61日前 麦が少し高い日②
穀物商の前だった。
荷車の横に、大きな麻袋が五つ積まれている。
その前で怒鳴っていたのは、四十代ほどの男だった。
日に焼けた顔に太い腕。麻袋を叩く手は、長年の農作業で硬く荒れていた。
「去年と同じ値段で売れっていうのか!」
向かいにいる商人も負けていない。
「去年と同じじゃない!少し上げてるだろう!」
「これっぽっちで何が変わる!」
「こっちにも限界がある!」
「俺たちは今年、三割近く落ちてるんだぞ!」
周囲がざわつく。
フィンが小声で言う。
「三割?」
農夫が麻袋を叩いた。
「見ろ!粒が小さいだろうが!」
商人が言い返す。
「だから全部高値で買えって?そんなことしたら誰がその値段で買うんだ!」
「知るか!」
「こっちだって商売だ!」
「こっちは生活だ!」
「俺だって生活だ!」
声が重なる。
見物人も口を挟み始める。
「農家が可哀想だ」
「でも値上がりしたら困る」
「最近パン高いぞ」
「商人は儲けてるんだろ」
「馬鹿言え。運ぶだけでも金がかかる」
フィンが眉を寄せた。
「買ってあげればいいのに」
レオンは答えなかった。
農夫が商人の胸倉を掴んだ。
「待て」
誰かが言う前に、商人側の若い男が農夫の腕を払い除けた。
「触るな!」
「何だと!」
農夫が若者を突き飛ばす。
若者の背中が荷台へぶつかった。
麦袋が一つ揺れる。
次の瞬間。
若者が殴った。
拳が農夫の頬へ入る。
「おい!」
周囲から声が上がる。
農夫も殴り返そうとする。
フィンが動いた。
「止めないと!」
腰の剣へ手が行く。
レオンがその手首を掴んだ。
「剣は抜くな」
「でも!」
「だからだ」
レオンは人の輪へ入った。
ノアも串の最後を口へ入れ、反対側から回る。
農夫が若い男へ掴みかかる。
レオンが横から腕を取った。
強く捻らない。
肘と肩の向きを変え、前へ出る力だけを止める。
「離せ!」
農夫が振りほどこうとする。
レオンは一歩だけ外へ動く。
腕の力を正面から受けない。
農夫の身体だけが空振りする。
「落ち着け」
「関係ねえだろ!」
「関係ない」
「なら離せ!」
「殴るのをやめたらな」
反対側ではノアが若い男の前へ立っていた。
「お兄さんも落ち着こうか」
「先に手を出したのはそいつだ!」
「分かった分かった」
「分かってねえだろ!」
「うん。まだ何も聞いてないからな」
「だったら――」
「だから聞くから殴るな」
若い男が口を閉じた。
レオンも農夫の腕を離した。
農夫は荒い息をしながら頬を押さえる。
商人が声を上げる。
「衛兵を呼べ!」
「待て」
レオンが言った。
「何だあんた」
「話を聞くだけだ」
「冒険者が?」
「嫌なら呼べ」
商人はレオンを見る。
その後ろでフィンとノア。
周囲の人間。
しばらく迷い、
「……聞いてどうする」
と言った。
「さあな」
「は?」
「まず何が原因か聞かないと分からん」
農夫が吐き捨てる。
「買い叩きだよ」
商人が怒鳴る。
「違う!」
「去年とほとんど同じ値段じゃねえか!」
「去年より上げてる!」
「足りねえんだよ!」
「いくらならいい!」
農夫が額を言う。
商人の顔が引きつった。
「馬鹿言うな!」
「これでも冬を越せるか分からねえ!」
「その値段で買ったらこっちが売れん!」
「売れないのはお前の都合だろ!」
「じゃあ俺は何のために買うんだ!」
また声が大きくなる。
レオンが二人の間へ立った。
「一人ずつ話せ」
二人とも黙る。
声そのものは大きくない。
だが先ほどまで喧嘩を止めた男に言われると、妙に逆らいにくかった。
レオンは農夫を見る。
「収穫が減ったのか」
「ああ」
「どのくらい」
「まだ全部刈っちゃいない。でも三割は落ちる」
「去年は」
「少し悪かった。今年ほどじゃねえ」
「家族は」
農夫が怪訝な顔をする。
「何でそんなこと訊く」
「困ってる理由が分からん」
農夫は少し黙った。
「女房と子どもが三人。親父とお袋もいる」
「種に残す分は」
「当然いる」
「家で食う分も」
「ああ」
「売れる量自体が少ないのか」
「そうだよ」
農夫の声が少し落ちた。
「今年の量で去年みたいな値段じゃ、冬まで持たねえ」
レオンは商人を見る。
「高く買えない理由は」
商人が鼻を鳴らした。
「こっちだって仕入れは一軒じゃない」
「それで?」
「北から来る量が減ってる。荷車は同じだけ走らせても載せる量が少ない。馬の餌も上がった」
「他には」
商人が少し迷った。
「護衛」
ノアが反応した。
「護衛?」
「街道で獣や魔物が増えたって話、冒険者なら知ってるだろ」
「ああ」
「前は二人でよかったところを三人つける。場所によっちゃ四人だ」
レオンは黙った。
昨日見た牙鼠と北部からの報告、ここで聞いた市場の値段が、違う形のまま一本の線につながっていく。
商人は続けた。
「この男の言う額で買えば、こっちはその分を売値に乗せるしかない」
農夫が言う。
「そうすりゃいいだろ!」
商人が振り向く。
「誰が買うんだ!」
周囲から声が上がった。
「今でも高いぞ!」
「これ以上上がったら困る!」
「うちは五人家族なんだ!」
農夫が周りを見る。
少しだけ勢いが削がれた。
フィンは黙って聞いていた。
やがてレオンへ近づく。
「じゃあ……どうすればいいんですか」
誰に訊いたのか。
農夫か。
商人か。
レオンか。
自分でも分かっていないようだった。
レオンはすぐには答えなかった。
農夫を見る。
商人を見る。
積まれた麦袋を見る。
「分からん」
フィンが振り向いた。
「え?」
「今ここで全部解決する方法は分からん」
フィンは少し驚いた顔をした。
農夫も商人も黙っている。
レオンは農夫へ向いた。
「ただ、ここで殴り合っても麦は増えない」
次に商人。
「安く買い続けて農家が潰れれば、来年は買う麦そのものがなくなる」
商人が眉を寄せる。
「じゃあどうしろってんだ」
「今日決める必要はあるのか」
「何?」
「この荷を全部今すぐ売らなきゃならんのか」
農夫が答える。
「今日じゃなくてもいい」
「なら少し冷めてから話せ」
「そんな――」
「今のお前らが話しても、値段じゃなくて殴った回数を数えることになる」
ノアが笑いそうになり、耐えた。
レオンは続ける。
「午後にもう一度話せ」
商人が腕を組む。
農夫も不満そうだ。
「それまでに、お前は最低いくらなら売れるか考えろ」
農夫へ言う。
「こっちは最高いくらまでなら買えるか考えろ」
商人へ。
「その間の数字が一つもないなら、その時は別の相手を探せ」
農夫が舌打ちした。
だが、さっきほどの勢いはない。
商人も若い男を見る。
若い男は殴った拳を擦っていた。
やがて商人が息を吐く。
「……午後だな」
農夫も言う。
「分かったよ」
「殴るなよ」
ノアが言った。
「次は衛兵呼ぶからな」
農夫が睨む。
「お前は誰だ」
「善良な通行人」
「嘘つけ」
周囲から笑いが起きる。
張りつめていた空気が少し緩んだ。
人々も散り始める。
そこへようやく市場の警備を担当する兵士が二人走ってきた。
「何があった!」
ノアが手を上げる。
「もう終わった」
「終わった?」
「殴った」
若い男を指す。
「殴られた」
農夫を指す。
「でも今は終わった」
兵士が困った顔をした。
「どういうことだ」
「詳しくは本人らに聞いてくれ」
ノアはレオンを見る。
「行こうぜ」
レオンは動かなかった。
麦袋を一つ見ている。
「少し見せろ」
農夫が怪訝そうにする。
「麦を?」
「ああ」
農夫は袋の口を開いた。
レオンが手を入れる。
一掴み。
掌の上へ乗せる。
粒が小さい。
形も揃っていない。
中には痩せたものも混じっている。
「今年だけか」
「だから言ったろ。今年がひどい」
「水は?」
農夫の顔が変わる。
「何でそんなことまで訊くんだ」
「井戸」
「……出るよ」
「前と同じか」
少しの沈黙。
「前より深い」
フィンがレオンを見る。
レオンは麦を袋へ戻した。
「村はどこだ」
農夫が場所を答えた。
王都からそう遠くない。
北部三郡ではない。
レオンの眉がわずかに動く。
「その辺り全部か」
「知らねえよ。隣の村も今年は悪いって話は聞く」
「獣は」
農夫がまた怪訝な顔をする。
「何なんだ、あんた」
「獣は増えたか」
「……猪が畑まで来るようになった」
「他は」
「牙鼠も見る」
ノアの表情から笑いが消えた。
フィンも分かったらしい。
「昨日と同じ……」
農夫が二人を見る。
「何の話だ?」
レオンは首を振った。
「何でもない」
「何でもない顔じゃねえだろ」
「暇な冒険者なんだ」
「は?」
ノアがすぐに口を挟む。
「こいつ、そういうの気にするの好きなんだよ」
「何だそれ」
「趣味」
「趣味ではない」
「似たようなもんだろ」
農夫は納得していなかったが、それ以上は聞かなかった。
レオンは麦袋から離れた。
「午後、殴るなよ」
「分かってる」
「本当か?」
「しつこいな!」
少しだけ元気が戻っていた。
三人は市場を離れた。
◇
しばらく歩いても、フィンは黙っていた。
ノアが横を見る。
「どうした」
「考えてます」
「珍しいな」
「失礼ですね」
「何を考えてる」
フィンは少し前を歩くレオンを見る。
「農家の人を助けるなら、商人が高く買えばいいと思ったんです」
「うん」
「でも、それだとパンが高くなる」
「なるな」
レオンが答えた。
「じゃあ……国が足りない分を払えばいいんじゃないですか」
「その金はどこから出る」
「国のお金」
「国の金はどこから出る」
フィンが止まる。
「……税」
「誰から取る」
「国民」
「農家からも?」
「……」
「商人からも?」
フィンは黙った。
数歩歩く。
「じゃあ税金じゃない方法」
「あるなら教えてくれ」
「レオンさん、意地悪です」
「訊いたのはお前だ」
「全部質問で返すじゃないですか」
「俺も答えを知らんからな」
フィンは前へ回り込んだ。
「本当に分からないんですか?」
「ああ」
「何でも知ってそうなのに」
「それはお前が俺を買いかぶってる」
ノアが言う。
「こいつ割と知らないこと多いぞ」
「例えば?」
「女心」
レオンがノアを見る。
ノアは視線を逸らした。
フィンが吹き出す。
「奥さん大変そう」
「何故そうなる」
「何となく」
「お前も知らんだろう」
「でも分かります」
「何がだ」
「大変そうだなって」
「余計なお世話だ」
ノアが串焼き屋を見つけた。
「あ、もう一本食おう」
「さっき食べたでしょう」
「朝食と串焼きは別なんだろ」
「二本目は昼食ですか?」
「昼食前の串焼き」
フィンが呆れる。
「ノアさんは少し考えてください」
「考えると腹が減るんだよ」
「それ、考えなくても減ってますよね」
レオンは二人の会話を聞きながら、さきほどの農夫が答えた場所を頭の中で地図へ置いていた。
北ではない。
それでも、水の減り、収量の落ち込み、獣の増加――北部と同じ言葉がここにも並んでいた。
◇
午後。
王城へ戻ったレオンハルトは、通用門を抜けたところでカイルを見つけた。
「カイル」
呼び止められた伝令兵が振り返る。
「陛下」
「市場管理所へ行ってくれ」
「今からですか?」
「ああ」
カイルが少しだけ嫌な予感のする顔をした。
「何を調べれば」
「今日の穀物価格だ。まず麦、麦粉、豆、芋、油、塩。今日と先月、それから去年の同じ時期」
「随分ありますね」
「全部揃わなくてもいい。先に取れるものだけ持ってこい」
「承知しました」
カイルが頭を下げる。
レオンハルトは数歩進み、また止まった。
「仕入れ量も分かるなら聞いておけ」
カイルが振り返る。
「何かありましたか?」
「市場で喧嘩を見た」
「陛下が?」
「見ただけだ」
一拍。
「本当に?」
「何故そこを疑う」
「いえ」
カイルは姿勢を正した。
「行って参ります」
「頼む」
レオンハルトは冒険者装備を脱ぎに向かった。
◇
しばらくして。
レオンハルトは再び王城の執務室にいた。
革鎧は脱いでいる。
濃紺の上衣。
机の上には北部三郡の報告書。
オルフェンは新しい書類を分類していた。
「市場価格を調べろ」
突然言われ、手が止まる。
「何の市場を」
「王都」
「品目は?」
「麦。麦粉。豆。芋。油。塩」
「期間は」
「去年から今まで。月ごと」
オルフェンが眼鏡の奥から王を見る。
「何がありました」
「喧嘩」
「……喧嘩」
「ああ」
「陛下が?」
「俺じゃない」
「それなら結構です」
レオンハルトが少し眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
オルフェンは紙を一枚取る。
「市場価格だけで?」
「仕入れ量も」
「分かりました」
「それと農村側の買い取り価格」
オルフェンの筆が止まった。
「買い取り価格まで?」
「ああ」
「商人側の仕入れ値だけではなく」
「両方だ」
オルフェンは数秒考えた。
「農民と商人が揉めていたのですか」
「よく分かったな」
「品目の並びを見れば」
「便利だな」
「長く宰相をしておりますので」
レオンハルトは机の上の地図を広げた。
「北部じゃない村でも収量が落ちてる」
オルフェンの表情が変わる。
「どこです」
レオンハルトが指を置く。
「ここに近い」
「王都近郊」
「ああ」
「確かな情報ですか」
「農夫本人から聞いた」
「程度は」
「本人曰く三割近い」
「昨年との比較?」
「ああ」
「水は?」
「井戸が前より深くなったと言っていた」
オルフェンが黙った。
「獣も増えた」
レオンハルトが続ける。
「猪。牙鼠」
「北部の報告と似ていますな」
「似ている」
「ですが距離がある」
「だから調べる」
オルフェンは地図を見る。
「農政官にも回します」
「頼む」
「市場価格については、価格統制もお考えですか」
「まだしない」
即答だった。
「理由を伺っても?」
「原因も量も分からんうちに値段だけ押さえれば、どこかに無理が出る」
「商人が売らなくなる可能性もある」
「ああ」
「農民が持ち込まなくなる可能性も」
「ああ」
「ではまず数字を」
「そうだ」
オルフェンが僅かに笑った。
「冒険者という仕事は、随分と国政に便利ですな」
レオンハルトが顔を上げる。
「今さらか」
「十年前から申し上げております」
「何を」
「陛下が城にいるだけでも、十分に国政はできます」
「それでは今日の喧嘩は見えなかった」
「見えなくても、報告はいずれ上がります」
「いつだ」
「……」
「農夫と商人が殴り合った翌週か」
オルフェンは答えない。
レオンハルトは椅子の背へ寄りかかった。
「数字になる前の話がある」
「そのために陛下自ら喧嘩の仲裁をする必要まではありません」
「止めただけだ」
「殴られてはいませんか」
「いない」
「殴っても?」
「いない」
「剣は?」
「抜いてない」
「それなら本日は優秀です」
「何の評価だ」
「陛下の外出としては」
レオンハルトがため息をついた。
「褒められている気がしない」
「気のせいです」
扉が叩かれる。
カイルだった。
「失礼します」
「どうだった」
カイルは何枚かの紙を持っていた。
「市場管理所から、取り急ぎ確認できた分だけ持ってきました」
オルフェンが紙を見る。
「随分早かったな」
「陛下から、全部揃わなくても先に持ってくるようにと言われましたので」
カイルが紙を机へ置く。
正式な集計ではない。今日の平均価格を、先月と前年同月に並べた簡単な資料だった。
レオンハルトが数字を指で追う。
麦と麦粉、油は上昇。豆もわずかに上がっている。芋と塩には、まだ大きな変化がない。
オルフェンも横から見る。
「まだ急騰ではありませんな」
「ああ」
「民衆が騒ぐほどではない」
「だから今見てる」
オルフェンが王を見る。
レオンハルトは紙から目を離さなかった。
「続きも持ってこい」
「承知しました」
カイルが頭を下げる。
「農村側もですか」
「ああ」
「商人の仕入れ量も」
「ああ」
カイルが退室する。
窓の外。
王都の午後。
遠くから荷車の音が聞こえる。
市場から来た鐘の音。
人の声。
いつもと変わらない。
オルフェンが書類を一枚脇へ置いた。
「夕食までにはお戻りになるのですよね」
レオンハルトが顔を上げる。
「何故知っている」
「王妃殿下から念を押されました」
「お前に?」
「城中に、ではありませんか」
レオンハルトは黙った。
オルフェンの口元が僅かに上がる。
「今日はもう外へ?」
「出ない」
「本当に?」
「出ない」
「では安心しました」
「何故お前までセシリア側なんだ」
「私は常に国側です」
「俺も国だ」
「だから困るのです」
レオンハルトは反論しようとして、
やめた。
机の上の価格表へ視線を戻す。
「続きが来たら呼べ」
「承知しました」
レオンハルトは次の書類を手に取った。




