38日前 罠ではなく、戦場を作る②
「止められた!」
橋の障害物も、少しずつ退かされている。
守備隊の指揮官がレオンハルトを見た。
「追撃を止めますか」
帝国前衛はまだ後ろへ流れている。
ここで終われば、押し返した。
後詰めまで崩せば、勝ったと誰の目にも分かる。
残された時間は長くない。
レオンハルトが腰の剣へ手を掛けた。
「三分だ」
「三分?」
「それ以上はやらない」
剣が鞘を離れる。
「陛下、自ら?」
「ここだけだ」
レオンハルトは丘を下り始めた。
「護衛を!」
「来る奴だけ来い!」
王国兵の列へ入る。
「どけ!」
兵たちが左右へ開いた。
正面の帝国兵が、胸の紋章に気づく。
「王だ!」
槍が一斉にレオンハルトへ向いた。
最初の一本を半身で外し、柄を掴む。
強く引かれた帝国兵が盾ごと前へ崩れ、その隙へ剣が入った。
横からぶつかった盾を肩で押し返す。
一人では止まらない。
二人、三人と寄ってくる。
それでも、レオンハルトの足は止まらなかった。
槍先を逸らし、盾の縁へ身体を入れ、列の一角を無理やり押し開く。
「王を止めろ!」
帝国側の声が変わった。
「槍を集めろ!」
前だけではなく、後ろからも兵が寄ってくる。
王国兵たちは一瞬、戦うことを忘れた。
帝国軍が、一人の男を止めるために隊列そのものを変えている。
その視線に気づいたレオンハルトが怒鳴った。
「何見てる!」
兵たちが我に返る。
「入れ!」
最初の一人が飛び込んだ。
その隣から槍が伸び、さらに後ろから兵が続く。
レオンハルトが開けた隙間へ王国軍が殺到した。
「陛下に続け!」
「押せ!」
今度は帝国後詰めの列が歪む。
下がってきた前衛とぶつかり、足が止まったところへ王国軍が押し込んだ。
「帝国が下がる!」
歓声に近い声が戦場へ広がっていく。
レオンハルトは先頭に立ちながらも、もう目の前の敵を倒すことだけにはこだわらなかった。
槍を払い、盾を開き、兵が入れる場所を作る。
その穴を王国軍全体が押し広げていく。
帝国兵の背中が橋へ近づいた。
そこで、レオンハルトが止まった。
橋の向こうには新しい盾兵が並んでいる。
その後ろには槍と弓。
さらに小川側でも、別の兵が動いていた。
「陛下!」
若い隊長が叫ぶ。
「まだ行けます!」
レオンハルトは剣についた血を振った。
「ここまでだ!」
「でも――」
「見ろ!」
橋の向こうを見た若い隊長の顔が変わる。
今押している一隊で、帝国軍が終わるわけではない。
「中央、止まれ!」
角笛が鳴った。
勢いのついた兵はすぐには止まらない。
「止まれ!」
命令が重なる。
「陛下も止まったぞ!」
その声で、前の兵たちもようやく足を止めた。
レオンハルトは帝国側へ剣を向けたまま、味方を先に戻した。
「槍から戻れ! 弓は残れ!」
ほどなく橋の障害物が退かされ、新しい帝国兵が渡り始める。
だが、その時には王国軍も予定位置へ戻っていた。
押されて戻るのではない。
自分たちで押し、自分たちで止まった。
守備隊の指揮官がレオンハルトを迎える。
「お怪我は」
「ない」
男は街道へ目を向けた。
レオンハルトが入った場所には、何人もの帝国兵が倒れている。
「十人近くは……」
「それでも十人だ」
橋の向こうには、その何倍もの兵がいた。
レオンハルトは剣を鞘へ戻す。
「だから戻る」
「承知しました」
◇
王国兵たちは荒い息を吐きながら盾を下ろした。
街道の向こうでは、帝国兵が倒れた仲間を運んでいる。
一人の兵が、自分の槍についた血を見た。
「……あれ」
「何だ」
男は帝国軍を指した。
「俺たちがやったんだよな」
「何が」
「あれ」
さっきまで前にいた帝国の一隊は、もう戦列を作っていない。
「ああ」
「帝国だぞ」
「ああ」
少し離れたところから声が飛んだ。
「背中見えたぞ」
「昨日も見ただろ」
「昨日は交代だろ!」
男が笑った。
「今日は違う!」
周りの兵が振り向く。
「俺たちが下げたんだ!」
「陛下のところ見たか!」
「あれ何人いた!?」
「知らん! 途中から分からなくなった!」
「盾ごと押し返してたぞ!」
「あれ本当に人間か?」
「本人に聞け!」
「聞けるか!」
笑い声が広がった。
目の前には、まだ帝国軍がいる。
こちらにも倒れた兵がおり、担架は走り続けている。
それでも、兵たちの顔は昨日とは違っていた。
守備隊の指揮官がレオンハルトの隣へ来る。
「兵の顔が変わりました」
「ああ」
「勝てると思い始めています」
レオンハルトは笑っている兵たちを見た。
「一回だけだ」
「同じやり方は通じない、と」
「ああ」
すでに帝国兵は橋の周囲を調べ直し、別の者たちは浅瀬へ向かっている。
「もう調べています」
「だから次は別だ」
帝国軍は、負けたまま止まってはいなかった。
◇
夕方。
帝国軍の天幕には、再び地図が広げられていた。
上位の男が報告を聞いている。
「前へ出した隊は」
「今日はもう使えません」
「そこまでか」
「列を組める人数が残っていません。動ける者にも負傷者が多い」
「橋は」
「壊されていません」
男の指が止まる。
「王国兵は残ったか」
「いいえ。荷車と木材を置いた後、すぐ森へ退いています」
「橋を取るつもりはなかった」
「はい」
「前へ出た兵と後ろを、少しの間だけ切った」
若い将校が頷く。
「その間に前だけを叩かれました」
男は地図を見た。
「レオンハルト王は」
「最後の追撃に本人が出ています」
顔を上げる。
「本人が?」
「はい」
「被害は」
「正確には確認できていません。ただ、王が入った箇所で十名前後が短時間に倒され、後詰めの盾列が崩れています」
天幕の中が静かになった。
「それで追撃を続けたか」
「いいえ。橋が開く直前に、自ら停止させています」
男の視線が地図へ戻る。
「前へ出るだけの王ではないか」
「はい」
「出る場所と、退く時を選んでいる」
指が橋から離れ、小川へ向かう。
浅瀬が一つ。
さらに下流にも、もう一つ。
「ここは」
「足場が悪く、大人数には向きません」
「今日、確認したか」
「歩兵だけなら渡れます。ただ、続けて通すには厳しいかと」
「なら直せ」
若い将校が顔を上げた。
「今夜ですか」
「ああ」
「資材を入れます」
「やれ」
「荷車まで通せるように?」
男は少し考えた。
「まず兵だ。その後、荷車も通せ」
若い将校が一礼する。
男はもう橋を見ていなかった。
今日、王国軍は自分たちに有利な場所へ戦いを引き寄せた。
その王は、一人で戦列の一角を壊せる。
それでも、橋の向こうに残る兵を見て止まった。
男の指が下流の浅瀬を叩く。
一人の強者が塞げる場所には限りがある。
ならば。
戦う場所を増やせばいい。
天幕の外では、日が沈み切る前から兵たちが木材と縄を下流へ運び始めていた。




