39日前 開戦①
帝国軍は止まらなかった。
国境の石標を越えた先頭に続き、盾と槍を持った兵たちが王国領へ流れ込んでくる。
王国軍の弓兵は、矢をつがえたまま待っていた。
「まだだ」
丘の上を、レオンハルトの声が走る。
狙っているのは先頭だけではない。後続まで王国領へ引き込み、前が止まれば後ろも詰まるところまで待つ。
石標が少しずつ帝国兵の背後へ遠ざかっていく。
弓兵隊の指揮官が距離を測った。
「入ります」
「まだ」
盾列が街道を埋め、その後ろから次の列まで入ったところで、レオンハルトの右手が下がる。
「今だ」
「放て!」
弦の音が一斉に重なった。
矢は朝の空へ大きく弧を描き、帝国軍へ降り注ぐ。盾へ弾かれる音と土へ突き立つ音の中に、肉へ届いた鈍い音が混じった。
先頭近くで兵が倒れ、後ろの歩みが僅かに乱れる。
「盾!」
帝国側から号令が飛ぶと、前列の盾が一斉に持ち上がった。二列目が間を詰め、倒れた兵は後方へ引かれていく。空いた場所には、間を置かず別の兵が入った。
王国軍の二射目が落ちる。
今度は、最初ほど倒れない。
「次、用意!」
弓兵たちが矢へ手を伸ばした、その時だった。
帝国側でも弓が上がる。
「伏せろ!」
レオンハルトの声とほぼ同時に、矢が丘へ飛んできた。
身を低くした兵たちの頭上を何本も掠め、土や木柵へ突き刺さる。その中の一本が兵の肩を捉えた。
「引け! 後ろへ!」
近くの兵が腕を取り、負傷者を斜面の後ろへ下げる。
その間にも、帝国の盾列はじりじりと距離を詰めていた。
速度は落ちている。
それでも、止まらない。
街道では、夜のうちに置いた倒木と杭の後ろで王国軍の槍兵が待っていた。
最初の盾がぶつかった瞬間、槍先が滑り、金属音が狭い街道に響く。押し返された帝国兵の横から別の盾が割り込み、今度は王国兵の足が土を削った。
昨日まで荷車や村人が通っていた道で、人間同士が殺すための距離まで近づいている。
「前へ出るな!」
守備隊の指揮官が怒鳴った。
倒れた帝国兵を追おうと、一人の王国兵が杭の外へ足を出す。
「戻れ!」
レオンハルトの声に、兵の身体が止まった。
「そこから出るな!」
慌てて列へ戻った直後、帝国側の盾が隙間を塞ぐ。
あと一歩遅ければ、戻れなかった。
やがて帝国軍の前列が下がり始めた。
王国兵の間から、押し殺していた息が漏れる。
「下がったぞ」
「前を見ろ! 次が来る!」
入れ替わるように、傷の少ない盾を持った兵たちが前へ出てきた。
肩で息をしている者はいない。
レオンハルトはそれだけ確かめると、別の伝令へ視線を移した。
「右は」
「森側に動きがあります!」
街道を離れた帝国兵の一部が、木々の間へ入り始めている。
数は多くない。
だが、正面だけに兵を寄せれば側面を取られる。
「森の奥は?」
守備隊の指揮官が地図へ身を寄せた。
「狭くなります。横には広がれません」
「なら人数を入れすぎるな。小隊ごとに送れ。予備は残せ」
「承知!」
伝令が走り出す。
入れ替わるように丘を上がってきたのは、腕へ冒険者ギルドの印を巻いた男だった。
「ギルドからです!」
差し出された紙には、北側の脇道で見つかった足跡のことが書かれていた。
朝にはなかった複数人分。
落石を避けるように徒歩で抜け、その先は古い木橋の方角へ続いている。
確認したのはノア。
敵兵そのものは見ていない。
レオンハルトは紙から地図へ目を落とした。
正面の街道。
右の森。
北の脇道と、その先の木橋。
「北へ予備を回せ。ただし橋の前には全部並べるな」
「少し下げますか」
「ああ。向こうから見える場所に置くな」
指揮官が頷く。
報告書を折りながら、レオンハルトが聞いた。
「ノアは?」
「別の道も見ると言っていました」
「無理するなって伝えろ」
男が少し困った顔をする。
「聞きますかね」
レオンハルトも一瞬だけ黙った。
「……一応言っとけ」
男が走っていく。
直後、正面から怒号が上がった。
帝国軍の二度目の攻撃だった。
今度は最初より近い。
盾の後ろから槍を伸ばし、そのさらに後方では弓兵が丘へ狙いを集めている。
「弓兵を少し下げろ!」
帝国の矢が降った。
王国兵が二人倒れる。一人は腕、もう一人は脚。仲間が盾をかざしながら二人を引きずり、列の後ろへ運んでいく。
その少し前に、昨夜レオンハルトへ「怖い」と答えた若い兵がいた。
顔は強張っている。
それでも持ち場からは離れない。
目の前へ出た帝国兵の胸元へ槍を突き入れ、すぐに引き戻す。
次の瞬間。
盾の隙間を抜けた矢が、若い兵の胸へ深く刺さった。
身体が後ろへ崩れる。
「おい!」
隣の兵が腕を掴んだ。
「おい、立て!」
返事はない。
胸の布だけが、矢の周りからみるみる赤く染まっていく。
「前!」
別の怒鳴り声が飛んだ。
空いた場所へ帝国兵の槍が伸びる。
後ろにいた兵が青ざめた顔のまま一歩前へ出て、ついさっきまで若い兵がいた場所を埋めた。
レオンハルトは丘からそれを見ていた。
昨夜。
怖い、と言った。
自分も怖い、と返した。
名前は聞いていなかった。
「陛下!」
呼ばれて正面へ視線を戻す。
左では、盾に守られた帝国兵が杭へ縄を掛けようとしていた。
「左へ弓を回す。三分の一だ。正面は薄くするな」
「はい!」
左へ矢が降る。
縄へ手を伸ばしていた兵が倒れると、盾がすぐその場所を塞いだ。その陰から、今度は別の手が伸びてくる。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
◇
開戦の知らせが王都へ届いたのは、それからしばらくしてだった。
馬も騎手も汗に濡れている。
「国境より!」
王城へ運ばれた書面をオルフェンが受け取り、セシリアも横から目を通した。
帝国軍、越境。
王国軍、交戦開始。
防衛線は維持。
詳細は追って送る。
「始まりましたな」
セシリアは一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「救護所へ伝えてください」
「すでに」
「避難者の受け入れは?」
「南側を二か所追加します」
「では、そちらへ人を回します」
二人とも、それ以上話している時間はなかった。
廊下では兵と文官が行き交っている。
その向こうからエリオットが来た。
「国境からですか」
「はい」
少年の顔が硬くなる。
「父上は」
「この報告が出た時点では御無事です」
エリオットが短く息を吐いた。
「戦いは」
「始まりました」
しばらく書面を見たあと、少年は頷く。
「……分かりました」
それだけ言って踵を返した。
今朝、父から任された帳簿がまだ残っている。
途中でリゼットとすれ違った。
「どうだった?」
「始まったそうです」
彼女の足が止まる。
「お父様は?」
「無事です。この報告の時点では」
「そう」
リゼットはほんの一瞬だけ目を伏せた。
「じゃあ、こっちもやらないとね」
「はい」
二人はそれぞれの仕事へ戻っていった。
◇
冒険者ギルドでは、ミレイが朝から依頼書を入れ替え続けていた。
「国境側への単独行動は禁止!」
冒険者たちが受付を見る。
「軍から指定された道以外には入らないで。物資護衛、避難支援、伝令、道路確認。それ以外の依頼は今は受けません」
壁際にいたガルドが口を開く。
「戦わせろって話が来ても?」
「貼らない」
「早いな」
「考える必要ある?」
「ないな」
そこへフィンが戻ってきた。
「西の村、避難始まってます。荷車が二台足りないそうです」
ミレイはすぐ紙へ書き込む。
「道は?」
「まだ通れます。ただ、避難する人が増えてます」
「分かった。報告書いて。終わったら次を決めるから」
「はい」
少しして、別の冒険者が駆け込んできた。
「西側の中継所へ布と水を運ぶ人手が足りないって」
「負傷者用?」
「らしい」
フィンが顔を上げた。
ミレイは依頼書を一枚取る。
「フィン。さっきの村と同じ道を途中まで行く。荷車から離れないこと」
「分かりました」
ガルドが立ち上がる。
「俺も行く」
「助かる」
二人は物資を積んだ荷車とともに王都を出た。
◇
街道を進んでいると、前方から一台の荷車が来た。
道を譲ろうとしたフィンの足が止まる。
載せられていたのは、人だった。
王国軍の兵士が何人も横たわっている。
布で押さえられた腕。
深く裂けた肩。
脇腹へ幾重にも巻かれた布は、赤く染まっていた。
「先に通す!」
御者の声に、ガルドが自分たちの荷車を脇へ寄せる。
すれ違いざま、一人の兵が小さく呻いた。
「水……」
付き添いの兵が、揺れる荷台の上で水袋を口元へ運ぶ。
フィンは動けなかった。
魔物の牙で裂かれた傷ではない。
獣の爪でもない。
剣と槍で作られた傷だった。
荷車の端には、血のついた剣が置かれている。
誰の血なのかは分からない。
「フィン」
ガルドの声で我に返る。
「……はい」
「行くぞ。向こうも待ってる」
フィンは頷き、荷車へ手をかけた。
今度は振り返らなかった。




