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32日前 守れない場所

帝国を追い返しても、井戸の水は戻らなかった。


王城の会議室には、戦場とは別の報告が積まれていた。


井戸の水位が下がった村。

川幅が細くなった地域。

育たない麦。

痩せ始めた家畜。

森を離れ、人里へ出てくる獣。


以前なら、一つずつ原因を調べていた。

雨が少なかったのか。病気なのか。土地そのものに問題があるのか。


だが今は、似た報告が国のあちこちから届いている。


レオンハルトは一枚の紙を机へ置いた。


「水を求めてる村は」


オルフェンが答える。


「昨日からさらに増えています」


「食料は」


「同じです」


「全部に送れるか」


「無理です」


短い返事だった。


戦争で馬を使った。

荷車も壊れた。

兵も減り、輸送へ回せる人間も足りない。


それでも、王都へ運ばなければならない食料まで減り始めている。


レオンハルトは地図を見た。


「人を先に動かす」


オルフェンが顔を上げる。


「避難を始めますか」


「ああ。子ども、老人、病人から。残りたい奴を今日すぐ引きずり出す必要はない」


「井戸が止まった場合は」


「出す」


地図の上には、国境近くの村や小さな守備所が点在していた。


そこへ水を運び、食料を運び、それを守るために兵を置く。

一か所を残すために、その後ろからさらに人と物が必要になる。


「国境の部隊も減らす」


オルフェンの目が地図へ落ちた。


「国境を放棄する、という意味ではありませんね」


「違う。見張りと斥候は残す。主力と物資を、もう少し内側へ寄せる」


「その間の村は」


「先に人を動かす」


レオンハルトは地図から目を離さなかった。


「土地を守るために、人を死なせる段階じゃない」


◇


村の井戸から桶が上がってきた。


底に水が少しだけ残っている。


老人はそれを覗き込んだ。


「まだ出る」


息子が言った。


「昨日の半分だ」


「半分はある」


「明日は?」


老人は黙った。


村には朝から王国兵と役人が来ていた。

子どもと老人、病人。それから希望する者を、内地へ移す。


そう説明されても、老人は最初から首を縦に振らなかった。


「俺は行かん」


息子は荷物をまとめながら答える。


「知ってる」


「なら何で俺の服まで入れてる」


「置いていったら困るだろ」


「行かんと言っとる」


「俺たちは行く」


老人が息子を見る。


「家はどうする」


「置いていく」


「畑は」


「置いていく」


「牛は」


「歩ける一頭だけ連れていく」


老人の顔が歪んだ。


「全部置いていくじゃないか」


息子は返事をしなかった。


少し離れた場所で、レオンハルトが井戸を見ていた。


老人が気づく。


「王様まで来たか」


「来た」


「俺は行かんぞ」


「聞いた」


「じゃあ帰れ」


レオンハルトは桶を見る。


「昨日はどれくらい出た」


息子が答える。


「この倍ほどです」


「三日前は」


「もっと」


老人が口を挟む。


「昔はもっと少ない年もあった」


「いつだ」


「昔だ」


「どれくらい昔だ」


「……知らん」


息子が少し笑う。


老人が睨んだ。


「何がおかしい」


「何も」


レオンハルトは家々を見る。


壊れていない。

焼かれてもいない。

帝国兵もいない。


ただ、水が減っている。


それだけで、人はここに住めなくなる。


「今日すぐ出ろとは言わない」


老人が見る。


「だが、子どもと病人は先に出す」


「俺は老人じゃないぞ」


息子が言った。


「十分だろ」


「お前は黙れ」


レオンハルトが少しだけ笑った。


「水が完全に止まったら、あんたも出す」


「王命か」


「そうなる」


「勝手だな」


「ああ」


老人は家を指した。


「ここは俺の家だ」


「分かってる」


「分かってない。親父が建てた。俺も手伝った。息子もここで育った」


レオンハルトは黙って聞いた。


「それを捨てろっていうのか」


「生きていれば、戻れる可能性はある」


老人の目が細くなる。


「戻れんかもしれん」


「そうだ」


レオンハルトは否定しなかった。


老人はしばらく何も言わなかった。


やがて家の方へ歩き、古い扉の前で足を止める。

何度も補修された壁へ手を置いた。


「親父が建てた」


後ろから来た息子が言う。


「それ、さっき聞いた」


「お前はすぐ壊した」


「何を」


「壁」


「覚えてねえよ」


「五つの時だ」


「そんな昔のこと知らないよ」


老人は壁を撫でた。


「そうか」


少しして振り返る。


「椅子も持っていけ」


息子が目を丸くする。


「いらないって言っただろ」


「王都でも座るだろ」


「置く場所あるかな」


老人はレオンハルトを見る。


「王様」


「何だ」


「椅子一つくらい置けるか」


レオンハルトは少し考えた。


「何とかする」


「なら持っていく」


息子が笑った。


今度は老人も怒らなかった。


◇


その日、いくつかの村から人が出た。


全員ではない。

先に行く者もいれば、まだ残る者もいる。


フィンたちは、その移動を手伝っていた。


荷車には毛布や鍋、袋に入れた穀物。

籠の中では鶏が落ち着かない声を上げている。


ガルドが荷台を見た。


「もう乗らんぞ」


老婆が鍋を抱えている。


「この鍋だけ」


「さっきも鍋だったろ」


「別の鍋だよ」


「鍋何個持ってるんだ」


「家にはもっとある」


ガルドが頭を抱えた。


フィンが笑う。


「一個くらいいいじゃないですか」


「お前が持て」


「何でですか」


「言った奴が持つ」


少し前を歩いていたノアが振り返る。


「今できた」


「勝手に作らないでください」


老婆も笑った。


ほんの少しだけ、いつもの旅のようだった。


けれど、後ろを振り返れば、人のいなくなった家が並んでいる。


フィンが足を止めた。


「変ですね」


ガルドが見る。


「何が」


「普通に見えるのに」


村は壊れていない。

畑もある。

道もある。

洗濯物まで残っている家がある。


それでも、人だけが減っていく。


ノアが言った。


「住める場所と、家がある場所は違うからな」


フィンはもう一度村を見て、やがて前を向いた。


◇


国境近くの小さな守備所でも、荷物がまとめられていた。


矢束。食料袋。水樽。予備の槍。


王国旗を下ろそうとした兵を、隊長が止める。


「旗は残す」


「でも撤収ですよね」


「国境を捨てるんじゃない」


兵が周囲を見る。


「じゃあ誰が残るんです」


「斥候と見張りだ。俺たちは内側へ移る」


兵は国境の向こうを見る。


遠くに帝国側の監視兵がいた。

こちらを見ている。


「来ますかね」


隊長も同じ方を見る。


「来るだろうな」


「じゃあ残った方が」


「ここで待って何する」


兵が黙った。


「水も食料も減ってる。後ろの村も人を出してる。戦う場所を変えるだけだ」


兵はしばらく国境を見た。


「何か、負けたみたいですね」


隊長が鼻を鳴らす。


「この前勝ったばっかりだろ」


「でも下がるじゃないですか」


「生きて次に戦えるなら、それでいい」


兵は少し考える。


「陛下が言ったんですか」


「ああ」


「なら仕方ないですね」


「何で俺が言っても納得しないんだ」


「陛下ですから」


「お前、あとで荷物一個増やすからな」


「横暴ですよ」


兵たちは笑いながら荷物を載せた。


やがて一隊が守備所を離れる。


王国の旗は残った。

見張りも残った。


だが、ここを守るために置かれていた人と物の多くは、もう内側へ向かっていた。


◇


夕方。


王城へ戻ったレオンハルトの前に、新しい報告が置かれた。


避難を始めた村。

まだ残る村。

移動を始めた守備隊。


地図の線そのものは変わっていない。


それでも、その線の近くから少しずつ人がいなくなっている。


◇


国境の向こうでは、帝国軍の監視兵が王国側を見ていた。


「減ったな」


隣の兵が頷く。


「兵を下げてる」


「罠じゃないのか」


「分からん」


少し離れた場所で、指揮官が報告を受け取った。


王国軍の一部が内側へ移動。

複数の村でも住民移送を確認。


指揮官は灰色になり始めた畑へ目を向ける。


「灰化か」


部下が答えた。


「おそらく」


帝国側でも事情は変わらない。


配給は減り、井戸には使用制限がかかっている。

移転を命じられた村もある。


自国の避難民を乗せた荷車が、軍用道路を通っていく。


「上へ報告しろ」


「王国軍が下がったことを?」


「それもだ」


指揮官は国境の向こうを見る。


「時間がない」


王国だけではない。


帝国も、同じものに追われていた。


そして国境の向こうでは、王国軍が自ら空けた土地を帝国兵が見ていた。

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