37日前同日 勝利②
帝国側の指揮官にも、中央の後退は見えていた。
「前列が下がっています!」
「分かっている」
「王が中央へ!」
「それも分かっている」
若い将校が戦場を見る。
王国軍の中央だけ、進む速さが違う。
「予備を中央へ送りますか」
上位指揮官はすぐには答えなかった。
昨日、それをやった。
王を止めるために兵を寄せ、その間に別の場所が薄くなった。
今日は、その別の場所が一つではない。
森。
丘。
下流。
正面。
「中央へ送れば、下流は?」
「薄くなります」
「下流へ送れば」
若い将校が言葉を止めた。
「王が来ます」
指揮官は王国軍を見た。
「……そういうことだ」
王を倒せないから負けるのではない。
王がいる場所へ兵を集めれば別が開く。
放っておけば、その一点を破られる。
しかも今日は、破られた場所へ王国兵が迷わず入ってくる。
「前衛を下げる」
若い将校が顔を上げた。
「撤退ですか」
「このままなら撤退では済まなくなる」
「まだ予備があります」
「だから今退く」
指揮官の声は冷静だった。
「残っているうちに使う」
角笛が鳴った。
◇
長い音が戦場へ響いた。
帝国軍が動く。
前列を後ろへ。
後列を前へ。
負傷兵を先に。
盾を向けたまま、組織的に退く。
王国兵にも分かった。
帝国軍が、戦うためではなく戻るために動いている。
「逃げてるぞ!」
若い兵が叫ぶ。
「違う! まだ崩れてない!」
隊長が怒鳴る。
その言葉通り、帝国後衛が正面へ盾を並べた。
西の農道には倒れた荷車が残り、丘からは矢が飛ぶ。
下流から戻る兵と、橋へ向かう兵。
前へ出ていた部隊が深かった分だけ、戻る道も長い。
そこへ王国軍が迫る。
レオンハルトが剣を上げた。
「追うぞ!」
兵たちの顔が上がる。
昨日まで、追われる側だった。
「列を崩すな! 前だけ見て走るな!」
一拍置き、レオンハルトが叫んだ。
「ついて来い!」
初めてだった。
レオンハルトが兵たちへ、そう求めたのは。
返事は一つではなかった。
「おおおおおお!」
王国軍が前へ出た。
帝国後衛が受け止める。
盾が鳴った。
だが今度は、レオンハルト一人が先へ飛び出すことはなかった。
王国の盾が槍を受け、その隙からレオンハルトの剣が入る。
彼が一角を押せば、兵たちがそこを広げる。
「右から回れ!」
帝国軍が右へ向く。
「左、押せ!」
王国兵が反対からぶつかる。
後衛の列が割れた。
「下がれ!」
帝国兵が走る。
王国兵がその背中を追う。
一人が笑いながら叫んだ。
「昨日まで逆だったぞ!」
隣が息を切らしながら返す。
「だから追え!」
「言われなくても!」
疲れている。
傷もある。
それでも足は止まらなかった。
前には国王がいる。
横には仲間がいる。
その先に、国境が見え始めていた。
◇
橋が見えた。
帝国軍がそこへ殺到している。
下流の浅瀬でも、兵が対岸へ戻り始めていた。
「国境だ!」
「押し返せ!」
王国兵の声がさらに大きくなる。
帝国側の後衛が、橋の手前で最後の列を作った。
ここだけは崩れなかった。
新しい兵が多い。
盾が揃い、その間から槍が伸びる。
レオンハルトが速度を落とした。
後ろの兵も止まる。
守備隊の指揮官が追いついた。
「陛下。ここは硬いです」
「ああ」
「止めますか」
レオンハルトは盾列の向こうを見る。
負傷者。
弓兵。
前衛。
帝国兵が次々と橋を渡り、国境の外へ戻っている。
ここで止まっても、今日の戦いは勝ちと言える。
だが、まだ王国領に帝国の盾が残っている。
「……いや」
レオンハルトが剣を握り直した。
「ここをどかす」
「陛下」
「今日だけは、最後まで押す」
王国兵がその背中を見る。
「聞いたか!」
誰かが叫んだ。
「最後までだ!」
歓声が上がる。
「橋までだ!」
「帝国を追い出せ!」
帝国側から声が飛んだ。
「レオンハルトを前へ出すな!」
王国兵の中から笑い声が起きる。
「まだ言ってるぞ!」
「二日ずっと止まってねえだろ!」
別の兵が叫んだ。
「陛下! またお願いします!」
レオンハルトが一瞬だけ振り返る。
「お前らも来い」
「はい!」
今度は笑い声ではなく、咆哮になった。
王国軍が最後の盾列へぶつかる。
最初の衝突で兵が倒れた。
帝国の槍はまだ鋭い。
一斉に伸びた穂先の一つをレオンハルトが払い、別の一本を王国兵の盾が受ける。
「陛下、今です!」
レオンハルトが踏み込む。
揺れた盾の一角へ王国兵が肩を重ね、槍を押し込む。
帝国兵が横から塞ごうとした。
「右は任せてください!」
「左、詰めろ!」
レオンハルトが叫ぶ。
「一人で押すな! 列ごと行け!」
王国の盾が並んだまま前へ出る。
槍と盾を重ねたまま、一歩、さらに一歩と帝国の列を橋へ押していく。
「戻せ!」
帝国側の隊長が怒鳴る。
戻らない。
「押せます!」
「なら押し切れ!」
「おおおおお!」
王国兵が一斉に力を掛けた。
帝国の盾列が大きく揺れ、その一角へ王国の槍が集中する。
列が裂けた。
「崩れたぞ!」
歓声が上がる。
帝国側の隊長が橋の向こうを見る。
負傷者も、前衛も、ほとんど渡り終えていた。
「撤退!」
最後の盾兵たちが橋へ走る。
王国兵も追った。
レオンハルトも数歩進む。
橋の入口まで。
そこで止まった。
「止まれ!」
勢いのついた兵たちはまだ走ろうとする。
「止まれ!」
二度目の声で、近くの兵が足を止めた。
命令が後ろへ伝わる。
「追うな!」
「国境までだ!」
兵たちが次々に止まった。
橋の向こうでは帝国兵が走っている。
対岸には新しい盾が並び始めていた。
まだ帝国軍はいる。
まだ戦える兵もいる。
だが。
王国側には、もういない。
王国領から、帝国軍が消えた。
◇
誰もすぐには声を出さなかった。
荒い呼吸。
負傷者のうめき。
川の音。
対岸で帝国兵が隊列を組み直す音。
それだけだった。
若い兵が橋を見る。
次に、自分の足元を見る。
そこは昨日、帝国軍が立っていた場所だった。
「……戻った」
隣の男が聞く。
「何が」
「国境だ」
声が震えた。
「俺たち、国境まで戻った」
周囲の兵が顔を上げる。
後ろを見れば、朝に捨てた畑がある。
その向こうには丘がある。
もっと向こうには、自分たちが下がってきた道がある。
全部、自分たちの後ろに戻っていた。
一人の兵がレオンハルトへ声を掛けた。
「陛下」
「何だ」
男は一度口を開き、閉じた。
「……勝ったんですか」
レオンハルトは橋の向こうを見る。
帝国軍は退いている。
旗も下がっていく。
しばらく見届けてから、兵たちへ向き直った。
「ああ」
はっきり言った。
「勝った」
静寂が壊れた。
「勝ったぞ!」
盾が空へ突き上げられる。
「帝国を追い返した!」
「俺たちが!」
「勝ったぞおおおおお!」
声が一気に広がった。
槍が空へ上がり、盾を剣で叩く音が鳴る。
何人もの兵が隣へ抱きついた。
「生きてる!」
「当たり前だろ!」
「帰れるぞ!」
泣きながら笑う男がいる。
膝から崩れ、地面を叩く者もいる。
叔父の畑を気にしていた兵が、泥だらけの手で顔を拭った。
「戻れるじゃねえか」
隣の兵が笑う。
「まだ畑ぐちゃぐちゃだぞ」
「直しゃいい!」
「そうだな!」
二人とも笑った。
守備隊の指揮官は兵たちを整列させようとして、やめた。
今日は止める必要がなかった。
レオンハルトも何も言わず、泣き、笑い、抱き合う兵たちを見ていた。
一人の若い兵が駆け寄り、途中で我に返って止まる。
「陛下!」
「何だ」
男は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
結局、深く頭を下げる。
「……ありがとうございました!」
レオンハルトが眉を寄せた。
「俺じゃない」
男が顔を上げる。
「お前らが押した」
周囲の兵も聞いていた。
「俺一人じゃ、ここまで戻せない」
一瞬だけ静かになる。
レオンハルトは兵たちを見回した。
「よくやった」
今度は、さっきより大きな歓声が上がった。
「うおおおおおお!」
「陛下!」
「レオンハルト陛下!」
レオンハルトは困ったように少しだけ顔をしかめる。
それを見た兵が笑った。
「陛下、こういうの苦手なんだな!」
「聞こえてるぞ」
「すみません!」
さらに笑いが起きた。




