61日前 麦が少し高い日①
朝食の席で、エリオットは三度目の欠伸を噛み殺した。
向かいに座るリゼットが、それを見逃さなかった。
「眠そうですね」
「眠くない」
「今、欠伸したでしょう」
「してない」
「口をあんなに開けて?」
「息を吸っただけ」
リゼットが笑う。
「随分たくさん空気を吸うのね」
エリオットは姉を睨んだ。
「姉上だって眠そうじゃないですか」
「私はいつも通りです」
「目の下」
「何?」
「少し――」
「エリオット」
リゼットがにこりと笑った。
弟は口を閉じた。
レオンハルトは二人のやり取りを聞きながら、焼いたパンをちぎっていた。
隣に座るセシリアが静かに紅茶を口へ運ぶ。
「昨夜はよく眠れましたか?」
その問いが誰へ向けられたものなのか。
エリオットは一瞬迷った。
「……はい」
「そう」
セシリアはそれ以上言わなかった。
エリオットの背筋が少し伸びる。
レオンハルトが芋を一つ口へ入れた。
「眠いなら早く寝ればいい」
「父上」
「何だ」
「父上も子どもの頃、隠れて剣の練習をしませんでしたか?」
レオンハルトは咀嚼を止めた。
セシリアが夫を見る。
リゼットも見る。
「……したな」
「ほら!」
エリオットの顔が明るくなった。
「だからといって許可した覚えはありません」
セシリアが言った。
「母上」
「それとこれとは別です」
「でも父上も――」
「あなたのお父様が昔何をしていたかと、あなたが昨夜言いつけを破ったことは別の話です」
エリオットが黙る。
リゼットが小さく笑った。
「残念でしたね」
「姉上だって昨日遅くまで起きてたでしょう」
「本を読んでいただけです」
「どこで?」
「部屋で」
「本当に?」
「本当に」
エリオットが何か言おうとする。
リゼットは先にパンを一口かじった。
会話を終わらせるつもりらしい。
レオンハルトは娘を見た。
「何を読んでいた」
「父上まで?」
「訊いただけだ」
「詩集です」
「面白いのか」
「父上には向かないと思います」
「何故だ」
「途中で寝るからです」
「失礼な奴だな」
「事実でしょう?」
セシリアが笑った。
朝の食卓はそれ以上追及する空気にはならなかった。
食事を終えたレオンハルトは、午前中の政務へ向かった。
◇
二時間後。
王都の冒険者ギルド。
木製の扉を開けると、いつもの騒がしさが耳へ飛び込んできた。
依頼掲示板の前では冒険者が口論し、朝から酒を飲んでいる男のそばで受付が報酬を計算している。別の卓では武器の手入れをする者がおり、奥からは誰かの笑い声が聞こえた。
レオンは革鎧の上に灰色の外套を羽織り、人の間を抜けた。
「遅いです」
声がした。
見ると、フィンが長椅子に座っていた。
隣にはノア。
「何時からいた」
「結構前です」
「結構とは」
「一時間くらい」
「何故そんなに早く来た」
「足を見せろって言ったの、レオンさんじゃないですか」
「昼前でいいとは言った」
「言ってません」
「言った」
「言ってないです」
ノアが横から口を挟んだ。
「言ってないな」
レオンが見る。
「お前はどちらの味方だ」
「事実の味方」
「昨日はギルドで見せろとしか言ってないです」
フィンが勝ち誇った顔をした。
レオンは少し考える。
「……そうだったか」
「そうです」
「悪かった」
素直に謝られ、今度はフィンが少し戸惑った。
「え、あ、はい」
「足」
「ここで?」
「昨日は街道で靴まで脱がせただろう」
「それとこれとは違います!」
「何が違う」
「人が多いです!」
ノアが笑った。
「裏の診療室借りろよ」
「最初からそう言ってください!」
◇
傷は悪くなっていなかった。
踵の皮膚はまだ赤いが、昨日より腫れは引いている。
レオンは包帯を巻き直した。
「今日は依頼は禁止だ」
「やっぱりですか」
「やっぱりだ」
「歩けますよ」
「歩けるのと戦えるのは別だ」
「でも」
「昨日、足が痛くて歩幅が狭くなっていただろう」
フィンが黙る。
「同じ状態で魔物と戦えば、避ける時に遅れる」
「……はい」
「明日もう一度見ろ」
「明日も?」
「嫌なら治るまで依頼禁止だ」
「明日来ます」
即答だった。
ノアが壁にもたれながら言う。
「新人は真面目だなあ」
フィンが振り向いた。
「ノアさんは依頼ないんですか?」
「今日は休み」
「昨日も一緒だったじゃないですか」
「だから今日は休み」
「レオンさんは?」
「俺も大した用はない」
「じゃあ二人とも暇なんですね」
レオンとノアが同時にフィンを見る。
「何ですか」
「言い方」
ノアが言った。
「暇なんですね、って本人の前で言う?」
「だって暇なんでしょう?」
「まあ暇だけど」
「じゃあいいじゃないですか」
フィンは靴を履いた。
立ち上がる。
一歩。
二歩。
少しだけ右足を庇う。
レオンは黙って見た。
フィンが止まった。
「……今、見ました?」
「見てない」
「絶対見た」
「何をだ」
「歩き方」
「知らん」
「顔がそう言ってます」
「俺の顔が何を喋った」
「『まだ駄目だな』って」
ノアが噴き出した。
「長い付き合いになりそうだな、お前ら」
「何がです?」
「何でもない」
ギルドの外へ出る。
陽はもう高かった。
フィンが大きく伸びをする。
「お腹すいた」
「朝食は」
「食べました」
レオンが見る。
「本当です!」
「昨日も似たようなことを言っていたな」
「今日はちゃんと食べました!」
「何を」
「パン」
「それだけか」
「チーズも」
「量は」
「普通です」
「お前の普通は信用できん」
「何なんですか!」
ノアが前を指した。
「市場行こうぜ。串焼き食おう」
「賛成!」
フィンが即答する。
「さっき朝食食ったと言っただろう」
「朝食と串焼きは別です」
「何が違う」
「時間です」
「まだ昼前だぞ」
「ほら、時間が違います」
「そういう意味じゃない」
三人は市場へ向かった。
◇
王都中央市場は、昼が近づくにつれて人が増える。
通りの両側には店が並び、その前にも露店がせり出している。
魚や干し肉、豆、野菜、果物。さらに布や革、壺、薬草、木工品、焼き菓子、香辛料まで、あらゆる品が並び、呼び込みの声が何重にも重なっていた。
「安いよ!今日は鯖が安い!」
「南の梨!甘いよ!」
「そこの兄ちゃん、奥さんに花はどうだ!」
ノアが足を止めた。
「レオン、買ってけよ」
「何を」
「花」
「何故だ」
「嫁さんいるんだろ?」
フィンが振り返る。
「え」
ノアの顔が固まった。
レオンもノアを見る。
「お前」
「いや」
「今」
「違う」
「レオンさん、結婚してるんですか?」
ノアが両手を上げた。
「俺は何も言ってない」
「言いましたよね?」
「一般論だ」
「『嫁さんいるんだろ』って」
「世の中にはいる奴もいる」
「レオンさんは?」
フィンがレオンを見る。
レオンは少し考えた。
「いる」
「いるんだ!」
何故か大きな声だった。
近くの店主が振り返る。
フィンが慌てて声を落とした。
「いるんですね」
「ああ」
「どんな人です?」
「何故お前に説明する必要がある」
「気になるじゃないですか」
「なら気にしていろ」
「年上?年下?」
「同い年くらい」
「綺麗?」
レオンは歩く。
「レオンさん」
「知らん」
「知らないんですか?」
「本人に聞け」
「会わせてくださいよ」
「嫌だ」
「何で!」
ノアが笑いながら串焼き屋へ向かった。
「この話は掘ると危ないぞ」
「何が危ないんです?」
「俺の命」
「ノア」
レオンの声が低くなる。
「はい」
ノアは黙った。
串焼きを三本買う。
一本をレオンへ渡した。
「いらん」
「食えよ」
「朝食を食った」
「朝食と串焼きは別らしいぞ」
フィンが頷いた。
「時間が違います」
レオンは串焼きを受け取った。
「お前ら、妙なところだけ息が合うな」
歩きながら肉を一口食べる。
塩が強い。
香草の匂い。
フィンはもう半分食べていた。
「美味しい」
「昨日のパンよりな」
ノアが言った。
フィンがむせた。
「忘れてください!」
「無理だろ」
「本当に美味しくなかったんですから!」
「本人の前で言う必要はなかったな」
レオンが言う。
「レオンさんも笑ったじゃないですか」
「笑ってない」
「笑いました!」
昨日と同じやり取りになった。
フィンは頬を膨らませながら先へ進む。
その後ろで、レオンはふと足を止めた。
パン屋だった。
店先に積まれた丸パンの値札へ目をやる。
昨日と比べたわけではない。彼が最後にここへ来た時より、少し高い。
隣の豆、その先の油にも目を移す。
「どうした?」
ノアが訊く。
「いや」
レオンは別の店へ目を向ける。
小麦粉も、やはり高い。
「おじさん」
店主へ声をかける。
五十代ほどの太った男が顔を上げた。
「何だい」
「麦粉、上がったな」
「分かるか?」
「前にも買った」
「まあねえ」
店主は肩を竦める。
「北から入ってくる量が少ないんだよ」
「いつからだ」
「少しずつなら去年から。今年は特にだな」
「どのくらい」
「俺らみたいな小売りには正確なところまでは分からんよ。ただ仕入れ値は上がってる」
「不作か」
「そう聞いてる」
横でフィンが小麦粉の袋を見る。
「そんなに違うんですか?」
「今すぐ食えなくなるほどじゃない」
店主が笑った。
「ただ、家族が多い家は嫌だろうな。パンなんて毎日食うんだから」
フィンが値札を見た。
「これくらいでも?」
「毎日ならな」
レオンは少し黙った。
北部。
二割。
紙の上に書かれていた数字。
市場では値札が少し書き換わる。
それだけのことだった。
「ありがとう」
「買わないのかよ」
「今日はいい」
「話だけか!」
店主が笑う。
三人も歩き出した。
その時だった。
「ふざけるな!」
市場の奥から怒鳴り声が上がった。
何人かが振り返る。
ノアが串を口に入れたまま言った。
「喧嘩」
フィンが背伸びする。
「見えません」
「見なくていい」
「気になる」
「お前は怪我人だ」
「見るだけです」
人の流れが少し変わる。
騒ぎの方へ集まる者。
避ける者。
三人も近づいた。




