36日前 待っている人
王都の朝は、いつもより早かった。
日が昇りきる前から市場の戸が開き、店先には人が出ていた。
売るためではない。
皆、通りの先を気にしている。
「昼には戻るらしいぞ」
「本当か?」
「国境から一部が戻るって、さっき兵士が言ってた」
「陛下も?」
「陛下もだ」
その一言で、また人が増えた。
昨日の夜。
帝国軍を国境の外へ押し返したという知らせが王都へ届いた。
そこから町は遅くまで眠らなかった。
酒を飲んだ者。
泣いた者。
抱き合った者。
知らない相手とまで握手をした者。
一晩明けても、その熱はまだ残っている。
市場の老人が通りへ椅子を持ち出した。
隣の店主が呆れる。
「まだ来ねえぞ」
「分かってる」
「朝飯は?」
「ここで食う」
「邪魔だよ」
「今日はいいだろ」
「昨日もそう言って酒飲んでただろ」
老人は聞こえないふりをした。
その横を子どもたちが走っていく。
「王様帰ってくるって!」
「レオンだろ!」
「王様がレオンなんだよ!」
「知ってる!」
数日前までなら、妙な会話だった。
今は誰も笑わない。
いや。
笑ってはいる。
意味が違うだけだった。
◇
昼が近づくにつれて、王都の南門へ続く道は人で埋まっていった。
兵士たちが何度も声を張る。
「道を空けてください!」
「真ん中へ出ないで!」
「荷車が通れなくなります!」
そのたびに人は下がる。
少しすると、また前へ出る。
兵士が頭を抱えた。
「頼むから言うこと聞いてくれ!」
近くの男が笑った。
「今日くらいいいだろ!」
「俺が怒られるんだよ!」
その返事に周囲から笑いが起きる。
昨日まで王都にあった重苦しさが、嘘のようだった。
帝国が来る。
戦争になる。
家族が死ぬかもしれない。
宝玉一つで、なぜそこまで。
そんな声で埋まっていた町が、今日は一つの知らせだけを待っている。
勝って帰ってくる。
その実感を、自分の目で見ようとしていた。
やがて。
城壁の上から声が飛んだ。
「見えたぞ!」
人々の顔が一斉に上がる。
遠く。
街道の先。
最初に見えたのは王国の旗だった。
続いて馬。
荷車。
兵士たち。
歓声が、まだ彼らが門へ着く前から上がった。
「来た!」
「帰ってきたぞ!」
「勝った兵だ!」
子どもが父親の肩の上で飛び跳ねる。
「王様は!?」
「どこだ!」
「あそこじゃないか!」
人々が目を凝らした。
馬上に王はいなかった。
代わりに、兵士たちの先頭近くを歩いている男がいた。
泥の残った鎧。
腰の剣。
王家の紋章。
傷んだ外套。
数日前、広場で初めて国王として見た男。
市場や酒場やギルドで、それよりずっと前から知っていた男。
誰かが叫んだ。
「レオンだ!」
別の声がすぐに重なる。
「陛下だ!」
さらに後ろから。
「レオンハルト陛下!」
声が波になった。
兵たちまで笑い始める。
レオンハルトは門をくぐったところで、ほんの少し顔をしかめた。
左右。
前。
城壁の上。
人しかいない。
「……何だ、これは」
横を歩いていた兵が笑う。
「陛下を見に来たんでしょう」
「帰れと言え」
「無理ですよ」
「お前が言え」
「俺が言っても聞きませんって」
近くの兵たちが吹き出した。
レオンハルトが横を見る。
兵はすぐ前を向いた。
「何か?」
「覚えてろ」
「勝った日に処罰されるんですか、俺」
また笑いが起きる。
その声を聞いて、沿道の人々も笑った。
兵士たちの顔は疲れている。
包帯を巻いた者もいる。
腕を吊ったまま歩く男もいた。
盾を失った者。
槍を杖代わりにしている者。
それでも。
帰ってきた。
その姿だけで十分だった。
一人の老婆が前へ出そうになり、警備兵に止められた。
「陛下!」
レオンハルトが足を止める。
「ありがとう!」
老婆はそれだけ叫んだ。
レオンハルトは返事に困ったように黙った。
次は別の男だった。
「よく追い返してくれた!」
「父ちゃん帰ってきた!」
「うちの息子もいる!」
「陛下!」
「レオン!」
声がいくつも飛ぶ。
兵たちの列から、一人の男が突然外へ出た。
「お父さん!」
小さな男の子が走ってくる。
兵士は慌てて槍を放り出した。
そのまま子どもを抱き上げる。
「おい!」
「父ちゃん!」
「でかくなったな!」
「三日だぞ!」
横から妻らしい女が泣きながら男の肩を叩いた。
「馬鹿!」
「何で殴るんだよ!」
「知らない!」
泣いているのか怒っているのか、本人にも分かっていない。
周囲が笑う。
少し先でも、別の兵が家族を見つけた。
名前を呼ぶ声。
返す声。
抱き合う人。
笑う人。
泣く人。
兵の列が進むたび、誰かの家族が戻ってくる。
レオンハルトはその光景を見ながら歩いた。
やがて、どこからか声が上がった。
「英雄王だ!」
レオンハルトの足が止まりかけた。
「誰だ、今の」
返事はない。
代わりに別の場所から声が来た。
「英雄王!」
「やめろ」
聞こえていない。
「英雄王レオンハルト!」
声が増えた。
兵まで面白がり始めた。
「英雄王!」
「お前らまで言うな!」
怒鳴ると、さらに歓声が大きくなった。
沿道の人々が笑う。
子どもまで真似をする。
「えいゆうおう!」
レオンハルトは諦めたように前を向いた。
横の兵が小声で言う。
「しばらく消えませんね、これ」
「国境へ戻るか」
「帝国より嫌なんですか?」
レオンハルトが睨む。
兵はまた前を向いた。
◇
その列を。
少し離れた場所から見ている親子がいた。
娘はまだ四歳だった。
人の背では何も見えない。
母親に抱かれ、何度も首を伸ばしている。
「お父さんいる?」
「探してるから、ちょっと待ってね」
「どこ?」
「まだ分からない」
兵士が次々と門をくぐってくる。
娘は一人ずつ顔を見ようとする。
もちろん、全部は見えない。
「あの人?」
「違うね」
「じゃあ、あっち?」
「違う」
「お父さん遅いね」
母親は笑った。
「お仕事だったからね」
「王様と一緒?」
「途中まではね」
娘には、それで十分だったらしい。
「じゃあ王様が帰ってきたから、お父さんも帰ってくるね」
母親の笑顔が、一瞬だけ止まった。
それでもすぐに頷く。
「そうね」
列はまだ続いている。
前線から戻る兵。
負傷して先に送られていた兵。
別の街道警備から合流した兵。
誰がどの順番で帰ってくるかなど、家族には分からない。
だから待つしかなかった。
娘は母親の肩に顎を乗せる。
「お腹すいた」
「もう少し待とう」
「お父さんと食べる?」
「そうしようか」
その時、近くを歩いていた一人の兵が親子を見た。
足を止める。
「……ハインの?」
母親がすぐに振り返った。
「主人をご存じですか?」
男は一瞬、言葉を探した。
「王城の通用門にいたハインですよね」
「はい」
「開戦してから、後方の街道へ回されたはずです」
母親の顔に少しだけ安心が浮かぶ。
「では、こちらの隊ではないんですね」
男は頷いた。
「俺たちは国境の正面です。後方の連中は、まだ全部戻ってません」
「そうですか」
母親は娘を抱き直した。
「ありがとうございます」
「いえ」
兵は少し迷ったあと、頭を下げて列へ戻っていった。
娘が母を見る。
「お父さん、次?」
母親は帰ってくる兵たちを見た。
「次の隊かもしれないね」
娘は納得したように頷いた。
また門の方を見る。
◇
王城へ戻ったレオンハルトを最初に迎えたのは、エリオットだった。
「父上!」
廊下の奥から走ってくる。
その後ろからリゼットも来た。
「エリオット、走らない!」
「姉上だって走ってるだろ!」
「私は走ってない!」
十分走っていた。
レオンハルトが止まる。
エリオットは父の前まで来たところで、急に速度を落とした。
周囲には兵も官吏もいる。
王子らしくしなければならないと思い出したらしい。
姿勢を正す。
「……お帰りなさいませ」
レオンハルトが見る。
「何だ、それは」
「何がですか」
「今さらだろ」
エリオットが少しだけ迷う。
次の瞬間。
父へ抱きついた。
リゼットもすぐ横へ来る。
「父上」
「ただいま」
その声を聞いたところで、セシリアが廊下の奥に現れた。
彼女は走らなかった。
いつもの歩調で近づいてくる。
レオンハルトが二人の子どもを離し、妻を見る。
「戻った」
「はい」
セシリアはレオンハルトの顔を見る。
次に鎧。
腕。
足。
傷が増えていないかを確かめるように。
「怪我は」
「ない」
「本当に?」
「細かいのはある」
「それを怪我と言うんです」
リゼットが頷いた。
「父上は昔からそうです」
「お前は誰の味方だ」
「母上です」
エリオットも頷く。
「私もです」
「勝って帰ってきた王への扱いじゃないな」
セシリアが少し笑った。
「外で十分褒めてもらったでしょう?」
レオンハルトの眉が動く。
「聞いたのか」
「城内まで聞こえていましたよ」
リゼットが嬉しそうに言う。
「英雄王」
「やめろ」
エリオットが吹き出した。
「父上、英雄王なんですか」
「違う」
「町中が言ってました」
「町中が間違ってる」
「そんなことあります?」
「ある」
セシリアまで笑った。
レオンハルトは三対一だと気づいたらしい。
何も言わず歩き出した。
「父上、逃げた」
「聞こえてるぞ」
家族の笑い声が廊下に残った。
◇
しかし。
王の仕事は、それで終わらなかった。
鎧を脱いで間もなく、レオンハルトは会議室にいた。
机の上には報告書が積まれている。
オルフェンが一枚ずつ確認していた。
「前線の部隊数は?」
「再編中です。国境守備隊は残留。帰還させたのは負傷者と、交代可能な一部だけです」
「帝国は」
「国境の向こうで再編を続けています。今のところ、再越境の動きは確認されていません」
レオンハルトが椅子へ深く座る。
三日ほど前より、その姿が明らかに重い。
眠っていない。
身体も使っている。
それでも目だけは報告書から離れなかった。
「死者は」
オルフェンの手が少し止まった。
「集計中です」
「分かってる分だけ」
紙が一枚、前へ置かれる。
レオンハルトは読む。
名前が並んでいた。
昨日。
一昨日。
その前。
国境で死んだ者。
後送中に死んだ者。
まだ身元を確認できていない者。
行方の分からない者。
勝利の報告書より、ずっと長く感じた。
「負傷者は?」
「各救護所から報告を集めています。軽傷者まで含めると、まだまとまりません」
「馬」
「かなり減っています」
「荷車」
「破損、放棄ともにあります」
「矢」
「補充が必要です」
「薬」
「使っています」
勝った。
間違いなく勝った。
だが、使ったものは戻らない。
折れた槍。
死んだ馬。
なくなった薬。
そして。
死んだ人間。
オルフェンが別の紙を取った。
「それと、未帰還者です」
レオンハルトが顔を上げる。
「まだいるのか」
「います。戦闘そのものではなく、後方輸送、避難誘導、伝令、道路警備へ回された者の確認が遅れています」
紙が置かれる。
名前。
所属。
最後に確認された場所。
レオンハルトの指が途中で止まった。
「……ハイン?」
「はい」
王城警備隊。
通用門担当。
開戦後、臨時後方任務へ転属。
避難民及び負傷兵輸送路の警備。
連絡途絶。
レオンハルトはしばらく紙を見た。
毎日のように通っていた門。
何度も見た男。
自分が冒険者の格好で城を抜けるたび、余計なことは言わず通した男。
時々、顔だけで呆れていた男。
「最後は」
「街道です。帝国兵の一部が輸送路付近へ出た際、避難民と負傷兵を先に通したところまでは確認されています」
「その後は」
「確認できていません」
レオンハルトは紙から目を離さない。
「捜索は」
「現地へ着く頃には日が落ちます。周辺に帝国兵が残っていないことを確認し、明朝から入れる予定です」
すぐ行け。
そう言いそうになった。
だが、言わなかった。
暗くなってから林へ兵を入れて、さらに人を失うわけにはいかない。
「日の出と同時に行かせろ」
「はい」
「生きてる可能性があるなら、急げ」
「承知しました」
オルフェンは紙を戻そうとした。
レオンハルトが止める。
「置いとけ」
「……はい」
部屋の外から歓声が聞こえた。
まだ王都では祝っている。
帝国を追い返した。
王が帰ってきた。
兵が帰ってきた。
今日は勝った日なのだから。
レオンハルトはその声を止めようとは思わなかった。
勝ったから帰れた人間がいる。
勝ったから守れた家がある。
勝ったから今日を迎えられた。
それまで否定すれば、死んだ者たちが守ったものまでなくなる気がした。
ただ。
机の上には、勝利とは別の紙も置かれていた。
◇
夕方になっても、南門には人が残っていた。
昼ほどではない。
帰ってきた家族を連れて帰った者も多い。
店へ戻った者。
家で祝う準備を始めた者。
酒場へ消えた者。
それでも数人は門を見ていた。
ハインの妻と娘も、その中にいた。
「まだ?」
娘が聞く。
「まだね」
「暗くなるよ」
「そうね」
「お父さん怒られる?」
母親が笑った。
「どうして?」
「遅いから」
「今日は怒られないんじゃない?」
「じゃあ、明日怒る?」
「それはお父さん次第かな」
娘は少し考える。
「いっぱい怒る?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ私も」
「何を怒るの?」
「遅いって」
母親は笑った。
今度は、少し長く。
門の外から荷車が来た。
二人とも顔を上げる。
負傷兵を乗せた荷車だった。
娘が背伸びする。
だが、父はいない。
その後ろから数人の兵が歩いてきた。
やはりいない。
妻は一度だけ息を吐いた。
娘には見えないように。
「今日は、もう来ない?」
小さな声だった。
母親は門を見る。
まだ道は続いている。
国境まで。
街道まで。
森まで。
夫がどこにいるのか、自分には分からない。
「お父さんは別のお仕事だったからね」
娘が母を見上げる。
「じゃあ明日?」
母親は少しだけ間を置いた。
「うん」
娘を抱き直した。
「明日、また来よう」
「朝から?」
「朝から」
「お父さんびっくりするね」
「そうね」
娘は嬉しそうに笑った。
母親も笑った。
王都では、まだ祝いの声が聞こえている。
今日は。
帝国に勝った次の日だった。
帰ってきた人を迎える日だった。
そして。
まだ帰ってきていない人を、待っている日でもあった。




