62日前同日 泥だらけの王②
湯を浴び、着替えを済ませる頃には、窓の外はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
レオンハルトは白いシャツに濃紺の上衣という簡素な格好で廊下を歩く。
王冠もない。
剣もない。
ただの家族の時間だった。
「お帰りなさい、レオンさん」
横から声がした。
振り向く。
柱の陰から顔を出していたのは、十六歳のリゼットだった。
腰近くまで伸びた淡い金髪に、父と同じ灰青色の瞳。顔立ちは母親より少し柔らかいが、笑った時の目元はレオンハルトによく似ている。
今は王女らしいドレスではなく、淡い薄桃色の室内着で、小さな本を胸に抱えていた。
「その呼び方はやめろ」
「どうしてです?」
「ここは城だ」
「レオンさんはレオンさんでしょう?」
「誰かに聞かれたらどうする」
「母上には?」
「もう会った」
「ああ」
リゼットはそれだけで全てを察した顔をした。
「ご愁傷さまです」
「まだ死んでいない」
「では、何を言われました?」
「風呂へ入れと」
リゼットは少し近づき、父の匂いを嗅ぐような仕草をした。
「それは正しいですね」
「そんなにか」
「父上、自分では分からないのですか?」
「分からん」
「冒険者向きですね」
「どういう意味だ」
リゼットは笑った。
「そうだ」
何か思い出したように指を立てる。
「次に町へ行く時、お願いがあります」
「何だ」
「西通りに新しい焼き菓子のお店ができたそうです」
「自分で買えばいい」
リゼットが父を見つめた。
「王女が一人で西通りへ行けると思います?」
「護衛をつけろ」
「護衛十人を連れて焼き菓子を一つ買いに?」
「五人でいい」
「そういう問題ではありません」
「侍女に頼め」
「自分で選びたいんです」
レオンハルトは少し考える。
「何が違う」
「全然違います」
「菓子だろう」
「父上には一生分からないと思います」
リゼットがむっとした顔をしたところで、廊下の向こうから少年が走ってきた。
「父上!」
エリオットだった。十三歳。
父と同じ黒に近い髪はまだ柔らかく、前髪が少し目にかかっている。瞳は母譲りの青紫。背は伸び始めたばかりで、身体つきもまだ細い。
「走るな」
レオンハルトが言う。
エリオットは急停止した。
「すみません」
「廊下で転んで頭を割れば、剣の訓練以前の問題だ」
「はい」
言いながらも顔は明るい。
「今日、また依頼に出ていたのですか?」
「誰から聞いた」
「ハインです。父上が血のついた服で帰ってきたって」
「……あいつ」
「何と戦ったのです?」
「牙鼠だ」
「何匹?」
「四匹いた」
「父上は何匹倒しました?」
「一匹」
「一匹?」
少し驚いた顔。
「では残りは?」
「ノアが一匹。新人が一匹。一匹は逃げた」
「新人?」
「フィンという娘だ」
リゼットがすぐ食いつく。
「さっき母上が言っていた方ですね」
「もう話したのか」
「名前だけですよ」
エリオットはそこにはあまり興味がない。
「強いのですか?」
「まだ弱い」
「ではどうして連れていったのです?」
「弱いからだ」
エリオットが首を傾げた。
「強くなってから依頼へ出るわけじゃない。依頼へ出て、失敗して、強くなる」
「父上も?」
「昔はな」
エリオットの目が輝く。
「父上も最初は弱かったのですか?」
「当然だ」
「本当に?」
「生まれた時から剣を持っていたと思うのか」
「……少しだけ」
リゼットが吹き出した。
「エリオット、父上を何だと思ってるの」
「でも父上は強いから」
「今は、だ」
レオンハルトは息子の頭を軽く叩いた。
「夕食までまだ時間があるな」
エリオットの顔がさらに明るくなる。
「一手だけお願いします!」
「一手だけと言う奴は、だいたい一手で終わらない」
「本当に一手です!」
「昨日も聞いた」
「今日は本当です」
「昨日もそう言った」
リゼットが横から、
「父上、どうせ断れないんだから早く行った方がいいですよ」
「お前は誰の味方だ」
「面白い方です」
◇
中庭の小さな訓練場。
日が傾き、石壁の影が長く伸びている。
レオンハルトとエリオットは向かい合った。
二人の手には木剣。
リゼットは少し離れた石段へ座り、本を膝に置いて眺めている。
「来い」
「はい!」
エリオットが踏み込んだ。
右足を大きく前へ出し、木剣を右上から左下へ振り下ろす。
力はある。
だが軌道が分かりやすい。
レオンハルトは木剣を受けず、左足を半歩だけ外へ出して身体を斜めにする。
エリオットの剣が胸元の前を空振りした。
そのまま勢い余って上半身が前へ流れる。
レオンハルトの木剣が、軽く肩へ触れた。
「終わり」
「まだです!」
「一手と言った」
「今のは一手に入れないでください」
「何故だ」
「始まったばかりだったので」
「負けたからだろう」
「……もう一度」
レオンハルトは少し笑った。
「来い」
二度目。
エリオットは先ほどより慎重だった。
すぐには振らず、木剣を胸の前に構えて父の足を見る。
レオンハルトは動かない。
エリオットが一歩近づく。
さらに一歩。
今度は小さく右から振る。
レオンハルトが木剣で受ける。
乾いた音。
エリオットはすぐ引いた。
先ほどよりいい。
今度は正面から突く。
レオンハルトは左へかわす。
エリオットは追う。
さらに横薙ぎ。
レオンハルトが身体を後ろへ引いた。
木剣の先が、上衣の袖をほんの少し掠める。
「あ」
エリオットが止まった。
自分でも驚いた顔をしている。
レオンハルトは袖を見る。
傷などない。
「今のは悪くない」
「当たりました?」
「服にはな」
「やった!」
「人間には当たってない」
「でも今まで触れたこともなかった!」
エリオットは木剣を握ったまま、満面の笑みになった。
リゼットが石段から声を飛ばす。
「父上、エリオットには甘いですね」
「何がだ」
「今の、わざとじゃないんですか?」
「違う」
「本当に?」
「本当だ」
エリオットが姉を睨む。
「姉上!」
「はいはい。すごいすごい」
「全然思ってないでしょう!」
「思ってますよ。半分くらい」
「姉上!」
レオンハルトは木剣を肩へ担ぎ、二人のやり取りを見ていた。
いつの間にか笑っていた。
◇
夕食は家族四人だけだった。
大きな食堂ではなく、私室に近い小さな食事室。
長大な宴会用の卓ではない。
六人も座ればいっぱいになる程度の木製の卓。
王族の食卓としては簡素だったが、料理そのものは十分に手が込んでいる。
香草と柑橘を詰めて焼いた川魚。
豆を丁寧に裏漉しした濃いスープ。
鶏肉を茸と葡萄酒で柔らかく煮込んだもの。
焼きたての白パン。
季節の青菜と木の実を合わせた温かな皿。
蜂蜜をわずかに使った果実煮。
そして、その中に一皿だけ、皮付きの芋を香草と塩で焼いた素朴な料理が置かれていた。
リゼットがすぐ気づいた。
「これ」
「何だ」
「父上が持って帰ってきた芋ですか?」
レオンハルトが一つ取る。
「たぶんな」
「たぶん?」
「村でもらった」
「王様に?」
「向こうは知らん」
セシリアが小さく笑う。
「知ったら驚くでしょうね」
「驚くどころではないでしょう」
リゼットが芋を一つ取った。
「『いつも芋を押しつけていた冒険者が国王でした』なんて」
「別に困らん」
「相手が困るんです」
エリオットも芋を取る。
「誰にもらったのですか?」
「マルタという婆さんだ」
「どんな人です?」
「声が大きい」
「それだけ?」
「パンを焼くのが下手だ」
「それ本人に言ったのですか?」
「フィンが言った」
「えっ」
リゼットが身を乗り出す。
「その新人の方?」
「そうだ」
「本人の前で?」
「食べてすぐ」
セシリアが口元を押さえる。
「勇気のある方ですね」
「知らなかっただけだ」
「何を?」
「本人が後ろにいた」
リゼットが吹き出した。
エリオットまで笑う。
レオンハルトは芋を食べながら、
「笑い事ではない。かなり怒鳴られていた」
「父上は助けなかったのですか?」
「自分で言ったことだ」
「冷たい」
「魔物より安全だ」
リゼットがますます笑った。
「フィンという方、会ってみたいです」
「そのうちギルドへ行けばいる」
「私がどうやってギルドへ行くんです?」
「護衛を――」
「またその話ですか」
セシリアが夫を見る。
「あなた、本当に娘を護衛付きで冒険者ギルドへ行かせるおつもりです?」
「駄目なのか」
「駄目に決まっているでしょう」
「何故だ」
「そこから説明が必要ですか?」
今度は子ども二人が笑った。
「母上の勝ちですね」
「何の勝負だ」
レオンハルトは不満そうにスープを飲んだ。
少しして、エリオットが訊く。
「父上」
「何だ」
「そのフィンという人は、怖がったのですか?」
「何を」
「魔物を」
「ああ」
エリオットは意外そうな顔をした。
「怖くても冒険者になれるのですか?」
レオンハルトは手を止めた。
「なれる」
「でも、怖かったら戦えないのでは」
「怖くても剣を握った」
エリオットが黙る。
「怖くない人間が強いわけじゃない」
レオンハルトは続ける。
「怖くても、やらなければならない時に動ける人間の方が強い」
「父上も怖いのですか」
「怖い」
「本当に?」
「お前、俺を何だと思ってるんだ」
リゼットが横から口を挟む。
「生まれた時から剣を持ってる人」
「姉上!」
また笑いが起きた。
エリオットだけは、少し真面目な顔のままだった。
「怖くても動く……」
小さく呟く。
レオンハルトはそれ以上説明しなかった。
◇
食事が終わると、子どもたちはそれぞれの部屋へ戻っていった。
「エリオット」
セシリアが声をかける。
「今日はもう剣を振らないように」
「はい」
答えだけは素直だった。
リゼットが弟を見る。
「無理でしょうね」
「姉上こそ、また何か隠してるでしょう」
リゼットの動きが一瞬止まった。
「何のこと?」
「最近よく部屋からいなくなる」
「図書室です」
「僕、昨日図書室に行ったけどいなかった」
「別の時間だったんでしょう」
「侍女も探してた」
「エリオット」
リゼットがにっこり笑った。
「弟というものは、姉の秘密を暴くものではありませんよ」
「やっぱり何かある!」
「おやすみなさい」
さっさと逃げる。
エリオットが追おうとする。
「走るな」
父の一言で止まった。
「……はい」
セシリアが廊下の先へ消える娘の背中を見る。
「何か隠していますね」
「お前でも分からないのか」
「分かりますよ。隠していることまでは」
「中身は?」
「まだ」
「なら、そのうち分かるだろう」
「随分のんびりしていますね」
「悪いことなら、お前がもう気づいている」
セシリアが少しだけ笑った。
「そうかもしれませんね」
◇
子どもたちがいなくなると、部屋は急に静かになった。
窓の外はもう暗い。
城下の灯りが、遠くに小さく揺れている。
セシリアは卓の上へ残った杯を片付けようとした侍女へ、
「後でいいわ」
と告げた。
二人だけになる。
「北部の報告」
セシリアが言った。
「聞いたのか」
「一部だけ」
「今年は悪い」
「どの程度?」
「場所によっては、麦が二割近く落ちる」
セシリアの表情が変わった。
「それだけではないのでしょう」
「水も減っている」
「……灰化?」
「分からん」
即答はしなかった。
「今日、南東の森でも妙なものを見た」
「どういう?」
「枝先が白く乾いていた。獣も人里へ降りてきている」
セシリアは窓の外を見る。
「北と南東で」
「ああ」
「調べるのですね」
「オルフェンが先に人を出す」
「珍しく素直ですね」
「俺が出ると言ったら止められた」
「当然です」
「お前もか」
「私もです」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
少しの沈黙。
「ねえ」
セシリアが言った。
「何だ」
「今日、その村で何を見たのです?」
レオンハルトは少し考えた。
「何を、と言われてもな」
「報告書にないものを見たいのでしょう?」
先ほどオルフェンにした話を思い出す。
だが、今度は数字の話をする気にはならなかった。
「子どもがいた」
「ええ」
「剣を見せろとうるさかった」
「あなた、見せなかったでしょう」
「危ないからな」
「他には?」
「婆さんに芋を押しつけられた。爺さんには飯を食っていけと言われた」
「平和そうですね」
「そう見えた」
レオンハルトは少し黙った。
「だから、忘れそうになる」
「何を?」
「俺が紙の上で決めることの先に、ああいう連中がいることを」
セシリアは夫を見る。
「税を上げる。兵を動かす。備蓄を放出する。街道を閉じる」
一つずつ挙げる。
「城で考えていると、全部数字になる」
「だから町へ出る」
「ああ」
「忘れないために?」
レオンハルトは少し考え、それから頷いた。
「たぶんな」
セシリアはしばらく黙っていた。
「では」
「何だ」
「次からは、せめて夕食までには帰ってきてください」
「今日も間に合った」
「お風呂へ入る時間まで含めてです」
「厳しいな」
「当然です」
「分かった」
「約束ですよ」
レオンハルトは少し笑った。
「ああ」
◇
二人で部屋へ戻る途中。
廊下の奥から、こつ、こつ、と小さな音が聞こえてきた。
レオンハルトが足を止める。
「何の音でしょう」
セシリアが言う。
こつ。
少し間。
こつ。
木剣の音だった。
二人は顔を見合わせる。
エリオットの部屋。
レオンハルトがそちらへ向かおうとすると、セシリアが袖を掴んだ。
「何を?」
「注意する」
「今日はもう剣を振るなと私が言いました」
「だからだ」
「放っておきましょう」
「いいのか」
「明日の朝、眠い思いをするのは本人です」
レオンハルトは少し考えた。
「そうだな」
その時。
反対側の廊下から、リゼットの笑い声が聞こえた。
侍女と何か話しているらしい。
「こちらもまだ寝る気はなさそうですね」
「明日眠いのは本人だ」
「さっそく使いましたね」
二人はそのまま歩いた。
城の外では夜の鐘が鳴り始めていた。




