37日前同日 勝利③
帝国軍が完全に国境の向こうへ引いたあと、レオンハルトはようやく剣を鞘へ戻した。
「救護を前へ。倒れている者を拾え。味方を先に。余裕があれば帝国兵もだ」
「はい!」
「追撃に出た兵を戻せ。人数を確認する」
守備隊の指揮官が頷く。
「すぐに」
レオンハルトが橋を見る。
対岸の帝国軍もこちらを見ている。
さっきまでとは距離が違った。
王国兵も見返す。
もう誰も、怯えて目を逸らさなかった。
◇
帝国側では、撤退した部隊がようやく止まり始めていた。
負傷者が地面へ寝かされる。
盾を失った兵。
槍を折られた兵。
まだ戦える者も多い。
それでも中央にいた兵たちの顔は硬かった。
若い兵が先輩へ尋ねる。
「……あれが王ですか」
「ああ」
「昨日も、あんなだったんですか」
男は王国側を見る。
橋の向こうで、兵たちに囲まれている王が見えた。
「昨日より悪い」
「何が」
「昨日は、あいつ一人に列を割られた」
若い兵が黙る。
男は続けた。
「今日は、王の後ろから国そのものが来た」
◇
上位指揮官の前には報告が集まっていた。
「中央前衛、損害確認中」
「下流部隊、撤退完了」
「西側伝令線、一時断絶」
「王国軍は国境を越えていません」
指揮官が最後の報告へ顔を上げる。
「王は」
「橋の手前で停止させています」
若い将校が拳を握った。
「王一人に……」
「違う」
指揮官が遮る。
「今日は王一人に負けたのではない」
地図を見る。
「王がいる場所へ兵を寄せた。その間に他を使われた。下がれば追われた。こちらが王だけを見ている間に、王国兵は王の開けた場所を使うようになった」
誰も答えない。
「こちらの兵は、王を恐れた」
指が国境線で止まる。
「向こうの兵は、王についてきた」
しばらくして言った。
「本日の戦闘。敗北と記録する」
若い将校が目を伏せる。
「死傷者を数えろ。各部隊から報告を取れ」
「はい」
「同じ戦いを二度するな」
帝国軍は静かに動き始めた。
今日は、敗れた。
◇
王都へ早馬が着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
馬は泡を吹き、騎手も泥まみれだった。
「国境からだ!」
門番の声に周囲の市民が振り返る。
伝令馬はそのまま王城へ向かった。
市場の店主。
荷運びの男。
子ども。
兵士の家族。
誰も結果を知らない。
通りへ出た人々は、王城へ消えていく馬の背を見送った。
どうなった。
生きているのか。
負けたのか。
勝ったのか。
◇
セシリアは立ったまま待っていた。
オルフェンもいる。
エリオットとリゼットは、今日は部屋へ戻されても戻らなかった。
伝令が膝をつく。
「国境より報告です」
「聞きます」
男が顔を上げた。
「帝国軍を、国境の外まで押し返しました」
誰もすぐには動かなかった。
聞き間違いを恐れるような沈黙だった。
「敵軍は現在、帝国領側へ撤退。王国軍は国境で追撃を停止しています」
セシリアが尋ねる。
「レオンハルトは」
「ご無事です」
その言葉で、ようやくセシリアの肩から力が抜けた。
ほんの少しだけ。
エリオットが立ち上がる。
「勝った……?」
伝令が王子を見る。
「はい」
「勝ったんですか!」
「はい!」
今度は伝令の声も大きかった。
「我が軍の勝利です!」
リゼットが兄へ抱きつく。
「父上が勝った!」
「父上だけじゃない!」
エリオットも妹を抱き返した。
「みんなだ!」
セシリアは二人を止めなかった。
オルフェンが眼鏡を外す。
布を出した。
レンズは曇っていない。
それでも拭いた。
「オルフェン」
「はい」
「笑っていいのよ」
手が止まる。
しばらくして、オルフェンは小さく笑った。
「では、そうさせていただきます」
外から声が聞こえた。
「勝ったぞ!」
次の声が続く。
「帝国を追い返した!」
知らせが王都へ広がり始めていた。
◇
市場では、一人の男が駆け込んできた。
「勝ったってよ!」
「何が!」
「戦だよ! 帝国を国境の向こうまで追い返した!」
数秒、誰も動かなかった。
「……本当に?」
「王城からだ!」
市場が爆発した。
店から人が飛び出す。
樽を運んでいた男がその場へ置き、野菜を並べていた女が隣の店主へ抱きつく。
「帝国に?」
「帝国にだ!」
通りを子どもが走った。
「王様が勝った!」
別の子が叫ぶ。
「兵隊もだ!」
「みんな勝った!」
数日前まで、宝玉一つで帝国と戦うのかと怯えていた人々がいる。
国王の判断を疑った人々もいる。
広場で冒険者レオンが王だったと知った人々もいる。
その全員が、同じ知らせを聞いていた。
帝国を追い返した。
市場の老人が叫ぶ。
「言っただろ! レオンならやるって!」
「昨日まで震えてたじゃねえか!」
「うるせえ!」
笑い声が起こる。
酒場の主人が扉を開いた。
「今日は一杯だけ安くするぞ!」
「無料じゃねえのか!」
「店潰す気か!」
さらに笑いが広がった。
◇
冒険者ギルドにも知らせが届いた。
扉が勢いよく開く。
「勝ったぞ!」
中にいた全員が振り返った。
フィンが一番早かった。
「誰が!」
「王国軍だ! 帝国を国境の外まで追った!」
フィンが固まる。
「……レオンさんは」
「無事だってよ!」
持っていた包帯が床へ落ちた。
「……やった」
小さかった声が、次の瞬間には弾けた。
「やったああああ!」
両手を上げる。
周囲の冒険者が笑う。
ミレイも奥から出てきた。
「本当なの?」
「本当!」
「まだ確認――」
「王城からの伝令だって!」
フィンがミレイへ抱きついた。
「勝ったって!」
「分かった、分かったから!」
そう言いながら、ミレイも笑っていた。
別の任務先では、ガルドが知らせを聞いて豪快に笑った。
「はっ! やりやがった!」
街道を確認していたノアは、戻ってきた騎手から結果を聞いた。
「国境まで?」
「ああ」
「追い返した?」
「そうだ」
ノアは一度空を見た。
「……ほんとに勝っちまった」
口元が上がる。
「さすがだな、王様」
その日は、誰も先の話をしなかった。
◇
日が落ちても、国境の王国兵たちはまだ起きていた。
救護の火が並んでいる。
負傷者もいる。
壊れた盾も、折れた槍も残っている。
それでも、あちこちから笑い声が聞こえた。
一人の兵が、ひどく割れた盾を抱えている。
隣の男が聞いた。
「それ持って帰るのか」
「ああ」
「使えないぞ」
「分かってる」
「じゃあ捨てろよ」
兵は盾の大きな傷を指でなぞった。
「今日のだからな」
「何が」
「帝国を追い返した日の」
隣の男が笑う。
「家に飾るのか?」
「飾る」
「嫁に捨てられるぞ」
「その時はお前んち置く」
「嫌だよ」
二人が笑った。
少し離れたところでは、別の兵が今日の追撃を何度も話している。
「見たか? 最後の盾列!」
「俺、後ろだった」
「勿体ねえな!」
「明日またやってもらえばいいだろ」
「やめろ馬鹿!」
笑い声。
レオンハルトは、その声を聞きながら歩いていた。
兵が気づく。
「陛下!」
次々に立とうとする。
「座ってろ」
それでも何人かは立った。
一人が笑う。
「陛下、今日すごかったです」
「今日だけか」
周囲が一瞬黙った。
レオンハルト自身が言ったと気づき、誰かが吹き出した。
「陛下が冗談言ったぞ!」
「うるさい」
さらに笑いが起きる。
レオンハルトも、ほんの少しだけ笑った。
国境では、遅くまで兵たちの声が消えなかった。
王都の灯りも、遅くまで消えなかった。
今日、この国は帝国に勝った。




