プロローグ 王様では無い男
朝靄の残る街道を、三人の冒険者が歩いていた。
「だから言った。革靴は新品を履くなと。」
先頭を歩く男が、振り返りもせずに言った。
レオンと呼ばれた男は、三十代半ばほどに見えた。背は高く肩幅も広いが、大柄という印象ではない。腰は締まり、長年剣を振ってきた者らしい余分な肉のない身体をしている。
短めの黒髪は陽の下ではわずかに茶色を帯び、深い灰青色の目と鼻筋の横に残る薄い古傷のせいか、黙っていると少し怖く見えた。
装備も地味だった。使い込まれた焦げ茶色の革鎧に灰色の外套、何度も補修された革手袋。腰の長剣にも、飾りらしい飾りはない。王都の冒険者ギルドへ行けば、似たような格好の男などいくらでもいる。
「だ、だって昨日買ったばっかりだったんですよ」
後ろを歩く少女が、不満そうに頬を膨らませた。
「初めての正式依頼なんですよ? せっかくなら新品で行きたいじゃないですか」
フィンは今年十八になったばかりの新人冒険者だった。
蜂蜜色の髪を肩口で一つに束ね、大きな琥珀色の目をしている。少し上向きの小さな鼻と、まだ幼さの残る丸い顔立ちは、冒険者というより町のパン屋の娘だと言われた方が似合っていた。
背も高くない。新品の革鎧はまだ身体に馴染まず、腰に下げた短めの剣だけが妙に立派に見える。
そして現在、その新品の装備の一部が彼女を猛烈に苦しめていた。
「その結果が靴擦れか」
「まだ歩けます」
「歩ける奴は、さっきからそんな歩き方をしない」
「普通です」
「右足だけ歩幅が狭い」
「……」
ばれていた。
右の踵は、歩くたびに靴の内側で皮膚を削られているように痛む。それでも弱音だけは吐きたくなかった。今日は初めて、自分の名義で参加する討伐依頼なのだ。
「女の子なんだから無理すんなって」
横を歩くノアが笑った。
二十代前半の細身の青年で、赤茶色の癖毛を適当に後ろへ流している。腰にあるのは剣ではなく二本の短刀で、背には小型の弓。斥候を得意としており、本人曰く「逃げ足だけならギルドで五本の指に入る」らしい。
「女だからって関係ありません!」
「じゃあ新人だから無理すんな」
「そっちの方がもっと嫌です!」
「元気じゃねえか」
「口はな」
レオンが立ち止まった。
「座れ」
「え?」
「足を見せろ」
「大丈夫です」
「フィン」
声が少し低くなった。それだけでフィンは抵抗する気を失う。
「……はい」
街道脇の平たい石へ腰を下ろすと、レオンが片膝をついて靴を脱がせた。白い靴下の踵部分が赤く染まっている。
「うわ」
ノアが顔をしかめた。
「見ないでください!」
「見せられてんだよ」
「ノア」
「はいはい」
レオンは荷袋から小さな瓶と清潔な布を取り出し、傷口を水で洗った。
「痛っ」
「我慢しろ」
「優しくしてくださいよ……」
「傷に優しい洗い方があるなら教えてくれ」
薬草を練った軟膏を薄く塗り、新しい布を巻く。その手際は妙に慣れていた。
「レオンさんって治療もできるんですね」
「この程度ならな」
「昔、傭兵とか?」
「昔の話だ」
また曖昧に流した。
ノアが鼻で笑う。
「こいつ昔の話ぜんぜんしねえんだよ。たぶん女から逃げてんだ」
「それなら、もっと遠い国へ逃げる」
「否定しないんですか?」
フィンが訊くと、レオンは包帯を結びながら言った。
「話を広げるな」
フィンが笑った。ほんの少しだけ、踵の痛みも軽くなった気がした。
◇
今回の依頼は、街道沿いに現れた牙鼠の討伐だった。
鼠という名前ではあるが、成獣になると中型犬ほどまで成長する。地面すれすれを走るため正面から見ると小さく見えるが、脚力は強く、人間の膝ほどの高さから跳び上がって腕や喉へ噛みつく。
一匹なら新人でも相手にできるが、二匹いれば注意が必要で、三匹以上となれば初仕事の冒険者を一人で向かわせるような相手ではない。
その程度の魔物だった。
「止まれ」
森へ入ってしばらくしたところで、ノアが片手を上げた。
三人が足を止めると、ノアは地面へしゃがみ込み、湿った土を指でなぞった。
「三匹」
少し先へ視線を移す。
「いや……四だな。小さい跡が混じってる」
フィンも覗き込んだ。
「分かるんですか?」
「これ」
ノアが指した場所を見ても、フィンにはただの泥の窪みにしか見えない。
「全然分かりません」
「だろうな」
「なんで嬉しそうなんですか」
その横で、レオンは木々の奥へ目を向けていた。一部の枝が白く乾き、葉も季節の割に色が薄い。
「レオン?」
ノアに呼ばれ、レオンは視線を戻した。
「いや。予定通りだ。フィン、一匹はお前がやれ」
フィンの顔から笑みが消えた。
「私が?」
「今日は何をしに来た」
「……牙鼠を倒しに」
「なら倒してみろ」
腰の剣に手を置いた瞬間、急に柄が重く感じた。
「怖いか?」
レオンが訊いた。
嘘をつこうと思ったが、やめた。
「……怖いです」
「それでいい」
「レオンさんも?」
「怖い」
即答だった。
フィンは彼を見る。
「全然見えません」
「怖くないように見せるのも仕事のうちだ」
レオンが剣を抜く。鞘と刃が擦れ、低い金属音がした。
「覚えておけ。怖さがなくなった時の方が危ない」
◇
藪が揺れた。
最初の一匹が飛び出した。茶褐色の毛、地面を蹴る四肢、剥き出しになった二本の牙が一気に視界へ飛び込んでくる。
「来るぞ!」
ノアの声に、フィンは剣を抜き、柄を強く握った。
牙鼠はまっすぐ彼女へ走ってくる。
速い。
訓練で聞いていた速度より、ずっと速く見えた。
剣を振らなければ。そう思うのに、身体が動かない。
「まだ振るな!」
レオンの声が飛ぶ。
「見ろ!」
フィンは歯を食いしばって牙鼠を見た。真正面から、低い姿勢のまま迫ってくる。この高さでは、剣を横に振っても届かない。
「一歩右!」
右足を引いて身体を半身にした瞬間、牙鼠が胸を狙って跳んだ。
今。
フィンは剣を上段から振り下ろした。
だが力が入りすぎた。刃は牙鼠の背中を浅く滑っただけで、魔物は地面へ落ちるなりすぐに向きを変える。
「っ!」
「構え直せ!」
慌てて剣を引き戻したところへ、牙鼠が二度目の突進を仕掛けてきた。
今度は見える。
右前脚が沈み、身体が跳ね上がる。
フィンは左足を半歩後ろへ引き、剣先を下げた。牙鼠が飛び込んできた瞬間、下から斜め上へ斬り上げる。
刃が前脚の付け根から胸元へ深く入った。
手に重い衝撃が走り、肉を断った直後、硬いものへ刃が当たった感触が腕へ返ってくる。
「うっ……!」
牙鼠が悲鳴を上げ、血がフィンの頬に飛んだ。
その瞬間、動きが止まった。
訓練で何度も思い描いた動きのはずだった。けれど、目の前にいるのは藁人形ではない。血を流し、苦しみ、それでもまだ生きている。
「フィン!」
レオンの声で、視界の端に動くものが見えた。
もう一匹。
右側の藪から飛び出している。
見ていなかった。
牙を剥いた口が、自分の腕より大きく見える。避けなければならないのに、身体が動かなかった。
次の瞬間、胸元を強く押された。
「きゃっ!」
フィンの身体が後ろへ倒れ、その鼻先を牙鼠が通過した。一瞬前まで彼女の喉があった場所だった。
レオンはすでに動いていた。
右足を軸に身体を半回転させると、牙鼠の飛ぶ軌道へ自分から踏み込む。低く構えた剣を腰の回転に乗せ、斜め下から斜め上へ振り抜いた。
銀色の刃が牙鼠の腹から胸元まで深く斬り上げ、魔物の身体を横へ弾き飛ばす。
だがレオンは振り切らない。刃が抜けた瞬間には手首を返し、切っ先を次の敵へ向けていた。
「立て!」
「は、はい!」
フィンが剣を握り直して立ち上がる頃には、ノアも動いていた。
三匹目の牙鼠が真正面から突進してくる。ノアは受け止めず、身体を左へ流しながら短刀を逆手に抜いた。すれ違う一瞬に首の横へ刃を差し込み、そのまま後方へ引き抜く。
牙鼠は勢いのまま数歩走り、崩れ落ちた。
残る一匹は、小さな個体だった。藪の中からこちらを見ている。
ノアが弓へ手を伸ばした瞬間、牙鼠は身を翻して茂みの奥へ逃げ込んだ。
「ちっ」
ノアが弓を取る頃には、枝葉が揺れているだけだった。
「追うか?」
レオンは逃げた方角をしばらく見た。
「いや。森の中で追うな」
見えない相手を追って散る方が危険だった。
静寂が戻り、フィンの荒い呼吸だけが残った。
自分が斬った一匹を見る。まだ生きていた。浅い息を繰り返しながら、苦しそうに脚で地面を掻いている。
フィンは唇を噛んだ。
「最後までやれ」
レオンが静かに言った。
フィンは頷き、剣を握り直した。
今度は迷わないようにした。
首の付け根へ切っ先を置き、一度だけ息を吸って突き下ろす。
手に抵抗が返り、やがて力が抜けた。
フィンは、しばらく剣を抜けなかった。
「……倒しました」
「ああ」
「私……途中で止まりました」
「ああ」
「レオンさんがいなかったら」
「死んでたかもしれんな」
フィンは俯いた。
「すみません」
「何がだ」
「調子に乗りました。一匹斬れたから、それで……」
「見えなくなった」
「はい」
「なら次は見ろ」
フィンが顔を上げる。
「怒らないんですか?」
「怒ってほしいのか?」
「そういうわけじゃ……」
レオンは剣についた血を布で拭った。
「初めて魔物を斬ったんだろう」
「はい」
「手が止まる奴は珍しくない」
「レオンさんも?」
ほんの少し間があった。
「昔はな」
レオンは剣を鞘へ戻した。
「死ななかった。それで十分だ」
そしてフィンを見る。
「次は見る。それでいい」
◇
帰り道、一行は依頼を出した小さな村へ寄った。
「おお、レオン!」
畑から老人が手を振る。
「また来たのか!」
「依頼でな」
「昼は食ったか?」
「食った」
「なら食っていけ」
「会話になってないぞ」
そこへ老婆が籠を抱えてやってくる。
「あんた、この間うちの孫助けてくれたろ。これ持ってきな」
籠には芋が山ほど入っていた。
「多い」
「若いんだから食べるだろ」
「俺一人でこれを?」
「ギルドに配りゃいいじゃないか」
今度は子どもたちが走ってくる。
「レオン兄ちゃん!」
「剣見せて!」
「駄目だ」
「ちょっとだけ!」
「駄目だ」
「けち!」
「けちで結構」
フィンは目を丸くした。
「すごいですね」
「何がだ」
「みんなレオンさんを知ってる」
「昔、柵を直すのを手伝った」
「柵?」
「討伐依頼で来たら壊れていた」
「冒険者って柵も直すんですか?」
「普通は直さない」
「じゃあ何で?」
レオンは答えず、老婆からもらった黒パンを一つフィンへ投げた。
「食え」
「私?」
「朝もほとんど食べてなかっただろ」
「なんで分かったんですか?」
「戦っている時、腹が鳴っていた」
フィンの顔が真っ赤になった。
「嘘!」
「俺も聞いた」
ノアが言う。
「ノアさんまで!」
「牙鼠も聞いてたんじゃねえか?」
「もう嫌!」
村の子どもたちが笑う。
フィンはふくれながら黒パンをかじった。
固い。
かなり固い。
しかも少し焦げている。
「……あんまり美味しくない」
「聞こえてるよ!」
老婆の怒鳴り声が飛んだ。
「ご、ごめんなさい!」
ノアが腹を抱え、レオンも顔を背ける。
「レオンさん!」
「何だ」
「今笑ったでしょう!」
「笑ってない」
「絶対笑いました!」
◇
夕刻。
王都へ戻る頃には、フィンの足は完全に限界だった。
「もう無理です……」
「さっきまで歩けると言っていただろう」
「あの頃の私は若かったんです」
「三時間前だぞ」
ノアが吹き出した。
城壁の向こうには、赤や茶色の屋根が連なり、夕餉の煙が上がっている。店じまいを始める商人の横を、子どもたちが走り回っていた。
いつもの町だった。
フィンは少しだけ胸を張った。
初めて魔物を倒した。失敗もしたし、死にかけもした。それでも、自分の足で帰ってきた。
「今日はありがとうございました」
「何がだ」
「助けてもらったし……いろいろ教えてもらったので」
「報酬から指導料を引いておく」
「えっ!」
「冗談だ」
フィンが目を丸くする。
「レオンさん、冗談言うんですね」
「失礼な奴だな」
門をくぐったところで、レオンが足を止めた。
「俺はこっちだ」
「あれ、ギルドには寄らないんですか?」
「今日はもういい。明日、顔を出す」
「じゃあ私も明日――」
「お前はまず足だ」
「……はい」
「明日、ギルドで見せろ。傷が悪くなっていたら依頼は禁止だ」
「分かりました」
「それと」
レオンが少しだけ振り返る。
「二度目の斬り上げ」
「……?」
「悪くなかった」
一瞬、意味が分からなかった。理解した時には、レオンはもう歩き始めている。
「ありがとうございます!」
フィンはその背中へ叫んだ。
返事はなかった。
◇
王都の中心へ近づくほど通りは広くなり、商店が減る代わりに石造りの官庁や貴族の屋敷が増えていった。
レオンは人通りの少ない裏道へ入ると、外套を脱ぎ、剣を布で包んで、そのまま城を囲う高い壁へ向かった。
目指したのは正門ではない。納入業者や使用人が使う、小さな通用門だった。
門番はレオンを見るなり一瞬だけ目を見開き、慌てて背筋を伸ばした。
「お帰りなさいませ」
「大げさにするな。誰かに見られる」
「はっ」
「王妃は?」
「先ほどからお待ちです」
レオンの歩みがわずかに鈍る。
「……怒っているか?」
門番は沈黙した。
「そうか」
それだけで理解したらしい。レオンが小さくため息を吐いたところへ、城の奥から別の兵士が駆けてきた。
兵士は冒険者姿の男の前で膝をつく。
「陛下。北部より報告が届いております」
レオン――
レオンハルト・ヴァレインは、先ほどまでの気安い表情を消した。
「内容は?」
「詳細は執務室で」
「分かった」
レオンハルトは城の奥へ向かう。
通用門の兵士たちは、その背中へ深く頭を下げた。
夕暮れの鐘が王都に響いた。




