62日前同日 泥だらけの王①
王城の裏手にある通用門を抜けても、レオンハルトはまだ冒険者の姿のままだった。
焦げ茶色の革鎧には森の土がこびりつき、灰色の外套の裾には乾きかけた泥が跳ねている。左袖には、牙鼠のものと思われる黒ずんだ血まで残っていた。
その格好の男とすれ違うたび、城の使用人や兵士たちは足を止める。
「お帰りなさいませ、陛下」
「ああ」
レオンハルトは短く返し、そのまま歩いた。
二人目。
三人目。
厨房から籠を抱えて出てきた若い使用人などは、冒険者姿の国王と廊下の角で鉢合わせし、驚いて危うく林檎を全部落としかけた。
「す、すみません!」
「いや。こちらこそ」
転がりかけた一つをレオンハルトが拾う。
使用人は青ざめた。
「へ、陛下、そのようなことは私が――」
「林檎を拾ったくらいで国は滅びん」
「は、はい……」
籠へ戻してやり、再び歩く。
後ろから駆けてきた伝令兵カイルが、少しだけ困った顔で声をかけた。
「陛下」
「何だ」
「その……」
カイルの視線が革鎧へ落ちる。
「お召し替えになってからでも」
「北部からの報告なのだろう」
「そうですが」
「なら報告が先だ」
「王妃殿下に見つかった場合、私は着替えを勧めたと証言いたします」
レオンハルトが足を止めた。
「証言?」
「念のためです」
「誰に対してだ」
カイルは正面を向いた。
「何も」
妙に姿勢が良かった。
◇
執務室の扉を開けると、書類の束からオルフェンが顔を上げた。五十二歳。濃い灰色の髪にはかなり白いものが混じっている。
細身の身体に濃紺の上衣をまとい、銀縁の眼鏡越しに王の姿をじっと見た。
視線が頭から足元まで一往復する。
「……」
「何だ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「陛下がそのお姿のまま執務室へ来られることについて申し上げたいことは、およそ十年前に言い尽くしました」
「ならいい」
「良くはありません」
レオンハルトは机の前へ座った。
椅子の背に外套を掛ける。
ぽろり、と乾いた泥が床へ落ちた。
オルフェンがそれを見る。
レオンハルトも見る。
「……あとで掃除を頼む」
「私が謝っておきます」
カイルは笑いを堪えているらしく、口元が僅かに動いていた。
オルフェンが机の上から一枚の報告書を取った。
「北部三郡からです」
その一言で、レオンハルトの表情が変わる。
「続けろ」
「今年の麦の収量予測が、昨年を下回っています。まだ収穫前ですので確定ではありませんが、地域によっては二割近い減少が見込まれます」
「二割か」
「加えて、北東部の井戸で水位低下。農村部からは、森に棲む獣や小型魔物の目撃報告が増加しています」
レオンハルトは黙って聞いた。
「人的被害は」
「現在確認できている死者は二名。負傷者は十七名。家畜被害は相当数です」
「牙鼠は?」
オルフェンが眼鏡の位置を直す。
「何故それを」
「今日見た」
「ああ」
「南東の森だ。人里近くまで出ている」
オルフェンの表情がわずかに変わった。
「北だけではない、と」
「ああ」
「確かに北部でも牙鼠の報告が増えています。これまでは森の外縁部だけだったものが、畑や村落近くまで出ていると」
レオンハルトの脳裏に、今朝見た森が浮かんだ。
青い葉。
その中に混じっていた、白く乾いた枝。
季節外れの枯れ方。
「木も枯れていた」
オルフェンが顔を上げる。
「……まさか」
「分からん」
すぐに否定もしなかった。
この大陸で、森が枯れ、水が減り、獣が住処を離れる現象を知らない者はいない。
灰化。
遠い土地がそれによって死んだという話も、すでに珍しいものではなかった。
だが、似た兆候が出たからといって、すべてが灰化というわけではない。
「一部だけだ。枝先が白く乾いていた」
「北部の水位低下と、南東の森の異変」
「ああ」
オルフェンから、先ほどまでの皮肉が消えた。
「調査を急がせます」
「頼む」
レオンハルトは地図へ目を落とした。
北部と南東。
離れている。
一つの病害や、一つの魔物の群れだけで説明するには遠すぎる。
「数日中に、俺もどこか一か所は見たい」
「国王としてですか」
レオンハルトは黙った。
「冒険者としてですか」
「……」
「おやめください」
「まだ何も決めていない」
「決める前に申し上げています」
カイルは完全に視線を逸らした。
この場にいないふりをしている。
レオンハルトは腕を組んだ。
「現地を見る必要はある」
「否定しておりません」
「報告書だけでは分からない」
「それも否定しておりません」
「なら――」
「陛下ご自身が毎度剣を腰に下げて森へ入る必要がない、と申し上げています」
オルフェンは淡々としていた。
「役人を派遣すれば、村は役人に見せるための顔になる」
「でしょうな」
「王が行けば、もっと悪い」
「当然です」
「今日、村で老人に芋を押しつけられた」
「……はい?」
「王だと知っていたら、ああはならん」
オルフェンは黙る。
「王が視察に来るとなれば、村は道を掃き、まだ食べられる一番良いものを食卓へ並べる。困っていても笑う」
「でしょうな」
「冒険者なら、焦げたパンが出てくる」
「随分具体的ですな」
「今日食った」
カイルの肩が震えた。
オルフェンが彼を見る。
「何か?」
「いえ」
「俺が知りたいのは、視察の日の村じゃない」
レオンハルトは地図から目を離さなかった。
「何もない日の村だ」
オルフェンはしばらく黙り、それから報告書を揃えた。
「調査隊は先に出します」
「ああ」
「その結果を見るまでは、少なくとも単独でどこかへ向かわないとお約束を」
「単独では行かん」
「言葉の穴を探すのをおやめください」
「探していない」
「でしたら結構です」
レオンハルトが立ち上がる。
「もういいか」
「こちらは」
「なら行く」
「王妃殿下がお待ちです」
足が止まった。
「……知っているのか」
「先ほど使いが参りました」
オルフェンは眼鏡を押し上げる。
「陛下がお戻りになられたら、すぐ知らせるようにと」
「そうか」
「では」
一拍。
「ご武運を」
「敵ではない」
「でしたら、そのようなお顔をなさらないでください」
◇
執務室を出たレオンハルトは、一度だけ自室の方向へ向かおうとした。
着替える。
少なくとも血のついた服だけでも。
しかし廊下の先から侍女が歩いてきた。
彼女はレオンハルトを見る。
礼をする。
「王妃殿下がお待ちです」
「……そうか」
逃げ道はなかった。
王族の私的な居住区へ入り、扉を開ける。
「ただいま」
窓際にいたセシリアが振り返った。三十四歳。淡い金髪を今日は緩く後ろでまとめ、深い青紫の瞳をまっすぐ夫へ向けている。
身につけているのは公務用の豪華なドレスではなく、淡い灰青色の室内着だった。それでも、立ち姿には自然と王妃らしい品がある。
彼女はにこりと笑った。
「お帰りなさいませ、陛下」
丁寧だった。
丁寧すぎた。
「……ただいま」
もう一度言った。
セシリアの視線が下がり、革鎧についた泥から左袖の血へ移る。
傷がないことまで確かめてから、再び夫の顔へ戻った。
「本日は?」
「牙鼠だ」
「何匹?」
「四」
「お一人で?」
「三人だ」
「ノアも?」
「ああ。それと新人が一人」
「新人?」
「フィンという娘だ。十八だ」
セシリアは一瞬だけ目を丸くした。
「初めての討伐で?」
「ああ」
「無事でした?」
「危ない場面はあったが、怪我はしていない」
「あなたは?」
「俺もない」
セシリアの視線が左袖の血へ落ちる。
「これは?」
「牙鼠の血だ」
「本当に?」
「本当に」
少しの沈黙。
「それで、その危ない場面というのは」
レオンハルトが黙った。
セシリアの目が細くなる。
「何をなさったのです?」
「少し押した」
「何を?」
「フィンを」
「何から?」
「牙鼠だ」
セシリアは目を閉じた。
数秒。
そして開く。
「レオンハルト」
「はい」
思わず姿勢が正された。
「私は、あなたが町へ出ることそのものを止めたいわけではありません」
「分かっている」
「ですが、あなたはもう一人の剣士ではありません」
「王だから安全な場所にいろと?」
「違います」
即答だった。
「王だから、自分の命まで自分一人のものだと思わないでください」
レオンハルトは黙った。
「兵士に前へ出ろと言いながら、自分だけ後ろにいることはできない」
「それも分かります」
セシリアの声は静かだった。
「ですが、あなたが死ねば、一人分の剣が減るだけでは済まないのです」
「……」
「王が前へ出ることと、危険を選んで引き受けることは同じではありません」
レオンハルトは少し視線を逸らした。
「気をつける」
「その言葉は何度も聞きました」
「では、もっと気をつける」
セシリアがため息をついた。
「まったく」
そして夫の左袖を指で摘む。
「とりあえず」
「何だ」
「お風呂へ」
「今か?」
「今です」
「まだ夕食まで時間は――」
「臭います」
レオンハルトが黙った。
自分の袖を鼻へ近づける。
「そうか?」
「そこからです」




