38日前 罠ではなく、戦場を作る①
夜が明ける頃になっても、司令所の机には昨日の報告が広げられたままだった。
レオンハルトと守備隊の指揮官は、帝国軍が一日を通してどう兵を動かしたのかを並べ終えていた。
レオンハルトの指が地図の主街道を辿り、橋を越えたところで止まる。
「空の荷車、まだあるか」
「あります」
「二台用意してくれ」
指揮官が顔を上げた。
「二台ですか」
「ああ」
その時、扉の外から声がした。
「入っていいか」
ノアだった。
「入れ」
レオンハルトは入ってきたノアへ地図を向けた。
「この農道」
「昨日見た」
「荷車は通るか」
「軽ければな」
「橋の近くまで?」
ノアの目が地図の上を追う。
「森を使えば行ける。人も十人か二十人なら問題ない。ぞろぞろ行けば見つかるけどな」
「分かった」
ノアがレオンハルトを見る。
「何する気だ」
「朝になってから決める」
「帝国の動きを見て?」
「ああ。昨日と違うならやらない」
ノアの顔から笑いが消えた。
「同じなら?」
レオンハルトは主街道に置いた指を動かさなかった。
「少しだけ、こっちの戦場にする」
◇
日が昇ると、帝国軍は昨日より慎重に動いた。
盾兵の前を斥候が進み、森や街道脇、小川の周囲まで確かめている。
王国兵たちは盾の向こうから、その様子を見ていた。
「やっぱ昨日のこと覚えてるよな」
「忘れる方が怖いだろ」
「いや、忘れてくれた方が楽だろ」
「確かに」
二人とも笑わなかった。
やがて帝国側から矢が飛び、王国側も射返す。
盾を叩く音と、土へ突き立つ音。
昨日と同じだった。
違うのは、その直後だった。
「一歩下がれ!」
王国軍の列が、盾を向けたまま後ろへずれる。
帝国兵はすぐには追わなかった。
森を見る。
丘を見る。
街道の左右を探る。
「また一歩!」
「本当に下がるのか?」
「命令だ!」
王国兵はもう一度下がった。
「昨日ここ守ったんだぞ」
「前見ろ!」
ようやく帝国の盾列が動き、槍が王国兵の盾へぶつかる。
一人がよろめいたところを隣が肩で支えた。
「押し返すな! 列だけ保て!」
昨日は、ここから先へ通すなと言われた。
今日は、その守っていた場所を自分たちから明け渡している。
意味が分からないまま、それでも兵たちは命令通りに下がった。
帝国軍も警戒を捨ててはいない。
王国軍が一歩退くたび、前へ出る速度を変える。
「来ないな」
誰かが呟いた直後、帝国側の角笛が鳴った。
盾列が厚くなる。
「来た!」
ぶつかる直前に、また命令が飛ぶ。
「下がれ!」
「まだ下がるのか!」
「下がれ!」
後退の途中、一人が地面の窪みに足を取られた。
「立て!」
襟を掴んだ兵の横から帝国の槍が伸び、別の盾がそれを弾く。
「助かった!」
「後で言え!」
王国軍が下がるほど、橋を越えてこちら側へ入ってくる帝国兵は増えていった。
丘の上で、守備隊の指揮官が低く言う。
「かなり入りました」
「ああ」
「中央から、もう少し下がるか確認が来ています」
「予定の場所までだ」
「左右は?」
「そのまま」
指揮官は橋へ目を向けた。
「橋の周辺に兵を残しています」
昨日より多い。
斥候までいる。
レオンハルトの眉が僅かに動いた。
「……多いな」
「予定より?」
「ああ」
帝国軍も考えている。
王国が何か仕掛けるなら橋か森。
そこまでは読まれていた。
「中止しますか」
レオンハルトは答えなかった。
◇
森の中では、ノアが片膝をついていた。
後ろには王国兵と、空の荷車が二台。荷台には木材と太い棒が積まれている。
木々の隙間から主街道が見えた。
そこには、昨日いなかった帝国兵がいる。
「聞いてないぞ」
小部隊の隊長が声を落とした。
「俺も聞いてない」
橋の近くに四人。
そのうち一人が森へ目を向けた。
「戻るか」
ノアは答えなかった。
男がこちらへ歩き始めていた。
王国兵が槍を握る。
「抜くな」
「来るぞ」
「まだ見つかってない」
帝国兵は木々の近くまで来ると、不意に足を止めた。
地面へ目を落とし、しゃがみ込む。
柔らかい土に残っていたのは、荷車の轍だった。
「まずい」
隊長が呟く。
帝国兵が顔を上げた。
その時、遠くで角笛が鳴った。
主街道から呼ぶ声が飛ぶ。
男は森と街道を見比べ、やがて仲間の方へ戻っていった。
ノアは姿が完全に消えるまで動かなかった。
「……行ったな」
「次は気づく」
「なら?」
「合図が来なきゃ帰る」
「来たら?」
ノアは主街道を見る。
「走る」
◇
中央では、王国軍の後退が限界に近づいていた。
戦っている時間より下がっている時間の方が長い。それでも、死傷者は増えている。
矢を腿に受けた兵が崩れた。
「立てるか!」
「無理だ!」
二人が手を伸ばす。
「一人で運べ! もう一人は列へ!」
空いた場所へ帝国兵が迫り、王国側の盾が辛うじて押し返した。
「陛下!」
伝令が駆け上がってくる。
「中央が予定位置です!」
レオンハルトは橋を見た。
守りに残っている帝国兵は想定より多い。
その向こうからも、まだ後続が来ている。
「……まだだ」
「しかし」
「まだ」
中央から怒号が上がった。
盾ごと倒された兵の脇へ帝国兵が踏み込み、横から王国兵の槍が突き出される。
「下がる場所がありません!」
守備隊の指揮官がレオンハルトを見る。
待てば橋の兵が減るかもしれない。
その前に中央が崩れるかもしれない。
レオンハルトの視線が橋から外れた。
「赤旗」
「今ですか」
「ああ」
「橋に兵が残っています」
「見えてる」
「なら――」
「中央が先に壊れる」
一度息を吐く。
「三度上げろ」
赤い合図旗が、丘の上で三度振られた。
◇
森際からも、その赤が見えた。
ノアが立ち上がる。
「来た」
隊長も旗を確認した。
「本当にやるのか」
「やるらしい」
「橋に兵いるぞ」
「ああ」
「十人じゃ足りん」
「戦うな」
ノアは荷車へ手を掛けた。
「走れ!」
兵たちが一斉に押し出す。
車輪が土を跳ね上げ、二台の荷車が森際から農道へ飛び出した。
「敵!」
帝国側から声が上がる。
一台目が主街道へ出たところで、車輪が窪みに落ちた。
「押せ!」
数人が肩を入れる。
動かない。
帝国兵がこちらへ走ってくる。
「捨てろ!」
隊長が叫んだ。
ノアは荷車を見て、すぐに怒鳴り返す。
「横に倒せ!」
「ここで?」
「早くしろ!」
矢が荷台へ刺さった。
兵たちが片側へ殺到し、荷車を押す。
一度戻りかけた車体が、二度目には大きく傾いた。
車輪が空を向き、街道の半分を塞ぐ。
「木!」
積んでいた木材が引きずり出される。
二台目も斜めに止められ、その前後へ木材が落とされた。
「もういい! 戻れ!」
全員が森へ走る。
「来てる!」
振り返れば帝国兵が迫っていた。
誰も荷車を守ろうとはしない。
目的は、橋を取ることではない。
ほんの少し、通れなくすればいい。
ノアが最後に木々へ飛び込んだ直後、矢がすぐ横の幹へ突き刺さった。
「止まるな!」
全員がそのまま森の奥へ駆けた。
◇
「街道、止まりました!」
見張りの声が丘から響いた。
角笛が長く鳴る。
一度。
間を置き、もう一度。
朝から後退し続けていた王国軍の足が止まった。
「中央、止まれ!」
盾が揃う。
「下がらないのか?」
「前見ろ!」
帝国軍はもう目の前まで来ている。
その横へ、丘の弓兵が向きを変えた。
「放て!」
正面ではなく、橋を越えて前へ出た帝国兵の側面へ矢が落ちる。
盾がそちらへ向いた。
その瞬間、王国軍の槍が前へ出た。
帝国兵が倒れる。
空いた場所には、すぐ別の兵が入った。
昨日と同じだった。
二射目。
また一人が崩れる。
王国兵は反射的に、その後ろを見た。
また来る。
そう思った。
来ない。
「……あれ?」
帝国兵も振り返っていた。
後続はいる。
だが、昨日のようにすぐ穴へ入れる場所にはいない。
さらに後ろ。
橋の上では兵が止まり、その向こうで横倒しの荷車を退かそうとしていた。
「次が来てない!」
王国兵の声が上がる。
「後ろが来てないぞ!」
帝国側の隊長が怒鳴った。
「詰めろ!」
兵が横へ寄る。
一つの穴は塞がった。
その代わり、別の場所が薄くなる。
そこへ王国軍が食い込んだ。
今度は、開いた場所がすぐには閉じなかった。
「押せ!」
誰かが叫ぶ。
王国兵が盾ごとぶつかる。
帝国の列が一歩下がった。
「下がった!」
さらに一歩。
「いける!」
丘から矢が降る。
槍が伸びる。
これまで崩れても崩れても戻っていた盾列が、少しずつ形を失っていった。
「橋は!」
帝国側から怒声が飛ぶ。
「まだです!」
後ろから来るはずの兵が来ない。
それだけで、前にいる兵たちが抱えなければならない場所が増えていく。
やがて、列を支えきれなくなった。
「下がれ!」
帝国兵が盾を向けたまま退き始める。
王国兵が追う。
転んだ帝国兵へ仲間が手を伸ばした。
「置け!」
命令に、その手が離れる。
地面へ残された兵の横を、隊列が下がっていった。
「帝国が下がった!」
「違う!」
別の兵が叫び返す。
「交代じゃない!」
後ろから前へ戻ってくる兵はいない。
場所そのものを捨てている。
「俺たちが下げた!」
その一言で、王国軍が前へ出た。
「押せえええ!」
昨日まで自分たちを押してきた帝国兵の背中が、今度ははっきり見えていた。
だが、その背中の向こうから新しい盾が現れた。
「後詰め、前!」
まだ消耗していない帝国兵が、下がってくる仲間を後ろへ通しながら列を作る。
傷の少ない盾。
乱れていない呼吸。
王国軍の追撃が、そこで止まった。




