37日前 帝国の反撃①
夜明け前まで残っていた血の臭いは、朝露では消えなかった。
街道脇には昨日の戦いで折れた槍や割れた盾が積まれ、踏み荒らされた土にはまだ黒ずんだ跡が残っている。
それでも、王国兵たちの顔は昨日までとは少し違っていた。
「本当に下がったよな」
盾の革紐を締め直していた若い兵が、橋の向こうを見ながら言った。
隣で槍の穂先を拭いていた男が鼻を鳴らす。
「見ただろ」
「いや、見たけどさ。帝国がだぞ」
「陛下が十人くらい一人でぶっ倒したのも見ただろ」
「だから余計に訳分かんねえんだよ」
少し離れたところで笑いが起きた。
大きな歓声ではない。
昨日死んだ仲間もいる。
橋の向こうには、今朝も帝国軍の旗が並んでいる。
丘の上から、その変化をレオンハルトも見ていた。
「兵の顔が違いますな」
国境守備隊の指揮官が言う。
「ああ」
「昨日の勝ちが効いている」
レオンハルトは返事をせず、橋の向こうへ目を向けた。
盾兵。
その後ろには槍兵と弓兵。
配置だけなら、昨日と大きく変わらない。
橋の周辺には斥候も見える。
だが、何かが足りなかった。
「……静かだな」
「静か、ですか」
「昨日あれだけやられて、同じ場所から来るなら、もっと嫌がる」
視線を橋の脇から森際へ移す。
「斥候を増やす。橋の手前で一度止まる。こっちの荷車を警戒する。何かはする」
「昨日と同じに見せている、と?」
「分からん」
レオンハルトは橋へ視線を戻した。
「だから見る」
帝国軍の角笛が鳴った。
王国兵たちの空気が変わる。
「来るぞ!」
盾が上がり、槍が隙間から前へ出た。
帝国兵も橋を渡り始める。
最初の矢が王国側の盾へ刺さり、すぐに丘から矢が返る。
帝国兵が一人よろめいた。
後ろの兵が肩を掴んで下げ、空いた場所へ別の兵が入る。
そこまでは昨日と同じだった。
だが、ぶつかった時の重さが違う。
「押せるぞ!」
前線から声が上がった。
「前へ出るな! そこを守れ!」
隊長が怒鳴り返す。
帝国軍は押している。
それでも昨日のように、後ろから次々と圧力を重ねてこない。
丘の上で、レオンハルトだけが笑わなかった。
「軽い」
「昨日の損害で前衛を減らしたのでは?」
「なら後ろが厚い」
橋の向こうには兵がいる。
だが、それを前へ送り込んでくる気配がない。
守備隊の指揮官の表情も変わった。
「温存している?」
レオンハルトが答えるより先に、後ろから馬の蹄が響いた。
丘へ駆け上がってきた馬は、口元を白く泡立たせている。
「下流です!」
伝令は飛び降りるより先に叫んだ。
「何があった」
「帝国兵が渡っています! 昨日まで使えなかった浅瀬です!」
指揮官が地図へ手を伸ばす。
「数は!」
「まだ増えています! 盾兵の後ろから槍と弓も!」
「足場が悪かったはずだぞ」
「石と木が入っています! 水の中に道を作られています!」
レオンハルトは小川の方を見た。
森と低い丘に遮られ、ここからは見えない。
昨夜、帝国側の見張りが下流へ増えたという報告はあった。
王国の斥候は近づけなかった。
何を守っていたのか。
答えが出た。
「側面へ伝令。丘の前で止めろ。上を取らせるな」
伝令が走る。
「予備を回します」
「半分だけだ」
「半分?」
「全部は出すな」
指揮官が正面を見る。
橋側は今も軽い。
だが下流からまとまった兵が上がれば、王国軍の横へ回られる。
「半分で足りますか」
「分からん」
「では――」
橋の向こうで角笛が鳴った。
短く、一度。
その瞬間、帝国軍の前列が動きを変えた。
「来るぞ!」
今度の衝撃は重かった。
前列の盾だけではない。
その後ろから槍が重なり、弓兵は王国軍の頭上へ射線を変える。
王国兵が倒れ、隣が穴へ入った。
さらに盾が押し込んでくる。
「右を詰めろ!」
「下がるな!」
守備隊の指揮官が、正面を見たまま低く言った。
「……見ていたのか」
「ああ」
◇
下流の浅瀬では、水が茶色く濁っていた。
王国兵が到着した時には、帝国兵はすでにこちら岸へ上がり始めている。
足元には石が沈められ、泥の深い場所には束ねた枝や板が押し込まれていた。
粗い道だった。
踏み外せば水へ落ちる。
それでも兵を続けて渡すには十分だった。
「上がらせるな!」
王国側の隊長が叫ぶ。
水から出たばかりの帝国兵を槍が押し戻し、一人が浅瀬へ倒れる。
だが、その横からすぐ別の盾が上がってきた。
一か所を塞げば止まる橋とは違う。
少し横へずれれば、また兵が上がってくる。
王国側の列が押される。
「詰めろ! そこを空けるな!」
隊長が後ろを振り返った。
「伝令!」
若い兵が駆け寄る。
「陛下へ! まだ増える! 丘の前で持たせるが長くは無理だ!」
「はい!」
男は走り出した。
背後では、盾と槍がぶつかる音が途切れなかった。
◇
「下流、押されています!」
二人目の伝令が丘へ飛び込んできた時、正面でも王国軍は押され始めていた。
レオンハルトの前には二つの戦場がある。
目の前の橋。
森に隠れた下流。
「残りの予備を出しましょう」
守備隊の指揮官が言う。
レオンハルトはすぐには答えなかった。
下流へ兵を出せば、正面が薄くなる。
出さなければ、側面が崩れる。
「丘の前まで押されています。このままでは前の畑を維持できません」
伝令が続けた。
「村は」
「その先です」
「避難は」
「昨夜までに大半が。ただ、家畜や荷物を取りに戻った者が少し」
レオンハルトは地図へ目を落とした。
「下流側をここまで下げろ」
指揮官の顔が変わる。
「丘の前を捨てるのですか」
「ああ。丘の横で受け直す」
「その間の畑は」
「捨てる」
伝令も黙った。
そこには誰かが耕した畑がある。
柵がある。
家がある。
「中央も少し下げる」
「こちらも?」
「下流だけ下がれば横を取られる」
指揮官は地図を見たまま言った。
「帝国へ土地を渡すことになります」
「知ってる」
「昨日、押し返したばかりです」
「知ってる」
レオンハルトが顔を上げた。
「兵まで渡す気はない」
それで話は終わった。
「盾を向けたまま下がれ。負傷者を先に出す。走らせるな」
伝令が離れようとしたところで、呼び止める。
「待て」
男が振り返った。
「下流から戻る第三隊は中央へ戻すな。西の農道へ回せ」
「西へ?」
「村の案内を一人つけろ。森の裏を通らせる。帝国兵から見える道へ出すな」
「何人です」
「動ける者だけでいい」
伝令が頷く。
「それと、丘の弓兵は全部下げるな。半分は尾根の裏へ回せ」
指揮官が地図を見る。
「中央がさらに薄くなります」
「ああ」
「……承知しました」
角笛が鳴った。
「下がるぞ!」
「またか?」
「命令だ! 列を崩すな!」
昨日は、下がった先に反撃があった。
今日もそうなのかは誰にも分からない。
それでも王国兵は盾を帝国軍へ向けたまま、一歩ずつ後ろへ下がった。
途中、一人の兵が街道脇を見た。
春に植えた作物が、まだ低く並んでいる。
「あそこ……」
「前見ろ!」
「あれ、叔父の畑なんだ」
帝国兵が迫る。
男はもう一度だけ畑を見た。
「戻れるよな」
誰も答えなかった。
隊長の声が飛ぶ。
「下がれ!」
男は歯を食いしばり、盾を前へ戻した。
王国軍が退いた場所へ帝国兵が入り、柵を跨ぎ、畑を踏んでいく。
兵たちはそれを見ながら、それでも足を止めなかった。
◇
昼を過ぎる頃には、戦場そのものが二つに裂けていた。
橋から押す帝国軍。
下流から上がる帝国軍。
その間を伝令が走り、負傷者を乗せた担架や荷車が後方へ送られていく。
「中央、押されます!」
「下流、丘の横で受け直しました!」
「矢が足りません!」
一つへ答えている間にも、別の報告が来る。
中央で盾列が大きく揺れた。
「穴が開く!」
帝国兵が隙間へ押し込んでくる。
レオンハルトは丘を駆け下りた。
前へ出た帝国兵の槍を逸らし、盾の縁へ身体を入れる。
一気に押し返された相手の後ろで列が詰まり、その瞬間を王国兵の槍が逃さなかった。
「陛下が来た!」
「列を戻せ!」
声に押されるように、崩れかけていた盾が揃う。
レオンハルトがいる場所だけ、帝国軍の勢いが止まった。
「陛下!」
別方向から伝令が走ってくる。
「下流です! 左端が持ちません!」
レオンハルトは正面を見た。
まだ押せる。
ここに残れば、さらに戻せる。
「ここは任せる」
若い隊長が目を見開く。
「陛下?」
「列は戻った。前へ出すぎるな」
「はい!」
レオンハルトはもう下流へ向かっていた。
背後では再び盾同士がぶつかり、前方からは別の戦場の角笛が聞こえてくる。
◇
下流へ向かう途中、西の農道へ消えていく王国兵が見えた。
中央へ戻さなかった第三隊だ。
泥だらけの兵たちは地元の男を先頭に、畑の間の細い道へ入り、そのまま森の裏へ消えていく。
目立つ旗は持たせていない。
「陛下!」
別の伝令が来る。
「尾根裏の弓兵、移動を終えます!」
「急がせるな。見つかる方がまずい」
伝令が離れる。
守備隊の指揮官が追いついた。
「正面は戻しました。ただ、陛下が抜けたあと帝国がまた圧力を上げています」
「予備は出すな」
「残りはほとんどありません」
「だから出すな」
下流の戦場が見えてきた。
丘の前にあった畑の一部は、すでに帝国兵の後ろにある。
王国軍は丘の横、少し高くなった場所で盾を並べ直していたが、左端が押されていた。
レオンハルトはそこへ入った。
「王だ!」
帝国側から声が上がり、槍が集まる。
その一瞬だけ圧力がレオンハルトへ寄った。
「今だ!」
王国兵が押し返す。
傾いていた盾列が戻り、帝国兵が斜面の下へ数歩下がった。
レオンハルトは追わない。
「ここで止めろ! 下まで行くな!」
兵たちが踏みとどまる。
数十歩向こうでは、別の帝国部隊がまだ前へ出ている。
さらに遠く、橋側でも戦いは続いていた。
レオンハルトは剣についた血を振り払い、丘へ戻った。
一つ止めても、もう一つは止まらない。




