドは少し離れたところにいる避難民を見る。
水を飲んでいる男の子。
その隣の母親。
毛布へ寝かされる負傷兵。
皿の入った袋を抱えた老婆もいる。
「お前が動かなかったら、誰かが死んでたかもしれん」
フィンも同じ方を見る。
「だから、正しかったってことですか」
「知らん」
思わずガルドを見る。
彼は肩をすくめた。
「俺にそんなこと決めさせるな」
「……ずるいです」
「知ってる」
いつもの言い方だった。
フィンは笑わなかった。
それでもしばらくして、地面の剣を拾った。
◇
その頃。
放棄された地方拠点では、最後の王国兵が門を出ようとしていた。
持ち出せる矢と薬、食料はすでに運び終えている。
救護所には誰もいない。
倉庫にも、残された物はほとんどなかった。
兵士が王国旗を下ろす。
隊長は最後に建物を見回した。
「閉めますか」
兵が尋ねた。
「閉めろ」
「帝国が来たら、すぐ開けられますよ」
「それでもだ」
扉を閉める。
いつものように鍵を掛ける。
意味があるかは分からない。
それでも、最後までいつものように閉めた。
◇
夜。
レオンハルトのところへ報告が届いた。
「地方拠点、撤収完了しました」
「住民は」
「確認できた者は全員、内側へ」
「負傷者」
「運び終えています」
レオンハルトが小さく息を吐いた。
「死者は」
報告する兵が紙を見る。
「護衛兵に数名。避難中にも帝国兵との接触がありました」
「避難民は」
「無事です」
それだけを確認して、レオンハルトは地図を見た。
地方拠点の印がある。
そこには昨日まで兵がいた。
住民がいて、荷物が通り、怪我人が運ばれていた。
道も、橋も、建物も残っている。
ただ、そこへ人と物を送り続けられなくなった。
レオンハルトは拠点の印へ線を引いた。
その夜遅く。
帝国兵が地方拠点へ入った。
戦いはなかった。
閉じられていた門の鍵は、簡単に壊された。
中には、誰もいなかった。




