35日前 いつもの門
朝になっても、ハインは帰らなかった。
南門には昨日ほどの人はいない。
勝利を祝う飾りはまだ残っている。
店の軒先には王国旗が掛けられ、昨夜飲みすぎたらしい男が市場の隅で水を飲んでいた。
昨日と同じ町だった。
ただ、門の前で待つ人の数だけが減っている。
「まだ来ないね」
ハインの娘が言った。
母親は街道の先を見たまま答えた。
「そうね」
「朝からって言ったのに」
「お父さんに言ったわけじゃないからね」
娘は少し考えた。
「じゃあ知らないの?」
「知らないかもね」
「じゃあ待ってるの分からない?」
「帰ってきたら分かるよ」
娘はそれで納得したらしい。
母親の手を握り、また門の外を見る。
しばらくして、王国兵が二人戻ってきた。
娘の顔が上がる。
だが、どちらもハインではない。
「違ったね」
「うん」
「次?」
母親は少しだけ間を置いた。
「そうね」
昨日から、何度同じ言葉を口にしたか分からなかった。
◇
日の出と同時に、捜索隊は王都を出ていた。
先頭を行くのは、あの日、避難民と負傷兵の輸送列についていた伝令だった。
ハインたちが街道に残ったあとも、輸送列を先へ進めるよう命じられた男だ。
街道を進みながら、何度も後ろを振り返る。
あの時も。
そうだった。
やがて、伝令が馬の速度を落とした。
「この先です」
道の両側に林が近づいてくる。
少し進めば、街道は緩く曲がっていた。
「あの日、ここまで音が聞こえていました」
捜索隊の兵が周囲を見る。
鳥の声がする。
木々も揺れている。
戦いの最中には逃げていた鳥が、もう戻っていた。
「最後に見たのは?」
「曲がる前です」
伝令が後ろを指した。
「ハインたちは、あっちに」
兵たちは馬を降りた。
ここからは徒歩で進む。
帝国軍は国境外へ退いた。
それでも、残兵がいない保証まではない。
盾を前に出し、左右の林を確認しながら歩く。
すぐに跡は見つかった。
避難列のものらしい轍と馬の蹄跡が、王都の方向へ続いている。
その脇には、林から街道へ出た複数の靴跡。
帝国兵が通った跡だった。
「ここだな」
さらに進む。
折れた槍が落ちていた。
王国軍のものだった。
少し先には盾。
片側が大きく割れている。
血の跡はもう乾いて黒くなっていた。
誰も喋らなくなった。
道を外れたところに、荷車が一台倒れている。
輸送に使っていたものではない。
近くの農家から持ち出したらしい古い荷車だった。
車輪が一つ外れ、横倒しになって道の半分を塞いでいる。
「これ……」
伝令が近づく。
あの日、ここにはなかった。
捜索隊の一人がしゃがみ込んだ。
荷車の側面には、槍で突いたような傷が何か所も残っている。
その向こうに、最初の遺体があった。
王国兵。
若い男だった。
ハインと一緒に残っていた兵だった。
槍をまだ握っている。
指は固まり、開かなかった。
伝令が俯く。
「あいつ……」
捜索隊長が手を上げた。
「まだ確認する」
その先にも兵が倒れていた。
帝国兵の遺体も混じっている。
だが、数は多くない。
王国兵が帝国兵を山ほど倒したような戦場ではなかった。
狭い街道で少人数同士がぶつかり、王国側が押されながらも何度か踏みとどまった。
その跡が残っている。
途中には折れた武器と血。
戦いながら少しずつ位置を変えたことが分かる。
「ここで一度止めてる」
隊長が地面を見る。
数歩先。
また血の跡がある。
逃げたのではない。
街道を使わせないように、場所を変えながら戦った。
伝令が後ろを見る。
避難列が進んだ方向は、もう見えない。
あの日もそうだった。
道を曲がれば、ハインたちから避難民は見えなくなった。
そして避難民からも、彼らは見えなくなった。
「……最後の荷車が曲がるまで」
伝令が呟いた。
誰も返事をしない。
負傷兵を乗せた荷車。
子どもを抱いた母親。
老人。
鶏を抱えていた少年。
あの日、この道を通った。
少なくとも、この街道から帝国兵が輸送列へ追いついたという報告はなかった。
さらに少し進んだ場所で、隊長の足が止まった。
道端の木にもたれるように、一人の兵が座っていた。
栗色の短髪。
槍は手元にない。
代わりに短剣が落ちている。
王城警備隊の装備だった。
伝令が息を止める。
「……ハイン」
近づく。
返事はない。
胸元と脇腹に、いくつもの傷があった。
鎧の隙間は黒く染まっている。
顔にも血は付いていたが、見間違える状態ではなかった。
捜索隊長が膝をつく。
首元へ手を当てる必要もないほどだった。
それでも確認した。
しばらくして、手を離す。
「ハイン。王城警備隊」
後ろの兵が答えた。
「はい」
隊長は立ち上がる。
「戦死確認」
その言葉だけが、妙にはっきりと林の中へ残った。
伝令は何も言わなかった。
あの日。
戻ろうとした。
だが、戻るなと言われた。
輸送列を先へ進めろと言われた。
その命令が間違っていたとは思わない。
自分が戻っていたら、荷車が止まったかもしれない。
避難民まで足を止めたかもしれない。
分かっている。
それでも。
「すみません」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
捜索隊長が振り向く。
「俺、戻ろうとしたんです」
隊長は黙って聞いた。
「でも、行けって言われて」
「誰に」
「別の伝令です。前線が下がって、この道も塞がれるかもしれないって」
「そうか」
「俺、行ったんです」
「そうか」
「……あの人たち置いて」
隊長は倒れた荷車を見る。
その向こう。
避難列が消えていった曲がり角を見る。
「あの列は逃げ切った」
伝令は俯いたままだった。
隊長も、それ以上は言わなかった。
慰めではない。
分かっている範囲の事実だった。
兵たちは遺体を一人ずつ運び始めた。
ハインも担架へ乗せられた。
特別扱いはされない。
他の兵士たちと同じように。
王国の兵士として。
王都へ戻る。
◇
午後もかなり過ぎた頃。
王城へ先行の報告が届いた。
レオンハルトは執務机の前にいた。
朝から何度も報告が入っている。
前線。
物資。
負傷者。
避難した村。
帝国軍の動き。
扉が開いた。
オルフェンが入ってくる。
手には一枚の紙。
その顔を見た時点で、レオンハルトは何も聞かなかった。
オルフェンが机の前まで来る。
「捜索隊からです」
「ああ」
紙が置かれた。
確認された王国兵の名前が並んでいる。
レオンハルトは上から読んだ。
途中に。
ハインの名があった。
王城警備隊。
戦死。
「……そうか」
それだけだった。
オルフェンも何も言わない。
しばらくして、レオンハルトが尋ねた。
「どこで」
「街道です。最後に確認された場所から、それほど離れていません」
「避難民は」
「あの時間帯にあそこを通った輸送列は、王都側まで抜けています」
「追手は」
「少なくとも、あの街道から避難列へ追いついたという報告はありません」
レオンハルトは紙を見る。
「最後まで残ったんだな」
「はい」
短い返事だった。
ハインが一人で何十人も倒したわけではない。
敵将を討ったわけでもない。
戦況を変えるような戦果もない。
ただ。
荷車が進む時間を作った。
子どもが歩く時間を作った。
負傷兵が運ばれる時間を作った。
ほんの数分。
そのために残った。
レオンハルトが椅子へ座る。
「家族には」
「王城警備隊から知らせます」
「……分かった」
それ以上、特別な命令は出さなかった。
ハインだけではない。
この戦いで死んだ兵士には、それぞれ家族がいる。
帰りを待っている者がいる。
レオンハルトは紙を折らず、机の端へ置いた。
昨日。
そこには未帰還者として名前があった。
今日はもう。
その欄には戻らない。
◇
南門の前で、娘は地面に棒で絵を描いていた。
大きな丸。
そこから棒が二本。
さらに横へ二本。
母親が覗き込む。
「何描いてるの?」
「お父さん」
「お父さん?」
「槍持ってる」
横に細長い線を一本足した。
「長すぎない?」
「強いから」
「強いと槍が長くなるの?」
「なるよ」
母親は少し笑った。
「そう」
娘はまた描き始める。
朝から待っていた。
来る兵の数は少ない。
それでも帰ろうとは言わなかった。
「お腹は?」
「まだ大丈夫」
昨日はすぐ腹を空かせたくせに。
母親は娘の頭を撫でた。
やがて。
門の内側から、王城警備隊の兵が二人歩いてきた。
娘が立ち上がる。
「来た?」
母親も顔を上げた。
二人とも見覚えはない。
だが、同じ王城警備隊の装備だった。
兵士たちは真っ直ぐこちらへ向かってくる。
誰も笑っていない。
母親の顔から、少しずつ表情が消えた。
「……主人は」
年上の兵が数歩手前で止まった。
「ハイン殿のご家族ですね」
母親は娘の手を握った。
「はい」
兵士は一度、息を整えた。
「本日の捜索で、ご主人を確認しました」
一瞬。
母親の目に光が戻る。
「では――」
続きを言う前に、兵士の顔を見た。
言葉が止まる。
「……生きては」
兵士はゆっくり首を横に振った。
「街道で、戦死が確認されました」
母親の膝から力が抜けた。
もう一人の兵が一歩出かける。
だが、母親は自分で娘を抱き寄せ、その場にしゃがみ込んだ。
娘が驚く。
「お母さん?」
返事がない。
「お母さん、痛い?」
母親は首を振る。
声が出ない。
娘が兵士を見る。
「お父さんは?」
兵士が答えに詰まった。
母親が娘を強く抱く。
「お父さんね」
そこで声が止まった。
もう一度。
「見つかったって」
娘の顔が明るくなる。
「じゃあ帰ってくる?」
母親は答えられなかった。
兵士が目を伏せる。
娘は母親を見る。
「お母さん?」
母親は娘を抱いたまま、声を押し殺して泣いた。
◇
遺体を乗せた荷車が王都へ入ったのは、日が傾き始めた頃だった。
歓声はなかった。
昨日と同じ門。
昨日と同じ街道。
昨日は生きて帰った兵士を迎えた場所へ、今日は帰れなかった兵士たちが入ってくる。
人々は道を空けた。
誰かに言われたわけではない。
自然に。
荷車には布を掛けられた遺体が並んでいた。
一人ずつ名前を確認され、家族へ引き渡される。
ハインの妻は娘の手を握って待っていた。
「お父さんどれ?」
娘が聞く。
母親は答えられない。
王城警備隊の兵が近づく。
「……こちらです」
一台の荷車へ案内する。
布の下から、顔だけが見えるようになっていた。
血は拭われている。
目も閉じられている。
娘はしばらく父を見た。
「寝てるの?」
母親の口元が歪んだ。
「うん」
「起こしていい?」
「……駄目」
「疲れてる?」
母親は頷いた。
娘が荷車へ手を伸ばす。
届かない。
兵士がしゃがみ、抱き上げようとする。
娘は首を振った。
「自分で」
荷車の縁に手を掛ける。
背伸びをして。
どうにか父の顔を見る。
「お父さん」
返事はない。
「帰るよ」
返事はない。
「お母さん待ってたよ」
母親が口元を手で押さえた。
「私も」
娘はもう一度呼ぶ。
「お父さん」
ハインは動かなかった。
娘が振り返る。
「起きないよ」
その一言で。
母親は娘を抱きしめた。
声を押さえることもできなかった。
周囲にいた兵士たちが目を逸らす。
娘は母親に抱かれたまま、まだ父の方を見ている。
何が起きたのか。
まだ全部は分かっていない。
ただ。
父が帰ってきたのに、自分を抱き上げないことだけは分かっていた。
◇
少し離れたところで、その様子を見ていた男がいた。
王城の門前で、以前ハインに食ってかかった市民だった。
七歳の娘を持つ男。
宝玉のために戦うのか。
娘を残して戦争へ行きたいのか。
そうハインへ問い詰めたことがある。
後になって、自分たちには知らされていなかったことが多かったと分かった。
ハインとも話し直した。
落書きを消した日にも顔を合わせた。
男は荷車を見た。
その横にいる小さな娘を見る。
何も言わず、その場を離れた。
しばらくして戻ってくる。
手にはパンの入った小さな籠があった。
ハインの妻のそばに置く。
彼女が気づいた。
「これは……」
男は娘を見る。
「食べられる時でいいです」
「でも」
「ハインさんには」
言葉が止まる。
「……世話になったんで」
妻は男の顔を知らない。
それでも頭を下げた。
男も頭を下げる。
それ以上は何も言わなかった。
後ろには、男の七歳の娘もいた。
父親の服を掴みながら、ハインの娘を見ている。
しばらく迷ってから、自分が持っていた小さな焼き菓子を一つ取り出した。
「これ」
ハインの娘が見る。
「くれるの?」
女の子が頷いた。
「うん」
「なんで?」
答えに困ったらしい。
父親を見る。
父親も答えない。
女の子は少し考えた。
「いっぱいあるから」
明らかに一つしか持っていなかった。
ハインの娘は受け取った。
「ありがとう」
「うん」
二人とも、それ以上は話さなかった。
◇
数日後。
レオンハルトは王城の通用門を通った。
外から戻る時には、何度も使ってきた門だった。
冒険者の服で。
泥だらけで。
血を付けて。
夜遅くに帰ったこともある。
今は王の外套を着ている。
門は何も変わっていなかった。
石壁。
鉄の金具。
兵士の詰所。
壁際に並べられた槍。
警備兵がレオンハルトに気づき、姿勢を正した。
「陛下」
若い兵だった。
「ああ」
レオンハルトはそのまま通り過ぎる。
数歩進んだところで。
足が止まった。
振り返る。
門の横。
いつも誰かが立っている場所。
今も兵士はいる。
仕事も続いている。
門は開き。
また閉じる。
何も変わっていない。
ただ。
そこにハインはいなかった。
若い兵が不思議そうに見る。
「陛下?」
レオンハルトは少しだけ黙った。
「……何でもない」
前を向く。
そして、そのまま歩き出した。
勝った。
帝国を追い返した。
王都を守った。
家族の元へ帰った。
それでも。
帰ってこない人はいた。




