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21日前 まだ負けていない

帝国軍が、再び国境を越えた。


知らせが届いたのは、まだ朝の鐘が鳴る前だった。


国境近くに残していた見張りからの早馬だった。


王城の会議室で、レオンハルトが地図を見る。


「数は」


伝令が答えた。


「前回より多いと思われます」


オルフェンが眉を寄せる。


「思われる?」


「一か所に集まっていません」


伝令は地図の何か所かを指した。


正面の主街道。

森沿いの道。

水場へ続く脇道。


ほかにも、少数部隊の越境が確認されている。


「散らしたのか」


「はい」


前回、帝国軍は大部隊をまとめて押してきた。


王国軍も正面から受け、最後には国境の外まで押し返した。


今回は違う。


兵を増やしたうえで、一つに集めていない。


「正面は」


「動いています。ただ、主力かどうかは分かりません」


レオンハルトは地図を見たまま言った。


「こっちを見てないな」


オルフェンが尋ねる。


「何を見ていると?」


「道だ」


レオンハルトは立ち上がった。


「前線へ行く」


◇


最初に襲われたのは、兵士の陣地ではなかった。


王都から前線へ向かう荷車だった。


食料、水、矢、薬を積んだ六台の列が森沿いの街道へ差しかかったところで、木立の中から矢が飛んだ。


馬が暴れ、御者が手綱へしがみつく。


「止めるな! 前へ出せ!」


護衛兵が叫び、先頭の三台が速度を上げた。


後ろの一台は車輪を大きな石へ乗り上げ、荷台が傾く。落ちた麦袋を拾おうとした兵へ、二本目の矢が飛んだ。


「捨てろ!」


「でも!」


「荷を捨てろ! 馬を出せ!」


綱が切られ、麦袋が道へ落ちる。


軽くなった荷車が再び動き出した。


森から姿を見せた帝国兵は十数人ほどだった。


追ってくる。


そう思った王国兵たちは盾を構えた。


だが帝国兵は、荷車が街道の先へ逃げるとそれ以上追わなかった。


置き去りになった麦。


壊れた車輪。


動けなくなった一台。


それだけを残し、森へ消えていく。


護衛隊長は荒い息を吐きながら、木立を見た。


「……何だ」


ここを取ろうとしたのではない。


荷車を止めに来た。


◇


昼前。


別の街道では、橋の手前に何本もの木が倒されていた。


橋そのものは壊れていない。


だが一番太い木は、大人二人でも抱えきれない。


荷車は通れなかった。


「帝国兵は?」


「もういません」


「何人いた」


「分かりません。見張りが気づいた時には、この状態でした」


兵士が倒木へ手を掛ける。


どかせないわけではない。


人を集めれば動かせる。


だが、その間はこの道を使えない。


さらに別の場所では、夜明け前に出た伝令が戻らなかった。


次に出た伝令も予定時刻を過ぎた。


前線では、新しい命令を待つ兵たちが何度も道を見る。


「まだか」


誰も答えられなかった。


◇


レオンハルトが前線へ着いた頃には、日が傾き始めていた。


王都を出てからも報告は増え続けていた。


襲われた輸送隊。

塞がれた街道。

戻らない伝令。

水場付近に現れた帝国兵。

森沿いを動く小部隊。


そして正面にも、前回より多い帝国軍がいる。


国境守備隊の指揮官が地図を広げた。


「正面だけなら、まだ受けられます」


「ああ」


「ですが補給路へ兵を回せば、水場側が薄くなります。水場を固めれば、今度は別の道が」


「使えない道は」


「今のところ二本です。どちらも復旧には時間がかかります」


「伝令は」


「二人、戻っていません」


地図の上には、昨日までなかった印が増えていた。


前回は、敵のいる場所が分かった。


そこへ兵を置けばよかった。


今回は違う。


「正面に来ないわけじゃない」


レオンハルトが言った。


指揮官が頷く。


「はい」


「正面だけには来ない」


しばらく地図を見てから、レオンハルトは顔を上げた。


「今日は追わない」


「よろしいのですか」


「暗くなってから森へ入れば、向こうの仕事を手伝うだけだ」


「では」


「夜のうちに使える道を洗い直せ。明日の朝、まず補給路を開ける」


◇


翌朝。


正面の守備位置では、王国兵が帝国軍を待っていた。


遠くに帝国旗が並んでいる。


兵数は多い。


だが、近づいてこない。


若い兵が盾の向こうを見ながら言った。


「何なんだ、あれ」


「知らん」


「来るなら来いよ」


「来たら怖いくせに」


「来ない方が気持ち悪いだろ」


隊長が振り返る。


「前見ろ」


「前に何も来ません」


「なら何も来ないのを見ろ」


その時、後方から馬が走ってきた。


「補給路に敵!」


隊長の顔が変わる。


「数は」


「五十以上!」


続けて、別の伝令が来る。


「水場にも敵影!」


正面にもいる。


補給路にもいる。


水場にもいる。


しかも、どれも放っておけるほど小さくない。


◇


レオンハルトが補給路へ向かった時、そこでは王国兵が帝国兵を食い止めていた。


荷車が二台、街道の途中で止まっている。


王国兵はまだ崩れていないが、数では帝国側が上だった。


「陛下だ!」


誰かがレオンハルトに気づいた。


その声が前線へ広がる。


「英雄王が来た!」


レオンハルトが顔をしかめた。


「その呼び方はやめろ!」


「陛下が来たぞ!」


「まだ押せる!」


「だから聞け!」


誰も聞いていない。


さっきまで後ろを気にしていた王国兵が、前だけを見るようになった。


帝国兵側にも声が走った。


「レオンハルトだ!」


だが、レオンハルトが剣を抜く前に帝国側の角笛が鳴った。


短い音だった。


前列が下がる。


その後ろも続く。


「退いてるぞ!」


「追え!」


「追うな!」


レオンハルトの声で、走り出しかけた兵が止まった。


「でも陛下!」


「森へ入れば向こうの場所だ」


帝国兵は慌てていなかった。


列を大きく崩さず、負傷者を連れ、林の奥へ消えていく。


若い兵が呆然と見送った。


「……戦わないのか」


レオンハルトも同じ方向を見ていた。


自分が来た。


それだけで帝国兵は退いた。


ここだけ見れば、王国が勝った。


「荷車を出せ! 負傷者を先に乗せろ!」


兵たちが動き始める。


さっきの若い兵が隣へ小声で言った。


「やっぱ英雄王だな」


「聞こえてるぞ」


二人の身体が固まった。


レオンハルトが振り返る。


「今度言ったら荷車を押させる」


「すみません」


「水樽もだ」


周囲から笑いが起きた。


その時だった。


「陛下!」


馬で来た伝令が息を切らしている。


「水場が押されています!」


レオンハルトの表情が戻る。


さらに別の馬が来た。


「橋側の道を崩されました! 荷車は通れません!」


もう一人。


「正面の帝国軍が前へ出ています!」


笑い声が消えた。


レオンハルトは馬上で地図を受け取った。


自分が来た補給路からは、帝国兵が引いた。


その間に、水場が押され、橋側の道が止まり、正面が動いた。


「水場へ行く」


レオンハルトはすぐに馬首を返した。


◇


水場へ着く前に、向こうから王国兵が走ってきた。


「陛下!」


「どうした」


「帝国兵が退き始めました!」


レオンハルトは速度を緩めた。


遠くに、森へ入っていく帝国兵の姿が見える。


自分の一隊を見たのか。


補給路から情報が回ったのか。


どちらでもよかった。


ここでも、帝国兵は戦わない。


「追うな」


近くの兵が驚く。


「ですが」


「また別を叩かれる」


言い終わる前に、後ろから新しい伝令が来た。


「正面です! 帝国軍がさらに前へ!」


レオンハルトは地図を見た。


補給路へ行けば、補給路から敵が引く。


水場へ来れば、水場からも引く。


その間に、別の場所が動く。


一つを守るたびに。


別の一つへ手が伸びる。


「……そういうことか」


同行していた指揮官が見る。


「陛下?」


レオンハルトは地図から目を上げなかった。


「俺を倒す必要がないんだ」


誰も答えない。


「俺がいない場所を壊せばいい」


◇


夕方。


前線の地図には、朝よりさらに印が増えていた。


通れない道。

襲われた輸送隊。

戻らない伝令。

帝国軍を確認した場所。


一つを追えば、別が動く。


しかも帝国軍は、レオンハルトが来れば無理に戦わない。


国境守備隊の指揮官が言った。


「明日、どこを取り返しますか」


レオンハルトは地図を見た。


「どこをだ」


指揮官が黙る。


補給路を開けても、水場を狙われる。


水場を固めれば、橋や伝令路へ回る。


正面の兵を減らせば、今度は正面から押してくる。


「兵を増やせれば」


「どこから持ってくる」


返事はなかった。


王国軍は戦死者も負傷者も出している。


灰化した村には避難と輸送の人手も必要だった。


オルフェンから届いた書状には、王都から前線へ送れる荷車そのものが減っていると書かれている。


水も食料も、前線だけへ回すわけにはいかない。


指揮官が口を開く。


「今日の戦闘は、負けていません」


「ああ」


「補給路も守りました。水場も」


「ああ」


「兵もまだ戦えます」


「知ってる」


「なら、なぜ」


レオンハルトは地図の少し内側を指した。


複数の道が近づき、王都側からの輸送もまだ届く場所だった。


「ここへ下げる」


指揮官の拳が握られた。


「また、ですか」


「ああ」


「戦って負けてはいません」


「知ってる」


「なら」


レオンハルトが指揮官を見る。


「飯が来ない」


言葉が止まった。


「水もだ」


地図へ視線を戻す。


「ここに居続ければ、戦う前に動けなくなる」


指揮官はしばらく何も言わなかった。


やがて、小さく頷いた。


「……いつ動きます」


「今夜から準備する」


「明朝ですか」


「ああ」


レオンハルトの指は、新しい守備位置へ置かれたままだった。


「道が残ってるうちに下がる」


その先の地図には、まだ王都へ続く線が残っていた。


今なら使える。


明日も使えるとは限らなかった。

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